オスカードイルは、聖女を野生に帰したい
オスカードイルは、とても困っていた。
積み上がる書類と申請待ちの魔術道具を納めた封印箱が重なる執務室に、たいそう冷ややかな目をした婚約者がやって来て、突然、婚約の解消を考えて貰えないかと言い出したらそうもなるだろう。
時刻は、まだ出仕していない者も多いような早朝で、窓から差し込む陽光は微かに青みがかっている。
王宮の西棟にあるオスカーの執務室は、魔術師専用区画の最奥ということもあり静まり返っていた。
「……………すまない。もう一度、言ってくれるだろうか」
「オスカードイル。あなたに、私との婚約の解消をご提案しにまいりました」
静かな声でそう告げた婚約者は、こんな早朝だというのに一分の隙もない装いだ。
濃紺のドレスは決して華やかなものではないが、上質なドレスを大事に着るのが好きな彼女らしい良い仕立てである。
淡い銀糸の髪は美しいがそれ以外の容貌はいたって平凡と言われることの多いこの婚約者は、鉱石インクのペンを持ったまま動かなくなったオスカーに困ったように微笑んだ。
(オスカードイル。……………今、彼女は私の魔術師としての名前を呼んだのだろうか)
いつもであれば、穏やかな声でオスカー様と呼んでくれるのに、まるで他人行儀に。
「このような申し出をさせていただく以上は率直に申し上げますと、オスカー様は、シュブレ男爵家のご令嬢に想いを寄せていらっしゃるご様子です。私との婚約を、このままにしておいてはいけないと思いました」
「……………え」
「月に二回のお茶会の約束も、ここ半年ほどの間に継続が難しくなっておりますし、………有り体に申し上げますと、私の方でも、現在の関係を維持するのは限界だろうと感じております」
「……………でも、私が忙しくなってからも、あなたは時々この執務室に来てくれるだろう?こちらから訪ねる時間が取れずにいるのは申し訳ないと思っていたのだが、会えてはいたのではないだろうか………」
「……………ええ。オスカー様のことはお慕い申し上げておりましたし、私達の婚約には政略的な意味もあります。お会い出来ないまま信頼関係を構築出来ずにいるというのも不誠実だと思い、この半年間は努力してまいりました。ですが、…………限界ですわ」
ここで、オスカーはペンを机の上に落とした。
こんな婚約者の姿は見た事がなかったのか、婚約者のディレドリが綺麗な薄茶色の目を見開く。
「……………政略?」
「ええ。……………オスカー様の公爵家と、私の家との間に結ばれた魔術鉱石の権利共有と開発に於ける、業務的な提携を見込んでの政略だと理解しております」
「せいりゃくじゃない……………」
「……………はい?」
あんまりな不出来さであったので、どうか、ここで弁明させていただきたい。
本来のオスカードイルは、有能な男だ。
これを自分で言い出したら聞かされる者は半眼になりそうなものだが、建国当初から続く公爵家の跡継ぎとしての教育を受け、王宮という場所で筆頭魔術師として働く以上は、ある程度自分の有能さを理解していなければ話にならない。
多くの魔術書を読み解き、尚且つ新しく構築される魔術式を解析して認可の最終判断をするだけの聡明さは持ち合わせているつもりだし、筆頭魔術師という立場上、国政にかかわる会議などに参加する事も多いので、専門分野以外の面においても一般的な教養や判断力は兼ね備えているつもりだ。
寧ろ、その程度の才能は揃えていなければ、今の役職から退くべきである。
であるからして、本来のオスカーは有能な男であった。
そんなオスカーは、頭の中に必要な分別や情報が足りていないのではないかという第一王子のお守りをし、若干、人がいいにも程があるなという甘さでそんな王子を野放しにしている国王の補佐などをしながら、睡眠時間を全く取れない日もあるくらいには日々この国に貢献している。
現在も、昨日からの執務を継続しているところであった。
「あなたには、私の意思で婚約の申し入れをさせて貰った。確かに、御父上との間で技術や権利上の業務提携は進めているが、そちらは国策の上での研究開発だ。よって、既に友好的な関係を結んでいるそちらの家との間で、政略による婚約までは必要としていない」
少し早口になったがそう説明すると、ディレドリは目を丸くした後に、どこか悲し気に微笑んだ。
「では、その時に抱いていただいた想いは、もう失われてしまったのでしょう」
「……………失われていない」
「いいえ、どうか義務や同情でご自身を縛らないでいて下さい。…………このようなことになってしまうまで、オスカー様にはとてもよくしていただきましたわ。感謝しております」
「義務でも同情でもなく、今日もあなたの姿絵を執務机の上に置いておかないと仕事が捗らないくらいには、あなたを想っているつもりだが」
「……………はい?」
ここで一瞬、オスカーが恋に落ちた聡明な女性は、この男は何を言い出したのだろうという、少し冷たく怪訝そうな目をした。
可憐さや無垢さを好まれる昨今の女性嗜好の上ではいささか鋭すぎる眼差しだったが、オスカーはそんなディレドリに恋をしたので、ああ久し振りに婚約者殿の素の表情が見られたぞと、そんな場合ではないのに少しだけ嬉しくなってしまう。
「私の姿絵を、……………机の上に置いていらっしゃる?…………今も?」
「ここにある。…………あなたになかなか会えないので、あなたの御父上に頼んで、肖像画の魔術転写を許可して貰った。…………さすがに、無断で画家に姿絵を依頼をするのは気が引けたので」
「無断で姿絵を発注なされたら、犯罪の領域ですわ」
「やっぱり婚約者でも駄目か。あなたならそう言うだろうと思って、御父上の許可をいただいておいて正解だったようだ」
「……………念の為に伺いますが、父には何と言って依頼したのです?」
「あなたとまともに会えない日が続いて心が限界なので、姿絵だけでも転写させてくれたら、次の議会の際に便宜を図ると申し上げた」
「普通に考えると、その交渉自体も、応じたお父様の判断も駄目ですわね」
「……………なので、婚約の解消はしないで欲しい。こちらも率直に言えば、あなたに逃げられたら、私はあの第一王子達をどこかの沼地に沈めてくるしかなくなるだろう」
「……………殿下を」
(こんやくを、かいしょう……………)
ディレドリがとても混乱している間に、オスカーは彼女が告げた恐ろしい別離の言葉を、もう一度反芻してみた。
そしてその中に、到底無視出来ない悍ましい言及があったことに今更ながらにして気付く。
(私が、あの聖女に想いを寄せている………?)
「私がか?!」
ここで思わず椅子をひっくり返して立ち上がってしまい、ディレドリがまた目を丸くした。
他のご令嬢たちのように茶会に興じるのではなく、静かな書庫で魔術や領地経営の勉強をしている方が好きだという彼女らしくない動揺をありありと浮かべた表情で、とても可愛い。
だが、今はそれどころではないのだった。
「な、何がでしょうか? 殿下へのお言葉でしたら、聞かなかったことにいたしますわ」
「いや、それは言葉通りに受け止めてくれて構わない。何だったら、魔術拘束をした上で沼に沈めるのも吝かではないくらいだ。……………先程は婚約解消の申し出そのものに驚いていて聞き流しかけたが、あなたは、私があの珍獣………どこかの国の村から召喚されて男爵家の養子になったという生き物に、好意的な感情を抱いていると思っているのだろうか?」
もう一度ちょっぴり早口になってしまいながらそう問いかけると、ディレドリは綺麗な瞳を途方に暮れたように頼りなげに揺らした。
それだけでもうたいへんに可愛らしいので、オスカーは今日を記念日にせざるを得ず、他国との魔石交渉の会議などはこの世から消し飛べばいいと思った。
それだけではなく、今すぐ、婚約者の為に休暇を取るべきだ。
絶対にそうしよう。
そんな事を考えていると、ディレドリがちらりと物品用の補助机の上を見た。
その上に、聖女が送りつけてきたおかしな小包が置かれたままだったことに気付き、オスカーは、すぐさまその小箱を、魔術封印の後にゴミ箱に投げ込んだ。
付き纏われて困っているという証拠として捨てかねていたのだが、今はこの場にあるだけで不愉快だ。
勿論、誤解があってはいけないので、それも説明しておく。
「………私はずっと、オスカー様はあの方に想いを寄せていらっしゃるのだと思っていましたが、………違うのかもしれないと、…………初めて疑問を抱きましたわ」
「という事は、これまでは、私があの生き物に好意を抱いていると思っていたのか………」
「あの方からもオスカー様に求婚されていると伝えられておりましたし、オスカー様も、あの方のことをいつも見ておられていましたもの」
「あの珍獣は、一刻も早く駆除しよう」
「後々問題になるので、どうか駆除はしないでくださいませ」
「あれを見ていたのも、監視と、半分はもう何もしてくれるなという祈りの眼差しだろう。誤解されていたのは心外ではあるが、聡明なあなたにそう誤解させたのであれば、私の言動に要因があったのだな。………あの生き物が召喚されてからの半年間、なかなかあなたとの時間を取れずにいたのも私の責任だ。ディレドリ、今は言葉を尽くすしかないが、どうか謝罪させてくれ」
「……………ここで、名前を呼ぶのはずるいですわ。…………私は……、」
小さく言葉を詰まらせ、ディレドリが俯く。
綺麗にカールした睫毛に涙が煌めいたような気がして、オスカーは無言で椅子を元に戻してまた座り、魔術通信具に手を伸ばすと、落としたペンを取り上げてペン先に術式を添わせ短い伝言を記した。
『私的な事情により、これから無期限の休暇に入る。国境域の防衛結界の維持を望むのであれば、この決定を受け入れられたし』
(これでよし………)
一拍の間の後、魔術通信用の流星水晶の薄い板に、各部門の責任者たちからの驚愕を滲ませた返信が一気に溢れたが、オスカーは無視した。
何しろもう休暇に入っているので、これからは執務時間外である。
(私の仕事は、誰かに引き継ぐのも無理だろう。ひとまず全ての案件を保留としておこう)
現在、オスカーの二人の補佐官は、半年前の召喚儀式に無理矢理駆り出されて魔力枯渇で倒れ、そのまま療養中となっていた。
よって、オスカーの執務を引き継げるような者は、この王宮内にはいないのだ。
業務の属人化を回避するという意味ではお粗末な管理状況だが、そもそも魔術師は、個人の才能に応じた役割しか果たせない。
努力云々ではなく才能に左右される人材の、最高位にあたる優秀な補佐官二名を使い潰したのは、どこかから聖女なるものを召喚しようとした第一王子なので、責任についてはそちらが負うべきである。
幸いと言ってやるのも不愉快だが、オスカーを使い潰せば国防上の問題に繋がるという事ばかりは理解していたが、補佐官二名を半年に亘って人事不省にし、結果として魔術に関わる政務の全てを滞らせているのは明らかな失策であった。
おまけにその召喚儀式は、王妃の後ろ盾まで得て第一王子派が秘密裏に進めており、中立派であるオスカーには知らされないままに強行されてしまった。
補佐官達も貴族籍は有しているのでそれなりに抵抗はしたようだが、王妃と第一王子からの命令となれば、重ねて拒否することは難しい。
最終的には秘密を漏らしてはならないという魔術誓約を結ばされ、彼等は、オスカーに助言を求める事も出来ないままに儀式に向かったのだった。
(あの馬鹿王子にも、今のままでは立太子されるのが難しいかもしれないという判断をするだけの公平さと冷静さはあったようだが、それを確実なものにする為の手段が、なぜ召喚儀式だったのかがさっぱり理解出来ない…………!)
先の大戦の戦後処理も終え、この国はやっと安定してきたところだ。
戦勝国ではあったがそれでも煩雑なことは多く、お人好しな部分は問題だがそれでもかなりの賢王とはいえる現国王を有していてもなお、他国との交渉には手間がかかる。
だが、それらの交渉を何とかまとめ上げ、尚且つ、大陸上の主だった国々の中で最も進んだ魔術を有し、国防上の問題もほぼないと言わしめる程の安定を勝ち取ったのが、ここ数年の我が国の状況だった。
(この現在の我が国のどこに、聖女なんてものを必要とするような要素があるというんだ…………!!完全に人気取りでしかない上に、優秀な魔術師達の健康と引き換えにして、何も出来ない様子のおかしな生き物を召喚するとは………!!)
聖女と呼ばれる少女がこの国に召喚されたのは、半年前のことである。
召喚儀式によって呼び落とされた少女は、現在、聖女召喚に賛同した第一王子派閥の男爵家に養子として引き取られ、日々王宮に参じている。
何の生産性もない儀式で頼もしい補佐官達を休職に追い込まれ、その穴を埋めて余るどころか、面倒ごとしか引き起こさない生き物が毎日王宮に現れるので、オスカーは日々苛立ちを募らせていた。
しかし、腹立たしさのあまりにぎりっと奥歯を噛み締めていると、大事な婚約者が心配そうにこちらを見たので、慌てて微笑んでおく。
「すまない。取り乱しかけてしまった」
「……………相変わらず、全くそのようには見えませんでしたわ」
「そうなのだろうか…………。王妃と第一王子に、インク瓶を投げつけることまで考えたところだったのだが………」
それくらい動揺していたのだと伝えたかったのだが、すっと真顔になったディレドリに、オスカーは苦笑した。
大切に育てられた聡明な令嬢らしく、辛辣な思想を持ちつつも王家にはしっかり敬意を払うのが、この可愛い婚約者なのだ。
「それは、出来れば私にも、言わないでいただきたかったです。王族を害するような発言は、秘匿しただけで叛意と捉えられかねられません」
「安心してくれ。あなたに何かをする者がいたら、私が殲滅する」
「殲滅はやめておきましょうか。……………それと、会議のお時間は大丈夫ですの?このような時間しか取れないと分かっていて押し掛けておいて今更ですが、そろそろ会議の準備に入られた方が……」
「ああ、それは心配しなくていい。いい加減この激務続きに我慢がならなくなったのと、今は、あなたとしっかり話す必要があるので、無期限で休暇を取った」
「き、休暇を?…………本日は、他国の王族も招いて開かれる重要な会議があると伺っていますが」
「婚約の継続と、今回の問題についての説明の前には些末なものだ。それどころか、あなたをこんな風に追い詰めるまでそんな判断すら出来ずにいたのが悔やまれる」
溜め息を吐き、インク瓶の蓋を閉めた。
伝言文が届くと淡く光る仕様の魔術連絡板がかなり激しく点滅していたが、執務室の扉は魔術でしっかりと施錠し、音や振動なども届かないようにしてあるので、攻め込まれても追い返せるくらいだ。
(もっと早く、こうするべきだった………)
愛する人の暮らす国が傾かないよう、必死に第一王子派の引き起こす騒動の後始末をしていたが、そろそろ見限る頃合いなのかもしれない。
ここまでの献身は、ひたすらにディレドリをこんな騒動に関わらせないようにする為のものであった。
彼女は王宮の書庫に勤めているので、その環境を何とか守らねばという意図もある。
しかし、ディレドリが既に被害を被っているとなれば話は別だ。
(不安にさせないように詳細を話さずにいたが、それが裏目に出てしまっていたのだな………)
「………何か、私には話せないご事情があったのでしょう。…………私の方こそ、堪え性がなくみっともなく騒いでしまって、恥ずかしい限りですわ………」
「悪かった。一応は、王族の絡む問題だからな。あなたを関わらせたくなかったのだ」
とは言え、なかなか会えない事情はもう少し踏み込んで説明して然るべきだったと重ねて謝罪すると、ディレドリは困ったように微笑んで首を横に振った。
いらぬことで騒いでしまったと項垂れているので、オスカーは、可愛い婚約者に贈る予定の謝罪の贈り物に、風光明媚な湖水地方の別宅も加えておくことにする。
(宝石とドレス、劇場のロージェの年間チケットや美しい森がある別宅だけで足りるものか。ディレドリが気後れしないよう、正式に伴侶となった後にこれらの贈り物を渡そうと思っていたが、もはや順番など気にしていられるか)
なお、このオスカーの贈り物責めを阻止したのは、弟と叔父である。
婚約に喜びせっせと贈り物の手配をしていたところ、あまりにも愛が重いと怖がって逃げてしまうと言われたのだ。
それは困るので、二人が宜しくないと判断した大きな贈り物については、ディレドリが逃げられなくなってから渡そうと思っていた。
何しろオスカーの婚約者は、とても可愛い。
どうしてか皆は地味なご令嬢だと言うのだが、ちゃんと微笑んだ姿を見たら、間違いなく大勢の者達がその場で死ぬだろう。
或いは他の者達は、オスカー程に治癒魔術が使えないので、本能的にそうなる危険を避けている可能性もある。
ディレドリの魅力に気付けないとは哀れな事だが、生物には生存本能というものがあるので致し方ない。
「あらためて説明すると、私は、あの珍獣を何とか野生に帰そうと画策はしてきたが、同族の生き物に向けるような好意を覚えたことは一度もないので、どうか安心して欲しい」
「あんなに可愛らしい女性なのに、同じ人間としても、認識されていらっしゃらないのですか………」
「他国との交渉も長らく引き受けてきたので、ある程度は、価値観の多様さに対応するべく物事を柔軟に判断するようにもしているつもりだ。…………だが、あれはない」
「………実は、その結論については、私も同意見です。こちらは、王宮に参じる女性として、品位を損なうという見地からですが」
こちらも案外辛辣な評価をしたディレドリに、オスカーは微笑んだ。
すると、目元を染めたディレドリが、慌てたように視線を逸らしてしまう。
素晴らしく可愛いので、今見たものについて手帳に詳細な記録をつけたかったが、さすがにこのような会話の途中でそれをしないだけの理性は、オスカーにも残っていた。
この自制心を、誰かに褒めて欲しいくらいだ。
(だが、良かった。……………先程の涙は安堵からだったようだが、…………もう悲しんではいないようだ)
「ただ、あの生き物は、一日も大人しくしていないんだ。ば……第一王子と共に取り巻き連中を引き連れてあちこちに出かけてゆき、殆どの場合は必ずそこで騒ぎを起こしている。この王宮内や王都に展開している魔術の守護には、古くからある繊細な仕掛けが多い。我が物顔でそのような魔術をあの生き物に見せたがる馬鹿…第一王子のせいで、必然的にあの生き物と関わる時間が増えてしまったのは否めないな」
「確かにタイビス殿下は、王宮内の少し危うい場所にまで、あの方を連れていかれておりますね」
「国家機密に触れるような場所に、その情報を得るのに相応しくない者を同伴するのは、王族であっても許し難いことだ。しかし、あの生き物が聖女なので王宮内の魔術の運用を知っていて然るべきだというのが、あの馬鹿どもの主張だった」
「オスカー様。殿下への敬称が、とうとう、どこかにいってしまっておりますわ」
そう窘められて、オスカーは深呼吸をした。
「…………あれが聖女かどうかは未確定だが、特殊な魔術保有者なのは間違いなく、そんな生き物が魔術道具に触れれば当然だが調整が狂う。王宮の魔術管理を出来る者達が減っている今、些細な調整不良はそれだけで大きな事故に繋がりかねない。それなのに、あの愚かな生き物はまた、目についたものにすぐに触るんだ。………光っているから、綺麗だったから、花だと思ったから、動いたから、珍しいから、格好いいから、………ありとあらゆる愚かな理由で」
「……………まぁ。それは、…………困った生き物ですわね」
とうとうディレドリにもそんな言われようになった少女を、オスカーは、途中から自分と同じ生き物だと思わないことにした。
同じ人間だと思うので、このくらいは配慮出来るだろうと期待をしてしまい、その結果腹を立ててしまう。
いっそ、第一王子派が連れている珍獣か何かだと思えば、首を絞めて揺さぶりたくなる衝動から逃れられるかもしれない。
「……………だが、一度だけ我慢がならなくなった」
「……………なんですって?」
「あの生き物が、あなたが勤めている、書庫のある棟の守護魔術を壊した事がある。よりにもよって、敗戦国の王子がこの国を訪れていた、最も警戒を強めなければならない日に」
「………他国の王族の方がいらしている日に、書庫の室温が突然下がったことがありました。外では騒ぎになっていたようでしたが、その時でしょうか?」
「ああ。その日だろう」
見目がいいという異国の王子様に会いに行こうとして、その通り道にあった綺麗な薔薇を、お土産代わりに摘んだだけなのにという聖女もどきの弁明を聞いて、オスカーは怒り狂った。
こちらは、大事な婚約者の働く建物の環境を損ねられたのだ。
影響としては警備上の問題は起こらず、室温変化程度のもので済んだにせよ、それで繊細なディレドリが体調を崩したらどうしてくれるというのか。
勿論、そんなことをした輩は死ぬべきなのである。
「……………あなたは、何をしてしまったのですか?」
「首を……………掴んだ。それと、少し揺らしたかもしれない」
「首を絞めて、揺さぶったのですね?」
「すぐに我に返り、魔術で皆の記憶を消しておいたのだが、あの日以来なぜか、珍獣が私を見ると頬を赤らめるようになった。追い払っても追い払ってもついてくるので、とても悍ましい」
「……………人間は、恐怖などを恋からくる心の揺らぎだと取り違えることもあるそうです。もしかすると、そのようなことになっているのかもしれませんね。………もしくは、そのようなことを喜ぶ生き物なのかもしれません」
「どちらもなしなので、早く拾ってきた場所に戻すべきだろう。………なので最近は、あの生き物の監視をせねばならないのは理解していても、それがとても苦痛でならなくて、あなたの肖像画を机に飾ってなんとか耐えていた………」
「そうでしたの………」
隠すことなく近況を告げたオスカーに、先程まで冷え冷えとした目をしていたディレドリが、ふわりと微笑んだ。
来客用のテーブルの上のカップを取り、用意しておいた紅茶を飲んでくれて美味しいと呟く。
一瞬、ディレドリのあまりの美しさに、あ、死んだかなと思ったがまだ何とか生きているので、贈り物には何かまた特別なものを増やすしかない。
王家の森で精霊王でも狩ってきて、加護を贈らせるあたりが妥当だろうか。
「オスカー様は、いつも落ち着いていらして、少し冷たい印象ですが礼節を重んじられる方です。この国一番の魔術師であるだけでなく、建国以来王家からの輿入れもある公爵家の跡継ぎでいらして、私は、………あなたほどに美しい方を見た事がありません。そんな方から婚約を申し込まれた時は、本当に私でいいのだろうかと困惑しました」
「………あなたには、私がそんな風に見えているのか」
「まぁ。誰にでもそのように見えている筈ですよ。現に、先日も隣国の王女様が、舞踏会で見かけたオスカー様があまりにも美しいからと、様子がおかしくなったことがあったではありませんか」
「あれは、魔術に当てられたのだろう。本人から、息苦しくなり、震えが止まらなくなるので責任を取って欲しいと言われたので、外交上死なれても困るので二度と私に近付くなと伝えておいた」
「あの方は、あなたに拒絶されたこの国にはいられないと、王弟殿下からの婚約の申し出を断りお国に戻られてしまったそうですわ。………尤も、そのような立場でこの国を訪問された方にしてはあまりにも浅慮な行為ですが」
穏やかな声でそう言い、ディレドリはまた少し微笑んだ。
今度の微笑みは物憂げだったので、オスカーは心の中の画布にその姿を描き留めておく。
婚約期間はまだ半年も残っているが、もしかすると、三日後くらいに早めてもいいかもしれない。
そんな事を考えている間にも、ディレドリは話を続けていてくれた。
初めて聞く彼女からの思いに、オスカーはじっとディレドリを見つめる。
「私は、王宮で働く為に沢山勉強をしました。伯爵家の娘に相応しいと言われるのに必要なだけの努力は、いつだって惜しまなかったつもりです。だから、自分を卑下することはありません。……………多くの方が私の容姿を取るに足らないものだとあげつらおうとも、私は私自身のことがそれなりに好きなのです」
「……………あなたにそんなことを言った者達の名前を記し、明日までに名簿を作っておいて貰えるだろうか」
「それをどう使うのか何となく想像出来ましたので、そんなことはいたしません。……………オスカー様。有り体に申し上げますと、私はずっと、それでもあなたは私には過ぎた婚約者だと思っていました」
悲しげな声音を聞いたオスカーは、気が遠くなった。
ということはつまり、オスカーがディレドリに向けていた愛情は、少しも伝わっていなかったのだろう。
それで婚約者を不安にさせていたのだから、男性としてあまりにも情けないではないか。
大切な女性なのに、こんな形で思い詰めさせてしまったのは、ただひたすらにオスカーの責任だった。
「すまなかった。私は、あなたを不安にさせていたのだな」
「いえ、この半年はお約束通りの時間は取れませんでしたが、それでもあなたは、私が執務室に会いに来ると仕事を中断して人払いし、快く迎え入れて下さいました。それに、手紙も時折書いてくれましたし、私が事前に連絡をしてこの執務室を訪ねた時には、いつも美味しいケーキや焼き菓子も用意してくれました」
「……………私からあなたに会いに行かなかったのは、弟から、今の状態であなたに会いに行くと、タガが外れて何か後世に記録すら残せないような罪を犯しかねないと忠告されたからだ」
「あら。こうしていても、何もされませんのに?」
首を傾げてそんな風に不思議そうな目をされると、オスカーは倒れそうになった。
この可愛い婚約者に、今すぐ、好きなだけ美味しいものを食べさせてあげたい。
「あなたは、本当の私がどんな男なのかを知らないからな………」
「具体的には、どうなってしまうのでしょう?」
「知ると後悔することになる」
「でも、聞いてみたいですわ」
「……………正直に言えば、あなたの為に用意した全ての贈り物を今すぐあなたに渡したい。ただ、あなたが、叔父や弟から重くて怖いと言われるその贈り物に恐れをなして逃げないように、婚約期間はあと三日で充分だと思っているし、昨日もまた騒ぎを起こしたあの生き物と馬鹿王子共は、そろそろ駆除するべきだと考えている。お陰で、昨日は屋敷に帰るあなたの後ろ姿を回廊から眺めに行くことが出来なかった」
「まぁ………!」
後半は恨み言になったが、ディレドリは目を丸くしてから小さく笑った。
(………笑ってくれた!)
初めて聞く可憐な笑い声に、オスカーは今日はこの国の祝日にするべきだなと確信した。
国王を脅せば、どうにかなるだろう。
絶対に、祝祭にして国民総出で祝うべきだ。
「……………オスカー様は、私で宜しいのですね」
「宜しいも何も、あなたが私を選んでくれなければ、恐らく罪人になるところだったと家族全員に言われているくらいに、ここ十二年ほどはあなたが好きだ」
「十二年ということは、私が五歳の時からですわね………」
「幼い頃から、あなたは可愛らしくて美しかった。私の初恋だ。……婚約が叶わなければ、多分、………問題は起こしただろう」
弟からは唯一の取り柄である容姿の効果が犯罪者っぽさで皆無になるので、初恋については絶対に外で話さないようにと言われていたが、思わずそう伝えてしまうと、ディレドリが真っ赤になる。
「………その際に何をしてしまうのかは想像しないようにしますが、私も、………幸いにもオスカー様をお慕いしております。だからこそ、私に誠実に接して下さるあなたに想い人がいるのであれば、解放して差し上げるべきだと思ったのです。…………いえ、本当は、他の女性を想うあなたを隣で見ていたくなかったのかもしれません。私には過ぎたお相手だったからこそ。…………ずっと女性としては魅力的ではないと言われ続けてきた私が、オスカー様のような方と家族になるという未来を一度でも心の中で思い描いた後で、それを失うのが辛かったのですわ。……………オスカー様?」
オスカーの記憶は、ここでぷつりと途切れている。
後から呆れ顔になったディレドリから説明されたことによると、思ってもいなかった告白にすっかり舞い上がってしまったオスカーは、ディレドリを抱き上げて、贈り物として購入してあった避暑地の別宅を見せに連れ出していたらしい。
そして、三軒目の別宅の薔薇の庭園や近くにある美しい森の案内までを済ませたところで、ずっと抱き上げられていたディレドリが力いっぱい後頭部を叩いてくれたので正気に戻ったのだった。
「……………すまない。あなたを怖がらせてしまっただろうか」
「思っていた方とは随分と違いましたが、そんなオスカー様も好ましく思いますので、逃げたりはしませんわ。………なので、こっそり拘束魔術を立ち上げるのはやめて下さいね」
「先程の告白を撤回したりは…………」
「しません。なので、婚約期間は予定通り取っていただいても?」
「善処しよう。それまでに、邪魔なものは片付けておく」
「……………くれぐれも、穏便に済ませて下さいね」
その後オスカーは、可愛い婚約者の付き添いの侍女達を王宮に置いてきてしまっていたので慌てて迎えに行かされ、彼女の家に招かれてお茶会をしたり、翌日は互いの家族を交えてこれからの事を話し合ったりした。
なお、その際にオスカーの叔父が同席したのは、ディレドリが可愛いとしか言えなくなることがあるオスカーの通訳代わりであったが、取り敢えずディレドリが恋をするといけないので、頭から紙袋を被っていて貰った。
召喚された聖女は、男爵家にも問い合わせたところ、あまりにも問題ばかり起こして男爵が胃痛で寝込んでいるのでもういらないということだったので、オスカーの手で、前後の記憶を操作して捕まえてきた場所に送り返している。
馬鹿な第一王子のせいで招かれたのは事実なので、今後の生活の補償を兼ねて、慰謝料代わりに近くの大きな町の商人の息子との婚約を手配済みだ。
王妃と第一王子は、国王が泣いて謝ったので適当に監視や隔離をするだけにしておき、今後こちらの人生の障害にならないように手を打っておいた。
あの日に沢山の話をしてから、ディレドリはよく笑うようになった。
幸せ過ぎてオスカーが色々なものを買い占めると叱ってくれるので、それもまた可愛い。
二人が正式な伴侶となるのは、一月後の、ディレドリの生まれた春になる。
今からその日が楽しみでならなかったが、花嫁姿があまりにも麗しいとオスカーは尊さのあまりに死ぬかもしれないので、取り敢えず遺言の手続きも済ませてある。
かくして婚約の解消を免れたオスカードイルは、後世の為に、聖女とかいう生き物は召喚してはならないし、うっかり捕まえてもすぐに野生に帰すようにという魔術誓約をしっかりと定めておいたのであった。