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私だけの呪文

作者: 円件

蝋梅( https://twitter.com/roubaititle )様よりお借りしたお題「わたしだけの呪文」にて、2017年7月30日に作成したものです。


 殺風景な板張りの部屋に、ラジオが一つ転がっていた。

 今日の収穫はたったこれだけ。大雨の中を五十マイルも歩いたのに、そこには食べ物どころか、死体の一つだって落ちていなかった。

 酷い落胆をなだめて忘れて、雨風から逃げる為に屋内へ。建物は、ぼろ屋と言うには造りがしっかりしていて、住人を探すにしてはあまりに年月が経ち過ぎているように見えた。家財道具はほとんど無く、虫も鼠も何もいない。薄汚れた床と日に焼けた壁紙、それから部屋の奥の暗がりに、無造作に転がったラジオ。空間ごと、全てが息絶えていた。

 水を吸った足がなかなか前に進まないのは、多分全身が酷く冷えていて、熱になるようなものも体に残っていないからだろう。今更、失望の一つや二つ、何を恐れることがあるのか。先を走る意識に手を引かれ、重い足で床を踏みつける。軋むだけの床が、気を遣って勝手に動いてくれたなら楽だろうに。或いは拾いたいそれに足が生えて、向こうからやってきてくれるだとか。愉快な空想をすると、自然と腕が伸びて空中を泳いだ。まずいと思った時には、既に体が前のめりになっていて、意識する間も無く転倒した。肘と胸を打ったが、不思議とあまり痛くはなかった。

 ラジオと同じように床に転がって、仕方がないので一息つく。急かしにかかる野暮はいない。好きなだけゆっくりと時間を食らい、縮こまった体を伸ばしていく。少し無理をして伸びをすると、ラジオは指の先から手のひらへと転がった。手繰り寄せ、スイッチを押す。思ったよりも固い手応えがあって、微かな期待が小さく燃えた。途切れ途切れの雑音。外の雨音に紛れそうになるのを必死で追いかけてボリュームを上げる。

 声がした。久し振りに聞く自分以外の声だった。


「ハロー、聞こえますか。そちらは、空が、綺麗ですか」


 それは低く濁った男の声で、わざと区切った明瞭な音をしていた。


「ハロー、聞こえますか。そちらの、空は、何色ですか」


 空なんて、もうとっくの昔に無くなってしまったのに。その人は、まるで空の無い世界を知らないように、疑いもせず問い掛けていた。

 これが電話だったなら、知りもしないのによくもまあと罵ってやるのに。床に倒れ伏したまま、動く指先に頼ってボリュームを最大にする。雑音が膨れ上がって、埃まみれの死んだ部屋に反響している。早く続きを言って欲しいと思った。その人が何か言うのを、じれったく期待して、苛立ちながらただ待っていた。


「ハロー、答えて」


 その人は言う。


「誰かいたら答えて。こちらは、つい最近、晴れるようになりました。そちらの空はどうですか。聞こえますか、誰か、何処かにいる、僕に似たあなた」


 私は、体を床に溶かしながら、眠りに落ちる寸前の居心地の悪さを感じていた。頭が冴えているのに、思考も体も眠ろうとしている。その鈍くなった感覚の柔らかさ、伝達の遅さが、腰のあたりから脊髄をくすぐって、狂いそうな程のむず痒さになる。激しい怒りが脳味噌を覆う。頭の後ろが冷えて、こめかみに力が籠る。私は怒っていた。泣き出したい程に、その人への憤りを感じていた。喉の奥で妬みが渦を巻いている。両目は失望の余り涙を流し始めた。酷い話だと思った。声の主の喉が、私の知らない遠い遠いどこかで鳴っている、生々しい幻覚を瞼の裏に描いていた。

 私は、ここに。空は見えない。何年も前に外で起こった洪水が、私達の空を洗い流してしまった。あなたは何処にいますか。あなたは外のどこかに、いるんじゃないんですか。


「泣き言を言うと、ここは晴れているのに、毎日酷く冷えます。でも僕は、泣き言を言いません。凍えていても、僕は明日生きているので、泣き言を言ったことにはならないのです」


 ラジオは一方的に、彼の言葉を垂れ流していた。私の涙は頬で止まる。一昨日の晩から水すら飲んでいないことを、体がようやく思い出したからだ。私は空腹で、干乾びて、部屋の一部になろうとしていた。雑音に混じった明瞭な声が、波の音のように響いていた。


「ハロー、ハロー」


 頭のてっぺんから、空気が抜けるように苛立ちが遠ざかっていく。体が生きる力を失っていく時には、怒るなんて力仕事が難しくなるらしい。死にそうだという冗談が思い浮かんだ。面白くても、もう指一本動かせない。私は、掠れて役立たずでも何か言ってみたくなって、不格好な声の魚を口の中で泳がせた。

 彼の喉は乾いていないだろうか。彼は空腹で悲しんでいないだろうか。腹立たしい程遠くて、晴れた空の下にいる、私に似たあなた。どこかにいる筈の、あなたにいつか言葉が届きますように。あなたの望むその誰かが、何処かであなたの声を聞いたことが、ただそれだけが伝わりますように。

 私は息絶えるまでの短い間、顔も知らない男に向かって、恋に焦がれた呻き声を捧げ続けていた。



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