土岐明調査報告書
爛熟接待交際と惰性買春(金曜日夜)
ジャナイデスカの仏車が緩やかな坂を駆け上って来た。急ブレーキをかけて停車する。
少女がスキップしながら近寄った。足元を見ると裸足にビーチサンダルだ。胸ポケットからボールペン、腰ポケットから領収書を取りだした。
土岐が近寄って覗き込む。日付を書き込んでいた。金額は既に印刷されている。
少女の汗臭い体臭が土岐の鼻先をよぎった。真っ白な歯を見せている。少女はジャナイデスカに笑いかけた。領収書を切り離して突き出す。
ジャナイデスカが車から出た。尻ポケットから財布をだしている。怪訝そうな顔つきだ。小額紙幣を差しだした。
少女は領収書に用意していた釣銭を添えた。
ジャナイデスカは憮然とした面持ちで長谷川に語りかけた。
「こういうところでェ、なんで駐車料金とられるのかァ、わかりましぇ~ん。はじめてで~す、こんなのォ」
とぼやいた。
三人一緒にエントランスへ向かって歩いた。
「たぶん、失業対策じゃないか。治安が良くないから」
と長谷川がしょげているジャナイデスカを慰める。衣紋掛のようなジャナイデスカの肩に手を置いた。
「かも、ですねェ。こんなところにィ、自家用車でのりつけるのはァ、外国人だけだしィ、外国人からカネをまきあげることにィ、国民はだれも反対しないしィ。あの子もォ、警察の制服着てるけどォ、どうせアルバイトでェ、警察署長からケンリ買っているんじゃないですかァ」
とジャナイデスカは憤然と悄然の入り混じった尖った顎で少女の方をしゃくった。
「まあァ、この国には私有地はないじゃないですかァ。車がとまっていればァ、どこでも駐車料金をとれるというゥ、リクツですね。レストランのオーナーもォ、一枚かんでんじゃないですかァ。あァ~あ、フユカイだァ。プンプンプンプン」
とジャナイデスカの憤懣は長く尾を引く。なかなか治まらなかった。
「ところで、奥さんは?」
と長谷川が聞く。ジャナイデスカは言いたくなさそうに、
「ひとりで行って、だって」
と答えた。
店内は床の板目が見えないほど薄暗かった。客の着いているテーブルだけに太い蝋燭の炎が赤いグラスの中でベリーダンスのようにくねっていた。四人がけの丸テーブルが十卓ほど。そのうちの六卓に客がついていた。白皙の欧米人が十人足らず。黄色の東洋人が五六人。浅黒い現地人はひとりもいない。
「たんにィ、電力事情がわるいから、蝋燭にしているのにィ、それがァ、欧米人にうけるなんてェ、皮肉じゃないですかァ」
とジャナイデスカは嬉しそうに席に着いた。
翳のように土岐の後ろに付いてきたウエイターにスペシャルのロブスターとクラブを二つ注文した。
アルコールはハウスワインをデカンタでとることにした。
「そのあとはアラック、ハウスワインがカラになったら」
と長谷川が注文を言う。ウエイターは顔を顰める。人差し指を立てた。
「アラックは密造だから違法です。ここでは売っていません」
とやんわりと注文を受け付けない。どことなくぎごちない。
「君ィ、僕のことよォく知ってるよね。開発銀行に勤めているんだよ。個人ベースでも、接待ベースでもこの店を良く使ってやっているでしょ。単価の高いィ、いい客でしょ?忘れたのォ?」
とジャナイデスカは、陰伏的に強く地酒の提供を要求した。
「わかりました。それではみなさん、三人ともあちらの席にどうぞ」
とウエイターは拍子抜けするほど簡単に折れた。裏口に近い窓際のテーブルを指差した。
そのテーブルに移動した。
ウエイターは赤燐の擦り切れたマッチ箱を胸ポケットから取りだした。軸木を擦ってマッチに火をつける。蝋燭に点燈した。
「例によっていつものようにこの窓からかァ」
とジャナイデスカは腰掛ける。すぐきょろきょろと窓から首をだした。そこにある暗闇の中の鬱蒼たる密林を眺め回している。
土岐は、
@I kill you@
の主がその闇の奥に息を殺して潜んでいるような不気味な殺気を感じた。
「どうやってェ、バイニンとォ、連絡取ってんのかァ、よくわからないんですゥ。携帯電話もっているわけないしィ」
とジャナイデスカは販促記念品の首振り人形のように筋張った首を捻る。土岐はジャナイデスカに質問した。
「携帯電話と言えば、いまお持ちですか?」
ジャナイデスカは不意をつかれてきょとんとしている。
「ぼくの携帯電話?」
「ええ」
「ありますけど、なにか?」
とジャナイデスカは、ポケットに手を突っ込む。腰のあたりをもぞもぞさせている。
長谷川がにやりと笑う。
「いえ、お持ちならいいんです」
「どこかに、かけるんですか?」
とジャナイデスカが水色の携帯電話をテーブルの上に置いた。
「いや。メールはよくしますか?」
「この携帯で、ですか?」
「ええ」
「優子によくメールします。勤務時間中は、電話できないんで、連絡はもっぱら携帯のメールです。一日、十通ぐらいですかね」
「奥さんにですか?」
「ええ。同じ文面で、リピート機能使って」
「同じ文面で?」
「いまなしにしてる?ってえ文面です。彼女やることないんですよね。子供もいないし、家政婦はいるし、友達といっても慶子さんしかいないし。寂しがらせちゃ、いけないと思って。亭主の務めです」
とジャナイデスカはうれしそうに言う。
長谷川は聞いていられないという顔つきで、話を密造酒に戻した。
「そのウエイターも、多少はマージンを取るんでしょ?」
とジャナイデスカに、相槌を求める。
「そりゃァそうですゥ。法にふれるって、法を遵守するようなこと言って、一応ことわるのはァ、万一ばれたときのォ、共犯関係をつくるためじゃないですかァ。やつらしたたかですよ」
とうなずく。胸ポケットからメンソール煙草を取りだした。
「今日の3本目ェ。フフフフフッ。やめられないッ」
と唇に挟んで蝋燭の炎で煙草に着火させた。
小さめのワイングラスふたつと蓋のついたデカンタがやってきた。
「ハウスワインは赤かァ。白じゃないのかァ」
とジャナイデスカはデカンタの首を持つ。蓋を右手の親指で開ける。小さめのワイングラスに自分のグラスから先になみなみと注いだ。
「暗いからァ、アカというよりはァ、クロじゃないですかァ」
と高いキーであたりを憚らずはしゃぐように涼やかに笑った。
「カンパイ!」
と叫ぶ長谷川に合わせて土岐も、
「乾杯!」
とグラスを合わせた。最初にひと口だけ含んでみた。舌先で転がしてみる。ボディのない渋いだけの葡萄ジュースだった。
「ところで、なにに乾杯?」
と何がうれしいのか、落ち着きのないジャナイデスカに長谷川が改めて訊く。
「首都圏の国際空港近代化プロジェクトの独占契約にィ!」
とワインを呑みながら仕合わせそうに皺の多い目を細めた。
椰子蟹を唐辛子と香辛料で炒めた料理が届けられた。大皿にてんこ盛りで溢れそうだ。赤くゆでた蟹に紅い唐辛子がからめられている。とてつもない辛さだ。
土岐は舌が火傷した。暫く、走り回った犬のように舌を空気にさらして冷めるのを待った。
三人で舌に呼気を送りながら顔を見合わせて苦笑した。
「ハッピー、ハッピー、今日もハッピー。おいしいものってほんとにいいですねェ。ハヒフヘハッピーピーヒャララ」
とジャナイデスカは愉快そうに食べる。楽しそうに呑んだ。
「♪たぶん~おれたァ~ちのォ~あしィ~たもォ~こんなだろォ~♪たぶん~おれたァ~ちのォ~あしィ~たァ~もォ~こォ~ん~なァ~だァ~ろォ~♪ジャンジャカジャン」
とグラスを片手に持つ。大きく左右に振る。外連味もなくブレヒトの劇中歌を演歌っぽく、音程を狂わせて唸りだした。
デカンタがカラになった。ロブスターがやってきた。拳骨ほどの大きさのロブスターが三尾盛り付けてあった。皿からこぼれそうだった。
三人でウエイターの配膳を助けた。皿の配置を工夫した。皿を置くとテーブルがいっぱいになった。肘を突くスペースもなくなった。
ジャナイデスカはテーブルの上に置いた携帯電話をポケットに戻した。
皿の配置が決まった。ウエイターが窓の外を指差した。
漆黒の夜気に目を凝らす。十六七の少年が窓に近づいてきていた。手に白いラベルの剥がれかかった安物の赤ワインの小瓶を持っている。
「サァ、アラック」
と左手で瓶を差しだした。右の手のひらを同時に突きだした。指で値段を提示した。
ジャナイデスカはそれを半値に値切ろうとした。
少年は肩をすぼめた。店内や背後に視線を巡らせた。
ジャナイデスカは、値切った金額を少年の手のひらに置いた。
少年は紙幣をさっと握り締める。イリュージョンのように宵闇に消えた。
「言い値でかうヒトはァ、おバカさんで、おマヌケさんです」
とジャナイデスカは残りのワインを呑み干した。そのグラスに地酒を注いだ。
再び乾杯した。土岐はワインのように流し込むことはできなかった。四十度は超えていた。強烈な甘さと高いアルコール濃度に少しむせた。
長谷川はなめるように早いピッチで呑んだ。
「だいじょうぶ?車でしょ?帰り自宅まで運転できる?」
と長谷川が心配する。
ジャナイデスカは余計なお世話というような胡乱な目をした。
「酒気帯び運転はァ、いちどやるとやめられないんですゥ。酩酊感覚とォ、ひりつくようなスピード感。道路がぼこぼこに波うってェ、ヘッドライトがひらひら踊る。路肩に突っこんだりィ、対向車とぎりぎりですれちがったりィ、対向車線にはみだしたりィ。ひょっとしたら死んじゃうかも知れないスリルがァ、たまらないんですゥ。アクション映画さながらなんですゥ。とくに夜はァ、ふわふわと宙をまっているようでェ。朝目をさましてェ、ほとんど記憶がないことがよくあってェ。残っている記憶はァ、まるで雲のなかをさまよい歩いてきたような感じでェ。でも不思議じゃないですかァ。一歩まちがえちゃえばァ、死んでいたかァ、事故をおこしていたはずなのにィ、いつもブジなんですよォ」
とジャナイデスカは宙に視線を∞の字に泳がせる。
夢見るような眼で、
「人を轢いたら、やばいんじゃないの?」
と再度、長谷川が飲酒運転の危険性を注意した。
ジャナイデスカはとろんと据わった眼つきで、
「やすいもんですよ。ひと月分の給料でかたがつくんだから。遺族は片目で悲嘆にくれながらもォ、別の片目では嬉し涙がとまらない。なんたったってェ、かれらの5年分の収入になるんですからァ。5年分ですヨ。家が1軒買えちゃうんですヨ」
と飲酒をやめる気配がない。
「ここの人間を轢死させても、懲役刑にはならないんですか?」
と土岐も食い下がった。ジャナイデスカの飲酒を抑制しようとした。
「この国にィ、司法の独立なんてしゃれたものはないんですよォ。ボクは外国人だしィ、しかも我が国の経済援助を一手にあつかう開発銀行の行員ですヨ。懲役刑なんかにしてェ、援助が一挙に減っちゃったらどえらいこってすゥ。慰謝料なんかとォケタが3ケタもちがうんですからァ、3ケタもォ~」
と一向に気にしていない。
帰りに下宿の安ホテルで落としてもらおうと土岐は考えていた。断念した。
それを察したのか、
「そうか、あなたはいつもクルマじゃなかったんだァ」
とからむような喋り方で呂律の矛先を長谷川にむけてきた。
「クルマを運転しないのはァ、ヒトに運転させておいてェ、おサケをたらふくのみたいからなんじゃないんですかァ?」
とジャナイデスカのフランス車に長谷川が便乗しようとしていることを責めてきた。
「それもあるけど、加害者になるリスクを負うよりは被害者になるリスクを引き受けるほうがはるかに気が楽だから」
と長谷川は弁解した。
ジャナイデスカは腑に落ちないと言いたげに口を尖らせた。
「この国の連中はァ、徹底した運命論者です。努力するのも運命ェ、しないのも運命ェ、がんばるのも運命ェ、がんばらないのも運命ェ、勉強ができるのも運命ェ、できないのも運命ェ、運命を信じるのも運命ェ、すべてがアッラーの思し召し。死ぬのはどうせ運命なんだからァ、どうせ死ぬんならァ、補償金のもらえる交通事故死をォ、すなおに喜ぶんですゥ。死んだヒトはそれまでの運命です。遺族が喜べばそれでいいんじゃないんですかァ?それよりィ、ここのヒトのクルマにひかれたら悲劇です。補償金はせいぜい月給分です。葬式代もォ、でないんじゃないですかァ。アッラ~アクバル!」
と捲くし立てる。少し呂律が回らなくなっていた。同じような内容の話を二度、三度と繰り返す。
土岐はただ黙って聴いていた。多少反論めいたことを言うと、話がくどくなる。言いたいだけのことを言わせるとジャナイデスカはトイレに立った。
二人だけになると、
「どう思う?」
と長谷川が土岐に聞いてきた。
「どうって?」
「あのジャナイデスカさ。I kill youの犯人に見えるか?」
「出会って、まだ、半日しかたっていないからな。なんとも言えない。しかし、かみさんに一日に同じ文面のメールを十通も送信するのは異常だな」
「おれはあいつはアホとしか思えないんだが、おまえはどう見る?」
「自慢じゃないが、僕は人を見る目がない。人の腹を探るというのが不得意だ。しかし、アホを装っているとすれば、演技者だね」
「まあ、いい」
しばらくして、ジャナイデスカがスキップしながら戻ってきた。一休みして、話題を変えてきた。
「そういえば、あした、ヒジノローマにいくそうで」
ととろけたような眼を上げて土岐を見た。
すかさず長谷川が言った。
「うちの所長があんたに言うことはありえないんで、多分、ヘンサチがあんたに教えたんじゃないの」
「ヒジノローマのはなし?」
「そう」
「あたり!」
とジャナイデスカが大声で叫ぶ。
「というか元々この話はあんたに持ち込まれたんじゃないの?」
「ブー」
とジャナイデスカがバツ印を両手で示す。
それを見て、長谷川が土に説明する。
「彼とヘンサチがどれほど親密な関係にあるのか知らないけど、お互い公務員とみなし公務員だし、家族ぐるみの付き合いをしているし、出身高校が同じ公立だし、ヘンサチにしてみれば彼の方が頼みやすいはずだ。あるいは、反政府ゲリラに誘拐されたり、殺害される危険があるから、彼を避けたのかも知れない。おそらく、死ぬのは偏差値の低い民間人ならいいというのがヘンサチの料簡だ」
酩酊してきた土岐の頭蓋の中を様々な雑念がランダムウォークし始めた。
(やっぱり、I kill youのIはヘンサチだったのか?)
などという妄想が土岐の眼窩の裏あたりを徘徊した。
「これで空港近代プロジェクトの独占契約はまちがいないじゃないですかァ。交換公文にもられることはもうきまってるんだしィ。濡れ手にアワですねェ。ヒッヒッヒッヒッヒッ」
とジャナイデスカは地酒を土岐のワイングラスいっぱいに注ぎこんだ。溢れる寸前でアラックの小瓶をよろよろと引っ込めた。
瓶の口から濃い紫の滴が垂れた。
「まあ、商社はうちの事務所だけだから。この国の経済規模ならば、商社は一社が適正規模というところでしょう」
と長谷川はジャナイデスカが暗に言おうとしている大使館との癒着を誤魔化そうとしている。
ジャナイデスカは上の空で聞き流している。通じなかった。
「そうかも知れないですがァ邦人たったふたりでェ総額数十億ドルの巨大プロジェクトじゃないですかァ」
とジャナイデスカは一人あたりの口銭の巨額さを強調する。
「でも、ここまでこぎつけるのに前任者から六年もかかって。人間関係の維持にかなりの接待交際費を注ぎ込んだし、契約が取れたら取れたで、両国の官僚や政治家に多額のリベートを払わなければならないし。もちろん、大使館にも」
と長谷川は補足説明した。
ジャナイデスカも周知のことだろうと土岐は思った。
「あなたが契約をとるとォ、ボクの銀行もいそがしくなるけどォ、報酬は関係ないからァ。まあァ、仕事ができればァ、それがボクの実績にはなるけどォ。いまヒマだからいいかァ」
と言うジャナイデスカの真意を斟酌しかねた。
仕事をしたいのか、したくないのか、それともどうでもいいのか、土岐にはよくわからない。
地酒もロブスターもクラブもなくなっていた。
最後に、ここでの飲食が接待交際費の対象範囲に含まれていることを長谷川が遠まわしに言ったことが気に障ったのか、ジャナイデスカは拗ねたように、
「今夜の支払いはァ、ダッチトリートにしますゥ」
と言い張ってきかなかった。
誰の腹も痛めることなく事務所経費で落とせることはジャナイデスカも熟知しているはずだ。
「どうしても、と言うのなら、チップだけお願いするよ」
と長谷川が言ってもジャナイデスカは駄々っ子のように聞き入れなかった。長谷川は小声で土岐に囁いた。
「これが所長にばれると叱責の対象になる。ばれることはないとは思うが。着任以来、接待については所長は口やかましいんだ。『顧客や官僚とは不即不離、ズブズブの接待漬けにしろ』とか、『事務は当然の業務。万難排すべき最重要の仕事は接待だ』とか言うのが、当地赴任以来の所長の間断のない業務命令だ。『奴等に支払いをさせる隙を絶対見せちゃぁいけねぇ』とか、『奴等に一度でも支払わせたら貸し借りなしってぇ意識を持たせることになる。それまでの接待交際費が全て水泡に帰すんだ』とか言うのが耳に胼胝の出来る程聴いた所長の口癖だ。『支払いは御前達イコール民間業者ってぇことをルーチン化させれば、後は黙っていても口利きもルーチン化される』とか言う所長が口を酸っぱくさせて説いたこういう訓戒もある。『官僚達とは、はらわたを洗い浚い抉りだして、差しつ差されつ、ヌルヌルグチャグチャの抜差しならねぇ関係になれ』という日頃からの厳命のようなものもある」
と言いながらグラスのアラックを飲み干して、
「彼は開発銀行の生え抜きで、官庁からの出向じゃない。だからヘンサチとはちがって、官僚じゃない。しかし開発銀行は公的金融機関だから、彼の身分は公務員に準ずるんだ。だから彼もヌルヌルグチャグチャの接待の対象だ。こんな地の果てじゃ検察や会計検査院の眼も届かない。目を届かせたとしても検察や会計検査院にとっちゃ塵ほどの手柄にもならない。労多くして功殆ど、全くなしという国柄だ。事務所開設以来、一度も摘発の対象となったことがない。まさにこの国は贈収賄天国で接待桃源郷だ」
結局、割勘で支払を済ませて外に出た。領収書は長谷川が貰った。
ジャナイデスカはそのことを覚えていないと思わせるほど酔っぱらっていた。出口のステップを踏み外してよろめいた。
土岐が脇を支えた隙にジャナイデスカのポロシャツの胸ポケットに長谷川が高額紙幣を忍び込ませた。長谷川が土岐に囁いた。
「これで事務所が出したことになる。これはお車代を渡すときの手口だ。彼がどういう現金管理をしているか知らないが、帰宅した彼を介抱する優子夫人は財布の金とポケットの金を合計すれば、家を出たときの持ち金とあまり変わっていないことを確認するだろう」
駐車場の淡い街路灯の周りに海風が波のように戦いでいた。付きまとう潮騒の香りが稠密になった。八時をとっくに過ぎていた。先刻の肉付きのいい緑の少女はどこにも見当たらなかった。
「そういえばァ、このお店から帰るのはァ、いつも7時すぎだったかなァ。今夜はいつもよりもずいぶんと遅いんだァ」
とジャナイデスカは足をふらつかせている。どっかと自動車に乗り込んだ。
「奥さんがいれば運転してもらえたのに。どうして来なかったの?」
と長谷川が再び聞いてしまった。
「『イヤ』だってェ。理由はいわないんで。でも、おくっていきますよォ。エンリョしないでェいいですヨ」
というジャナイデスカの誘いを土岐は鄭重に固辞した。
しかし、酔ったせいか、
「そんなこといわないでェ。所長代理さん、ねェッ」
とジャナイデスカは執拗に誘う。
その理由は渋々乗り込んでからわかった。
「マッサージにいこうじゃないですかァ」
と運転席で諸手を上げる。足をばたつかせて言う。
「すこしィ、よいをさましたいしィ、ここからならァ、5分でいけるしィ。いいじゃないですかァ。帰ったってどうせ一人でしょ。どうせェ、せっせとマスかくだけでしょ」
と焦点の合わない眼をヘッドライトに浮かび上がる白い路面にこらしている。
オートマチック車がすでに動き始めた。
もう行くつもりだ。土岐は応諾の返事はしなかった。
土岐は明日のヒジノローマ往きのこともあり、なんとなく気が進まなかった。
しかし、助手席に座った長谷川は、
「これは暗黙の接待の要求だ。知っていながら彼を一人で行かせるわけにはいかない。所長の分厚い唇を借りれば『接待の要求は貸しを作る為の千載一遇のチャンスだ』ということになる。こちらから持ちかける接待とは意味がまったく違う。向こうから餌に食いついてきたことを意味する。所長は着任当初、おいしい餌についての情報をばら撒き要求させるように仕むけ、こうした接待をかなりエンジョイし一晩にいくつか掛け持ちしたことを公然と自慢していた」と土岐に語りかけた。
土岐は不安になった。
「どこにいくんだ?」
「まあ、つきあってくれ。アミューズメント・センターだ」
と言ったなり、長谷川は詳しいことは説明しない。
土岐はゲームセンターのようなものを想像した。
ハンドルに抱きつくような運転だった。隣の長谷川が片手をハンドルに添えている。ジャナイデスカの首がゆるやかに左右に揺れていた。時々おくびを吐く。しゃっくりをする。意味のない薄ら笑いをへらへら浮かべる。断続的にアクセルを踏んでいた。フットブレーキと急加速が繰り返された。しらふであればとても助手席に座っていられないような運転だった。
自動車は国道を少し南下する。高級住宅街のはずれの海沿いの土手につんのめった。頭から突っ込むようにして停車した。バンパーが多少傷んだような気がした。
「しめ、しめ。まだ、だ~れも客はきていないじゃないですかァ。ラッピ~、ラッピ~、ラッピッピ~のラリルレロ~」
とジャナイデスカは朗らかにほくそえむ。
ジャナイデスカに従う。白けた重い気分を引摺りながら土岐は車を出た。
国道を隔てて反対側に赤茶けた煉瓦造りの二階建てのビルがあった。両隣はかなり大きな屋敷の庭になっている。低い垣根があった。辺りの家屋から漏れてくる電光はなかった。忘れ去られたようにその建物の二階にだけ鄙びた照明が亡霊のように浮かんでいた。
〈アミューズメント・センター〉
と筆記体で書かれた看板をかろうじて見て取ることができた。
一階は間口五ヤードほどの自動車とオートバイの修理工場で、
〈Auto〉
と書かれた文字の下に工具の絵のある錆びだらけのシャッターが降ろされていた。右隅に二階に昇る階段の入口があった。木製のドアは内側に半分開け放たれたまま。異次元への入り口のような印象。
「♪ル~ンル~ンラ~ンラ~ンルゥ~ルゥ~ラァ~ラァ~♪」
と先にジャナイデスカが鼻唄混じりで昇って行った。
裸電球が入口と階段を昇りきったところに点いていた。狭いブロックの階段の縁が何箇所も欠けていた。足元が暗い。つまづきそうになった。
ジャナイデスカは手摺につかまる。そっくり返った。二三度千鳥足を滑らせた。
階段を昇りきる。細い廊下の右側のドアが少し開いた。髪の毛の擦り切れて縮れ上がった男が顔をだした。
「ハーイ!グッイブニング!」
とジャナイデスカは陽気に屈託のない甲高い声をかけた。
「イェッサァ」
と追従笑いを隠さない男は分厚い唇でそれに応じた。
男が丸い濁った眼で三人を眺め回している。部屋を出ようとした。ドアの隙間から二三才の男の子が衣服の乱れたまま一緒に出ようとして顔をだした。
「へえ~っ、どっちの子かなァ~?ぼくチン」
とジャナイデスカはわざと驚いたような声をだした。
男は子供の額に手を置く。その部屋に押し戻す。左側の部屋のドアを押し開ける。三人を招じ入れた。
安ホテルのシングルベットルームほどの部屋に談笑する女が三人いた。とってつけたような歪んだ窓の際の椅子に腰掛けている。紙巻煙草をふかしている。低い嬌声をあげていた。
陰々滅々たる部屋の照明は小さな丸テーブルの上に茶褐色の笠のスタンドがあるだけ。紫煙も女たちの表情もよく見えなかった。
ジャナイデスカは男と交渉を始めた。
男は浅黒い木彫りの仮面を被っているようだ。終始無愛想だった。ジャナイデスカの英語が聞き取りづらいのか、最後まで怪訝そうに顔を顰めていた。言い終えて、
「オ~ケ~?マスタ~」
とジャナイデスカが握手を求める。
男はその手を放置して、
「オゥケィ」
と座っている女たちに右手の指を三本立てて合図した。
「ボクはおブスのォ、年増チャンのほうにしますからァ」
とジャナイデスカは右側の小太りで白いショートパンツの女にウインクした。人差し指を卑猥に曲げて招き寄せた。
「おブスの年増チャンは、テクニックがあるんですヨォ」
とふたりで睦まじげに左奥の部屋に消えた。
男は残りの二人の青いショートパンツの女の前にやにわに立ち塞がった。
「ペィ・ファースト!」
と長谷川に右手を差しだした。
長谷川は言われるままの金額を財布から抜き取って渡した。国立銀行で引きだしたばかりの紙幣の半分ほどが消えた。男に財布の中を覗き込まれているのが少し気になっている。
二人の女が床を軋ませながら廊下に出た。
土岐は長谷川のあとに続いた。
女は廊下の奥の右側の部屋のドアノブに手を掛ける。振り向いた。後ろの女が手招きする。
部屋の中は廊下よりも薄暗い。天井の裸電球が赤いセロファンで遮光されていた。部屋の中央に手術台のような狭くて短いマッサージ台が二台並んでいる。その真ん中に遮光カーテン。半分ほど引かれていた。歪んだ硝子張りのシャワールームは右奥。ドアの脇にスプリングの傷んだ茶のソファー。傍らの小さなサイドテーブルの上に黄ばんだバスタオル。使い古したボディオイルの瓶。床はコンクリートの打ちっ放しだ。
土岐はポケットの財布をズボンの上から確かめた。部屋の壁を見回した。何も掛かっていない。窓もない。天井と同じ白いペンキが塗られている。地の煉瓦の凹凸が不揃いな淡い陰影になっていた。
長谷川がポロシャツを脱ぎながら言う。
「このアミューズメント・センターの存在は前任者から事務的に聞いていた。二年前の職務引継ぎのときのことだ。『余分なチップを女に払わないように。それが相場になって邦人社会が甚大な迷惑を被るから。また、くれぐれも個人的な感情に溺れないように。彼女らは邦人社会の希少な共有物だから、独占することはタブー。病気にも要注意』というような忠告を万事開けっ広げな前任者から口頭で受けた。『叔母さんと姉妹でやっていて、姉は三十ぐらい、妹は二十五ぐらい。テクニックは姉のほうがある。面食いなら妹のほうだが。両方試してみたけれどどっちもどっちかな。好き好きだ』と言っていた」
とトランクス一枚になって、
「女好きではあるが女を買うことに抵抗があったんでこの二年間一度も来たことがなかった。四年前、アフリカに社用で行ったとき、トランジットで一泊した国があった。その夜、現地事務所の先輩の案内で女を買いに行ったことはあった。水族館の水槽の中のコロシアムの客席のようなところに五十人ぐらいの女たちが三段になって腰を下ろし、番号札を胸につけて落ち着かない様子であたりをきょろきょろ見回しながら座ってた。邦人的な風貌の女を選んだが、抱く気にはなれなかった。支払ったカネと性行為とが等価交換されることに違和感があったからだ。今夜のふたりが前任者が話してた姉妹かどうかはわからない」
土岐は改めて二人の女を見比べた。年齢差があるようには見えた。二人とも暗がりの中で見る角度によって二十五ぐらいにも見えた。三十ぐらいにも見えた。終始つまらなそうに顔を伏せている。目線を合わせることはなかった。
「おれは、こっちの女でいいかな」
と長谷川が若く見える方の女を指で手招きした。
土岐は黙っていた。その女が部屋の中央の遮光カーテンを隅まで引いた。
年上に見える女が、カーテンの内側に入って来た。無表情に、
「シャワーを浴びて」
と土岐に促した。
土岐は綿パンと開襟シャツをソファーの上に脱ぎ捨てた。出掛けにシャワーを浴びてきたが、体全体が薄い汗のべとつく膜ですでに覆われていた。頭髪は避け、顔から下にシャワーを浴びた。さっと流して出ようとした。女が近寄ってきた。背中に黒板消しのような石鹸を押し当てる。こすりつけてきた。
「夕方、浴びてきたばかりだ」
と濡れた背中をくねらせる。土岐は至極迷惑そうに言った。
「背中は洗っていない。べとべと」
と女が軽く背中を叩く。
肩甲骨から下に石鹸がしたたかに塗りつけられた。狭いシャワールームの中で百八十度回転して備え付けの柄のついたブラシで背中を洗い流した。
酔いが回ってきたせいか、赤い光のせいか、土岐には女の肌が白っぽく見えた。Tシャツから出た二の腕やショートパンツから伸びた足は木目細かい。水滴を弾くほど艶やかな皮膚に覆われていた。
アウラットのせいで、この国ではテレビでも雑誌でも街なかでもおんなの剥きだしの腕や足を見ることはない。見るだけで刺激的だ。
シャワールームから出る。女はマッサージ台の上に洗いざらしの毛羽立ったバスタオルを二枚敷いた。黄ばんで裾が擦り切れている。繊維がほつれている。
「うつ伏せに寝て」
と指図する。
マッサージ台から顎をだす。うつ伏せになる。両腕と爪先は台の外に出た。
背中に生温いオイルが撒かれた。女はそれを首筋に伸ばす。腰に押し広げる。両脇をさする。両手のひらは首筋から両肩へ、両肩から背中へ、背中から両脇へ、両脇から腰へ、撫でつけるように移動して行く。
時々、くすぐったさを感じた。背筋にわだかまっている筋肉の張りの上を、揉みほぐすことなく、手のひらが上から下へ、下から上へ、力なく儀礼的に通過して行く。オイルが背中全面にすり込まれる。親指の腹が背筋の両脇を緩く圧す。ゆっくりと上と下へローリングする。血流が背中いっぱいに波打ってくる。
意識の遠くでいびきが響いた。一瞬、眠ったようだ。マッサージは腰から下に移っていた。大腿筋の凝りが解きほぐされた。皮膚を撫でるような力ない指圧が足首まで下りて行った。
女が、
「仰むけになって」
と土岐の右肩を軽く突っついた。
寝返りを打とうとする。マッサージ台から落ちそうになった。右から左へ小刻みに寝返りを打つ。落下しないように少しずつ体をずらした。仰むけになる。バスタオルの皺が背中を指圧した。所在のない両腕を腹の上で組む。組んだ指を無理やり解かれた。両腕は台の外に垂らす。
女の冷ややかで硬い下腹部が左肩に触れた。胸の中央にオイルが垂れ流された。女の上半身が間近にあった。赤い電球が女の頭の後ろに隠れていた。表情はよく見えない。胸のオイルのひと溜まりが鎖骨から両肩へ押し広げられる。女のTシャツの中の乳房が硬く重そうに揺れた。右肩をさすろうと屈み込む。口許から吐息が漏れる。鼻先をかすめた。煙草とチキンの丸焼きに使う香辛料の混ざった強烈な臭い。硬く大きめの乳首が胸に流れたオイルの跡をなぞる。マッサージは下腹部に移行する。手のひらにオイルをつけ直す。陰毛を避ける。鼠蹊部から膝頭へ一気に下る。脛に二三度オイルを擦り込んで終わった。裸のまま放置された。
「終わり」
と女は気だるそうに告げる。崩折れるようにソファーに腰掛けた。煙草を咥える。マッチですばやく火をつけた。
硫黄の臭いが鼻をかすめる。深い溜息とともに紫煙が吐かれる。裸電球の薄赤い光の界隈を漂った。
裸のまま女の容子を見るともなしに漫然と眺めていた。
「吸う?」
と女は疲れ切ったように煙草の暗い火をこちらにむけた。
「いらない」
と土岐は上半身だけ起き上がる。マッサージ台の上に腰掛けた。
カーテンを隔てた隣のマッサージ台で、長谷川が吶々とした英語で何かを説諭している。
土岐が残り時間を訊く。女は小さな腕時計の文字盤を赤い光源にむけた。
「あと30分」
と答えた。裸のまま、腕を組んで部屋の中を見回している。桃色のマニキュアの指先から一筋の煙が揺らめく。糸を引くように女の頭の上に昇る。壁伝いにゆるやかに棚引いていた。ふと、さきほどの少年のあどけない顔が頭をよぎった。
「あの男の子は誰の子?」
とやるせなげな所作しか見せない女に訊こうとした。
「長谷川の相手をしているもうひとりの女と姉妹なのか」
とも訊こうとした。やめた。
(どうでもいいことだ)
しばらく腕を組んだまま床を見つめていた。
口笛を吹くような隣の女の吐息がカーテン越しに時折聞こえてきた。沈黙が五分ぐらいあった。
薄暗い部屋の中を漫然と幾度も見回した。
女が煙草を白い陶器の灰皿で揉み消した。小さな丸テーブルの足がカタカタと音を立てた。女がこちらを見た。はからずも明日ヒジノローマに行くことが口から出た。女の眼に赤い小さな光が燈った。面長で深い二重瞼をしていた。濃い眉と長い睫が烏羽色に濡れている。
「ヒジノローマに行ったことがある?」
と訊く。女は即答しない。間を置いて物憂げに答えた。
「一度だけ」
と首を傾ける。どういう趣旨の質問かと訊きたげだ。
土岐はシーフード・レストランで、ジャナイデスカの身代わりとしてヒジノローマに行かされるという話を長谷川がしていたのが気になっていた。
「武装した反政府ゲリラはよく出るの?」
と訊く。
「そういう話を聞いたことがある」
と女は頬に掛かった髪を掻き揚げる。ほの暗い天井に目を泳がせる。
「最近また死者が出たらしい」
と女はリエゾンのない聞き取りやすい英語で話しだした。
「彼らは焦っている。人種的に、宗教的に差別されていると思い込んでいる。人種差別はある場合もあるし、ない場合もある。あると言えばあるし、ないと言えばない。宗教差別はある。神様が違うんだから、どうしようもないでしょう」
「こんな東洋人に危険はない?」
と聞く。女は品定めをするように土岐の眼をじっと見つめた。
「昼間なら、たぶん、だいじょうぶ」
と猫のような愛嬌のない素振りでつまならそうに目をしばたたく。
「白人じゃないから、注意しないと、でも注意しても、暗がりや遠くからだと外国人には見えないかも知れない」
ととってつけたような、木で鼻を括ったような忠告をする。
「じゃひょっとしたら今夜が人生最後の日になるかも知れない」
と土岐は女の表情の動きを追った。
女は眼を伏せる。煙たそうに小さなテーブルの上の灰皿でフィルターだけになった吸殻を揉み消す。また煙草を取りだす。マッチで火を点けた。硫黄と木の焦げた臭いが鼻を突いた。女は煙そうに眉根を寄せた。
酔いも眠気もすっかり醒めていた。女の喫煙が終わるまで、訊かれもしないのに国籍や職業や前任者から聞いたことなどを勝手にだらだらと話し続けた。話し終えたところで、
「もし、あなたがよければ、やりたい」
と土岐は女の顔を注視し続けた。
女は白い灰皿で吸い差しの煙草を激しく揉み消した。煙草が折れた。火が完全に消えないまま煙が立ち昇り続けた。女は両手のひらで頬を挟みこむ。両肘を小さなテーブルの上に置き考え込んでいる。
「あなたが、いやならいい」
と土岐は言い足す。女は一度立ち上がりかける。再びソファーに腰を沈めた。腕を組む。顔を伏せる。暗いコンクリートの床に眼を落とした。
女の返事を待つ間、マッサージ台を離れた。ズボンのポケットから腕時計を取りだした。赤い電球でアナログの針を読む。あと二十分ぐらいしかない。
女は膝頭を合わせている。微動もしないで座っていた。
土岐は再びマッサージ台の上で仰むけになった。天井を見上げる。赤いセロファンの隙間から裸電球の卑猥な光が漏れている。天井の一点だけが雲間の月のように明るくなっていた。部屋の隅に澱む暗い闇と赤いセロファンを透過する電球の光がみだりがましく入り混じっていた。
女は意を決したように潤んだような眼を大きく見開いた。
「オゥケィ」
と眉を吊り上げる。溜息を吐く。立ち上がった。
「恥ずかしいから」
とカーテンの部屋のこちら側の電気を消した。
闇しか見えなくなった。しばらくするとカーテンの端の隙間から部屋の隣側の明かりが漏れているのがわかった。カーテンの近くの天井と床がぼんやりと闇の中に死霊のように浮かんでいた。眼を凝らして女を見ようとした。何も見えない。目の奥が痛くなる。女の皮膚と繊維が擦れ合う衣擦れがかすかに聞こえた。闇の中を丸みを帯びた黒っぽい柔らかな塊がうごめいている。小さなスイッチの音がした。サイドテーブルの蝋燭の形をした赤い豆電球に灯りがついた。女の裸の輪郭がおぼろげに浮かび上がった。柔らかな重みが上半身に重ね合わされた。護謨鞠のような弾力性のある体重がすべてのし掛かかってきた。
土岐は息苦しくなった。体をずらそうにもマッサージ台から落ちる。身動きができない。一瞬デジャービュが捉えた。次の瞬間、学生時代のカーセックスの思い出に想到していた。女の感触を過去に関係のあった女達と比べていた。弾力性のある肌の感触は最初に知った女子学生に近かった。手足が長くすらりとした体型は二人目の女に似ていた。
木目細やかな肌が静電気を帯びている。吸い付いてきた。女の手が陰茎をまさぐる。鷲掴みに握り締める。しごいてから添えるように下半身にくわえこんだ。滑らかで冷ややかな皮膚がゆるやかに蠕動し始めた。両肩をつかんでいた女の指先に力が込められた。女の爪が肩の皮膚に浅く食い込んだ。
マッサージ台が小刻みな振動音をだした。次第に女の息遣いが激しくなった。女のしなやかな髪が半開きにしていた口の中で舌に触れた。
土岐はシャンプーの味のする髪を舌の先で少量の唾液とともに押しだした。軽く吐きだした。それから、
「口付けしてもいい?」
と遠慮がちに訊いた。目が闇に慣れたきた。女の表情がはっきり読み取れる。
女は眠たげな顔で首だけ起こした。
「なぜそんなことを訊くの?」
と反問する。
「したければ勝手にしろ」
という意味なのか、
「この業界では禁忌だということを知らないのか」
という意味なのか、理解できなかった。躊躇していると、女の腰の動きがぴたりと止まった。黒い瞳が間近で急に大きくなった。
女は下半身をずらす。逡巡することなくマッサージ台から降りた。そのままシャワーを浴びた。シャワーの鎌首を持つ。下半身だけを丁寧に洗う。シャワールームを出る。バスタオルで雫をぬぐう。後ろ向きに下着をつけた。Tシャツを首に通す。カーテンのこちら側の部屋の明かりをつけた。
赤い照明が目に突き刺さる。ひどく明るく見えた。
女は咎めるような目つきをした。
「早くシャワーを浴びて」
と路地裏の泥濘にまみれた子供をせかせるように言う。
「時間がないからいい。ホテルに戻ってから浴びる」
と面倒くさげに答える。女は甚だしく驚いたように、
「洗わなくていいの?」
と真顔で詰問してきた。
それにはあえて答えない。無言のまま、射精後の虚しくも忸怩たる心持でそそくさと服を身に着けた。
「早くしないと超過料金を請求される」
とせかす女にチップを渡した。
女はそれを手にしたまま暫く見つめていた。
土岐は薄くなった財布を畳む。ポケットに突っ込んだ。部屋を出て行こうとする。女はやっと礼を言ってきた。
規定の時間内に終了した。部屋のカーテンの向こうに長谷川の気配はなかった。階段を一段置きに駆け下りる。海側の土手にゆっくりと走って行った。
長谷川が社外で煙草を吸っていた。
ジャナイデスカは腕を組んで車の中で眠りこけていた。
煙草の火が窓ガラスの縁で暗闇の中を赤く揺れていた。長谷川がドアを開けて助手席に着く。メンソールの匂いが鼻腔をかすめた。
長谷川はジャナイデスカの骨張った肩を揺すった。
「大丈夫?運転できる?」
ジャナイデスカはおおいかぶさっていたハンドルの上で首を左右させる。顎でクラクションを鳴らした。眼が首都の終着駅裏のひなびた魚市場の川魚のように死んでいた。
「ブアイソなおんなでしょォ?どうでしたァ~」
と断定するような口調で感想を求めてきた。言い終えたときよだれがジャナイデスカの口の右隅から糸を引くように垂れ落ちた。ハンドルをかすめて、フロアに延びて落ちて行った。
土岐は疲れていた。
長谷川も、疲労困憊した口調で、
「まあね。無愛想といえば、無愛想だ」
と適当に答える。
「それじゃ、運転できないでしょう。代わりましょうか」
と後部座席から土岐が声をかけた。一旦外に出てから運転席のドアを開ける。ジャナイデスカは眉と眼と鼻と唇をだらしなく歪める。ニタニタと笑った。
「ほんじゃすいません。無免許運転でお願いしますゥ」
「いえ、国際運転免許証は持参しています」
と土岐が答える。
ジャナイデスカは土足でシートの上を後部座席に移った。
助手席の長谷川は迷惑そうな顔で、
「おれが運転するよ。無免許だけどな」
とジャナイデスカと席を交替した。
土岐は助手席に回り込んだ。
「おまえ道知らないだろ。この国の道路にはセンターラインがないから、対向車があると危なくってしょうがない」
と長谷川が言う。
ジャナイデスカは後部座席に倒れ込む。窓硝子に頬を押し付けてそのままの姿勢でしゃっくりとげっぷを繰り返した。
「ゲップリー・シャックリー、てね。そんな俳優いなかったっけ」
長谷川がセルモーターを動かし始める。ジャナイデスカは、
「インターネットのワイセツ画像のみすぎかなァ。それともやりすぎかなァ。おんなのインブをみてもさっぱりコーフンしないんですよォ。こういうケイケンってありますかァ」
と落胆したような溜息をつく。
車が動き出す。
ジャナイデスカは、
「どうもノーカスイタイのピントがあわないんです。おんなの陰唇がァ松の木の肌かァ、ひびわれた岩肌のようにみえるんです。それは、ただそこにィあるだけのもの。なんの意味もない、無機質なァ、たんなる物質。まゆげのしたに眼があるというようなァ、必然性。またぐらに陰唇があるのは、トーゼンという感覚。意外性もォ、おどろきもォ、感激もォ、な~んもない。娼婦だからそう感じるのかァ。わからない。ダップン、ホウニョウ、ホウヒ、オウト、ラクルイ、ミミアカ、ハナクソ、メヤニ。ハイセツはどれもカイカンだけどォ、シャセイのたのしみがなくなったらァ、なにをイキガイにすればいいのかァ?あきちゃったんですかねェ。まだ30をすぎたばかりないのに。シンコクです」
と気落ちしたように呟く。窓外の闇夜が更に深くなった。
「こんやはァ、いちもつを洗わないことにしました。エイズにはならないとおもうけどォ、カンジダていどにはなるかも。症状がでるかも知れないという不安をたのしみにする。症状から解放されるカイカンをあじわえる。ジギャク的かなァ」
と国道からジャナイデスカの住む高級住宅街への道に長谷川はハンドルを切った。
ジャナイデスカの沈み込んだ声は別人を思わせた。
そのトーンは永続しなかった。
「ほかにィ、悩みはな~んもないんすよォ。悩みがないのが悩みで。悩みがないとカイカンもコウコツも、ピリカラの香辛料のない料理みたいでェ。マッチポンプじゃないけど、しかたなく自分で火ィつけて自分で消してみる。お酒をおいしく飲むためにお塩をなめる。テキ~ラ!ウッ!」
とぶつぶつ言う。最後に自ら合いの手を入れるように叫んだ。そのうち即興で調子はずれなメロディーを適当につけて歌いだした。
「♪なやみのないのがァなァやァみィだァなやみのないのがァなァやァみィだァ~♪」
土岐の酔いはすっかり醒めていた。
暗闇の中のヘッドライトの輪の中に白っぽい邸宅が浮かび上がってきた。
ジャナイデスカはポケットからガレージのリモコンをだす。後部座席から小さなボタンを押しながら前方に突き出した。
ガレージのシャッターがゆっくりと巻き上がり始めた。それと同時に、ガレージの左脇の門灯が闇の液体に漂う水中花のようにボウーっと点灯した。ガレージに車を納め始めた。背後に玄関の照明を浴びたふくよかな影が心配そうに出てきた。優子だ。
ガレージに車を納める。エンジンを切って助手席を見る。ジャナイデスカはわざとらしく寝込んでいた。
「着きましたよ。お宅ですよ」
と土岐が声を掛けた。軽いいびきをたてている。わざとらしく聞こえる。本当に寝ているのかも知れない。少し、肩を叩いてみた。起きない。仕方なく、助手席から降りる。後部座席に回りこむ。ドアを開けた。
ドアにもたれ掛かっていたジャナイデスカは、開けると同時に車の外に倒れ込んだ。頭から地面に落ちそうになった。あわてて彼の上半身を支えた。ほとんど意識がない。濡れたマットレスのような、ぐにゃぐにゃの体を、後部座席から引きずりだした。立たせようとした。正体を失っていた。そこに、優子が現れた。
「すみません。またですか?お酒を呑むとだらしなくって」
と運転席から出てきた長谷川に詫びる。
優子は土岐からジャナイデスカの体を受け取ろうとした。だしてきた両手に力がまったく入っていなかった。
仕方なく土岐は、長谷川の助けを待つ。ジャナイデスカの重心の定まらない体を背負う。ガレージから出た。優子は脇から亭主を支えるようについてきた。不潔な汚物にいやいや軽く触れているだけのように見えた。
家の中にジャナイデスカを引き摺り込む。
長谷川が彼女に指示を求めた。
「寝室に連れて行きますか?」
「ええ、お願いします」
土岐は長谷川と一緒にジャナイデスカの脇を片方ずつかかえた。次第にジャナイデスカの濡れ布団のような体が重く苦しく感じられてきた。平屋建てで寝室が一階にあるのが幸いだ。
入って右がリビング、その奥が寝室だった。
寝室に入る。ジャナイデスカをダブルベッドの上に仰むけに転がした。少しスプリングで弾む。ジャナイデスカの体はベッドの中に沈んだ。同時に天井の円形の照明が半分点灯された。
優子は即座にジャナイデスカのズボンのベルトを緩める。ポロシャツの胸のボタンをはずした。そこで気づいたように、
「すいません、リビングで少し待っててもらえますか?」
と土岐と長谷川に哀願するように囁いた。
「いやあ、もう帰ります。遅いですから」
と長谷川が固辞する。
「だって、足がないでしょ」
と言われて土岐は長谷川と共にリビングに移動する。
長谷川が言う。
「そう言われてみればそうだ。国道まで出れば、タクシーはあるかも知れないが、夜遊びして深夜にタクシーを利用する文化がこの国にはないんで、タクシーを拾える可能性は極めて低い。言われるとおり、待つことにしよう」
リビングのイタリア製のクリーム色のソファーに並んで腰掛けた。見慣れない部屋の中を眺める。不意にけたたましいいびきが聞こえてきた。
三十二インチの液晶カラーテレビの上のカッセトテープとDVDを指差して、長谷川が言う。
「あの本数が前回訪問したときよりも増えてるようだ」
寝室とリビングの間のドアが優子の後ろ手で閉じられる。
いびきの響きは遠くなった。
「すいません。お送りします」
そう促されて優子と再びガレージにむかう。長谷川は助手席に、土岐は後部座席に乗り込んだ。
それから急ブレーキと急ハンドルの運転が始まった。
「わたし、ずっと、ペーパードライバーだったんです。運転するのはこの国に来て初めて。だから、運転するのが怖くて」
「代わりましょうか?」
と長谷川が気味の悪いほど優しく言う。
「いえ大丈夫です。慣れないといけないでしょ。毎朝主人と事務所までドライブするんですけど主人は私の運転では絶対に同乗しないんですよ。君の運転は怖くて危ないって言うんですよ。そのくせ銀行に朝行くときは助手席にわたしを乗せて夕方はわたしに車で迎えに来させるんですよ。わたしひとりなら事故に遭ってもいいということなんでしょうか?」
「そんなことはないでしょう」
と同情を求める優子に迎合する。窓外に目を泳がせながらなだめるように長谷川はつぶやいた。
街路灯がない。どこを走っているのか皆目見当がつかない。車線も引かれていない。カーブを曲がった後、突然対向車のヘッドライトと正対することがある。住宅街は歩道もない。垣根や塀もない。どこまでが車道か見極めがつかない。
優子は時々歩道に乗り上げる。曲がり角を間違える。覚束ない運転を繰り返した。
「車が走っていないのは、安心なんですけど、対向車がいないと、この先の道がどうなっているのか予測がつかなくて怖いんです」
それもそうだろうと土岐も思う。スピードをだして走ったら突然崖から転落することもありそうだ。
深夜の漆黒の闇の中をマニュアルだったらエンストしそうなスローな初心者運転が続いた。
優子はハンドルにしがみつく。前のめりになって前方を注視している。
ホテルの薄ぼんやりとした建物が見えてきた。車寄せに無事、車が滑り込んだ。フロントの照明は半分落とされている。急停止のブレーキ音が闇を切り裂いても誰も出てくる気配がない。
「お邪魔していいかしら。明日出張で忙しいことを知っていますが」
ジャナイデスカがヒジノローマ行きを言ったらしい。話題の少ない社会だから、そんなことでも会話の種になる。
一瞬、長谷川は返答を戸惑った。反射的に、
「ええ、どうぞ。でもカフェテリアは開いていないと思いますが。ヒジノローマに行くのはわたしではなくて土岐君なんですよ」
「そう。だったら長谷川さんの部屋でいいです」
長谷川は薄暗いフロントでベルを鳴らす。客室係を呼びだした。
「明朝の七時にミスター・トキにモーニングコール、八時にタクシーを呼んで」
と頼んだ。土岐は、ひどく喉の渇きを覚えていた。
「ローカルビールを部屋に持ってきてくれ」
と言いつけた。そう土岐が言ったあと、背後の優子に、長谷川は、「何飲みますか?」
ととってつけたように尋ねた。
「カンパリソーダをお願いします」
と優子は恥ずかしそうに答えた。そのときになって、やっと土岐は優子の服装をじっくり見た。Tシャツとバミューダパンツで、Tシャツにはどこかのビーチのイラストがプリントされていた。パイナップル色のバミューダパンツからは、白く柔らかそうな太腿が頼りなげにのぞいていた。それとは対蹠的に胸のイラストは居丈高に突き出ていた。小さな顔と小さな足に挟まれたふくよかな胸が、なんとなく人工的でアンバランスに見えた。土岐はカンパリソーダを待っている長谷川と優子をフロントに残して自室に入る。部屋の照明を全て点けた。と言っても、ドアの隣の壁際の小さな照明と、クローゼットの隣の背の高いスタンドとベッドの枕元の小さな照明しかない。椅子は二脚だけ。間に丸い小さなテーブルがあるだけだ。
隣の部屋に長谷川と優子が入ってくる気配がした。
「どうぞ」
と長谷川の声がする。
優子を椅子に座らせた。それからベッドのスプリングが激しく軋む音がする。
長谷川はベッドの上に倒れこむように座り込んだ。
土岐は急に酔いと疲れが出てきたように感じた。着替えもせずにそのままベッドに仰むけに倒れ込んで目を閉じた。
しばらくしてドアをノックする音がした。開けるとボーイが薄暗い廊下の背景に溶け込んでいる。ビールとカンパリソーダをトレイに乗せて立っていた。土岐は尻のポケットの財布から小銭をだした。ビールだけ受け取った。ドアを足で軽く蹴って締めた。
ボーイが隣の部屋をノックする。
長谷川がトレイを受け取った。テーブルの上に置いた。
優子が座っていた椅子を引く音がする。優子は立ち上がった。
土岐は部屋の電気を消した。隣室と繋がっているドアの鍵穴をのぞいた。鍵穴からは隣室のクローゼットしか見えない。
土岐は隣室との壁際に置かれている箪笥の上に上った。立ち上がると頭が天井に着く。天井から1フィートほどの幅のラーマヤーナの透かし彫りがある。そこから長谷川のベッドが俯瞰できた。
土岐の眼下で優子が感極まった面持ちで長谷川に抱きついている。ボーイが去るのを待っている。
そのまま、長谷川は優子の勢いに身を任せる。ベッドの上に抱き合ったまま倒れこんだ。
土岐は先刻のアミューズメント・センターでの感触を思い出した。
二人は少し斜めにずれた。優子の少し空気の抜けたゴムマリのような重そうな胸が二人の唇に距離をつくっている。
長谷川は胸部を圧迫されて、息苦しくなる。優子の脇を掬って横向きになった。
優子の鼻先が長谷川の唇に触れた。そのまま、優子は長谷川の喉もとで話し始めた。
「あんなに軽薄で馬鹿な人だとは想像もつかなかったわ。リビングのビデオ見ました?」
「ずいぶん増えているようだけど」
と言う長谷川の声は抑制が効いている。
隣室の土岐を意識している話し方だ。
「あれみんな彼が自分の母親に頼んで航空便で本国から取り寄せたんですよ。バラエティやどたばたのお笑いばかり。ドキュメンタリーや歴史ものやニュース解説なんか一本もないのよ。テープを見ながら一人で一晩中笑い転げているの。ばかみたい。一人ごと言ったり、テレビのタレントに話しかけたり、小学生みたい」
と笑いながら泣き、
「わたしの家系はみんな医者で、父も祖父も叔父もみんな開業医で、医学部出身なの。母方は普通の商家だけど、それでも母は一流の女子大を出ているの。家の中じゃわたしが一番勉強ができなくて、ずっと、頭の悪さに劣等感を持っていたの。彼と結婚したとき、大学も超一流ではないけれど、そこそこだったし、勤務先も政府系金融機関で、超エリートではないけれど、そこそこだったし、結局わたしは世間知らずだったのね。こんな馬鹿が世の中にいるなんて知らなかったの」
「彼はそれほどの馬鹿だとは思わないけど。普通でしょ。少なくとも偏差値は六十近い大学を出ているから平均よりはかなり上の学力があるはずでしょ。偏差値五十が平均だから」
「それがどうも怪しいの。彼の出た大学は入試が、マークシート方式で、しかも選択肢が四つしかないんで、確率的に偏差値五十以下の学生が毎年何人か合格するんですって」
「それほどとは思わないけど」
「それに彼の親戚から聞いた話だけど大学入試直前に予備校主催の特訓をホテルで缶詰になって受けて、そのときの問題がいくつか本番の試験で出て、それで合格したんですって」
「まさか、嘘でしょ。一流大学ならそういうリスクを冒しても十分ペイするけれど彼の大学は一流ではない。一流であろうとなかろうと刑法上は刑罰は同じだから、合わない話だ」
優子は長谷川が彼女の意見を全面的に受け入れないことに少し苛立ちを覚えている。馬乗りになる。そのまま上体を倒した。
「だから言ったでしょ。わたしが世間知らずだって。身内に彼みたいに低脳な人は一人もいなかったから、男の人はみんなわたしよりは頭がいいものだとばかり思い込んでいたの。わたしより頭の悪い人は彼が初めてなんで、どう接したらいいか、いまでもわからないの。あなたや一等書記官の加藤さんがわたしにとっては普通の人なの。尊敬できない人に、夜な夜な体を求められるのは、いやでいやでたまらないの」
「そうは言っても夫婦なんだから、適当に折り合いをつけるしか」と長谷川が言いかける。優子はその先を言わせたくない。唇を押し付けた。唇を合わせながら、優子は小刻みに嗚咽を漏らしている。優子の唾液が糸を引いて一瞬きらめく。やがて、優子の泪が、長谷川の頬の周りに滴り落ちてきた。
「どうしたらいい?もう妊娠しているし、いつも酔っ払っていたから彼みたいに頭の悪い子ができたら。貴方の子供だったらいいのに」
答えようのない語りかけが、沈黙を恐れているかのように止むことなく続く。
ジャナイデスカの子をはらんだという告白に長谷川が安堵している。首だけ起こして、
「ひょっとして、自分の子供ではないか?」
と長谷川が優子に聞こうとした。やめたように見えた。長谷川は、優子が夫の子供を妊娠していると言っている理由を確認して、
「ほんとは、あなたの子よ」
と告白されて、藪蛇にでもなったら抜き差しならない大事件になるとでも考えているのではないか。
優子はそうならないように、嘘をついているのかも知れない。それに、長谷川は学生時代、関係のあった女性に一度も妊娠させたことがなかった。卒業パーティーで会ったとき、
「確認したことはないが無精子症だと勝手に診断している」
と長谷川は漏らしたことがある。
土岐の回想に優子の呟きがオーバーラップする。
「それにとっても下品で下劣で。もう、わたし我慢できない。この間もホームセンターへバスルームで使う椅子を買いに行ったんだけど、彼ったら探しながら、『スケベ椅子はどこだろう』って言うのよ。人品の卑しさは偏差値と比例しているみたい」
と優子は声をだして泣きだした。
長谷川は隣室の土岐に聞こえるとまずいと思った。優子の唇を押し当てて黙らせた。
優子は鼻水で呼吸が苦しくなる。仕方なく泣き止んだ。
長谷川が優子をなだめるように言う。
「そう言えば、所長がこんなことを言ってたんだよね。『クライアントの夫人は重要だ。クライアントが落とせない時は夫人を落とせ。夫人を通じてクライアントの弱みを握れ。クライアントの子供も重要だ。夫人を落とし、子供をあやす。これも商社マンの仕事の内だ。君は加藤夫人にとっても、ジャナイデスカ夫人にとっても、丁度良い年頃だ。君は自分で気づいていないかも知れないが、女好きする性格なんだ。他に手頃な若い男は居ないんだから、頑張れよ』って。僕はどうも、所長の操り人形になってしまったようだ」
優子を抱きながら、所長のだみ声が長谷川の耳に絡む。薄汚い禿げ頭が網膜にちらついている。
長谷川の右手が優子の髪の毛を猫のようになでている。長谷川の瞳が不安気に揺れ動いている。さまざまな想念が回り灯篭のように回転している。
「もうそろそろ帰らないと。トイレで起きて、眼が覚めていると、大変でしょ?」
「そうね、あの人、異様に嫉妬深いから。あなたとミックスの試合に出場するとき、必ず偵察にくるって知ってた?」
「へぇー知らなかった。挨拶に来ないから、見に来ていないものだとばかり思ってた」
「ううん、これ加藤夫人に教えてもらったんだけど、いつも遠巻きに見にくるんですって。わたしがパートナーに対してどういう態度を取るのか観察しているみたい」
「そう。じゃ、なおさら早く帰らないと。君は彼に心から愛されているんだよ」
別れるときの優子は重たげだった。長谷川に身を任せ、完全に筋肉を弛緩させている。
長谷川がベッドから抱き上げて立たせようとする。浄瑠璃人形のようにしなだれかかってくる。体中の筋肉で抵抗する。体重が二倍もあるようで、長谷川が手を焼いている。
「映画や小説のような男女の恋愛関係はないような気がするんです。どんなに愛していた人でも、汚れた下着をみたら興醒めでしょ。食事中に旦那がティッシュペーパーを箸で取ったり、箸で皿を引き寄せるのがたまらないと言う奥さんもいるし、不平不満はいろいろでしょ。言いだしたらきりがない。自分はこだわるけれど、他人から見ればどうということのないこともある。ようは自分の感性を絶対化すると、周囲のことは不満だらけになる。生まれてくるお子さんのためにも、妥協しないと。多分、誰と結婚したって、それなりに気に入らないことはあるんじゃないかな。彼は陽気でいつも底抜けに明るい。あんなに快活な人はいない。あんなに明るい人は」
「あっ軽いのよ。わたし、マダム・ボバリーみたい。砒素を食事に少しずつ混ぜて、あの人を毒殺してしまうかも」
と言う優子の肩に手を回す。抱きかかえるようにして、長谷川はドアノブを回した。廊下は薄暗い。
「そういう物騒な話は聞かなかったことにします」
と優子を部屋から追い出す。
ドアを閉める音に合わせて、土岐は箪笥から降りた。
廊下を歩く長谷川の声がする。
「お子さんが生まれたら、きっといいことがありますよ」
「貴方はそんなことばかり言って、商社マンの鑑ね。おやすみなさい。また、携帯電話のほうにメールを入れます」
と言い残して優子が去って行く。
土岐はその後姿を追いかけて、
@I kill you@
のメールのことを聞いてみようかと思った。思いとどまった。優子を尾行する気力は多少残っていた。マッサージパーラーで欲情を処理しておいたのは今思えば幸いだった。そうでなければ、天井近くの透かし彫りから長谷川と優子の濡れ場を冷静にのぞき見できなかったかも知れない。
身代わり出張の遠謀(土曜日午前)
翌朝七時に眼が覚めた。同時にモーニングコールがあった。
土岐の寝起きはあまりよくない。側頭部が重く痛い。腹ばいになる。ベッドカバーにアミューズメント・センターで体中に塗りつけられたオイルのにおいがした。
メモを見る。ベッドの中から駅に電話した。
「ダイヤは予定通り」
と子音と母音を機械的に組み合わせただけの無機質な答が返ってきた。
ベッドから転がり落ちるようにして起きた。シャワーを浴びる。簡単に歯を磨いた。バスタオルを腰に巻く。脱ぎ捨てた下着をホテルが用意した小袋入りの粉石鹸で洗った。軽く絞る。ベランダの庇の下に干す。
使い古した黒いショルダーバックに一泊分の下着と髭剃りを詰め込んだ。それから一階のカフェテリアに降りて行った。
アメリカンブレックファストをオーダーする。最初にアメリカンコーヒー。暫くして、こんもりした白っぽい黄身のサニーサイドアップ、大きさも厚さも不揃いなガリガリのベーコン三枚、あばた模様に焼け焦げたトーストが二枚出てきた。
コーヒーを少しすする。ウエイターが注ぎ足しにくる。
スピーカーから半世紀前にリリースされた映画音楽が流されていた。
カフェテリアの木枠の窓から見える空は薄曇りだった。
そろそろ雨季が始まる。ガイドブックに書かれていた。
湿度が高くなっている。夜露が降りた。窓外の花壇の艶やかな緑の肉厚の葉に細やかな水滴がきらめいていた。トーストにバターを塗る。ベーコンを挟んで食べる。その葉の水滴が小さくなって行った。
コーヒーカップを片手に行雲の動きを眼で追った。
「カフィ?サァ」
と銀色のポット片手にウエイターがやって来た。
もう三杯も飲んでいる。
長谷川が腫れぼったい瞼をしてやってきた。
「やあ、おはよう。どう?よく眠れた?」
「ああ」
と土岐が答える。
ウエイターが長谷川の前のからのカップにコーヒーを注いだ。
「今日、列車で少し遠出するけど、水分は余り取らない方がいいよ。ここにも、公衆トイレはあるけど、溝だけがあって、個室も仕切りもない。大も小も蓋のない溝に沿って蕩々と流れてゆく。公衆便所にはできるだけ入らないほうがいい」
土岐はそれを聞いて、カラのカップにコーヒーを注ごうとしたウエイターに、
「ノーサンキュー」
と断った。
ウエイターはその場で踵を返した。そこに地元の客が裏口からひとりふらりと入ってきた。どのテーブルに着こうかと腰に手を当てて思案している。その客の後ろから巨漢のベルキャプテンがこちらを覗き込む。手招きをする。
「旦那、タクシーが来た」
と太い人差し指で合図する。
長谷川は小額紙幣でチップを渡す。三輪タクシーに乗り込んだ。
土岐も続いた。ターミナル駅にむかう前に事務所に寄った。
「メールのチェックをしないと」
と長谷川が言う。事務所に着く。運転手を待たせた。
「自宅にパソコンがないのは不便な話だが、電力事情が悪いんで仕方ない」
と長谷川がぼやく。机に着く。すぐパソコンを立ち上げる。メーラーを起動させた。
土岐はその傍らに椅子を置いて腰かけた。
「事務所宛のメールは所長に任せるから個人宛のメールだけ開けさせてくれ」
と長谷川が言う。
画面上に巣穴から続々と繰りだしてくるゴキブリのようにメールの件名がぞろぞろと這いだしてくる。80%の開封状況で二百通を越える。90%以上は迷惑メールだ。
「本社のサーバーはさすがにセキュリティがしっかりしている。本社経由の迷惑メールはほとんどない。迷惑メールの大半は地元クライアントとのメール交信を傍受された結果だ」
長谷川は水野佐知子からのメールをうっかり削除の惰性で削除トレイに移してしまった。削除済みアイテムのトレイに移動して読み始める。発信時間を見る。現地時間で午後十一時。傍らで土岐も画面を見ている。長谷川はまったく頓着しない。
@今夜は合コン。つまらない男ばかり。貴方と比べると薄っぺらでパーっぽい連中。一緒に行ったナビ子にはあなたとこの連中の違いがわからないみたい。商業高校をやっと卒業したようなナビ子には知性を実体的に感受することすらできないみたい。貴方のことを、とっても頭のいい人だと彼女に言ったことがあったけど彼女にはピンとこなかったみたい。なんとなく貴方のことが嫌いみたい。きっと彼女には理解できない論理や知らない用語や概念を口にするのが高慢に見えたのね。彼女は自分がどう見られているかということにはとても敏感で、その感性にはわたしもびっくり。人間の能力って不思議ね。彼女、高校時代、暗算のチャンピョンだったのよ。わたし何書いてるのかしら。ナビ子のことはどうでもいいの。昨日書かなかったけど実家の母が縁談を持ってきたの。わたしももうすぐ三十だし、お願いだから三十前には結婚してくれって懇願されたの。相手の写真と履歴書を添付するからあなたの感想を返信して。とても急ぐの。お願いね。絶対よ!いい、絶対よ@
ウイルスやスパイウエアの恐怖に慄く素振りを見せて、長谷川は添付されている写真を開く。画素が少ない。画質が悪い。色の浅黒い面長の精悍そうなイケメンだ。
「どう?」
と長谷川がちらりと振り返る。土岐に聞いて来る。
「履歴書をみると、佐知子より五歳ばかり年上だから、ヘンサチとほぼ同年齢だ。ただ、二流大学の出身だ。勤務している会社は非上場だが、一部上場企業にしては珍しい同族会社もどきの消費者金融会社の連結子会社だ。男の親族をみると、親会社の会長や社長一族とは無縁のようなんで、たぶん出世は見込めないだろう。年収も親会社ほどはないだろう」
と長谷川は解説しながら、
@出世ばかりが人生ではない。平凡で平穏な人生だって人生だ@
と打ち込んで返信しようとした。手が止まった。
「佐知子の真意がはかりかねるな」
と呟く。つづけて、
「自分にはこういう良縁があるのだということを誇示したいのか。こちらを焦らせて嫉妬させてプロポーズさせようという魂胆なのか。純粋に縁談に関する客観的な意見を求めているのか。しかし縁談の男と天秤にかけていることは間違いないと思うが、どう思う?」
と土岐に聞いて来る。
「どう思うって、君とその佐知子さんがどういう関係なのか、僕は知らない」
「昨日も言ったけど、ここに来るまでは同棲してた」
「結婚の約束めいたことを言ったのか」
「いや。言っていない。ナビ子のことばかり書いていて、縁談の記述があまりにも少ないんでなんとなく、おれの反応を確かめようとしている気がする。佐知子はそういう女だ。どうでもいいことについては、饒舌なくせに、肝心なことになると寡黙になる。おれは、そういう点をまだるっこしいと感じてた。そういう性格でなかったら、とっくに結婚して、ここに連れて来てたかも知れない」
「縁談についてのコメントは書かないで、彼女に判断の材料を与えたらどうだ」
と土岐は適当なコメントを言った。
「そうか。それでおれの思いは伝わるだろう」
と長谷川は長いメールを打ち始めた。
@誰と結婚しようと君の自由だ。自分のことは自分で判断する。これが君の『自由への道』だ。しかし、結婚すると結婚相手に拘束されることを忘れてはいけない。半同棲中に子供を作らなかったのには言いたくなかった理由がある。メールなら書けそうなので伝えよう。実は、母の弟は犯罪者で、猥褻事件を起こした後、十年前に刑期を終え、精神を病み、いま人里離れた精神病院に隔離されている。親類の間ではこの件は話題にすることがタブーで、話してはいけないことになっている。母は役所からの問い合わせに対しても、「そんな弟はいません」って堂々とシラをきっている。詳細はわからないが、母の叔父も窃盗か何かの犯罪者だ。母の姉の長男、つまり従兄弟はいかがわしいキャバクラを経営し、たびたび警察の手入れを受けている。母の妹の次男は、やくざの舎弟で、ゲーム賭博を開帳し、刑務所と娑婆を頻繁に出入りしている。離婚した父は、想像を絶する自己中で、酒乱だった。父の名前は口にするのも不愉快なので、母に父のことを言う時は、『アルチューデ・ランボー』とあだ名を使っている。父の兄は、酒乱の果てに祭りの日に神社で喧嘩し、撲殺されている。本家の長男は、家業がうまく行かず、癌に侵されていたということもあるが、首吊り自殺している。父方、母方、どちらの家系にも問題がある。尋常ではない。両親が離婚したのも、母方の犯罪者と父の酒乱による家庭内暴力が原因だ。父は祖父をつかまえて、泥酔した挙句に、出刃包丁を押し付けて、犯罪者の叔父と、「刺し違えて心中しろ」と迫ったことがあった。そしてこれが一番重要であるかも知れない。両親の離婚の原因は父の酒乱と家庭内暴力だと母から聞かされてきたが、親類の話では母の方にも多少の原因があったらしい。実際に目撃したわけではないが、母は浮気していたらしい。母が多情のせいもあって言い寄る男はかなりいたらしい。そのすべてと浮気をしたとも思えないが、その血はこの息子が受け継いでいるようだ。自分でもどうにも自制ができないほど女性に対してストイックでない。われながら情けなく思う。どちらの家系も、親族が存在することで不幸のどん底にあえいだ。子供を作れば、その可能性を抱えることになる。自分が不幸になるだけではなく、周囲もその不幸に巻き込むことになる。子供を作ろうとしなかったのは、子供が嫌いだったわけでも妊娠をネタに君から結婚を迫られることを回避しようしたためでもない。君には幸せになってもらいたい。ただ、それだけだ@
送信した後、長谷川がぽつりともらした。
「このメールを読んだあと縁談を断るような予感がする。佐知子の想いの重味がおれの両肩にのしかかってくるような不安がよぎった。佐知子がここに押しかけてきたらどうしよう。馬鹿げた妄想かな」
長谷川はメーラーをログオフする。パソコンをダウンさせる。
B5のノートパソコンとスペアのバッテリーを土岐のバッグに入れる。急いで事務所を出た。
タクシーの運転手は車の外に出てタバコを吹かしていた。土岐と目が合う。あわててタバコをスニーカーの爪先で揉み消す。運転席に飛び乗った。
土曜の朝のせいか国道はすいていた。
途中動物園の入口付近で子供だけはしゃいでいる何組かの家族連れを見かけた。間延びした象の咆哮が聞こえてきた。
「実は、途中まで、ヘンサチ夫人が同行するかもしれない。ただ、おまえのことは言っていないんで、彼女に見られないようにしてもらえるか?込み入った話があるようなんだ」
「そうか。じゃあ、べつの車両にのればいいんだな」
と土岐が念を押すと長谷川は、
「いや。彼女もI kill youの容疑者の一人なんだ。見つからないように、隣の座席に隠れて話を聞いて、推理してもらえないか?」
「聞いていれば、彼女が真犯人か分るのか?」
「いや、どういう話が出てくるか分らないが雰囲気で判断してくれ」
「そうか。直接彼女に質問できないんであれば、それを引出すような質問をしてくれ」
「わかった。とにかく、辛抱強くつき合ってくれ」
と長谷川は言うが、土岐には長谷川の真意が掴めない。
駅に着いたのは九時十分前。出札口で長谷川がファーストクラスの切符を買い求めた。参考までにセカンドクラスの運賃を土岐が訊く。半額だった。
改札口からプラットフォームを望む。列車はまだ入線していなかった。乗客らしい人影もまばらだった。
不安が長谷川の目の奥をよぎったように見えた。
長谷川が改札口の駅員に列車の到着時刻を訊いた。
「ダイヤ通りだ」
と仏頂面で答える。
「始発だから定刻前に出発することはないはずだ」
と長谷川は不快そうにつぶやく。
九時近くになった。線路の両方向を見やった。列車の姿は見当たらなかった。振り返るとフォームの中央に歪んで倒れそうなキオスクがあった。
廃屋のような店先に新聞と薄い雑誌と甘ったるそうな駄菓子が雑然と置いてある。駄菓子は薄っすらと埃を被った硝子瓶に入っていた。
ガムを買った。黄色と赤の印刷のずれた硬い包装紙を破る。一枚口の中に放り込んだ。異様に甘い。砂糖の粒子が舌先でざらつく。噛みながら駅舎のローマ数字の掛時計を見る。九時を少し回っている。手元の腕時計より二三分遅れていた。
長谷川が改札口の先刻の駅員にもう一度同じことを尋ねた。
「予定通りだ」
とさもつまらなそうに答える。
長谷川は傍らに回りこんで、鼻先に腕時計を突きだす。もう一度確認する。
うんざりしたように、
「時刻表で9時というのは9時以降に出発するという意味だ。9時前には、出発しないという意味だ。わかったか?」
と傍らの土岐の瞳を蔑むようにのぞき込んでくる。
「英語がわかるのか」
と言いたげな目付きだ。
仕方なく長谷川はうなずいた。
「そろそろ、離れてくれるか?」
と長谷川が土岐に言う。
土岐は後ずさりする。濃いサングラスをかける。長谷川から離れた。そのとき待合室のベンチに腰掛けていた乗客が十数人、大小の荷物を引き摺りながらぞろぞろと出て来た。彼らはゆっくりと、地面にコンクリートを打っただけのプラットフォームに拡がった。その中に、白地にピンクと紫と緑の絞り染めを施したようなフレアスカートを靡かせて長谷川に嫣然と微笑みかける東洋人がいた。
一瞬、土岐の心臓が止まりかけた。
(慶子だ)
薄い黄色の鍔広の帽子に濃い緑のリボンが巻かれている。同色の濃い緑のベルトがウエストにアクセントのように巻かれている。
「おどろいて?」
と慶子は畳んだ水色のパラソルの先を長谷川にむける。蜻蛉を捕まえるかのようにゆるやかに円を描いた。
土岐は慶子の背後に回った。
「どうしたの?鳩さんが豆鉄砲をお召し上がりになったようなお顔をして。今日いくようなこと言ってなかったかしら」
確かに長谷川は一瞬息の詰まったような顔をしている。円を描くパラソルの先で眼が回った訳ではない。しばらく眼の焦点が合わなかった。
「なんで?」
と思わず土岐の口から出そうになった。
出会いの瞬間から一拍おいて、最初に出た長谷川の言葉は、
「旦那は知っているんですか?」
言い終えて忸怩たる想いが長谷川の全身を痙攣のように走っている。
慶子の反応に土岐は耳をそばだてた。
「間男さんみたいな台詞ね。知っているとお思いになる?」
「勿論、知っているわけがないだろう。言わずもがだな」
と土岐は心の中でつぶやいた。
「旦那は今どちら?」
と長谷川が聞く。
土岐は長谷川は知っていると思っていた。
(でも聞いたのはなぜか?知ってはいたが他に言うことが思いつかなかったのか?)
長谷川は言ってからばつの悪い思いをしている。
「隣の国に出張ですって。外務大臣様を早々に出迎えに行ったわ。宮仕えはご苦労なこと」
慶子の大きな瞳が悪戯っぽく笑っている。目尻に細い皺が一本走る。
通りすがる現地人が眉根に深い皺を寄せる。珍しそうに慶子を上から下まで、舐めるようにして見て行く。
慶子は年齢的には一二歳ほど長谷川より上のように見える。土岐には精神的は十歳近く上に思える。
「ヒジノローマまで、ご一緒してよろしいかしら?」
「え、ええ」
と長谷川はわざとらしく口籠もっている。いやとは言えない。
「是非もないということかしら?」
本音を全て見抜かれている。言葉の抑揚、目の動き、手振り、身振りで慶子は長谷川の心理を母親や姉のように見透かしている。
「一向に差し支えありませんが、往復で一日つぶれますよ」
「いいの、つぶしたいの。つぶさせて」
そう言われてしまえば、長谷川もなんとも返答の仕様がない。肩をすくめる。首をかしげる。承諾の意を表した。
遠くで警笛の鳴るのが聞こえた。音の方角を背伸びして見る。茶褐色のディーゼル機関車が自動連結器の鼻を上下左右に振っている。脱線しそうなほど大げさに揺れている。北の方角から入線して来た。九時五分過ぎに到着。前部標識灯の一つ眼を震わせて暗褐色の錆にまみれたディーゼル機関車の後ろに客車がぞろぞろと六両連結していた。後ろ一両がファーストクラス、次の二両連結がセカンドクラス、残りの三両連結がサードクラスの編成。
慶子を先に立てて、長谷川は六両目に乗り込んだ。
最後尾半分が郵便貨物用で車掌室も兼ねていた。
土岐は車掌室の方から六両目に乗り込んだ。
長谷川と慶子は出入り口に一番近いプラットフォームを見下ろす席に着いた。慶子は通路側に腰掛けた。
窓外の景色が見易いようにと、
「窓際に来ますか?」
と長谷川は気を利かせたつもりだった。断られた。
「ありがとう。営業的でもそういう気遣いがうれしいわ。窓際はお日さまが当たるでしょ。紫外線はちょっとね」
慶子は帽子を取る。長い髪を白い指で梳る。むかい合っている前の座席に置いた。長く明るい黒髪が車内の空間に解き放たれた。
土岐は横を向きながら慶子の斜め後ろのボックスに席をとった。二人の会話が十分聞こえる距離だ。
慶子の右肩と右足が通路にはみ出ている。
前かがみになって、斜め後ろを見れば、慶子の横顔を見ることができた。
長谷川の頭頂部は半分ほど背もたれから突き出ていた。
慶子の頭髪も長谷川の髪の隣にすこし見えた。
三人のほかには、同じ車両には国防色の軍服を着た中年の男がひとり乗っているだけだった。
土岐が窓から顔をだす。セカンドクラスの方を見る。それぞれの昇降口に艶やかで浅黒い人々が五六人ずつ固まっていた。反対側のプラットフォームからも線路を越えて、大小さまざまな荷物を目一杯抱えた乗客が三々五々集まってきた。
プラットフォームと歩道を仕切る黒く焦がした枕木の柵を潜って、少女がひとりやって来た。柵の外には中年の女がひとり、少女を手の甲で追いやるようにしていた。少女は幾度も振り返る。立ち止まりと小走りを繰り返す。列車に近付いてくる。
改札口の駅員からその少女が見えているはずだが、咎めようとする様子がない。
少女は車窓の下までくる。ブリキの空き缶を無言のまま掲げた。缶の内側は茶褐色に錆びきっていた。外側の千切れたラベルに、かろうじて、〈ツナ〉の文字が見えた。
少女の瞳を見つめながら、
「あっちへ行け」
とばかりに隣のボックスの軍人の方へ顎をしゃくった。二度、三度、繰り返した。
少女は円らな瞳を瞬きもさせない。動く気配を見せなかった。
「なぜだ!なぜあっちに行かないんだ!消えろ!失せろ」
と土岐は口を閉じたまま言語中枢で叫んだ。
軍人の方を一瞥した。少女は身じろぎもしない。移動する気配はない。彼女の背後で柵の外の中年女が軽く会釈した。お辞儀をしているように見えた。眼下では煤けた額の下の丸い瞳とふっくらとした小さな頬が無表情のままぽつねんと静止していた。少女から逃れるように視線を逸らした。頬の辺りに彼女の鋭く射るような視線を感じた。
土岐は慶子の真後ろの席に移動した。窓の外を見る。先刻の少女と似たような風情の少年が、空き缶をもって佇んでいた。
長谷川の腕が窓外で、その少年を追いやろうとしている。
そのとき、一瞬少年の目の前を銀貨がきらめきながら通り過ぎる。高く乾いた音をたる。窓の外に落ちて転がって行った。
慶子の指先が投げ終わった状態で優雅に窓外で宙に浮いていた。
「見たくない者に消えてもらうためにはお代を払わなきゃ駄目よ」と慶子は小突くように二の腕を柔らかく長谷川に押し付けている。
プラットフォームに人影はなくなっていた。
駅舎の壁の掛時計は九時十分を少しまわっていた。
小学校の遠足に行くような気分がこみ上げてきた。
土岐の背後から長谷川の声が聞こえてきた。
「いまね、不意に旦那の言説と前任者の言辞を思い出した。旦那はきっぱりと『私もヒューマニストではないが私はカネをめぐむ』と言い放っていた。前任者は真面目な面持ちで諄々と私を諭すように『女を買うことでこの国にカネを落とすことは民間レベルでの、個人レベルでの経済援助の一環だ。わたしが夜な夜な女を買っているのはただ好きだからというだけではないんだ。こうして落としたカネが巡り巡ってわが社の売り上げに貢献する。カネは天下の回り物。ケチっちゃいけないよ』と繰り返し言ってた」
と長谷川は間を取って、
「この国ではどこに行ってもベガ―に出くわす。そのたびに離婚直後、母と二人で暮らしていた6畳一間のアパート生活を思い出す。ひと月の間ご飯と塩だけで食事を済ませたこともあった。食用油で炒めただけのご飯でも御馳走に思えた。父は常々『おれは自分自身のためにだけ生きる』と標榜してた。自分の稼いだカネはすべて酒と女とギャンブルにつぎ込んだ。離婚しても慰謝料も息子の養育費も一銭も払わなかった。母子家庭の生活を誰も助けてくれなかった。中学の担任教諭も話を聞いてくれただけで何もしてくれなかった。今になってみれば担任も話を聞くのが精一杯だったろう。幼さゆえに何もしてくれない担任や世間を恨み続けた」
少年の缶の脇を慶子が投じたコインの落ちて行く情景がスローモーションで幾度も土岐の脳裏に描かれた。脳裏の中の少年は無言のままストップモーションで立ち去ってゆく。
土岐のズボンのポケットの中には小銭があった。太腿の辺りにコインの膨らみとわずかな重みが腫れ物のように感じられていた。
発車のブザーが幕切れを告げるように唐突に鳴り響いた。少年の「あなたからも欲しい」
と言いたげな恨めしそうな表情はこわばったままだ。
軽い衝撃と共に列車が突き動かされるようにゆっくりと走り出す。土岐は斜め後ろの慶子を確認しながら元の座席に戻った。
窓外で少女がピボットターンする。飛ぶように柵の外の中年女の方に駆けて行く。
土岐は息苦しさから解かれた。滞っていた血の流れが再び動き始める。息継ぎをして眼を閉じると血栓が溶ける。こめかみの脈動と心臓の鼓動が感じられた。
「ところで、ヒジノローマには何しに行くんですか?」
と予想はついているような口調で長谷川が慶子に聞いている。
「あなたと一緒にいたいだけ。列車に乗ったこともないし。なんかわくわくするわ」
容貌は年相応に大人びている。言うこととすることが子供じみている。そうした慶子のアンバランスが土岐の気に障る。
列車は十マイルほどの速さでそろそろと駅をあとにした。
駅のすぐ近くに踏み切りがあった。短い遮断機の背後に屯していた手ぶらの人々が一斉に線路内に侵入する。列車と並走し始めた。リレー競技でバトンを受け取るようにデッキの手摺に手を掛ける。十人、二十人と力強く平然と列車に乗り込んできた。
土岐が窓から首をだして見る。それぞれのデッキで五六人の若者が手摺にしがみついていた。縮れた頭髪が風に靡いている。
次の駅に近付く。速度が落ちる。彼らは次々と軽快に飛び降りて行った。
その駅を出る。暫くすると符牒を合わせたように車掌が検札に回ってきた。開襟シャツもズボンも平服。車掌とわかるのは草臥れた制帽と擦り切れた集金鞄だけだ。
その間、列車は国道と海岸線の間を南下していた。
突然、長谷川の携帯電話からメール受信音が流れた。
「あらチャイコのピアノコンチェルトね」
と慶子が携帯電話の液晶画面を覗き込んでいる。
「変なメールね。件名だけで、@昨夜はごめんね@って、どういう意味?本文がないのね」
長谷川がほっとしているような溜息が聞こえる。
「発信者の@ねこ@って誰?」
背中越しに慶子の少し棘のある声を聞きながら、@ねこ@は優子ではないかと土岐は推察した。
「@ねこ@ってどなた?」
と慶子がしつこく聞く。
「事務所の家政婦です」
という嘘のようなセリフが長谷川の口から滑らかに出てきた。
「まさか、あの人、日本語はできないでしょ?」
「いえ、簡単な言葉だけ教えたんです。本人も勉強したいと言うし、仕事は暇だし」
と長谷川はしらじらしい嘘をつく。
「存じ上げなかったわ。ゴンゲイ、なんていう名前だったかしら?」
と慶子は嘘を見抜いた上で、言葉を繋ぐ。何の動揺も、嫉妬の素振りも見られない。感情を露にしない慶子に年齢以上の大人を感じる。
「ゴンゲイガウ」
「変な名前ね」
とフレアスカートの裾を右の手の指先で軽くつまみ上げる。股間にゆるやかな風を送り込んでいる。その仕草が土岐の脳下垂体をオートマチックに刺激する。
「彼女も、われわれの名前を変だと思っているかも知れませんね」
「それも、そうね」
と慶子はつまらなそう。批判されたと感じたらしい。こういう高慢さは慶子に興醒めさせる。しかし逆に、抱きしめるときは強烈な征服感に満たされ、異様な興奮に駆られるかも知れない。
国道沿いのオオギバショウ越しに白亜のリゾートホテルが散見された。海岸で紅毛の白人がビーチパラソルを閉じて日光浴していた。スーラの点描のような海は穏やかな蒼い波に包まれている。波頭が不揃いなスパンコールのように輝いていた。
やがて国道を走る乗用車が見られなくなった。時折ボンネットバスや耐用年数をはるかに超えたトラックが白茶けた土埃を巻き上げてのどかに走っていた。海岸線にも建造物は見当たらなくなった。線路脇の濃い緑の雑草、人影のない白浜、蒼い海原、きらめく波頭が車窓を単調に流れた。線路のつなぎ目を越えるたびに、列車はゴトンゴトンと眠気を誘う単調な響きを奏でる。
「私の父の会社が倒産したことを主人から聞きました?」
と慶子が長い沈黙の後、唐突に話し出した。長谷川は、
「いいえ」
と答えたものの、そのあと何を言っていいのか分らない。
慶子の横顔をこっそりと盗み見る。涼やかな目元が伏せられている。下向きの長い睫毛が瞬かれていた。
「正確に言うと不渡り手形で会社が倒産したのではなくて社長個人の名義で借りていたお金が返せなくなったの。自営業みたいな会社だったから、会社も個人もおなじお財布。銀行には会社の融通資金だと言っていたみたいだけれど、全て、選挙のときの買収資金」
「お父様は地方政治家ということは、耳に入れたことがあります」
「とっても貧しい土地柄で、選挙民は僅かなお金でみんな買収されるのよ。だから、戸票を買うのは、実家では当然のことで、買わなければ誰だって当選しない。賄賂を貰って土建業者に便宜を図らなかったのが、良かったのか、悪かったのか。闇献金を貰っていれば、倒産することもなかでしょうに。でも、貰っていれば選挙民の同情は買えなかったでしょうね。土建屋からお金を貰っていなかったから、地元では高潔な政治家ということになっているけれど、高潔な政治家が票を買うかしら」
「そうですか、大変だったんですね」
「私は父に贅沢をさせて貰ったので。ピアノも買ってもらったし、ハンサムな家庭教師もつけてもらったし、東京の大学に行かせて貰って、豪華なマンションを借りてもらったし。だから傍にいてあげたかったんですけど夫婦だから付いて来ない訳にはいかないし」
「それはそうでしょう、結婚したら別所帯ですから」
「それがそうじゃないのよ。彼は父を利用することを考えていたのよ。次の選挙で、父は国会議員に立候補する予定だったから。彼は官僚として、父のような政治家の後ろ盾が欲しかったのよ。私は私で、親類縁者にない職種、外務官僚、高級官僚を夫に欲しかったの。私の親族には、医者もいるし、弁護士もいるし、大学教授もいるし、一部上場企業の重役もいるし、父は地方政治家だし、でも高級官僚だけがいなかったの。肩書きコレクターみたいね。今考えると馬鹿みたい。そんなもので、幸せになるわけがないのに」
と慶子はほどよく感情を抑え、他人事のように淡々と話す。発声のトレーニングを受けたアナウンサーのように、正しい発音で澱みのない語り口だ。声を聞いているだけでほのかな欲情が土岐の体の中に蓄積されていく。
平坦な海岸線に何の脈絡もなく、尿素肥料プラントが忽然と出現した。機械仕掛けの大蛇と極太のミミズが数千匹蝟集し、錫メッキで固められたようなパイプの塊が焼け付くような陽光に燦然と輝いて屹立している。隣に海坊主のようなナフサとアンモニアの貯蔵タンクがそびえ立っていた。周囲の無作為の自然とのあまりの不調和に月か火星にありそうなSFの宇宙基地か性悪なエイリアンロボットの内臓のように見えた。看板に日本で見なれた大企業のロゴがある。まるで消し去り難い強欲という罪業の痕跡のようにグロテスクだ。
「この工場サイトで生産された尿素肥料の一部が、いまむかっている農業試験場に無償で流れているはずです」
と長谷川が話題をそらすように慶子に説明している。
「このプロジェクト実現の際の最大のネックは環境問題だったんです。この工場で尿素肥料のみならず、燐酸、硫酸、二燐安の生産も行われることを観光・環境大臣が問題にしたんです。完成が遅れて、建設コストが五割り増しになって。結局この大臣には巨額の賄賂を支払うことになったんです。贈賄工作の過程で背後でこの大臣を操っていたのが、我が国の同業他社であることを突き止めたときには、さすがに愕然としました」
と得意げに、
「他社はこのプラントの完成で、尿素肥料の輸出市場を喪失することになるんです。考えてみるまでもなく、何もしないで傍観している方が商社としてはおかしい。世界中で殺人を除く悪行の限りを尽くしている者同士として奇妙な連帯感があって、口銭の何割かを贈賄工作に費消したんですが、敵対するその商社を憎む感情は湧いてこなかった。われわれの仕事が最もやりにくいのはカネで動かない政治家が支配している国なんです。この国も、そして我が国もマークアップ率さえ気にしなければ、仕事はやりやすい。ホイホイとカネでいかようにでも動く存在の軽い政治家ばかりだから。このときの同業他社の商社マンが、執念深く、I kill youと送信してくる可能性は大いにある」
最後のフレーズは土岐に対して語っているように思えた。
「なに?その『愛』『切る』『優』って?」
と慶子が聞く。その質問に不自然さがない。
「いたずらメールです」
と長谷川が答える。
十時を過ぎたころ、列車は海岸線を離れた。内陸に入って行った。国道は陸橋の下を潜り線路の反対側を並走する。窓外には白茶けた潅木と荒れ放題の雑木林が続いていた。所々に猩々椰子に囲まれた泥沼のような湿地があった。手入れの悪いサトウキビ畑が背の高い雑草のように鬱然と点在していた。
「この国に来たのは、父の債権者たちから逃げるためだったの。慌てて海外勤務の希望をだしたので、こんな国しかなかったみたい。でも背に腹はかえられないので来てしまったわ。この国では彼のキャリアにならないでしょう。彼の予定では、父が国会議員に当選した後、その後継者として、いずれ地盤を引き継ぐつもりだったみたい。計算を狂わせてしまったわ。あなたはどう?計算通りに人生を生きていられるの?」
と独り言のように言う慶子に長谷川は戸惑っているようだ。
しばらく沈黙がある。同情していいのか慰めるべきなのか言葉が見つからない。こういうものの言い方は昨夜の優子とはずいぶん違う。優子が話すのは自分の事ばかりだ。相手の身の上を聞くということをしない幼さがあった。
「計算通りかどうか、計算したことがないもんで。行きあたりばったりというか、行き当たってバッタリといつも倒れるばかりで」
「ふふふ。面白い人」
と慶子が生ぬるい微風のように優しく笑った。
時々、廃車寸前のようなトラックが国道を蛇行していた。木枠の荷台に鈴なりの人々が乗っていた。不揃いなウツボカズラのような黒い頭が一斉に上下左右に激しく揺れていた。
列車に追い越されるトラックも擦れ違うトラックも空中分解しそうなほど激しく振動している。長い裾を引き摺るように土埃を引き連れて遠ざかって行った。
白い埃の剣幕の中から、トラックに追い越された若者や壮年の農夫が何ごともなかったかのように平然と歩いて現れた。若者は数多の牛を追い回し、農夫は荷車を漫然と引いていた。
不意に、慶子が、
「この国に来てから、夫婦生活がないの」
と言う。土岐は思わず車内を見まわした。三人以外は先刻の軍人が一人いるだけ。言っている意味を理解しているようには見受けられない。土岐は自分の耳のあたりが強張ってくるのが自覚できた。
「薄々気づいていたでしょ?」
と慶子は首を傾げる。長谷川の顔色をうかがうように覗き込む。
背もたれの上に少し出ている長谷川の頭髪が無言のまま左右に揺れている。
「どっちもどっちね。お互いに打算で結婚したんだから、打算の条件が崩れれば、夫婦生活もなくなるということかしら」
「いやあ、また、新しい条件が揃うんじゃないですか。一度は、ともに結婚という重要な契約を取り交わすことを承諾したんだから」
「たしかに。ホテルの教会の十字架の前で牧師様の言葉を復唱して永遠の愛を誓ったわ。永遠の愛というのはあの時点での永遠の愛という意味だったみたい。時間と場所が限定されていたのね。でも、こんなに早く条件が崩れるなんて。せめて子供でも出来ていれば、また状況も違っていたかも知れないのに」
ひたすら他人の非をあげつらうような加藤の性格がそういう夫婦関係を誘引したのか、あるいはそういう背景が彼のそういう言動を導出しているのか、どちらにしても結果は同じなので問いただすことはせず、長谷川は沈黙を守っている。
車内は鋭利な直射日光で次第に暑苦しくなり始めていた。開け放たれた車窓から吹き込む風はむっとするほど生温かった。草いきれが鼻腔を小突く。代わり映えのしない荒れ果てた風景が延々と続いた。
次第に意識が霞む。瞼が重くなる。無想の状態が長く続いた。車輪が線路の繋ぎ目を跨ぐ音がメトロノームのように近付いたり、遠くなったりした。窓から吹き込む風が間欠的に強くなったり、弱くなったりした。踏み切りの警報音が高くなって近付き、低くなって遠ざかって行った。土岐の意識がフェイドアウトした。
「あなたって不思議な人。恥ずかしくて言えそうもないことも平気で言えてしまうわ」
「そう言えば、高校生のとき、受信局というニックネームをつけられそうになったことがありました」
と多少、脚色めいたことを長谷川が言う。
慶子は乾いた声で力なく笑った。
「まあ、そうなの。放送局というあだ名はよく聞くけど」
不意に、座席と衣服が擦れ合う音が聞こえてきた。慶子の上半身が長谷川の方に傾いた。
長谷川が慶子の肩に手を回して少し引き寄せている。
慶子は前屈して横向きに倒れた。
土岐は通路側に移動する。斜め後ろから覗き込んだ。慶子の豊かな黒髪が長谷川の下半身に散らばっている。
慶子は片方の耳を下にしている。家猫のように目を閉じて長谷川の股間の上で気持ちよさそうに眼を閉じている。
「私、彼がマスターベーションしているところを見てしまったの。よくわからないけど、女の人と男の人のってどう違うのかしら」
という告白に長谷川は言葉を失った。
「さァ」
としか答えられない。
長谷川の下半身の血流が徐々に増える。心臓からの脈動が慶子の横顔に十分伝わっている。
慶子は眠り始めた。
土岐は同じ車両の軍人の視線が気になった。
いつの間にか二人とも眠り始めた。少し、背伸びをして覗き込む。長谷川が下半身をもぞもぞさせている。慶子の上体の重みで下半身に軽い痺れを感じている。
腕時計を見ると十一時を過ぎていた。
長谷川は眼を閉じたまま、慶子の髪を弄んでいる。
長谷川から受け取った耕運機のファイルが前の座席のショルダーバッグの中にあった。読む気になれなかった。現物を見てみなければ何もわからない。着くのは夕方だろう。点検作業はたぶん明日になると高をくくっていた。
長谷川の携帯電話のメール着信音が聞こえた。
慶子が眩しそうに目を覚ました。瞳の焦点が合っていない。
「あら、またチャイコのピアノコンチェルトね」
長谷川がメールを開ける音がする。慶子がそれを読み上げる。
「@昨日のことバレたみたい。あなたを送り届けただけということになっているので、よろしく@って、なんのこと?」
長谷川が慌てて液晶画面を閉じる。
「あら、見てはいけないメールなの?」
「どうでもいいけど、発信者のプライバシーにかかわることなんで」と長谷川のしどろもどろの声がする。
「そうね、貴方にとって良くっても相手の方にとっては都合の悪いことってあるものね。でも、そういう何気ない仕草が人を傷つけることってあるのよ。貴方の隠し方は、私の人格を無視するような素振りだったわ。わたしはとっても敏感だから、貴方にとっては何気ないそんな素振りでもとても傷つくの。たとえば、向こうから知っている人がくるとするでしょう。その人が、目を伏せて、挨拶もしないで通り過ぎようとするだけで、わたしはその日一日、憂鬱なの」
「それは、同感です。でも、その人にそうさせるのは、自分が気づかないうちに、その人を傷つけていて、だからその人は目線を合わせて、挨拶ができないのかも知れない」
そう言うと慶子は長谷川の太腿を抓った。
「いたっ!」
「あら、貴方にとってわたしはそういう女だったの?」
「いえ、これはあくまでも一般論です。奥さんがそうだと言うわけではありません」
「やめて、奥さんって呼ぶの」
と慶子は声音を緊張させた。今日初めて慶子が吐いた剥きだしの感情だった。
「じゃあ、なんてお呼びすればいいんですか」
「そうね、二人だけのときは慶子って呼んで」
「慶子さん?」
「ううん、慶子って呼び捨てにして。わたし、呼び捨てにされると陵辱されたみたいで、少し興奮するの。マゾヒスティックかしら。あら、ごめんなさい。少しお下品だったわね」
と右肩を動かしている。
「くすぐったい」
と長谷川が笑う。
(長谷川の体のどこかに人差し指の先を立てて、円でも描いているのか?)
慶子の右肩が座席の背もたれに隠れる。右足の先が通路に斜めに投げ出される。
「なんか、とても幸せ。つかのまだけどほっとするような感じ。あなたは気づいていないかも知れないけれど、あなたは癒し系なのよ。しばらく逢わないで、逢いたくなる人はみんな癒し系だし、逢うことに抵抗がないのも癒し系なのよ」
と慶子が席を立った。通路を進行方向に歩いてゆく。
土岐は慶子が車両から消えたのを確認する。声だけで長谷川に話しかけた。
「彼女、トイレか?」
「たぶんな」
それからしばらく沈黙が続いた。
「さきのメールはジャナイデスカ夫人からだ。返信メールを打たなきゃならんという強迫観念に囚われてる。でもヘンサチ夫人が興味深げに覗き込んできそうでメールを返信できそうにない。交替でトイレに行って独りになったらすぐ返信することにした。だからというわけではないが、この国に来てから知らず識らずのうちに何でも先送りする習慣が身についてきた。今日できる仕事は明日にする。明日できる仕事は明後日にする。明後日できる仕事は明々後日にする。明日できない仕事だけを今日やるというのが習い性になった。形状を記憶できないバネが延び切って、だらしなく弛緩した状態だ」
慶子が戻って来た。長谷川が話し終えた瞬間のタイミングだ。
交替で長谷川が席を立った。
それからしばらくして列車は鄙びた駅に停車した。
昼近くになっていた。
停車した駅で包装のない剥きだしの菓子パンを売っていた。
土岐は少し空腹を覚えていた。
銀色にピカピカ光る蠅が二、三十匹ほどたかっていた、買う気にはなれなかった。そのうちの一匹が通路に伸びた慶子の右腕に着地した。慶子はゆっくりと左手の指先で払った。
隣のボックスの軍人が駅の売り子からパンを二つ買って食べていた。パンを裂いても香ばしい匂いがして来なかった。食べ終わる。ローカル・マガジンの上にこぼれたパン屑をいとおしむように指先で摘まんで口に運んでいた。
土岐は仕方なく始発駅で購求したガムを口に放り込んだ。ひどく甘ったるい。砂糖の粒が上顎に当たった。空腹が多少和らいだ。
長谷川が戻って来た。立ったままポケットから取り出したガムの包装を解く。慶子の顔のあたりに板ガムを差し出している。
「ガムかしら」
と慶子が推測するように気だるげに言う。眼を閉じている。
列車が動き始めた。
その駅から五分ぐらいして列車は突然停止した。
慶子の上体が、通路側に滑り落ちそうになった。
予定通りであればあと一時間ほどで乗り換え駅に到着する地点だった。
土岐が窓から前方を見る。乗務員らしい男が二人でディーゼル機関車の下を覗き込んでいた。
慶子も立ち上がって、反対側の窓の外に視線を送っている。
十分経っても車内放送はなかった。そもそも放送設備そのものがないのかも知れない。始発駅を出発してから一度も車内放送はなかった。
停車してから三十分経った。
軍人は右手の親指の爪を噛みながら悠然と薄っぺらな雑誌を読んでいる。指を舐めながら、頁を捲っていた。時折、思いだしたように反対側の窓の外に首をだして眩しそうに辺りを見回す。不意の停車がまったく気にならないようだ。傍らを車掌が通り過ぎたときも何も声を掛けなかった。
長谷川が立ちあがった。土岐とななめに眼が合った。長谷川は背もたれの裏の軍人の動作を、不潔なものを見るような視線で一瞥した。
しばらくして、線路に子供たちが七八人やって来た。男の子は筒袖の上着に短めのズボン。女の子は脇の下や腰の辺りに大きな穴の開いた引き摺りそうな無地のワンピース。彼らは車両の下を覗き込んだり、乗客をもの珍しそうに見上げたりしていた。土岐を見ていた男の子の一人が外国人であることに気づいた。
土岐が視線を送り返す。半分笑い、半分泣きだしそうな顔をする。隣の男の子の脇腹を肘で突っついた。敵か味方か、判断つきかねるという様子だ。
土岐はガムを一枚投げてやった。男の子はそれを拾い上げると仲間に声を掛けた。これみよがしにみせびらかした。彼らは一斉に土岐を見上げた。ほんのひととき見詰め合う。土岐は残りの三枚を同時に投げ与えた。彼らは奇声を発し、奪い合った。
ガムを取れなかった子が土岐を見上げた。
土岐は両方の手のひらを広げて見せた。それを確認すると女の子は嬌声を上げた。男の子は何かを叫びながら走り去った。
白い暑気だけが陽炎のように残った。
「わたし、加藤と別れようと思うの。どう思う?」
と唐突に慶子が聞くともなく呟く。自問自答しているような抑揚だ。答えていいものか、長谷川は咄嗟に判断がつきかねている。
「話し合ったんですか?」
という言葉が無意識のように出た。
「いいえ。話すだけ無駄でしょ。離婚ともなれば彼のキャリアに傷がつくし、彼にとってわたしは、いればいいだけの存在。実家が倒産したこともあるし、一緒にいるだけでありがたいと思えというような態度。所詮、女と男は一緒に生活していてもわかり合えないものなのかも。なにか、精神的に疲れてしまって。このまま、人生が無駄に過ぎて行っていいんだろうかと不安になるの」
「どこの夫婦も似たり寄ったりじゃないんですかね。比較するのは難しいけれど」
「あなたはそうやって、いつもあたりさわりのないことばかりを、おっしゃって。それは、商社マンとして言ってるの。それとも浮気手として?」
「浮気相手というのは穏便ではないですね。過ちがあったのはたった一度で、しかもそのときは二人ともかなりの酩酊状態だった」
「おんなは一回で十分よ。頭では忘れていても膣が覚えているの。酔っていようといまいと、そんなことは関係ないわ」
「まあ、たった一度というのは、たった一度の機会しかなかったからなのかも知れないですね。旦那は海外出張のときは必ずあなたを同伴していたし、数は少ないけど、邦人の目もあるし、現地人の目もあるんで、二人だけで行動することは目立ちすぎて危険だったということもあるかも知れない」
話題のせいか、土岐の眠気はとうに抜けていた。固い座席のせいで腰と尾てい骨が痛くなってきた。時々慶子の気配を伺いながら少し腰を浮かせる。腰を伸ばした。その折に、右隣のボックスの軍人の所作をうかがった。彼は相変わらず色どりの不鮮明な薄っぺらな雑誌を広げていた。時々、こちらに視線を流している気配を土岐は感じていた。雑誌を読み耽っているのか、眠りこけているのか判然としない。
「結婚するときは、加藤を愛していると思っていたけど、それはどうも錯覚だったみたい。わたしが愛していたのはキャリアの外務官僚という肩書きだったみたい。でも、そういうものでも愛せるものなのね。不思議ね」
空気が澱んでいるのと日差しが強くなったせいで、車内は耐えがたい暑さと湿度になっていた。土岐の額にも薄っすらと滲むような汗が浮かんでいた。暑気に喉を絞められる。窒息しそうな気がした。
窓から顔を出す。線路や鋼鉄の車体から立ち上る熱気に焙られた。午前中は滲む程度だった汗が滴になってゆるやかに流れ始めた。額、眼窩、鼻の下、顎、首筋、襟の順にハンカチで拭う。腹立たしくなるほど汗は止まらなかった。
軍人は汗を拭うでもなく、泰然と足を組んでいる。膝の上に粗悪な紙の雑誌を広げていた。こめかみに薄っすらと綺羅のような汗が滲んでいた。軍服の襟ボタンは外していた。軍帽は浅く被ったままだ。
「それに、愛されているという実感がないの。『チャタレー夫人の恋人』じゃないけれど、貴方に抱かれてはじめて、愛情と性欲は別物ということがわかったような気がするの。学生の頃、仲の悪い夫婦の間に、なんで子供が生まれるんだろうって不思議だったけど」
土岐のハンカチは汗が染み込んでいた。拭いても汗を吸収しなくなっていた。
慶子はポシェットから二枚目のハンカチを取りだしていた。それを斜め右に片眼で見る。土岐は前の座席のショルダーバッグを取り上げる。タオルを探したが見当たらなかった。記憶を順に遡る。ホテルのベッドの上に忘れてきたことを思いだした。すでに体中の毛穴が開き切っている。下着が肌にべっとりと密着していた。汗のナメクジが背中に、ミミズが腰の周りにうごめいていた。サウナに入っているのだと思い込もうとした。サウナにしては温度も湿度もはるかに低い。だが、ここから抜け出せないという閉塞感で、しのぎ易さを錯覚することはできなかった。
座席の背もたれに二の腕が触れる。自分のねっとりとした汗を感じる。即座に離さざるを得なかった。
「結婚して、貞操観念が変わったわ。結婚する前は、倫理的にという意味ではなくて、それに見合う相手で、しかもそれに見合う見返りがなければ、貞操を差し出せないという想いだったの。よく考えてみると、かなり打算的ね」
「結婚してどう変わったんですか?」
「この国にくるまで、タイプの男で言い寄る人が居なかったので、とくに考えることもなかったけれど、加藤に知られて、それが理由で離婚するときの慰謝料と貞操が天秤に掛かるような感じ」
「それもまた打算ですね。こうしていて大丈夫なんですか?」
「貴方は大丈夫。加藤に言うような人ではないわ」
「どうして、そう思うんです?」
「どうしてって、加藤に言えるわけがないでしょ。言ってしまったら、援助がらみのお仕事がなくなるのじゃなくって」
「それもまた打算ですね。計算高いというか。たぶん、人倫というのは、そういう打算を超えたところにあるんでしょうね。偉そうなことは言えませんが」
「ということは、私たちの関係は人倫にもとるということかしら」
「ことかしら、じゃなくって、ことだ、と断定すべきでしょうね」
慶子は少し溜息を洩らして黙った。
列車はまだ止まっている。
土岐が窓から首をだした。進行方向を見る。先頭に機関車がもう一両連結されていた。コツンと軽い衝撃があった。一時間近く停車して何事もなかったかのように動きだした。走りだして車窓から風が入ってきた。体の暑い緊張が少しずつほぐされて行く。徐々に体表温度の低下して行くのがわかった。呼吸が楽になった。息をつけた。熱気で張り詰めた筋肉の腱が一本ずつほぐされて緩んでいくようだ。
気持ちよさそうに微笑む声を漏らす慶子のフレアスカートの裾が風に弄ばれていた。
しばらくして列車がいきなり急勾配を登り始めた。ディーゼル機関車がゼイゼイと息を切らしている。
土岐の視界が開ける。前方に湖畔がすべて見渡せるほどの大きさの湖が見えてきた。湖面の中ほどに毬藻のようなこんもりとした島がある。そこへ極彩色のおもちゃのような遊覧船がむかっていた。長谷川の説明が聞こえてきた。
「あの島には二千年前に大乗仏教哲学の体系をまとめた高僧を祀った社があるんです。イスラム教の侵攻後は、廃墟になっていて、ダム湖ができる前は、小高い丘の頂だったはずです。近年、観光資源として整備されたんですが、麓から登る参道の石仏遺跡をすべて頂に乱雑に積み上げたため、社殿の周りは足の踏み場もないほどなんです。二年前に参拝したことがあるんですが、もう一度拝殿しようという気にはならない」
観光船の消えかかった航跡を逆にたどると湖の縁に灰色の長細いダムサイトが見えた。
列車はダムパワーハウスの傍らを緩慢に通過する。しばらく運河に沿って下る。それから更に一時間ほどしてヒジノローマに到着した。
先頭の機関車はフォームからはみだしていた。
昇降客は数えるほどだった。
二時を少し回っていた。
一等車両の乗客は軍人一人になった。
長谷川は慶子と連れ立って、出札口で眠そうな駅員に尋ねている。土岐は遠巻きにして、靴紐を結び直した。
慶子は駅舎の中のトイレに向かった。
「ハイヤーを雇いたい」
と長谷川が言う。駅員は駅前通りの向こうを指差した。
駅前には食堂も三輪タクシーも四輪タクシーもなかった。人通りもなく、時折陽光の輻射を孕んだ熱風が黄土色の埃を巻き上げていた。
土岐は、長谷川に近づいた。
「僕はどうすればいいんだ?」
「彼女を送り返すから、もう少し、隠れていてくれ」
と長谷川に言われて、土岐は先に改札を出た。
しばらくして、慶子がやってきた。
土岐は出札の窓口から二人をうかがった。
「帰りの汽車は何時かしら?」
と慶子がホームの壁の上の時刻表を見上げている。
長谷川は出札の窓口の上の時刻表を見る。三時発の列車が確認できた。
「三時までどうします?」
と長谷川が聞く。
「付き合ってくださる?」
「そうですね、こんな寂しい駅にお一人でおいとくわけにもいかないでしょう」
「なんであなたはそういう言い方をするの?」
「そういう言い方って?」
「他人行儀な。ここにはわたしたちのほかには、だれもいないのよ」
と言う慶子に、
「ここにもう一人いる」
と土岐はいいかけて、やめた。
長谷川が時刻表を見上げながら言う。
「あなたは針の先ほどの言葉でも巨木ほどに増幅して解釈する能力がある。テニスに興じているときに喉が渇いたり空腹になったり疲労困憊して言いそびれているときは、その能力はありがたいけど、心の中のわずかな言い難い襞を言葉に込めたときは、正直困るときもある。あたなが感じ取るほどに、言ってる本人の想念は、大仰でないことが多いんです」
「あなたは、どきどき、訳のわからないことを言うのね。それがまた、魅力でもあるんだけど」
と言いながら慶子は長谷川の背中を撫でる。
ハイヤーの事務所は駅舎のむかいの平屋五軒の棟続きの中央にあった。赤茶けた煉瓦造りの各棟の間隔は一ヤードほど。煉瓦はいたる所が剥落していた。補修した跡もある。そこもいくつか欠落していた。補修の代わりか、州選挙のポスターがいたるところに貼ってあった。白黒のコピー用紙だ。幾度もコピーを繰り返したようだ。活字の角や写真の細部が潰れていた。候補者が指名手配犯のように見えた。そのポスターの下や周りに、幾枚ものポスターが剥がされた跡があった。
土岐は出札窓口の脇の窪みに身を隠した。
事務所には扉もシャッターもなかった。内部には傾きかけた傷だらけの机がぽつねんと一つあるだけだった。誰もいなかった。
駅から出てきた長谷川が暫くそこに佇んでいる。背後から五六才の薄汚い少年に半袖の裾を引っ張られた。長谷川が振り返ると、
「こっちへ来い」
と手招きしている。
物珍しそうにしている慶子と一緒について行く。事務所の裏手に消えた。
土岐は通りを渡る。かれらを追跡した。獣道のような狭隘な径が崖の下に延びていた。
慶子の足元がおぼつかない。履物を見るとローヒールだった。
一瞬、長谷川が手を貸そうとして、やめた。
慶子は足元に神経を集中するのに夢中で、それを求めているようには見えなかった。
樹木の隙間から、穏やかな川の流れが見えた。
土岐が柔軟にしなう月桂樹の枝につかまる。距離をとって川原に降りて行く。木々の間から途中に小さな滝が見えた。
少年はその滝の傍らに立ち止まった。
あたりに誰も見当たらなかった。
少年の指差す方を見る。苔むした猿の石像が鎮座していた。足元に細かい奇石が供え物のように散乱していた。背中に双葉柿の巨木がある。幹を覆い隠すように蔓植物が絡みついている。根元には縞模様の林床植物の葉が生い茂っていた。その奥の滝壺の脇に小さな沼がある。水面に蓮の葉が数葉広がっていた。ひんやりと心地よいスポットだった。
「しゃがんで」
と慶子が唐突に命令口調で長谷川の耳の後ろで命令した。
長谷川は、その意図がわからない。問いただすこともない。不承不承のように川岸に跪いた。その途端、慶子の薄緑色のフレアスカートが土岐の視界から長谷川を遮蔽した。
「なんですか?」
と長谷川はくぐもった言葉を発する。
長谷川の薄暗い目の前に慶子の二本の白い太腿が佇立していることを土岐は想像した。
やがて長谷川の後頭部が慶子の両手のひらで抱え込まれた。長谷川のぼんの窪あたりに押し当てられた慶子の指に指圧のように力がこめられている。
「やさしく、口付けして」
という声が川のせせらぎに紛れて聞こえてきた。すぐそこから発せられているはずなのに、ひどく遠くからの声のように聞こえた。
抱え込まれた手のひらの熱気に促されるように、薄いピンクのショーツに熱い息を吹きかけるように、長谷川が唇で肉片を摘み上げるように口づけしていることを土岐は想像した。
深呼吸をするようなため息が長谷川の唇を通じて聞こえてくる。自らの呼気で暑苦しくなったのか、長谷川が勢いよく立ち上がった。慶子の帽子の幅広い鍔が長谷川の鼻先に当たった。フレアスカートが慶子の胸までまくれ上がった。
長谷川は息苦しさから開放された。長谷川の目の前には晴れやかな慶子の微笑みが待っていた。その瞳の後ろには先刻の少年が目を丸くして佇んでいた。呆然としていた少年が我に返ったように同じ言葉を繰り返した。
「マニィ、マニィ」
と叫ぶ。手の指を足元にむけて反らす。白っぽい小さな手のひらだけを長谷川に向かって、差しだした。
土岐が状況を理解するのに数秒を要した。
「こんなちんけな石像にカネが払えるか。馬鹿にするな!」
と長谷川は吐き捨てた。少年に慶子との醜態を見られたことに腹を立てた。
二人はゆるやかな崖を足早に引き返した。
土岐は反対側の木陰に身を隠した。
少年は慶子の方を一瞥した。慌てて長谷川を追いかけてきた。少年は事務所の裏手に出ると踝を返した。スカートの裾をたくし上げて登ってくる慶子の往く手を遮った。
「マニィ、マニィ」
と叫び続けた。
慶子は崖を登りきると、うるさいハエでも追い払うようにクリーム色のポシェットから小銭をだした。少年に与えた。少年は小銭を手にする。事務所の裏手のほうに小走りに消えていった。
土岐は慶子の姿が事務所の方角に消えると、ゆっくり後を追って事務所の角に隠れた。事務所の方をこっそりと伺う。薄汚れたワイシャツの男が一人茫然と股を大きく広げて椅子に座っていた。
男はまつわり付く幼児を手の甲で事務所の外に追い払った。
「これから、農業試験場に行きたいんだが」
と長谷川が男の眼を見据える。行き先だけを伝えた。
「これから行くと、帰りは真夜中になる」
と男は口を尖らせる。慶子の足先から頭の上の帽子へ目線を移動させる。それを二往復させた。
男の高飛車な言いようから直感的に、
(ハイヤーを借り上げられるのは、そこだけだ)
と土岐は察知した。
「農業試験場へ行くバスは、どこから出ているのか?」
と長谷川は探りを入れるように尋ねる。
男は勝ち誇ったように、
「さっき、駅前から最終が出たばかりだ。途中で乗り換えれば行けないこともないが、終点で一泊して、二日がかりだ」
と不案内な旅行者から搾取しようとするその語尾に、
「うすのろまぬけ」
と付け加えたそうな用心深く抜け目のない侮蔑の顔付きをする。
「それじゃ仕方がない。ハイヤーをおねがいしたい」
とすぐ諦めて長谷川が下手に出る。
男は目を細めて顎を突き出した。
「いまから行くと、夜はゲリラが出るので、帰りが危険だ」
と料金を吊り上げる交渉に出てきた。
「今日と明日の二日間借り上げると、いくらになるか?」
と長谷川が訊く。
男は長い指を四本立てた。
「オゥケィ?」
と交渉を受け付ける様子がない。粗末な机をがたつかせて立ち上がった。
長谷川は慶子の顔を見ながら肩をすくめた。
「少し待ってください」
と人差し指を顔の前に立てる。男は事務所の奥に消えた。
二三分すると表口にあばたに塗装の剥げ落ちた黒い国産車が横付けにされた。
土岐は建物の角から奥の方に後ずさりした。そこから車のドアやバンパーの周りに白蟻が食い散らかしたような黄土色の錆があるのが見えた。
男が車の中から手招きしていた。
長谷川が後部座席の把手を引いた。開かなかった。引いた把手を強く引っ張る。軋みながらドアが少し垂れ下がって開いた。閉めるときには少し持ち上げ気味に引く必要があった。少し遊びがある。ぴったりとは閉まらない。
長谷川はガチャガチャやりながら、
「このドアはだいじょうぶか?走行途中で開かないか?」
と料金引き下げの材料にすることを念頭において訊く。
男から、
「だいじょうぶだ。いままでそういう事故は一度もない」
という答えが返ってきた。
長谷川が押しても開かなかった。半ドアのままになっている。
右の窓には硝子がなかった。左の窓には硝子はあった。半分閉まった状態。ぴくりとも動かなかった。
「雨が降ったらどうするんだ。濡れ鼠じゃないか」
と傍らの慶子に話しかけた。
男に聞こえるように舌打ちをした。
「雨が降ったら座席の左に寄ればいい」
と男は平然と言う。
長谷川が再びドアをあける。
後部座席は黒いビニール張りで縦皺に沿った裂け目が二本、黒いビニールテープで修繕されていた。ビニールテープの端が少し捲れ上がりシートの中のスカスカのスポンジがはみだしていた。スプリングは弾力性を失い痛々しいほど疲労し切っていた。
その様子を慶子は車外から心配そうに見ている。車のポンコツぶりを長谷川は嘆息混じりに点検している。そうしながら長谷川が何を考えているのか慶子にはわかっているようだ。
「そろそろ上りの列車がくる頃だと思うのでお見送りしなくて申し訳ありませんが、早く行かないと到着が夜遅くなるので、これで失礼します。切符はラウンド・トリップですか?」
「いいえ。あなたが付いてくるようにって言ってたから、一緒に行くつもりだったから」
と慶子は子供のようなことをいう。
「農業試験場へ?まさか」
と長谷川は深くは追求しない。車を待たせて、出札口に向かう。
土岐は建物の角から二人を伺った。
長谷川は切符を買い、慶子に渡している。
「ありがとう」
と慶子は手のひらのおもちゃのような切符に眼を落とす。
「いやあ、こちらこそありがとう。楽しい列車の旅でした。これからきっといいことがありますよ」
と長谷川が告げる。
慶子は黒い大きな瞳を潤ませる。ポシェットからレースのハンカチを取り出して拭っている。
「それでは、お気を付けて。帰りの列車の中でわたしがどうなろうとも、お気になさらないでね」
と微笑みながら言う。それには、長谷川も苦笑せざるを得なかった。車に乗り込む前に、右手で彼女の帽子をとる。左手で彼女を抱き寄せる。衝動的に接吻したように見えた。そうしたかったという思いも感じられた。そうしなければならないという義務のようなものも感じられた。慶子の抵抗は微塵もなかった。強く抱きしめ返すということもなかった。穏やかな抱擁が数十秒続いた。
先刻の少年が通りの向こうに佇んでいた。小さな手で拍手するのが聞こえた。
「ご主人のことですが、確かにいろいろと平均的な人と異なる個性を持っている人ですが、あれほど優秀な人はわが社にもいません。たぶん、あなたが不満に思っていることを差し引いても余りあるほど有能な人です。頭の中は眼に見えないので、言ったこととか、やったことでしか人を判断することは出来ないんですが、あの人は言ったことや、やったことだけでは知ることが出来ないほど頭のいい人です。その部分こそ、彼の愛するに値するところじゃないかと思います。所詮、高偏差値の人間と低偏差値の人間がお互いに理解し合うことは出来ないんだと考えるしかないんじゃないでしょうか」と言い残して長谷川は車に向かう。車に乗り込む前に、事務所の角に隠れていた土岐と眼があった。長谷川は指先を車の前方に向けて突き出した。このさきで、土岐を拾うという意味らしい。
長谷川は後部座席でショルダーバッグを脇息代わりに脇に据える。車は虚勢を張るようにアクセルいっぱいに急発進した。慶子に別れの手を振るいとまもなかった。長谷川は思わず仰け反る。後頭部がリアウインドウにしたかに打ち据えられた。長谷川が急いで振り返ってリアウインドウから慶子を覗う。白い埃の中で寂しそうに小さく手を振っていた。
しばらくして、慶子は改札口から駅舎の中に消えた。
殺伐行程と放蕩標榜(土曜日午後)
土岐は事務所の角から通りに出た。車が走って行った方角を眺めた。土埃の中で停車しているのが確認できた。わき目も振らず、追いかけた。駅前から遠ざかると途端に道路から舗装が消えた。息が切れた。歩きながら車に追いつく。後部座席のドアが開く。長谷川が首を出した。倒れ込むように車に乗り込んだ。ドアを閉める。すぐ走りだした。スプリングが萎えてへたりこんでいる座席から道路の凹凸が尾てい骨に直に伝わって来た。
凹みに突っ込むたびに車はジャンプした。腰が宙に浮く。頭頂が天井の薄い鉄板に打ち据えられた。
道路は車が擦れ違うのがやっとの幅員。がらくたのような潅木とゴロゴロしている岩の間隙を激流を下るゴムボートのように蛇行していた。場末のジェットコースターのようだ。右にハンドルを切ると体は左に、首は右に倒れた。左に切ると右と左に倒れた。
次第に、上体を支えていた腹筋に疲れを覚えてきた。
「今日中に着けばいいんだ。ゆっくり行ってくれ」
と長谷川が運転手に告げた。スピードは落ちなかった。
「スピードを落とせ!もっとゆっくり走れ!」
と長谷川がストレートに大声で命じても従う気がない。
「陽が落ちると、武装ゲリラが出没するから」
と運転手は取り付く島がない。さらにスピードを上げた。
「ゲリラは、君たち一般庶民の味方ではないのか?」
と長谷川が穏やかな口調で訊いた。
「やつらはそう言ってはいるが、それは政権を取った後の話だ」
と積年の憎悪を込めた口ぶりた。運転手はそう吐き捨てる。
「今の状況だと政権を取れるかどうか怪しいし、政権を取ったあとも、内部抗争でどうなるかわかったものではない」
と口にすることさえも不愉快そうにあしざまに補足説明する。
「政権を取ろうとするやつらは二千年も前からそうやって民衆を騙し、圧迫してきたんだ。先進国の連中も同じだ」
と畳み掛ける。
最初の出会いから運転手が見せていた反抗的な素振りの理由の一端がわかるような気がした。
口調の昂揚とともに、アクセルの踏み込みも強くなった。
姿勢を保つ筋肉に疲労を覚えてきた。仕方なく車の動きに体を任せた。不意に笑いがこみ上げて来た。押し殺していると腹筋に痛みが走った。脂汗が額に滲んだ。エアコンは装備されていなかった。暑さを感じるゆとりもなかった。
長谷川はメールを打とうとしている。あまりの手ぶれで到底メールの打てる状態ではなかった。圏外のサインが点滅していた。
「ジャナイデスカ夫人へのメールか?」
と聞く土岐の声が振動で震えている。
「そうだ」
「あいかわらずだな」
「なにが?」
「女たらしさ」
「たらしているわけではない。これも業務の一部だ」
「趣味と実益を兼ねてか」
「まあな」
土岐が所在無く窓外に目をやる。鍬を肩にした農夫の傍らをトップスピードで追い越した。振り返ると車の剣幕に憤然としている。路肩に退避した。土埃のヴェールの中で眼を剥きだしている。
その土埃が車内に舞い込んだ。汗の滲んだ二の腕に薄っすらと付着し始めていた。
運転手は相変わらずハンドルにしがみついている。夢の中の追っ手から逃れるように、ひたすらアクセルを踏み続ける。スピードをだし続けた。しかし、運転手の気迫はあえなくカラ回りしている。スピードメータの針は五十マイルも超えていなかった。
土岐が訊く。
「一等書記官は感づいているのか?」
「ヘンサチ夫人のことか?」
「そう、加藤夫人と君の関係」
「どうかな。うすうす気づいているかも知れない」
「銀行マンのほうはどうだ?」
「ジャナイデスカ夫人のことか?」
「そう牛田夫人と君の関係」
「どうかな。あいつは勘が鈍いから気づいてないかも知れない」
「夫人同士はどうなんだ?」
「夫人同士って?」
「彼女らは、君が二股かけていることを知っているのか?」
「知らないだろう。彼女らは勘が鋭いから疑ってるかも知れないが」
二十頭ほどの羊の群れに遭遇した。
運転手はけたたましく警笛を鳴らし続けた。
羊たちは悠然と闊歩し道を譲る気配がなかった。
羊飼いの痩せこけた青年が胡散臭そうに運転手を睨みつける。先頭の羊を路肩に寄せた。
運転手は車を路肩の外に半分乗りだした。廃棄物のような潅木をなぎ倒す。羊の群れを追い越した。
車の底を潅木の枝が引っ掻く夾雑音が聞こえた。
道路の中央に牛が悠然と寝そべっているときも同ように路肩を迂回した。牛の群れが道路を横断しているときはさすがに急ブレーキで停車せざるを得なかった。
体がつんのめり脇のショルダーバッグがシートから落ちた。
運転手は苛立たしそうに両手の指先でハンドルをリズミカルに叩いた。
牛追いの若者は薄ら笑いを浮かべる。腰布を蹴だして通り過ぎた。
運転手は舌打ちをする。失われた時を挽回するように再び憤然と車を疾駆させた。
土岐が口を開く。
「どうすんだ、このまま、この関係を続けていくのか?」
「まあ、成行きに任せる」
「そんなことしていたら、いずれ身を滅ぼすぞ」
「そのときは、そのときだ。駐在員生活はいずれ終わる。おれが先かも知れないし、ヘンサチやジャナイデスカもいずれいなくなる」
「I kill youは脅しじゃないかも知れないな」
「だから、おまえに依頼した」
「尻拭いをしてくれということか」
「そういうことになるのかも知れない」
「日本にも女がいたんだろ?」
「佐知子のことか」
「そうだ。事務所の家政婦にも手を出しただろ」
「ゴンゲイガウのことか?」
「そんなような名前だったな」
「どうということはない。ただの遊びだ」
「だけど、外国人だぞ。文化が違う。君は遊びだと思っていても、あっちはそう思っていないかも知れない」
「そうかも知れないが、もう結婚した」
「結婚相手がゴンゲイガウから君のことを聞いて復讐するということはありえないのか」
「彼女が結婚する前のことだ。結婚してからは、手を出していない」
「慶子さんと優子さんは結婚しているじゃないか」
「彼女らは日本人だ」
殺伐とした生ごみ集積場のような風景が倦むことなく続いている。絡み合う潅木、剥きだしの岩、伸び放題の雑草、底知れぬ沼地、澱んだ小川、いずれも人の手が入っていない荒地。列車の中から見たのと同じような埃っぽい荒野と大小の岩石が点在する荒れ放題の草原が間近にどこまでも続いた。うんざりとするような蒸し暑い風景が車窓をどんよりと流れた。
急ハンドルに身構えながらも土岐はうたたねをした。前部座席の背に額を打ち付けた。ぼんやり眼が覚めた。
二時間ほど走った。陽がようやく傾き始めた。遠くの裸の山巓に時々太陽が隠れた。山陰に入ると逆に日向の灼熱を思いだした。
エンジンは終始苦しそうに唸り声を上げていた。時折、限界だと告げるような不協和音が聞こえた。エンジンの叫喚のようにも聞こえた。
車体の振動が激しくなった。小さなマウンドを駆け上がるたびに車は放り投げられたように宙を飛んだ。着地の衝撃で車体が分解しそうな不安を覚えた。
運転手は手摺代わりにハンドルをしっかりと握り締めていた。後部座席にすがりつける吊革はなかった。
やがてゆるやかな上り坂に差し掛かった。登坂が始まると急にスピードが落ちた。
運転手は痩せこけた驢馬を鞭打つようにアクセルを踏み込む。自転車のペダルを漕ぐように上体を前後に揺らす。屈み込むたびに車を叱咤する掛け声をだした。
スピードが落ちると腹筋の緊張が解けた。土岐は息をつけた。
長谷川が軽いいびきを立てている。
不意にまどろみが土岐の意識を襲った。車体の軋みとエンジンの喘ぎが遠のいたり近付いたりする。
運転手の唸り声がかすれかけた途端、車はもんどりを打って峠を転がり始めた。瞬時に眠気が霧消した。
運転手が口笛を吹き始めた。
長谷川が眼を覚ました。
「聞いたことのあるメロディーだ。たぶん、映画音楽に違いない。この国の映画はどれもミュージカルもどきで何の脈絡もなく突然主人公が歌いだし、ヒロインとともに踊りだす」
睡魔が去って再びむせ返るような退屈極まりないドライブが続いた。思考力のなえた土岐の眼が助手席の下に握り拳ほどの穴を発見した。その下を地面が凄まじい速度で流れていた。
苦行のような乗車に耐えかねて、干からびた喉をこじ開けた。
土岐は、
「農業試験場へは、あとどのくらいで到着するの?」
と救済を求めるように長谷川に訊いた。
長谷川は運転手に聞く。
運転手は素っ気なく、
「この先の丘をすこし越えたところだ。あともう少し」
と乾いた声でぽつりと答えた。
その丘はあっという間に越えた。しかしすぐには到着しなかった。
東の空にはすでに夕闇の緞帳が降りかかっていた。濃紺に暗くなりかけた書割のような碧空に星々が明るさを得つつあった。
ヘッドライトの光の束が次第に明るさを増していった。
土岐は曲げっぱなしの膝にだるさを覚えた。尾てい骨が擦り切れたような痛みを持った。そうしただるさと痛みと相前後して空腹と尿意を覚えた。
しだいに膀胱の膨満感は神経と感覚のすべてを支配し始めた。
「まだ着かないのか」
と土岐は呟く。膀胱の軽くうずくような痛みが車の振動の中で悪夢のように交錯した。
やがて闇が車をすっぽりとおおい始めた。猖獗を極めた酷暑も日没とともに減衰して行った。群青色の空も暗褐色にやせた山も焦茶色の荒野も黒い帳の中に溶け込む。そして消えた。見えるのはヘッドライトの届く路上だけになった。生温い潜水艦の潜望鏡から地上をこっそり盗み見ているようだ。あせた山吹色の路面がインパネの計器類の下に猛然と吸い込まれて行く。
突然、ヘッドライトの前方を黒くうごめく塊が横切った。闇に目を凝らす。集落に差し掛かった。低い平屋建ての家屋が道の両側に薄っすらと闇の中の墨絵のように並んでいた。一軒だけ裸電球の燈る飲食店がある。その薄暗い店の前に黒山の人だかりが見えた。
一瞬ゲリラではないかと思って土岐の背筋から血の気が引いた。
@I kill you@のフレーズが脳裏をかすめた。
集落の全員が車を振り返った。残りの家屋には窓からこぼれてくる照明がひとつもない。すべて暗闇の中に潜んでいた。
「農業試験場の所長には昨日電話してある。夕方過ぎに到着するんで、一泊させてくれと頼んである」
と長谷川が不意に話し出した。
「おまえはどうするんだ?」
「おれは事務所で雑用が待っているんで、とんぼ返りだ。そうしないと最終列車に間に合わない。そうだ、明日の切符を渡しておこう」
そう言いながら、長谷川が切手のような切符を土岐に手渡した。
「それで、僕はなにをするんだ?」
「前にも言ったが、農業派遣員に授賞式に出るように説得してくれ。一晩あれば、なんとかなるだろう」
「それだけか?」
「それだけだ。折角外務大臣がはるばる来て受賞式に参列するというのに派遣員ごときが、都合が悪いというのはけしからんというヘンサチのお怒りだ。どうしても来られないというのなら、その理由を聞き出してくれ。おれが聞いたときは、『農繁期なんで、一日も留守にできない』と言っていたが多分嘘だろう。まあ、理由が分かれば、手の打ちようもある」
「その派遣員は、なんていったっけ?」
「小川伺朗だ。それから、故障しているトラクターの件は、聞いてもどうせ分からないだろうから、答えられないだろうし、まあ、メモでもして適当に聞いといてくれ」
不意に土岐の股間に雷のような痙攣が走った。のたうつ膀胱の限界が近付いていた。
前方のダッシュボードの計器類の蠕動を見つめながら、
「もういいかげんに着くのかな」
という希望的な思いを土岐は漏らした。
集落を通過した。
ほどなく忽然とヘッドライトの両脇に白茶けたコンクリートの門柱が現れた。
低い木生羊歯の生垣の間を縫って玄関のポーチに滑り込んだ。
「じゃあ、おれはここで失礼する。場長に会うと時間を取られるんで、このまま駅に戻る」
と長谷川が携帯電話を差し出した。
「この携帯を持って行ってくれ。おまえ用のを借りておくのを忘れた。緊急の場合はそれを使ってくれ。こっちからかけることは多分ないとは思うが、もっていてくれれば安心だ」
「連絡先は、登録してあるのか?」
「ああ。この車を明日の昼ごろまでにこっちに差し向ける。カネは明日の分もいま先に払っておくから、この車で駅まで来てくれ」
急ブレーキに土岐は思わず失禁しそうになった。
長谷川が運転手と交渉する。カネを払おうとすると運転手は首筋を掻いた。
「支払いは明日にしてくれないか。今夜もらっても、そっくりゲリラに盗られてしまったら、それまでだから」
と確認するように説明する。
長谷川は二つ折りの財布を引っ込めた。
「おまえの見ている前で払いたかったんだが、そうしないと、明日、この運転手がおれからは受け取っていないと嘘ついて、おまえに請求する可能性がある」
と土岐の眼を見ながら長谷川が言う。
「駅に着いたら払おう。明日の分も一緒に」
と長谷川が運転手に言うと、
「あしたは何時ごろに、出発するのか?」
と農業試験場の玄関を覗き込むようにして運転手が訊いてくる。
「首都に帰るので、その列車に間に合う時間に出発したい」
と長谷川が要望を簡潔に述べた。
運転手は半身になって振り向いた。
「それなら遅くともここを一時に出なければならない」
と暗算をするような眼で言う。
ハイヤーからの降り際に、
「今夜はあのホテルで寝るのか?」
と土岐は長谷川に聞いた。
「ああ、そうだ。ヒジノローマのへんに木賃宿はないからな」
と長谷川は無愛想に頷いた。
「明日の一時に、この玄関に迎えに来てくれ」
と土岐は運転手に頼む。車外に出た。ラジエター・グリルに蕎麦粉のような土埃がこんもりと付着しているのが見えた。下半身が少しふらついた。上体はまだ車の振動の余韻に波打つように揺れていた。膝を伸ばし尻をさする。トイレに駆け込むことを考えた。
「それじゃ、行くぞ」
と長谷川が窓から首を出した。