殺意に飢える(その二)
修正しました。
何故、どうして────という。そんな言葉だけが、ただただ頭の中を駆け回って、駆け巡って、そして駆け抜けて。
けれど、その先に答えなどなく。何故そうなったのかという、結論は用意されておらず。どうしてそうなったのかという、帰結が出されず。
故に、その結果。僕は何もできず、僕はどうする事もできず。
ただただ、その光景を。目の前の景色を確かな現実であると、そう受け止めざるを得なかった。
だが、それでも。往生際の悪い僕の思考は、ひたすら延々と、ひたすらに永遠と。頭の中で、無数の言い訳を乱雑に立てては並べていた。
──違うこれは僕じゃない僕の意思でやったことじゃない気がついたらこうなってた勝手にこうなってたきっとこれは僕じゃない別の誰かが僕に罪を被せようと僕を身代わりにしようとこんな事をやったに違いない僕じゃない僕じゃない僕じゃない。
けれど、頭の何処かの、片隅では。わかっていた。理解していた。認めて、受け止めていた。
これは他の誰でもない、紛れもない自分の行為なのだと。自分の過ちの末の結果なのだと、諦観しながらそう思っていた。
しかし、僕の理性はそれを許さなかった。必死に罪悪感を拭い去ろうと、死に物狂いで罪から逃げ果せようと。この期に及んでみっともなく、何処までも惨めに情けなく、己を庇いながら過ちを否定し続けるつもりだった。
そんな僕の往生際の悪い理性であったが、次の瞬間。跡形もなく、その痕跡の一片すらも残さず。
無慈悲にも吹き飛ばされ、消し飛ばされる────────
「なあ、どうしてだよ。何でお前は、俺を殺したんだ……?」
────────その、言葉によって。
「ッ!!」
息が詰まった。まるで後頭部をぶん殴られたような衝撃を受け、まるで心臓が握り潰されたような激痛が胸中に走った。
「なあ。なあ、なあ。どうしてだよ、何でなんだよ……」
少女の声に、憎悪や怨恨など微塵も込められておらず。その代わりに溢れていたのは────ただひたすらの、悲哀と寂寥。痛々しい程の悲しみと寂しさに、少女の声は震えて揺れていた。
これならば、いっそ憎しみや怨みに塗れてくれていた方が良かった。その方が、まだマシだった。
少女の悲しみが僕を追い立てる。少女の寂しさが僕を追い詰める。もはやまともに何も考えられなくなった頭の中で、僕がその時唯一思った事は。
──助け……なきゃ。
助けよう。救おう。今ならまだ間に合うかもしれない。今ならまだ、この少女を死の淵から引っ張り上げる事が叶うかもしれない────もう誤魔化せなくなった罪悪感に、もう見て見ぬ振りができなくなった罪の意識に。苛まれ、突き動かされながら抱いたその思いを胸に。
僕は改めて、少女の胸元を見やる。
その低めな背丈に見合わず、存外たわわと豊かに育っている二つの膨らみ。
その中央に、未だ僕の手がその柄を握り締めているナイフは突き立てられていて。切先はおろか、刃の全てが少女の身体に埋まっていた。
……普通であれば、この時点で気づくべきだった。心臓がある位置に、完全に見えない程刺し込まれた刃────誰がどう見ても、それは決定的な致命傷に間違いなかった。
だけれど、それを目の当たりにした僕は心の中でこう呟く。
──間に合う。まだ手遅れじゃない。
そう、僕は信じて止まないでいた。
きっと大丈夫。今すぐこのナイフを引き抜き、即座に【次元箱】を開き、そこから最上級治癒薬を取り出し、この傷口に振りかけ、流し込めば。
一瞬にしてこの傷は癒え、少女は助かるのだと。自分は少女の事を助けられるのだと、頑なに信じ込んでいた。
──早く、今すぐに、このナイフを……ッ!
少女を、この腕に抱く少女を。燃ゆる紅蓮と煌めく紅玉の持ち主たる、赤色の少女の事を。
助けようと、救おうと考え、思い。そしてとうとう遂に、僕は行動に────────
「…………あ、れ……?」
────────出れなかった。
「ど、どうして……何で……ッ!?」
手が、動かない。ナイフの柄を握り締める手が、動かせない。
今もこうして振り上げようとしているのに、必死になって少女の胸元からナイフを引き抜こうと、腕を振り上げようとしているというのに。
まるで動かない。微塵も動かせない。どれだけ力を込めようが、どれ程意思を強めようが。
僕の腕は、僕の手は動かない。ナイフの柄から五指を引き剥がす事すらも、できないでいる。
意味がわからなかった。理解不能だった。まるで僕の手が、僕の手じゃないような感覚に陥っていた。
「糞、糞ッ……動け、よ……動けつってんだろうがぁあッ!?」
自分が自分に反逆を起こされるという、起こるべくもない、悍ましい程に気味が悪い事態の最中に放り込まれ。
僕は堪らず、叫び声を上げてしまう。引き攣って掠れた、情けなくみっともない叫び声を。
そして何がなんでも死に物狂いになって腕を振り上げようと、手をナイフの柄から離そうとするが。
やはり、どうしたってそれらの事ができない。
そうしている間に────────血が。ナイフの刃が沈められている少女の胸元から血が滲み出し、着ている服を赤く染め始めた。
「ッ!!ま、待って!待ってくれッ!今、今すぐ抜くから!これ、君から引き抜くっ!引き抜くから待ってくれぇええッ!?」
その光景を目の当たりにして、僕は半ば狂乱しながら少女にそう叫び散らし。そしてその通りにナイフを引き抜こうとする────が、やはり僕の腕は全く上がらず。僕の手は全く動かなかった。
「待って待って待って待って待ってもうすぐだから待って僕は助ける君を救うだからだからだから」
つぅ、と。その時頬に走った、擽ったい感触が。壊れて、幾度も何度も同じ言葉を繰り返し、それを支離滅裂に並べ立てては捲し立てていた、僕の事を。一瞬にして、止めてみせて。
まるで時間が停止してしまったように固まった僕へ、少女はナイフを突き立てられながらも、眩しいくらいに鮮烈な血を流しながらも、その口を小さく、微かに動かす。
「ク、ラ……ハ」
か細く萎み切った、今にも儚く消え失せそうな弱々しい声が。
僕の耳朶を優しく打ち、鼓膜を静かに震わせ────────突如、脳裏でその記憶が一気に弾け、噴き、溢れた。
『その……何だ。ひ、久しぶりだな。元気してたか?────クラハ』
『ラグナ!俺は、お前の先輩のラグナさんだ!』
『おう。正真正銘、俺はお前の先輩、ラグナ=アルティ=ブレイズだ。さっきからそう言ってんだろ?』
これは、出会いの記憶。
『クラハ。お前、俺の事……どう思ってんだ?』
『お前、言ったよな。俺の事まだ先輩だって思ってるって。……そう、言ってたよな』
『本当に、そう思ってんのか?今の俺が……先輩だって、お前は本気で思えんのか?』
『クラハ。もう一回、言ってみろよ。さっきと同じ事、面と向かって……今の俺に言ってみせろよ』
『……そうだよな。お前、嘘吐けないもんな』
これは、試された記憶。
『……ぁ、く、来んなッ!』
『お、俺は大丈夫だ。大丈夫、だから……本当に』
『く、ぅ……っ!』
『まだ、上手く歩けそうにねえんだ……今足動かしたら、たぶん転んじまう』
これは、頼られた記憶。
『良かった、本当に良かった……!クラハ、お前ずっと寝込んじまって、全然起きなくて……!』
『クラハ、腹は大丈夫か?やっぱりまだ痛かったりするのか?……あんなに、蹴られてたし』
『俺、何もできなかった。目の前でお前が腹蹴られてんのに、お前が酷え目に遭ってんのに……俺見てる事しかできなかった。助け、られなかった』
『俺はお前の先輩なんだよ。なのに、なのに……っ』
これは、心配させた記憶。
──……嗚呼、どうして。どうして、僕は。
脳裏を埋め尽くさんばかりの勢いで駆け巡り、駆け抜けていく無数の記憶。無数の、思い出。
それら全てが僕に思い出させてくれた。思い出させて────同時にこれ以上にない程の悔恨と絶望を齎した。
──僕は……僕は…………ッ。
見知らぬ少女などではなかった。この腕に抱く少女────否、この人は。
僕にとってはかけがえのない、何にも決して代えられない、己の命よりもずっと大事で大切な存在だった。
たとえその姿形が幾ら変わろうと。たとえその性別ですら変わってしまっても。
大事で大切で、そして唯一無二の憧れの存在。永遠の憧憬そのもの。
それは誰にも覆せない、誰にも覆させやしない。僕だけの現実で、僕だけの事実で、僕だけの真実だった。
……だと、いうのに。
『お前の、為。俺が一人でここに乗り込んだのは、お前の為だ』
そう、言ってくれたのに。僕の為に、こんな度し難く、救い難く、どうしようもない僕なんかの為に。危険を顧みず、独り行動を起こしてくれた、その存在を。
事もあろうに、僕は。
『どうしてですか、先輩。先輩はどうして、こんな場所に一人で乗り込んだんですか?一体どうしてこんな無茶をしたんですか?』
一方的に問い詰め。
『そもそも先輩がこんなところに来なければ、ライザーの奴に酷い目に遭わされる事なんてなかった。それだけじゃない。屑で下衆で碌でなしのあの野郎は、きっと仲間を使って先輩をもっと酷い目に遭わせようとした筈です。こんな無茶をしなければ……先輩の身には何も起こらなかったんですよ?』
一方的に責め立て。
『だから、教えてくださいよ。どうしてこんな事をしたんですか……ラグナ先輩』
一方的に追い込み。
『つまり……僕の所為で、僕が原因で酷い目に遭ったと、先輩は言いたいんですか……?』
『だってそうじゃないですか。先輩は僕の為にここに乗り込んだ。そして酷い目に遭わされた……ほら、遠回しに僕の所為だと、お前が原因で自分は酷い目に遭ったんだって、そう言ってるじゃないですか』
『止めてくださいよ。僕を言い訳に使うのは』
『何が違うんですか。何も、違わないじゃないですか。先輩は僕を使って、言い訳をしている。そうとしか、僕は思えないんです』
『だから、僕の為だとか……軽々しく言わないでくださいよ』
一方的に苛め虐げ。しかし、それでも。
『こんな今の俺にでも、クラハの為にできる事をしたかった』
言ってくれた。
『何でも、どんな些細な事でもいいから、お前の先輩として、お前の為になる事をして、やりたかった』
そう言ってくれた。
『それは、本当、だから……!』
……そう、僕に言ってくれた。まだ、言ってくれていた。優しい言葉。温かい言葉。それは嘘偽りのない、心の底からの、正真正銘の、本当の言葉。
それに対し、僕は────────
『今の先輩が僕の為に、一体何ができるっていうんですか。……僕の知っているラグナ先輩じゃない、今のあなたなんかが』
────────考える限り最低の言葉で傷つけ、最悪な形で裏切った。
「ッ!」
僕の頬に触れていた、ラグナ先輩の指先が離れる。振り上げられていたラグナ先輩の腕が力なく垂れ下がり、僕の事を悲しげに、そして寂しげに見つめていたラグナ先輩の瞳がゆっくりと、静かに。眠るように、閉じられて。
次の瞬間、ガクンと。まるで操り人形の糸でも切れたように、ラグナ先輩の首は後ろに倒れた。
「……ぁ」
僕の腕に抱かれる先輩の身体は、いつの間にか冷たくなっていた。
つい先程まで、生命の温もりを確かに宿していたというのに。
「ぁ、ぁぁ」
ナイフが突き立てられている胸元からは、未だにどくどくと湧き水の如く血が流れ出していて。それは先輩の服を赤く染めて、真っ赤に濡らして。
それだけに留まらず、やがて僕の腕に、僕の身体にも伝ってくる。
温かった。もう身体は氷のように冷たいのに、その身体から流れ出される血だけは温かくて。
それが僕には不自然な程に不気味に思えて、異様な程に異質な事に感じられて。
「ぁぁぁぁぁ…………」
そして気がついた。さっき、あれ程動かそうと躍起になって、必死になっていたのに、微動だにしなかった僕の手が。
ラグナ先輩の胸元に突き立てられたナイフの柄を握り締める僕の手が、ようやっと自由になった事に。特に意識しないでも、勝手に柄から離れていた事に。
その事に僕は後頭部を鈍器で殴りつけられたような衝撃を受け、絶句し。それから小刻みに痙攣するその手で、再度。
無意識の内に手離していたナイフの柄を、握り締め。即座に、先輩から引き抜いた。
引き抜いたナイフを放り捨て、僕は先輩の顔に、先輩の血に濡れた手をそっと這わす。それからその身体を抱き寄せ、抱き締めて。
「……ぁぁぁああああああッ!!!うわああああぁぁぁぁ……ッ!」
ただひたすらに、慟哭し続けた。




