ロックス=ガンヴィル(後編)
修正しました。
何故か、妙にやたらと真剣で、そして異様な雰囲気と声音で。
そうして数秒の間を置いてから、ロックスさんがいざその口から繰り出したのは────
「ラグナ────お前のボイン、俺に揉み拉かせてくれ」
────という、最低も最低の、野郎の獣欲剥き出しな懇願であった。
ゴッ──間髪入れず、全くほぼ同時に。先輩の拳と僕の拳がロックスさんの顔面を捉え打ち据える。
それからまた数秒程経って、彼はさも平然とした様子でその口を再度開かせた。
「酷えなあ二人とも。いきなり人の顔殴りつけるなんてよぉ」
顔面で拳を受け止めたまま呟かれたロックスさんの言葉に、ハッと僕は我に返り慌てて拳を戻す。
そして先輩もまた、微妙な表情をしながらも、僕と同じようにその拳を引いた。
「す、すみませんロックスさん。本当に……すみません」
それから咄嗟に僕は頭を下げロックスさんに謝る。
……けれど、僕はどうしても我慢できなかった。流石にこれは、許容の範疇を逸していた。彼の発言は、度を越していた。
無礼を承知で、僕はロックスさんに言う。
「けれど、さっきのは……あまりにもあんまりだと思います。第一、先輩は「クラハ」
だが、しかし。ロックスさんに対する僕の苦言を、先輩が遮り止めた。そんな先輩に、僕は思わず困惑の声を漏らしてしまう。
「せ、先輩?で、ですが……」
「俺は特に気にしてないから別にいい。そんな事より……おいロックス。お前こんな糞つまんなくてどうでもいい冗談かましに、依頼放ってわざわざこの街に帰って来たってのかよ?」
僕を諭し、制した先輩はロックスさんにそう問いかける。その声は凛としていて、鋭かった。
誤魔化しや茶化す事を一切許さない、そういった声音だった。
それは流石のロックスさんでも否応に感じ取ったらしく、普段から飄々としていて掴み所のない彼にしては珍しく、先輩の問いに対して押し黙ってしまう。
それから数秒して、ロックスさんは口を開かせた。
「いや。クラハにはもう話したんだが、ちょっと依頼関係の報告をメルネの姐さんに」
「……」
ロックスさんの答えを聞き、先輩は沈黙する。直後、先輩がまたロックスさんに訊く。
「なら、他の奴……ジョニィも今帰って来てんのか」
恐らくそれは、僕と同じ推論に至った末の問いかけだったのだろう。けれど、そうではない事を僕は知っている。
ロックスさんは、その先輩の問いに対して────何故かすぐに答える事はなかった。もう既に僕に説明しているにも関わらず、何故か悩んでいるかのように押し黙っている。
そんな様子に僕が疑問を抱く直前、先にロックスさんが先輩に言った。
「帰って来てない。今、帰って来てんのは俺一人だ」
ロックスさんの言葉は、淡々としていた。僕に話した時とは、まるで違っていた。
けれど、その事に対して先輩は何を言うでもなく、ただ数秒だけロックスさんを見つめて。
「そうか」
と、一言そう呟くだけだった。それから先輩は僕の方に振り返った。
「そういやクラハ、メルネとはもう話済ませたのか?」
「……え?あ、いや、その……」
ロックスさんの様子を堪らず不審に思っていた僕だったが、先輩の言葉によって『大翼の不死鳥』へ訪れた目的を思い出す。だが、それは達成できていない。
「実は今メルネさんは買い出しに行ってしまっているみたいで……」
「何だって?姐さん、今いないのか?」
「は、はい。何時頃戻って来るのかもわからないみたいです」
先輩に説明したつもりだったが、堪らずといった風に食いついたロックスさんに対して、僕はメルネさんの後輩に当たる受付嬢から訊き出した情報を話す。
すると彼は少し困ったように天井を仰ぎ、それから仕方なさそうに肩を落とした。
「しゃあねえ。じゃあ姐さんが戻って来るまで待つとするか」
それは僕としても同じ事で、自分もそうすると彼に伝える────前に、先輩が僕に言った。
「なら俺たちは先に飯食いに行こうぜ。別に急ぎの話じゃないんだろ?」
「え?ま、まあそれは、そうなんですけど……」
「んじゃ決まりだ。ほら、さっさと行くぞ」
「は、はい。わかりました」
踵を返し、すぐさまその場から歩き出す先輩。それに続くようにして僕もまた歩き出す。当然、ロックスさんに対して別れの挨拶を告げる事も忘れずに。
「ロックスさん!その、短かったですけどありがとうございました!『夜明けの陽』の皆さんにも、ジョニィさんにもどうか僕は元気ですとお伝えください!」
「おう、任せときな。俺がしっかり伝えといてやるよ」
そして先輩も一旦立ち止まって、顔だけをロックスさんの方へ振り向かせる。きっと僕と同じように彼に伝言を頼むのだろうと、安直ながらにそう思った。
「…………」
けれど、先輩はその口を開こうとはせず。ただ無言でロックスさんの事を見つめていた。
──先輩……?
僕はそれを訝しんでしまう。何故ならば、ロックスさんを見据えるその眼差しは────何処か悲哀そうに思えたから。
時間にして僅か数秒、先輩とロックスさんの視線は交錯し────先に逸らしたのは先輩だった。
結局何も言わずに、また正面に顔を向き直らせて。そうしてまた、その場から歩き出す。
「ちょ、先輩っ?」
その先輩の態度は僕を動揺させるには充分で。慌てて呼び止めようとするが、先輩はその歩みを止める事なく先に進んでしまう。
赤髪を揺らしながら遠去かるその背中を、僕は困惑しながら追うだけで精一杯だった。
「……ふう」
クラハとラグナの背中を見送り、独りロックスはため息を吐く。椅子に座ったまま、彼は呆然と天井を仰いだ。
──あーあ、俺ぁ……駄目な男だな、全く。
心の中でそう呟くロックスの脳裏で、ラグナの言葉が蘇って響く。
『お前こんな糞つまんなくてどうでもいい冗談かましに、依頼放ってわざわざこの街に帰って来たのかよ?』
「……そんな訳ねえだろ」
言って、力なく笑うロックス。その意気消沈ぶりは、先程までクラハとラグナの二人と接していた様子からはとてもではないが想像できない程で。
今彼が負の感情に塗れてしまっている事は、誰の目から見ても明らかであった。
「……ん?」
と、その時。ロックスは視界の端にその姿を捉える。クラハとラグナが『大翼の不死鳥』の門を抜け、少し経った後────その近くに座っていた、麻布の外套を身に纏った者が立ち上がって。二人に続くようにしてその者も『大翼の不死鳥』から去ったのだ。
──ああ……?あの外套野郎、いつの間に……?
目を細め、眼光を鋭くさせながら思考を巡らすロックス。だが、それを一つの声が遮り止めた。
「貴方……まさか、ロックス?ロックスなの?」
その声に、ロックスは咄嗟に背後を振り返る。彼の背後に立っていたのは、視線の先にいたのは────
「メルネの姐さん……!?」
────そう、この冒険者組合『大翼の不死鳥』を代表受付嬢たる、メルネ=クリスタその人であった。
メルネは目を丸くさせていたが、すぐさま普段通りの表情に戻って、ロックスの元にまで歩み寄る。そして彼に対して訊ねた。
「思わず驚いちゃった。ロックス、いつこの街に帰って来てたの?もしかして、あの依頼を終わらせたの?」
彼女の問いかけに、ロックスは少し慌てながら椅子から立ち上がり、口を開く。
「い、いえ。詳しく話すと長くなるんですが……いやそれよりも、姐さん買い出しに行ってたんですよね?ていうか、一体どこから入って来たんですかい?」
結局問いかけには答えず、しかも逆に問い返す始末のロックス。だがメルネは特に気分を害した様子もなく、さも当然のように答える。
「荷物倉庫に片付けて、そのまま裏口から入ったのよ」
それはよくよく考えてみればわかるような答えで。それを聞いたロックスは相槌を打ちながら、メルネに言う。
「ああ……なるほど納得しました。ということは、ウイン坊とラグナは姐さんと見事にすれ違った訳か。何とも間が悪いっつうか、何つうか……」
「え?そうなの?なら二人に悪いことしちゃった……それで、どうして今ここに、貴方がいるのかしら?」
そうして問答は最初に戻って。だが、それにロックスが即答することはなかった。どうしてか彼は何か躊躇うかのように、迷うかのようにその口を噤んでしまっていた。
そんな彼の様子をメルネは訝しみ、再度彼の名を呟く。
「ロックス?」
するとロックスは唐突に深く息を吸い、そして吐き出す。その様は何処か覚悟を決めたようで、ようやっと彼は口を開かせた。
「もう、既にGMには報告したんですが……メルネの姐さん。実は、実は……────」
瞬間、ロックスの言葉にメルネは目を見開かせ、表情が硬直する。まるで信じられないという風に、信じたくないと訴えるように。
だが、それも一瞬の事で。すぐさまメルネは普段通りの表情に────否、もうそれは違っていた。
普段から彼女と親しくしている者であれば、その表情は無理をして浮かべているとわかってしまった。
そして当然、ロックスもそれに気づいて。彼はその顔を悔恨に歪ませ、拳を握り締めた。薄らと血が滲む程、強く。
「…………すみません。本当にすみません。本当に……申し訳、ありません……」
これでもかと後悔と罪悪感に満ち溢れたロックスの謝罪を、メルネは黙って聞いて。
そして数秒の間を置いて、メルネは閉ざしていた口を開き、彼に訊ねた。
「二人には……クラハ君とラグナには、もう伝えたの?」
数秒押し黙って、ロックスは答える。
「言えませんでした。いざ顔を見たら……言葉が、出ませんでした」
「…………そっか。うん、そうよね。実に貴方らしいわ」
それから二人の間に沈黙が流れ。またしても数秒の後、敵わないという風にロックスがメルネに言った。
「けれど、ラグナの奴には見抜かれたと思います。あいつは昔から勘が鋭いというか良いというか……人の内心っていうものに、恐ろしいまでに敏感ですからね」
「……ええ。そうね」
ロックスに言葉を返し、メルネは彼に背を向ける。そうして彼女は、呆然と続けた。
「こんな職業だもの。いつその日が訪れたって、不思議じゃないわ。……うん、そう。不思議じゃ……ないから……」
明らかに、それは自分に言い聞かせて、納得させようとしている風にしか思えなかった。
……事実、そうだったのだろう。
「……『愛している』。そう、隊長は言っていました」
ロックスがそう伝えた瞬間、メルネは僅かに肩を跳ね上げさせて。それからロックスの元を離れ、受付の奥へと向かい、そのまま控室に続く扉を開き、消えた。
その背中を見送ったロックスは、顔を俯かせ苦々しく呟く。
「俺ぁ、駄目な男だな」




