厄災襲来(その四)
僕は乗り切った。どうにか、乗り切ってみせた。乗り切り、無事に……とは決して言えないものの。
しかし、今こうして、冒険者組合────『大翼の不死鳥』に赴き。
「………………」
そして、数多く用意されたテーブルの一つに突っ伏していた。
疲労困憊────などという状態を通り越し。永遠に続くかのような落下感を、絶え間なく味わう最中。もはや思考すらも億劫になりながら、僕は果てしない虚無に身も心も、何もかもを支配されている有様だった。
そんな僕に対して、他の冒険者が声をかけることはない。それは気を遣ってくれているのか、単に今の僕に関わりたくないからか。そのどちらなのかは、生憎僕にはわからない。それを考える余力など微塵たりともない。
「一体何があって、貴方はそんな風になってるのかしら」
が、それでも一人はいた。こんな僕の身を案じて────いるのかは正直微妙なところだが。とにかく、声をかけてくれる人間が、一人はいたのだった。
「……自業自得と言いますか、身から出た錆と言いますか……まあ、その、気にしないでください。メルネさん」
と、憔悴し切った声で僕が言葉を返した相手────首筋が薄く隠れる程度にまで水色の髪を伸ばした、その女性の名はメルネ。メルネ=クリスタさん。
『大翼の不死鳥』の代表受付嬢と誰もが異議なく認める、見目麗しい素敵な女性である。
「貴方がそう言うのなら、私はそれで構わないけれど……」
言いながら、メルネさんは僕のすぐ隣にまで歩み寄り────
「おいそれと守れもしない約束をすると、どうなるのか……これで貴方もその身を以て、思い知ることができたわね」
────と、心胆寒からしめる声音で、こちらの耳元にそう囁きかけるのだった。
「これに懲りたら、次からは気をつけなさいよー」
まるで首筋に刃を押し当てられたような戦慄に、堪らず硬直を余儀なくされる僕など尻目に。自分の言いたいことを言い終えたメルネさんはひらひらと手を振って、そそくさとこの場から離れる。
早々に遠去かっていくメルネさんの背中を、僕は黙って見送ることしかできない。返事をしたくても、そうするだけの気力が、もう皆無だった。
三週間前、中央都へ発つ前。今からでも、帰って来れるのは遅くなるかもしれないと、言っておいた方がいいという。メルネさんの忠告を今更ながらに思い出しながら、僕は深々とため息を吐く。
それから気怠く重い首を少し上げ、受付台の方を見やる。
そこに今立ってるのは、一人の受付嬢────そして僕の先輩。その名は、ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。
燃え盛る炎をそのまま流し入れたような、鮮やかな赤髪。紅玉を彷彿とさせる、深紅の双眸。ぷるりと瑞々しい、色素がやや濃い唇。
可憐にして美麗、宛ら作り物めいていると思う程に、整った顔立ち────そしてそれを蔑ろにする、柔らかな右頬に走る、一本の切傷の痕。
誰がどう見ても、今の先輩は女の子だ。文句のつけようがないまでに、ぐうの音も出ない程に、女の子である。
何の事情も知らない人間が、今の先輩を目の当たりにして、わかるのだろうか。そしてそうであると説明されて、簡単に頷き、納得できるのだろうか。
先輩が、ラグナ=アルティ=ブレイズが────元々は歴とした男であるということを。
今から二ヶ月程前、この街────オールティアを。ある存在が襲来した。
その存在────予言に記されし、世界を滅ぼす五つの厄災。その第一の厄災である、魔焉崩神エンディニグルが。
彼の魔神の力はまさに厄災であり。とてもではないが、人間が打倒はおろか、ほんの些細な抵抗すらもできはしないと思われた。事実、できなかった。
そんな滅びの厄災を、一人の男が斃してしまった────その男こそ、ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ。
世界最強と謳われる三人の存在たち。桁違いにして埒外、全く以て出鱈目で、人域から逸脱した存在たち。
『世界冒険者組合』が定めた、『《SS》冒険者』。そして一つの存在として極まった者、『極者』。
『極剣聖』────サクラ=アザミヤ。
『天魔王』────フィーリア=レリウ=クロミア。
『炎鬼神』────ラグナ=アルティ=ブレイズ。
だが、しかし。ある日突然、ラグナ=アルティ=ブレイズは────僕の先輩は、女の子になってしまった。
世界最強、《SS》冒険者、極者────それらがまるで嘘だったかのような。それ程までにか弱い、最弱の魔物スライムにすら負ける、そんな非力で無力な女の子に。
それからの日々は……まあ。説明しようにも、色々あり過ぎて、正直なところ面倒だ。死にもしたし。
とにかく、気がつけば二ヶ月経って。最初は非日常だったのが、いつの間にか日常になっていて。新しい日常通りの日々を、こうして過ごしていて。
「おいおいしっかりしろよな、クラハ。先輩として情けねえぞ、その有様」
「……逆に先輩は凄いですね。一体いつの間に、そんなに体力つけてたんですか……?」
「まあな。あんまし俺のこと舐めんなよ?」
「わかってますよ。僕だって、そこまで馬鹿じゃありませんって」
「……どの口が言ってんだか」
だが、この時は考えもしなかった。
この新しい日常通りの日々が────またしても、壊されてしまうことなど。




