厄災襲来(その三)
「で、これはお前の詫びって訳か」
と、フォークの先で皿の上の洋菓子────『舌の上で甘く蕩ける幸せのショコラケーキ』が指し示される。
その行為に対して、僕は何も言えず。ただ黙って、遠慮がちに頷く他になく。
「ふーん……」
そんな僕を試すような眼差しで眺め、数秒。徐に視線を眼下のケーキに移し、浮かせていたフォークで一口大に切り取って。
「頂きます」
そうして、フォークの上に乗せた一口大のケーキをゆっくりと口元にまで近づけ、そのまま────
「ぁむ」
────開いた口の中へ、放り込んだ。
もぐもぐ、と。小さく口を動かし、静かに咀嚼し。やがてこくん、と。喉が上下し、そうして嚥下が終えられる。
「……おい」
それからまたしても数秒の間黙っていたかと思えば、不意にその口を開かせ。慌てて僕も同じく口を開かせる。
「は、はい」
と、上擦って震えた、情けない僕の返事を受けて。怒るでもなく呆れるでもなく、ただ静かに。
「こっち来い」
そう、僕に言うのだった。
先程からずっと止まらないでいる嫌な汗が、背中を伝うのを如実に感じ取りながらも。言われた通り、僕は椅子から立ち上がって、そのまま隣にまで歩み寄る。
するとすぐさま、手に持っていたそのフォークが僕に差し出される。一体何のつもりだろうと、それがわからず固まっていると。
「……残り、食べさせろ」
やがて痺れを切らされ、そう言われて、僕は慌ててフォークを受け取った。
そして先程そうしていたのと同じように、しかし気持ち少し大きめにケーキを切り取ってみせる。
それを見やって、数秒。再度、徐に閉ざしていたその口を、開かせた。
こちらの視界に映り込む、口腔の様子────ぬらぬらと唾液に濡れた、赤い粘膜。綺麗に生え揃った、白い歯。見るからに柔らかそうな、舌
──……。
見ようとしても、見たいと思っていても。そうは見られないその光景を目の前にした僕は、思わず息を呑んで。不躾にも、見入ってしまう。
だが、すぐさまそんな自分を律し。そうしてようやく、満を持して。
「ど、どうぞ……」
慎重に、遠慮がちに。僕は今し方切り取ったばかりのケーキを乗せたフォークを、無防備な口腔に向かわせ。
そしてとうとう遂に、踏み入ることが憚られるその中へと、僕は辿り着かせた。
「はむ」
数秒の間もなく、その口がまた閉ざされ。僕は躊躇いを覚えながらも、そっとフォークを引き抜く。
「んじゃ、この調子でよろしくな」
やはり先程とほぼ同じ間隔で咀嚼から嚥下までの流れを終えると、さも当然かのように、僕にそう言ってのけて。
「……はい」
けれど、それに対して当の僕は異議を唱えようなどとは全く、微塵にも思わず。そのように、ただ頷く他になかった。
「ご馳走様。……あぁ、美味かった」
そうして、数分という時間をかけて、遅めのデザートが食べ終えられた訳……だが。
「まあとりあえずさ、そこ座れよ」
これから一体どうなるんだろうという不安で、固まる僕に。そんな言葉がぶつけられると同時に、細くしなやかな人差し指が床を指し示す。
──……嗚呼……。
やっぱり駄目だった、と。そういう諦観の念を抱きながら、言われた通り僕は床に腰を落とし、座る。
「色々な。いや本当、色々言いたいことはあんだけどな。けどもう時間が時間だし、一応誠意は見せてもらったしで……今はこれだけで勘弁してやっけど」
と、言い終えるや否や。床に座り込んだ僕に、その顔が迫る。瞬く間に僕の視界が、埋め尽くされ、占有される。
その炎灯る紅玉に囚われている、決して赦されざる過ちを犯した自分の顔で。
もはや息を呑むことすらできず、ほんの僅かにも口を開けず無言でいるしかない最中────
「こんなので俺が許すって、思ってたのか?本気で?……なんとか言えよ、この嘘吐き」
────意識をふやかされ、ぐずぐずに蕩かされてしまいそうな程に甘い吐息で、鼻腔を擽られながら。棘だらけの言葉で、深々と突き刺された。
相も変わらず、嫌な汗が流れ続けている。それが一向に止まらない現実を確と認識し、深刻に受け止めながら。
「…………少しだけ、思ってしまって、いました……」
という、言葉を。短くはないものの、別に長くもないその言葉を。数秒を費やし、僕は己が口から絞り出した。
「そうか」
そんな僕の返事とは対照的に、その返事は即座に放たれ────今の今まで、瞼に隠されることなく、僕を囚えていた紅玉が、ようやっと隠された。
そうして、徐にずっと座っていたその椅子から立ち上がったと思えば、そのまま歩き出す。
燃え盛る炎をそのまま流し入れたような、鮮やかな赤髪が揺れる。それと共に、寝間着代わりに着ている、僕のシャツの裾も。ゆらゆらと揺れて、そしてはためく。
その度に、健康的な太腿が垣間見えるのは勿論のこと。
更にその上に存在する淑やかに秘されていなければならない、絶対不可侵の聖域までも────
「そんだけ元気なら、こっちも遠慮する必要はさらさらなさそうだな」
────とまあ、不覚にも男の性には逆らえず、視線を追わせていた僕に。
「俺、あの時言ったよな?覚悟しとけって……してるよな?覚悟。覚悟してるよなぁ、クラハ。んじゃ二階で待ってっから」
この居間の扉の前で、不意に立ち止まって、こちらの方に振り返り。弄ぶことをこの上なく愉しむ、小悪魔のような笑みを。
可憐と美麗の境目に在る、右頬に大きく縦に走る一本の傷痕が一際目立つその貌に浮かべ。
その人────僕の先輩である、ラグナ=アルティ=ブレイズは。如何ともし難い嗜虐欲求に富んだ声音に、妖しい熱を帯びさせて、そう言い。
「……は、い」
「さっさとシャワー浴びてさっさと来いよ」
対する僕はこの後に待つ恐怖に怯え竦み、すっかり引き攣って掠れた声での返事しかできず。すぐさま返されたその言葉には、ただ力なく頷く他になかった。




