終焉の始まり(その二十五)
「準備完了完了……っと。ふぃー、これで今日もまた日常通り開店、営業できるってなぁ」
早朝。朝日が昇った、白んだ空の下で。浅黒い肌をした、強面の男────ロブ=ウッドは数々の品を店頭前に並べ終えると。そう言いながら、背を軽く仰け反らせ。点々と、または千切れ逸れに浮かんでいる無数の雲を見上げる。
「んー、本日も快晴だぁ。そんじゃまあ、お次は店内の支度を……お?」
そうして今日の天気の具合を確かめた後、自らがこの街に構える店────『あなたの生活を助けるロブの商店』の中へ引き返す、その直後。ロブは向こうの方から歩いて来る一つの、人影に気づいた。
「おぉ……こんな朝早くから」
こちらへ徐々に近づいて来るに従って、その一つの人影の姿が。次第に、ロブの視界に鮮明となって映り込む。
一つの人影の正体は────一人の少女であった。
遠目からでもよく目立ち、目に映える、燃え盛る紅蓮をそのまま流し入れたかのような赤髪。燦々とした煌めきを灯している、紅玉が如き瞳。
まだあどけない幼さが目立つものの、時折憂いのある大人びた雰囲気を醸し出す、可憐にして美麗な顔立ち。
ロブは知っている。というよりは、今や世界中の人間が、その少女の名を知っている。
ラグナ。ラグナ=アルティ=ブレイズ────それが少女の名であり。そしてそれは嘗て、世界最高にして最強と謳われる《SS》冒険者の一人である、男の名でもあった。
その日から現在に至るまで、どうして。一体何があってそうなり、最終的にこうなってしまったのか。その一切合切が、未だ謎で不明ではあるものの。
その少女こそが紛れもなく、その男であるということは、もはや世界が周知している事実である。
……けれど、ロブは知っている。彼を含めた、この街に住まう人々だけは知っている────それ故に、誰もがこう思わざるを得ないでしまっている。
果たして今の少女を、ラグナと呼んでもいいのかと。
ラグナ=アルティ=ブレイズとしての記憶も在り方も、その何もかもを忘却してしまった、今の少女を。その名前で、呼んでもいいのだろうか、と。
そんなことを思い考えながら、ロブは。その身長には些か不釣り合いな胸と、ショートパンツの裾から伸びるむっちりとした太腿に視線を奪われながらも彼は。こちらに向かって歩いて来る赤髪の少女────ラグナに対して。軽く、手を振って。
「おはようさん。こんな朝早く、こんな場所にたぁ珍しいじゃねえの。一体どうしたい?ラグナ」
と、不躾な己の視線の誤魔化しも兼ねた、朝の挨拶と。そして純粋な疑問による、そんな問いを投げかけるのだった。
「おはようございます、ロブさん。ちょっと、この先に用事がありまして」
やがて店の前にまでやって来たラグナ。無論ロブの下卑た野朗の視線に気づいていない訳ではないが、日頃からよく利用している店ということもあり、気づいていない風を装いながら。そう挨拶を返すと共に、眩しく可憐な笑顔を浮かべ。それから投げかけられた質問に対して答えた。
──この先に用事……用事、ねえ。
正直、ロブは訝しまずにはいられなかった。
「んまぁ、そういうことなら俺の勝手で引き留める訳にはいかんよな。そら、行きな」
だからといって、下手に踏み込もうとはしなかった。
「はい。今日もまた立ち寄らせてもらいますね、お店」
「ああ。今後とも贔屓にしてくれよ」
そうして朝日に照らされ、燐光の如く、淡く煌めく赤髪を。ふわりと揺らし、靡かせながら。ラグナはロブの目の前を横切り、彼に見送られながら、先へ進んだ。
「…………用事つったってよぉ、この先にあるのは……」
ラグナの可愛らしくも何処か儚げなその背中が。ある程度離れたその時、ロブはそう独り言ちるのであった。
「もう……ロブさん、別に悪い人じゃあないんだけど」
『あなたの生活を助けるロブの商店』、店主────ロブ=ウッドと別れ。この先にあるであろう目的地を目指し、独り歩くラグナは。ほんの少し頬を赤らめさせ、困ったように呟く。
「…………」
途次、この街道の景色を。呆然と、何を思うでもなくラグナは眺める────やはりというか、今の自分には、どれも見覚えはない。
そのことに若干の、誰に対する訳でもない申し訳なさを胸中に抱きながらも。ラグナは歩みを止めることなく、街道を進み続け────そうして、ラグナは着いた。
「……ここ、だよね」
目的地────一軒の家の前に立ち止まり。まるで確かめるように、ラグナが呟く。
──着いた……着いちゃった。
そう心の中でも呟いて、徐に。ラグナは懐に手を入れ、弄り。そうして、それを────一本の鍵を取り出した。
「…………」
『あなたの目で、確かめて』
鍵を見つめるラグナの脳裏で、メルネの言葉が響き。それが切っ掛けとなって、ラグナは今朝の、彼女との会話を思い起こす──────────
「これで全部、私が話せるだけのことは話したわ」
と、メルネはその一言で締め。それに対して、ラグナは複雑そうな。何を考え、思い、そして抱けばいいのか。それがわからないでいるかのような表情を浮かべ。
「…………そうですか。そんなことが、あったんですね。……私に、そんなことが……」
そうして数秒の沈黙の後、消え入りそうな声音で、ぽつりとそう呟くのだった。
時間にして約数十分。こうして互いの面と面を向かい合わせた、メルネの口から直接聞かされた────クラハ=ウインドアという一人の青年の話。クラハ=ウインドアと、そして自分の間で起きた、話。
その全てを聞かされた。余さず、誤魔化されることもはぐらされることもなく、ありのまま全てを聞いた。
まるで他人事のようにしか捉えられず、とてもではないが自分のことのようには感じられなかった。
だというのに、それは紛れもない、嘘偽りなどありはしない────
『……はい。さようなら、ラグナさん』
『あなたは違う』
『あの子なんて!あの女の子は!!もう、ラグナ=アルティ=ブレイズじゃあ』
────この身に確と起きた、歴とした己の真実であると、覚えのない記憶が訴えかけてくる。
そのことに言葉では上手く言い表せない、奇妙な齟齬を感じ。謂れのない非を鼻先に突きつけられ、理不尽に責められているかのような、そんな針の筵に座っている気分にラグナは陥る。
ラグナとメルネの二人が黙り込み、リビングに重苦しい静寂が漂い始める。
──……どうしよう……。
と、ラグナが思ったのも束の間。話し終え、先程から固く押し黙っていたメルネが。不意に、ぎこちなくその口を開かせた。
「……これを、渡すわ」
メルネはそう言うと、徐に自らの懐に手を入れて。そうして彼女が取り出したのは、一本の鍵。
「か、鍵……?」
特に変わったところもない、何の変哲もない、至って普通の鍵である。強いて言えば、妙に真新しいことくらいだ。
それをメルネはテーブルの上に置くと、スッとラグナの前にまで押しやった。
「今日まで黙っていて、隠していてごめんなさい。ラグナ……この鍵はね、元々あなたが持っていたものなの。病院の寝台で眠っていたあなたの懐に、入っていたのよ」
「そ、そうなんですか?」
「ええ」
目を丸くするラグナにそう言って、更にメルネは続ける。
「ロブのお店はわかるでしょ?あそこを先に進んで少しすると、ある一軒家が見えてくるわ」
「え?は、はい」
メルネにそう言われて、ラグナは堪らず信じられないような声音を出してしまう。何故ならば、今までその道の先には、行かせてもらえなかったから。
『駄目。この先には、行っちゃ駄目』
という一言で、メルネにはその先へ進むことを固く禁じられていたのだから。
そうして自ずとラグナは察する。メルネが頑なに進ませようとはしなかった理由と、彼女の言う一軒家が何なのか────一体、誰の家なのかを。
「あなたの目で、確かめて」
目の前に差し出された鍵を見つめ、様々な思案を脳裏に巡らすラグナに対して。心の底から案じる表情と、祈るかのような声音で、メルネはそう言うのだった。
──────────それが今朝の、メルネとの会話。その全容を思い起こし、手元にあるその鍵を見つめながら、ラグナは思い返す。
果たして、この目で確かめてもいいのかと。このまま、本当に確かめてしまっても、大丈夫なのかと。
「…………」
そうして数分の間、言い知れない恐怖にもよく似た躊躇いを抱いてしまい、玄関前で立ち往生していたラグナであったが。
「……よ、よし……!」
と、震えながらも強い決意に満ちた声音で呟き、鍵を握り締め、扉を真っ直ぐ見据え────一歩、ようやっとその場から踏み出し。そのまま二歩三歩と、ラグナは進み、扉のすぐ目の前にまで立つ。
──確かめなきゃ。私は、クラハさんを……そしてラグナを確かめなきゃいけないんだ。
そう心の中で、己を奮い立たせる為の言葉を紡ぎながら。意を決したラグナは扉の鍵穴へ、遂に鍵を差し込んだ。
「お、お邪魔します……」
そしていよいよ以てその家の────クラハ=ウインドアの自宅の扉を開き、その中へと、ラグナは足を踏み入れた。