終焉の始まり(その二十)
「その名前、凄く安心します。本当に、不思議……」
それは安堵したような。心の底から、安心しているような。柔らかで、穏やかで、そして嬉しそうな表情────それはメルネが初めて目にする、ラグナの表情であった。
ラグナの、そんな表情を。こうして、望まずして目の当たりにしてしまったメルネが────
──…………は…………?
────と、声に出さずにいられらことは、殆ど奇跡のようなものだったが。しかし、それでも今の今まで浮かべていたその微笑みを保たせることまでは、流石に叶わなかった。
失望と絶望の両方が入り混じり、入り乱れる、愕然とした表情。まるで一切揺るがない強固な信頼を置いていた人物から、酷で堪え難い裏切りに遭わされたかのような、その表情。それを目にした誰もがきっと、メルネが今、これ以上にない程に動揺しているのだと、容易に察せられることだろう。
だが、不幸中の幸いというべきか。偶然にも、その時ラグナの視線は下に向けられており。それ故に、ラグナがメルネの顔を目にすることはなかったのである。
ほんの一瞬。その間、秒にすら満たない、僅かなその一瞬────それだけで、充分であった。
「クラハ、さん?という方について教えてくれませんか?もしかして『大翼の不死鳥』の冒険者さんなんですか?あれ、でも皆さんそんな名前、口にはしていませんよね。それだと、まさか私の知人の一人だったり……?」
「……ええ、そうね。そうなの、ラグナ。クラハは、あなたの知り合いよ」
つい先程、今し方浮かべていた表情はとうに消え失せ。ラグナがそう訊ねる頃には既に、メルネは余裕に満ち溢れた微笑みを何事もなかったかのように、その顔に浮かばせていた。
「やっぱりそうなんですね……な、ならクラハさんについて聞かせてくれませんか!?もしかしたら私、何か思い出せるかも……!」
思いもよらぬ形で、降って湧いた、失われた己の記憶の手かがり。ただでさえ記憶喪失の身となってしまったことに、必要以上の負い目を感じているラグナが。その手がかりに対して光明の兆しを見出し、希望に目を輝かせることは当然であり、そして必然であり。
その穢れなき純真無垢な輝きはメルネにとって────あまりにも眩しかった。痛い程に、眩し過ぎたのである。
「ごめんなさい、ラグナ。私としても話してあげたいのは山々なのだけど……クラハとあなたの関係はその、複雑で。とてもじゃないけど、今からじゃあ話し切れないわ」
という、建前で以て。ラグナからの頼みをやんわりと、穏便に波風を立てないように断るメルネ。
「そ、そうですか。そう、なんですね……わかりました」
「そんな残念そうにしないで。クラハについては明日、ゆっくり話してあげるから」
堪らず残念そうにしながらも、ラグナは納得した様子で素直に引き退る。そんなラグナに対して、メルネは優しげな声音でそう言うと、静かに椅子から立ち上がった。
「これで私はもう寝るわ。今日はなんだかちょっと、疲れちゃってたみたい」
「はい。おやすみなさい、メルネ」
「ええ。おやすみ、ラグナ」
そうして二人の会話は終わり。メルネは踵を返し、ラグナに背を向け、自分の寝室に向かう為にその場から歩き出す。
ゆっくりと遠去かるメルネの背中を、何を思うでもなく呆然と見つめるラグナ────それ故に、気づかなかった。
こちらに背を向けるメルネの顔から、微笑みが消し去られ。その代わりに浮かべられた虚無の無表情と。そして彼女の水色の瞳の奥に見える、淀み穢れた、仄昏い光に。
「……………ふぅ」
リビングにラグナを残して、独り寝室へと向かったメルネ。彼女は扉を開き、室内に足を踏み入れさせ、扉を閉めると。そのまま、背中を扉に押しつけて、ため息を吐いた。
「ふう、ふー……ふぅぅぅ……」
続けて、数回。メルネは浅く息を吐き出すことを繰り返し。それから徐に右手の人差し指を、自らの口元に近づけ、唇に触れさせ。
ガリ──そして、噛んだ。遅れて、メルネの指から血が流れ、滴る。
──何で?
指を噛んだまま、噛み続けながら。その淀み穢れた、仄昏い光を零しながら。ただひたすらに困惑し、何処までも混乱している表情を浮かべながら、内心呟くメルネ。
──何で?何で?何で……?どうして、どうして、どうして……。
そうして、食んでいた指を口から離し。噛んだ痕から溢れる血が床に垂れ落ちるのも構わず、だらんと力なく腕をぶら下げて。沈黙していたメルネが、己の血で彩られた唇を、開かせる。
「何でよぉ……?どうしてよぉ……?」
開かせて、メルネはそう言うのだった。
『例え本人にその覚えがなくとも、そんな自覚がなくたって。きっと心には……そうなった人物の傷痕自体は確かに残っているはずよ』
女医────ミザリー=エスターの言葉がメルネの脳裏で響く。鮮明に、克明に、まるで今彼女が目の前に立って、こちらにそう言っているように。
けれど、それはあくまでも可能性の話だ。そういう可能性があるかもしれないという、話のはずだった────少なくとも、メルネにとってはそうだった。
「だって今までそんな素振りなかったじゃない?そんな様子なかったじゃない……憶えていなかったじゃないのよぉ……っ」
と、口惜しそうに呟くメルネ。そう呟く彼女の瞳は瞳孔が完全に開き切っており、ただ一点を見つめ続けていた。
「ねえ、何でぇ……?何でよ、ねぇ……?」
離れない。消えない。失せない。
『その名前、凄く安心します。本当に、不思議……』
今し方耳にした、その安堵し切った柔らかな声が。今し方目にした、その安心し切った表情が。どうにも、どうしても。
「……………」
苛立たしかった。
「……何で、貴方なの……?」
腹立たしかった。煩わしかった。鬱陶しかった。
「まだ、貴方なの?また貴方なの……?」
憎たらしかった。恨めしかった。赦せなかった。
「貴方なのね、クラハ…………!」
その名を口にした途端、メルネの脳裏で記憶が弾ける。次々と、遠慮容赦なく。
『はい。僕は今日を以て。『大翼の不死鳥』から脱退し、冒険者を辞めます』
『あなた達がどんなに、どれだけそう言おうがそれはあなた達の勝手だ。……ですが、その勝手を僕にまで押しつけないでください』
『貴女にはその資格がある。そうする資格を、貴女は持っています』
『僕は肯定します。貴女のそれは正しい。何も間違っていない』
『故に僕は逃げも隠れもしない。だから、貴女はそうすべきだ』
そうしてそれらが、その数え切れない憎悪と計り知れない怨恨が。メルネ=クリスタという一人の女の背を押し────
「渡さない、取らせない……奪わせて、たまるものか」
────遂にとうとう、一線を踏み越えさせてしまった。
「ふ、ふふ。ふふふ、ふふふふ……」
と、薄ら不気味な笑い声を小さく漏らしながら。失望と絶望から変異した、破滅的な狂気の爛光を。強く、眩く輝かせながら。
「私が救うの。今度は私が救う。救う、救う救う救うふふふふふ」
そう言うや否や、メルネは扉から少し離れ。振り返り、先程閉めたばかりの扉を開き、寝室から出ると。
そのまま、ふらふらとした危なげな足取りで、彼女は歩き出すのだった。