終焉の始まり(その十一)
「あらあら。二人して仲良く……一体、何を話しているのかしら」
ロックスが数日前の出来事を脳裏で思い起こしていると、不意にそんな声がして。声がした方へ彼が顔をやり、そして釣られてラグナも顔を向ける。
ロックスとラグナ、二人の視線の先に立っていたのは────一人の女性。大まかな部分は同じだが、要所要所の細部に凝った意匠を施された、代表に相応しい赤を基調とした受付嬢の制服にその身を包む、空色の髪と薄い水色の瞳を持つ彼女。
その名を、メルネ。メルネ=クリスタ。着ている制服が示す通り、この『大翼の不死鳥』の代表受付嬢である。
「別に大した話じゃありませんよ、姐さん」
ゆったりと落ち着いた歩調で、ゆっくりとこちらに歩いて来るメルネに、ロックスはそう言う。
「あら、そうなの」
と、意外そうに呟くとほぼ同時に、メルネは二人の────正確に言えばラグナの近くにまで歩み寄り。そうして、何をしたらいいのかわからないという風に、所在なげにその場に佇むラグナの両肩に。そっと、彼女は自分の両手を乗せるのだった。
「こんなにもラグナが緊張してるから、私はてっきり大事な話でもしてるのかと」
そんなメルネの言葉に、気を憚られるようにしながらも、ラグナが言葉を返す。
「メルネさん、私は緊張なんて……」
ギュ──が、透かさず。肩に乗せていた両手を前に伸ばし。首に腕を回すようにして、メルネはラグナを背後から抱き締めた。
「さん付けは止してって、あんなに言ったじゃない。私たちはそんな余所余所しい関係じゃあないんだから」
ラグナの胸の上に重ね合わせた両手を置き、ラグナの背中に自らの胸を押し当て潰し、ラグナの身体に体重をかけながらしなだれるように寄りかかり。
そして最後に、ラグナの耳元に口を近づけて、そう囁きかけるメルネ。
「ふ、ふえぇ……!?」
対するラグナは、メルネのあまりにも突然で唐突な、予想外で。衆目の視線などまるで気にせず意に介さない、大胆極まりない行動を前に。頬を赤らめさせ、ただただ羞恥と当惑が入り混じった悲鳴を漏らすことしかできないでいた。
「ね?わかった?」
「わ、わかりましたメルネさ……メ、メルネ!だから、あの、は、恥ずかしい、ので……!」
と、消え入りそうな声で呻くように言うラグナの顔は、今にでも炎上するのではないかと思う程に、真っ赤に染め尽くされており。そんなラグナをメルネは可愛らしい小動物を愛でるような眼差しで見つめる。
「ええ、今離れるわ」
若干涙目になり、その小さな身体を弱々しく震わせるラグナに。揶揄うような、少し意地悪な声音で言い。その言葉通り、ようやっとメルネはラグナから離れるのだった。
「じゃ、じゃあ私戻りますっ」
メルネから解放されるや否や、赤いままにそう言い残して、逃げるようにこの場から慌てて立ち去るラグナ。メルネといえば、そんなラグナの背中を和やかな微笑を浮かべながら見送っていた。
──……。
目の前で繰り広げられた、視線のやり場に困る、ある意味仲睦まじいやり取り。その一部始終の全てを見届けたロックスは────彼らしからぬ、似つかわしくはない複雑な表情を、その顔に浮かべるのであった。
「確かに、君の言う通りだよメルネ。今はこれ以上、刺激を与えるべきではないね」
ミザリアからの話を全て聞き終えた三人は部屋から出て、廊下で話し合っており。メルネの言葉を聞いたグィンが頷き納得しながらそう言うが、しかしロックスはそうではなく。彼は様々な感情が入り混じる複雑な表情を浮かべていた。
「……まあ、俺としても伏せておくっていうのは賛成です。賛成なんですが、ね」
と、罪悪感が薄らと滲んだ、苦々しい声音で。そう呟くロックスに、メルネが顔を向ける。
「奥歯に物が挟まったような言い方するのね、ロックス」
不服そうに、若干の苛立ちを込めた声で、圧をかけるように言うメルネ。けれどロックスはそれに臆することなく、冷静に彼女に訊ねる。
「姐さん。これはラグナの為を想ってのこと……ですよね?」
ロックスの質問に対し、メルネがすぐに答えることはなく。言い知れない数秒の沈黙の後、彼女は開くと。
「何でそんなこと訊くの?」
静かに、そう訊き返すのだった。
その声音には決して小さく薄くはない、怒気が含まれていることは明白で。そしてそのことをロックスがわかっていない訳もなく、だがそれでも彼は気圧されず、まるで食ってかかるようにして言う。
「ラグナの為、なんですよね」
「当たり前じゃない」
先程とは違い、今度は食い気味になって答えるメルネ。そうして二人の間に静寂が流れ────
「さて。私としては非常に心苦しいこと、この上ないのだけど」
────直後、珍しく声高にグィンが言い、ロックスとメルネの間に割って入るのだった。
「冒険者組合の長として、いつまでも留守にしている訳にはいかない。ということで、君たちにはラグナのことを任せたいのだけど……いいかな?」
と、微笑を浮かべるグィンに訊ねられ、ロックスとメルネの二人は互いに固い表情のままに、口を開く。
「ええ、任せてください」
「わかりました」
二人からの返事を受け取り、グィンがその場から去って、少し。未だ険悪な雰囲気の最中、メルネはロックスに言う。
「ラグナの病室はこの先よ」
そして言うや否や歩き出したメルネに、ロックスは黙って続くのであった。
「言いたいことがあるのなら、別に言ってくれても構わないのだけど」
ラグナの方に顔を向けたまま、不意にメルネがそう呟き。少しの沈黙を挟んでから、ロックスは口を開く。
「いや何、姐さんの方こそ随分、ラグナと仲良く……親密になったものだなと」
というロックスの言葉に、メルネは何も言わない。彼女は依然としてロックスに背を向けたままで。だが彼はそれでも構わず、メルネに対して言葉を続ける。
「それこそ前よりも、ずっと。さっきのやり取りなんて、傍目からすれば年齢の離れた姉妹のようでしたし」
「……ロックス。貴方は何が言いたいのかしら」
他の誰が聴いたとしても、そのメルネの声は普段と変わらないと、きっと誰もがそう思うことだろう────今ここにいる、ロックス一人を除いて。
まるで次の瞬間にはこちらに襲いかからんとしている〝殲滅級〟、それも最上にして最悪の〝絶滅級〟まで、あともう少しで至ろうとしている魔物と対峙しているかのような。そんな威圧感をひしひしと全身で味わいながらも、臆さず退かずにロックスは口を開かせる。
「姐さん、貴女は……」
が、そこで躊躇い、言い淀み────
「ラグナがラグナに見えているんですよね?」
────しかし、それでもロックスは口に出した。下手をすれば、致命的な瓦解を招く、崩壊の一言を。
重苦しい沈黙から織成されるその静寂は、筆舌に尽くし難い程の緊張感を伴っており。周囲の喧騒など、遥か遠くのことのように思えてしまう。
数秒が数分、数分が数時間にも引き伸ばされるような感覚に襲われ。堪らず冷や汗を流しながら、それでも独り待つロックス。そんな彼に対し、メルネは背を向けていた────
「変なことを言うのね、ロックス。ラグナはラグナじゃない」
────が、彼女は突如振り返り。満面の笑顔を携え、ロックスへとそう言うのだった。
「それじゃあ私も仕事に戻るとするわ。部下が働いている前で、いつまでもこうしている訳にはいかないもの」
と、続け。メルネはその場から歩き出し、この場を後にしようとする。そうしてロックスとすれ違う、その瞬間。
「決めたから」
短く、ロックスにそう言い残し。そして彼女は足早にこの場から去るのであった。
「……姐さん」
メルネの背中が目で見ているよりもずっと遠のいているように思いながら、ロックスは静かに呟く。
己の胸の内にどろりとへばりつく、そこはかとない不穏と。一々脳裏を過って仕方がない、一抹の不安に。どうしようもない煩わしさを抱きながら。