今、目の前にいるのは
加筆修正しました。
「ん、なッ……」
という、驚愕の声を僕は上げずにはいられなかった。叫ばなかっただけでも、御の字だろう。
何故ならば。目を見開かせた先にあったのが────こちらをただじっと見据える先輩の顔だったのだから。
互いの吐息でさえかかる程の至近距離にまで、先輩がその顔を近づけていたのだから。
「せ、先輩……っ!」
咄嗟に、反射的に。特に何を思う訳でもなく、僕がそう口にした瞬間。こちらを見据える先輩の視線から無意識に逃れようとしたのか、一瞬視線を下に向けて────僕の頭の中は真っ白になった。
──……は?
そこにあったのは、たわわに実った二つの膨らみ。その背丈に反して大きく、それでいて形も綺麗に整った肌色の────果実。
本来ならば下着と衣服に包み隠されてなければならないそれらが。今、僕の眼前に惜しげもなく、これでもかと曝け出されていた。
そしてそのさらに下に続く光景も同様で──────
「先輩ッ!?な、何で服、きき、着てないんですか……!?」
──────そこで僕は正気を取り戻し、言いながら顔を逸らそうとした。
だが、僕がそうする事はできなかった。
「顔逸らすな。……こっち、ちゃんと見ろ」
一糸纏わぬ全裸で。こちらに向き合う形で僕の膝の上に座る先輩が、僕の両頬を両手で包み込みながらそう言ったからだ。
その言葉には、その声には上手く表現しようのない、こちらに有無を言わせない迫力があって。だから僕は思わず、その言葉に従ってしまっていた。
先輩の瞳に、髪と同じ色をしたその瞳の奥に、僕の顔が映り込んでいる。予期せぬこの状況下に、情けなく狼狽え困惑し、そうして赤らんだ僕の顔が。
そんな自分の顔を、そんな有様を。滑稽だなと、心の片隅で他人事のように思っていると。同じく僕の顔を真摯に見つめる先輩が、その口を開く。
「お前、言ったよな。俺の事まだ先輩だって、思ってるって。……そう言ってたよな」
言って、先輩はさらに続けた。
「本当にそう思ってんのか?今の俺が先輩だって……お前は本気で、そう思えんのか?」
そう、訊かれて。その時初めて──────僕は気づいた。
「え……あ……」
気づかされて、しまった。
まるで今まで、己の中で時が止まっていたように。今の今まで無視していた事実を、ふとした拍子に受け入れてしまうように。途端に、僕はありありと感じ取る。
今の今まで気にならなかった。気にも留めなかった。膝に伝わる先輩の太腿の感触。先輩からふわりと漂う、仄かに甘い匂い。
──……違う。
僕の両頬を包む小さな両手。細い手首に、華奢な腕と肩。括れた腰。全体的に痩せてはいるが、要所要所は程良く肉付いた、柔そうな身体。
──違う……。
考えてみれば、それは当たり前の事だった。ただ、僕がそれに気づけなかった。
知らず知らず、気づかないようにしていた。受け止めないように────受け入れないようにしていた。
──こんなの、違う。
だが、こうして。直面させられて、僕は今初めて認識した。そうなのだと、自覚させられた。
──……ああ、そうか。そうだったんだ。
今、僕の膝に座っているのは。今、僕のすぐ目の前にいるのは──────
──僕の知らない女の子。
ガツン、と。まるで鈍器で後頭部を思い切り殴られたような衝撃。無論、それはただの錯覚に過ぎない。
……けど、僕にとってはどうしようもない現実そのものだった。
何も言えず、呆然としてしまって、もはやどうすればいいのかわからないで、硬直する他ないでいる僕に。そんな不甲斐なくて情けない男に、先輩は言う。
「クラハ。もう一回、言ってみろよ。さっきと同じ事、面と向かって……今の俺に言ってみせろよ」
その時、目と鼻の先にある先輩の顔は、そこに浮かんでいた表情は────
「なあ」
────僕の全く知らない、未知のもの。
まるで親と逸れてしまった子供のような。今すぐにでも誰かの背中に寄りかかりたいような。誰かの腕に縋りたがっているような。
そんな不安と恐怖に脅かされている者の、表情。
こんな表情────少なくとも僕が知る先輩は、僕が知っているラグナ=アルティ=ブレイズはしない。絶対にしない。
故に────重なり合わない。噛み合わない。合致しない。
如何ともし難い、そんな気持ち悪い違和感が、じっとりと僕の心に広がっていく。そうして自然と背中に嫌な汗が、滲み出す。
違う、そんな事はない────頭ではそうとわかっていた。だが、僕の心はわかってくれなかった。
……いや、それは逆だったのかもしれない。
先輩は見つめる。僕の顔を見据える。僕が知らない、女の子の顔で。無言でただ、じっと。
この時取るべき選択肢など、一つだけだった。そしてそれは至極、簡単なものだった。
「っ……ぅ……」
簡単なものだと、簡単な事だと。頭では確かに、そう理解していたのに。
「ぅ、あ……」
僕は即座に答えるべきだった。もう一度、その言葉を伝えるべきだった。
『僕にとって先輩は先輩です。誰よりも尊敬すべき、僕の大切な恩人なんです』
そう、言わなければならなかったのだ。ラグナ=アルティ=ブレイズの後輩として。
……けれど、この時僕は──────
「…………っ」
──────言葉にならない呻き声だけを漏らして、目を逸らす事しかできなかった。
『顔、逸らすな。……こっち、ちゃんと見ろ』
先程、そう言われたにも拘らず。後輩であるにも拘らず。
……けれど、そんな僕を。そんな裏切り者の事を。先輩は────責めなかった。罵倒する事も、怒鳴りつける事もせず。
「……そうだよな。お前、嘘吐けないもんな」
ただ、僕にそう言うだけだった。その声音は酷く優しくて、穏やかで────寂しそうだった。
その声を聴いて、僕はハッと咄嗟に逸らした目線を戻そうとした。
……だが、それよりも先輩が僕の膝から下りるのが早かった。
「こんな時間に悪かった」
言って、先輩は僕に、髪に覆い隠されたその小さな背中を向けて。
床に落ちていた寝間着代わりの僕のシャツを拾い、羽織る。そうして、その場から歩き出す。
先輩の背中が遠去かっていく。僕の前から、先輩が離れていく。
それを、僕はただ見送る事しかできないでいる。
「せ、先輩っ!」
だがしかし。先輩がリビングから出る直前、僕は辛くもそう声を出す事ができた。扉を開けたまま、こちらに背中を向けたまま、先輩がそこで立ち止まる。
恐らく。それは期待の表れだったのだろう。僕からの言葉を、待ち望んでいてくれたのだろう。
……なのに。
「せ、先輩……あの、その……僕は、僕は………」
そんな事しか、口から吐き出せなかった。
「……おやすみ」
そうして。先輩はこちらに背を向けたまま、一言残して、リビングから出た。
扉の向こうに先輩の姿が消え、扉が静かに閉じられる様を見せつけられて。それでも、なお。
──……僕、は
昏く深い絶望の中へ沈みながら、己が一体どれだけ不甲斐なく情けなく、そして惨めな存在なのだと思い知らされながら。
「僕は…………」
ただそう呟き、ソファの上で打ち拉がれた。
 




