影
修正しました。
結果を先に述べてしまうなら、案外早々にラグナは馴染んだ。
『大翼の不死鳥』新人受付嬢として、ラグナ=アルティ=ブレイズは周囲に馴染み、そして周囲に受け入れられたのである。
元々、ラグナは別に要領が悪いという事はなく。寧ろその辺りは下手な新人よりもずっと良い方だ。
なので冒険者組合の受付嬢としての仕事の諸々を、並々ならない速度で吸収し、次々と覚えていった。
それこそ、クーリネアら先輩受付嬢たちからのはもちろんの事。メルネの教育及び監督が早々必要にならなくなってしまう程、手際良く、効率的に。
「凄いです。流石としか言い様がありませんよ……ラグナちゃ、いえブレイズさん。まるでスポンジみたいなんです」
というクーリネアの言葉は決して大袈裟でも何でもなく、まさにその通りで。
とにかくこの時のラグナはまるでのめり込むように、受付嬢の何たるかを順調に学び、そして快調に覚えていった。
……だが、実のところメルネはそれを素直には喜べず。好意的に受け取れないでもいた。
「…………」
メルネは見つめる。静かに、一言も呟かないままに。ただ遠目から、見守るようにその光景を眺める。
「この依頼を受けたいのか?んじゃちょっと確認するな」
「え、ええ。お願いします……」
緊張した面持ちの、まだ年若い、如何にも駆け出しといった風体である青年の冒険者から依頼書を受け取り。
その内容に一通り目を通し、受注に関する条件等の注意事項を指でなぞる。
「……よし!受注条件に違反とかしてないし、大丈夫だぞ」
依頼書の確認を終えて、そう言いながら青年に依頼書を返す。と、同時にこうも付け加えた。
「あ、無茶とかすんじゃねえよ?あと怪我とかも。無事、『大翼の不死鳥』に帰る事。いいな?」
「りょ、了解です」
こちらの身を案じる言葉を受け止め、青年は緊張で固くなった表情をより一層、険しく引き締める。そんな彼に対し────
「そんじゃ改めて────行ってらっしゃい!」
────と、ラグナは満天の下で立派に咲き誇る、向日葵のような。そんな眩しく輝く、屈託のない笑顔を贈るのだった。
「…………は、はい!」
僅かな悪意も、微かな邪気もない。何の混じり気もない純真無垢で天真爛漫なラグナの笑顔を目の当たりにしてしまった青年だが。彼がそれにいとも容易く見惚れてしまうのは、もはや自明の理というもので。
しかし、青年はすぐさま我に返ると、己の不甲斐なさだったり情けなさだったり、そういったものを隠し誤魔化すが如く。しゃんとした返事をし。共に踵を返し、駆けるようにして受付台を後にした。
……なお、背を向けられたラグナが知る由もない事であるが。遠目から眺めていたメルネは当然として、周りの冒険者たちも。
ラグナの「行ってらっしゃい!」を受け、『大翼の不死鳥』を出るその時まで。
その青年の顔が、だらしなく弛緩していた事を、今この場にいる誰もが確認していた。
まあそれはさて置くとして。ラグナの、冒険者と接する受付嬢としての一連の流れを見終え、特に指摘すべき問題点もなかった事に。
メルネは安堵し────そして危惧するのだった。
──あのラグナの笑顔は少し……いえ、かなり危険ね。後々、色々と誤解させかないわ。
決して、決してラグナにそんな気も考えもないのだろうが。
だがしかし、その当人になくても他はこうも思わざるを得ない────八方美人、と。
そしてラグナの場合、悪意や打算といったものがない分、余計に質が悪い。
遅かれ早かれ、要らぬ問題を自らの元に舞い込ませるに違いない。メルネとしてはそれをどうにか防ぎたいのである。
良く言えば大らか。悪く言ってしまえば大雑把。そんなラグナではあるが、その実内面は意外と繊細で脆く。特に人の感情に敏感な分、それが顕著だ。
簡単に表するのなら、ラグナは精神的に傷つき易い。
なので、人の感情というものが諸に出る、そういった問題にはなるべく、ラグナを接しさせたくない。
ある種の我儘とも言える考えを抱くメルネは────深く、ため息を吐いた。
──なんて、どうしようもない現実逃避はそろそろ止めなきゃね。
また別の、今度は冒険隊を組んでいるらしい複数人の冒険者の相手をするラグナ。この場合でも問題らしい問題もなく、ラグナは卒なく対応できている。
受付嬢としての振る舞いが板についているラグナであるが、その様を俯瞰するメルネは思う────果たして、これで良いのだろうか。これで良かったのだろうか、と。
……否。本当のところはわかっている。これは、良くない流れだと。メルネとて、もう。もう三日も経ってしまえばわかってしまう。
『うっっっさいッ!!…………メルネは、関係ねえから……っ!』
三日経っても尚。七十二時間が過ぎても、それでも尚。その言葉が生々しい響きでメルネの鼓膜にこびりついている。
あの時向けられた、怒りと淋しさと虚しさが入り乱れた、筆舌に尽くし難い表情が。
ちっとも薄れず霞まず、痛々しい程鮮明にメルネの視界にへばりついてしまっている。
そして何よりも堪えるのが────抉るかのように心に植え付け刻み込まれた、この疎外感だった。
ラグナに悪気があった訳ではない。傷つけたいが為に拒絶した訳ではないという事は、メルネも重々承知している。事実、あの後すぐに。我に返ったようにラグナはメルネに謝った。
だがそれでも、ラグナの謝罪の言葉があっても。一時的な、それこそただの一瞬の時であったとしても。
ラグナがこちらの事を拒んだという現実が消える訳でも、その事実が覆る訳でもない。
憤りは噴かなかった。ただただ、後悔が募った。自分は間違えたのだという、取り返しのつかない過ちの思いだけがあった。
その思いが、メルネの心の中に在り続けた。
──…………。
そして、もう一つ。
『僕に近づくなァッ!!』
その声の主が一体誰なのか、知らぬメルネではない。
しかし彼此、もう三日。メルネはもう、その顔も姿も目にしていない。一度たりとも、していない。
三日前。あの日、あの時。自分がいない間に、『大翼の不死鳥』の広間にて。
一体、どのようなやり取りがあったのか────それが容易に想像できてしまい、メルネはさらに鬱屈とした、ため息を吐いた。
──どうして、こうなったのかしら。
まるで出口の用意されてない迷路を彷徨うかのような心境で、メルネは呟く。そして諦観する。
この自問もまた、自分はこれから何度も。幾度としつこく繰り返すのだろう、と。
──本当にどうして……。
そうしてメルネが傷心的に思い耽る間に、ラグナは冒険隊の対応を終え、青年の冒険者の時と全く同じ、向日葵の笑顔で以て冒険者たちを見送った。
ラグナに笑顔で見送られて、冒険隊は『大翼の不死鳥』を発つ。彼らは門を開き、依頼を達成する為にこの場を後にする。
果たして、気づいた者はどの程度いるのだろうか。認識し得た者はどの程度いるのだろうか。
冒険隊とすれ違いながら、音もなく。さながら影のように滑り込んだそれに、視線や意識をやれた者は何人いたのだろうか。
ただ、確実に言えるのは────二人。軽く十、二十を越す。決して少なくはない人間がいる最中、たったの二人だけ。
メルネと。そして────────ラグナの二人だけだった。
「────」
一瞬にしてラグナの顔が凍りつく。煌めく紅玉が如きその瞳が見開かれる。
影が伸びる。静かに、鋭く伸びる。受付台の中で固まるラグナの事を他所に、影は瞬く間に────メルネの元に伸び切った。
「……三日振り、ね」
沈黙を一瞬挟み、メルネは相対する影にそう告げる。
彼女に倣うように沈黙を挟み、その影は──────────
「……ええ。お久し振りです、メルネさん」
──────────否、クラハ=ウインドアは。静かに、淡々とそう言葉を返した。




