2-1 いよいよ出発
出発の朝、自室にて準備を終え、一息ついているナユカに、落ち着かない体のフィリスが声を掛ける。
「忘れ物はないよね?」
「ないよ」
礼儀正しいこの異邦人にしては、珍しくぶっきらぼうな口ぶり。しかし、同居人もそれで退くことはない。
「ないと思うから忘れ物なんだよ。もう一回、中を調べたほうが……」
指差された先、ナユカが持っていくのは、本格登山用のようなバックパック。
「それ、もう二回やった」
「そうだけど……でも、念のために……」
ここはもうロジックで……というより、詭弁で対抗。
「忘れてるから忘れ物なんでしょ? だから、これ以上、中を見ても意味ないと思う」
「そうかな……」
納得いかないようなので、実務面から。
「出したら片付けるの面倒だし、仕舞い忘れたらやだし」
「そう……。あ、そういえば……あの薬も持っていったほうが」
薬の入ったケースへ向かおうとする医師を、旅人が制止する。
「もう十分入ってるよ。それに、もう入らないから」
「もう少し詰めれば、なんとか……」
「それだと、また中を整理しなきゃならないから……」
「じゃ、じゃあ……服のどこかに」
「ポケットには、もう酔い止めが入ってるし、他にもいろいろ入れるから」
ポケットの中が薬詰めなんて、戦闘準備した魔導士かと。それに、空きのポケットがなくなるのは不便だ。
「それじゃ、せめて、これだけでも……」
フィリスが小さめの薬袋を手渡そうとする。受け取る前に、ナユカはそれを指差して聞く。
「それ、何の薬?」
「これは、精神安定効果のある……つまり、精神攻撃魔法を受けたときなんかに……」
「それ、わたしには効かないよね」
「ユーカにも効くはずだけど……非魔法薬だから」
「そういう意味じゃなくて……魔法が効かないでしょ、わたしには」
「あ? あ、そうだよね……そうだった……だから外したんだっけ」
なんかもう、ボケているのか、パニクっているのか……今、自分で使ったほうがいいのではないだろうか? 素直な彼女にしては、シニカルな感想を抱く。
「……だよね」
「……でもね、やっぱり持ってたほうがいいと思うんだ。使えば気持ちが落ち着くから」
それでも食い下がられたため、ナユカは少し考えて承諾。持っていかないと、フィリスの気持ちが落ち着かないのだろう。
「……わかった、持ってく。でも、これで終わり」
出掛けの旅人は、薬をどうにかバッグの中へ押し込む。それを確認した健康管理責任者は、まだ他の薬を持っていかせたいのか、薬箱のほうへ視線を移す。
「……」
黙ってじっと見つめている姿に、ナユカは危険を感じ取る。
「出かける前に少し落ち着きたいから、もう荷物はそのままね」
そう言われては、医者も引き下がるしかない。まだ追加したい気持ちをぐぐっと抑える。
「あ、うん……わかった……」
いちおう言質を得て、ナユカはソファにゆったりと座る。ようやく落ち着けそうだ……。自然に息が漏れる。
「ふぅ」
心配してくれるのはありがたいが、同居人の世話焼きもここまでくると困りもの。事実、本人にもその自覚はありそうで……。
「お茶、入れてくる」
いったん離れて冷静になろうということだろう。それに、お茶――といえば、たいていはセレ茶――には、鎮静作用がある。
一服してくつろいでから、リンディと合流すべく、ナユカは世話焼きのヒーラーと一緒に、早めに魔法省へ向かった。集合時間は九課の始業時間の一時間前、すなわち、他部署の始業時間と同じ時刻となっているが、それにしても出かけるのが、少々早い……。これは、旅人がせっかちなわけではなく、あのまま部屋でふたりでいると、またフィリスがあれを持ってけだの荷物を確認しろだのと口走りそうなので、早めに物のある場所から退散したせいだ。
そして、待ち合わせ場所となっているお馴染みの第九課へ入って間もなく、リンディが現れた。
「お待たせ」
といっても、いつものセデイターらしからず、来るべき時間の半時前。たいてい、約束時間には少し遅れてくることが多い彼女だが、別にルーズなわけではなく、準備があるのを考慮して少し遅れてくるというのがこの辺りでの慣習であり、それに則っているだけ。ただ、ここは役所なので、慣行を異にする。フリーランスであっても、公務に関わる場合は時間内に行動する必要があり、リンディもその点は基本的に無視はしない。
とはいえ、今回早く来たのは、おそらく、早く出発して早く向こうに到着したいという心理からだろう。つまりは、早く姉に会いたいという……。もちろん、ここで少しだけ時間を稼いだからといって、到着スケジュールが変わるものではないのを承知の上――あくまでも下意識のなせる業だ。
「あ。……おはようございます、リンディさん」
若干の驚きを口調で示したナユカと、言葉で示すフィリス。
「おはようございます。早いですねぇ」
「まーね……っていうか、そっちのが早いじゃないの。すぐ近くなのに」
朝なのに、いつもと違ってフリーランスのセデイターはシャキっとしている。
「ええ、まぁ……ユーカが早く来たがって」
ちらっと視線を向けてきた同居人がその元凶だ。当人は、本当は出掛けにもっとゆっくりしたかったのに、できなかっただけ。ゆえに、少しだけ機嫌が悪い。
「まぁ、ちょっと……なんとなく」
「楽しみで目が覚めた?」
からかい気味のシスコンには、それはそっちと返したくなる。
「……そんなところです」
ナユカの皮肉めいたニュアンスなど意に介さず、リンディは室内を見回す。
「……サンディは? 爆発した?」
爆発して木っ端微塵になって消えた――要するに、見当たらないという意味のよくある冗談なのだが、異邦人には意味不明。
「は?」
「するか」こちらのリア充が爆発するかはともかく、ナユカの印象ではリア充かもしれない既婚者のサンドラが、給湯室のほうから現れた。「顔、洗ってたんだよ」
「なんで? それ以上、綺麗になら……」言及先からギンと睨みが入り、リンディは咄嗟の軌道修正。「綺麗になってどうするのさ……」
歯が浮きそうだ……。お世辞の対象にすれば、否定が軌道修正されたのは明らか。
「おかげで眠気が飛んだ……どーも」
洗顔の効果か、それともイラついたせいか……まさか、おだてられたからじゃないよな……。ここは、とにかく先に進めるセデイター。
「えーと……早いね、来たの」
「あなたが早く来ると思ったからでしょ……ったく、もう」
「そうなの?」
「だから、今朝はわたしが鍵開け」九課課長は、ナユカとフィリスに視線を向ける。「来てみたら、そっちのふたりだったけど」
苦笑いする当人たち。九課の鍵は基本的に課長か課長秘書のミレットの、どちらか早く来たほうが開けることになっている。そのため、サンドラが来るまでの短い間、ふたりは九課の前で待っていた。無駄に早く来たりはしない秘書は、もうしばらくしたら現れるだろう。
「じゃ、まぁ……お茶でも入れてくるよ」
朝から調子と機嫌のいいリンディが入れてきたお茶を飲みながら四人でくつろいでいると、ちょうど約束の時間となる頃にミレットが現れ、昨日行った打ち合わせの確認に入る。単なる確認なので短時間で終わり、あとは課長からの追加事項。
「明日から、ルルーが常勤で来るから、よろしく。彼女、覚えてるよね? フィリス」
ルルーは、これまで主に外回りを任されていたものの、その心労から内勤を申し出た九課職員で、今まで長めの休暇を取っていた。それでも、その間に、本人の希望から、半休日の受付を二度ほど受け持ったことがある。ただ、フィリスとナユカが休みのときであり、リンディも来ていないため、その際は互いに顔を合わせていない。
「ええ。あのときはお疲れのようでしたけど……」
心身ともにすごく疲れていたように見え、健康管理責任者としては気にかかるところ。
「本人は十分休めたって言ってる」
「内勤になったんですよね?」
会ったときには、そういう話だった。
「そう。いちおう気は配っておいて」
もちろん、健康面について。それに、ナユカがいない間、この課内で他の人の健康を気遣うのは、この世話焼きヒーラーの気が紛れていいかもしれない。
「わかりました」
「それから……」課長は全員を見る。「彼女には、ユーカが異世界人であることや、魔法を無効化することは黙っておくこと」
「ふーん」
リンディはなんだか思わせぶり。
「戻ったばかりでややこしいことは、きついと思うんでね……」サンドラにとっては、隠しておくことに気疲れしそうだが……。「ばれそうになったら話すかもしれないけど、当面、できるだけそういう事態は避けるようにする」
「ひとりだけ知らないって、なんだか……」
という秘密の張本人に、旅の同行者が付け加える。
「後で知ったら、いじけるね」
「大丈夫。誰かと違うから」課長はリンディから秘書に視線を移す。「……だよね、ミレット」
「ええ。そう思います」
きっぱりとした肯定に、サンドラがにやける。
「言われちゃったね、リンディ」
「……どうせ、あたしならいじけるよ」
すでにいじけたような言い方だ。
「いえ、彼女についてのほうです」ミレットが同意したのは、リンディがいじけるということではなく、ルルーがいじけることはないという点。「おそらく、理解してくれると思います」
そのルルーは、なぜかミレットが一番話しやすいらしく、内勤への変更願いも秘書へいの一番に話していた。もっとも、そのときに九課で正規の業務をしていたのは、他には課長と着服犯と返ってこない外回りだったため、秘書に話したのは必然的な選択だったかもしれない。
「大人ですね」
フィリスが感心したため、リンディが突っかかる。
「あたしは、どうせガキですよ」
いじけるのが早すぎ。
「あ、いえ……わたしも、知らされなかったら納得いかないので」
「そうだよね。ふつうそうだよ」今度はフィリスへと同調したリンディ。「さすが上級医師」
心理を理解しているという意味なのだろうか……何がさすがなのか、はっきりはわからずとも、医師は意見、というよりも、感情の一致を見た。
「ともかく、そういうことだから気をつけて。特にフィリスは……」今の発言を聞くにつけ、情報を漏らさぬよう、課長として少しだけ釘を刺す。「当面、一緒にいるわけだから」
「はい、努力します」
こういう部下の言い回しを、上司としては看過しない。
「努力?」
「あ。……承知しました」
答え直したフィリスへ、リンディがにやっと笑う。
「話しちゃったら、サンディが『トレーニング』してくれるかも」
「トレーニング?」この単語に即座に反応したのは、ナユカ。どうしても、期待してしまう。「エクササイズとか?」
どんなブートキャンプになるのか……。いくら痩せたくても、フィリスはこう答えるしかない。
「決して、絶対、死んでも話しません」
「ま……いい、それで」リンディによる誘導の仕方に納得いかないものの、課長はとりあえず了承した。「それから……と」
少しの間が空く……。
「なに? 忘れた? ボケた?」
「そんなことで時間とっていいの? リンディ。なんだったら、いくらでも引き伸ばしてあげるけど?」
「あたしが悪かった……です」
早く出発したいシスコンは、あっさり敗北。
「向こうで合流する助手の名前を教えとく。名前は『ティアリッセ=フィブレ』」
「あー……もう一回」
聞き返したリンディに、サンドラはポケットからメモを出して渡す。受け取ったセデイターが、それに視線を落としたところで、課長はもう一度発音。
「『ティアリッセ=フィブレ』ね。『ティア』でいいってさ」
「『ティア』ね。簡単でいいや」
その助手を重用する気の見られないセデイターは、この一月ほどで文字と発音を覚えた異邦人に、名前の書かれたメモを手渡す。
「名前以外は……やっぱり教えてもらえないんですか?」
読めるようになったメモの文字をじっと見ているナユカに、サンドラがにっこり微笑む。
「後でリンディから聞いてね」
「それなら、是非会ってもらわなきゃ」
前日の、助手に関するほのめかしが同行者に効いている……。課長は満足。
「嫌がったら、ユーカがリンディを引きずっていって」
「そうですね……そうしましょうか」ナユカは、メモをリンディに返す。「ねえ?」
「……ちゃんと会うよ」
メモを受け取った。……ならば、約束をすっぽかすことはないだろう。
「それから……念のため言っておくけど」サンドラは、セデイターの同行者へ視線を向ける。「ユーカは、セデイトにはついて行かないように」
「ああ、はい」
どことなく軽い返答に、フィリスが釘を刺す。
「絶対にね」
「了解」
ナユカは、最近覚えたセレンディ語の単語を使ってみた。ただ、フィリスがいないのなら、ちょっとくらい同行してみようかとも思う。リンディはなんだかんだで許可してくれそうだし……。気楽にも聞こえる答え方から、そんな異世界人の心中を察した健康管理責任者は、セデイターのほうへ正対する。
「お願いしますね、リンディさん」
こういうときのフィリスは、迫力があって怖い。
「あ、はい。そう……します」
気圧されたリンディを見て、サンドラは微笑む。
「じゃ、いろいろと……頼むね」
「いろいろって、なんだっけ?」
リンディのボケに、課長はがっくり。
「はぁ……」
「ああ、はいはい。わかってるって」
「なんだったら、また最初から話そうか?」
「いえ、結構でございます」早く姉に会いたい妹は丁重にお断りし、同行者に向き直る。「それじゃ、そろそろ出発しようか」
「え? もう?」
代わりに答えたフィリスに、リンディが視線を向ける。
「まだ、なんかある?」
「ないです」
間を空けずに答えたナユカ。また忘れ物チェックをさせられるのは、御免被りたい……。ただ、同居人にはさすがにその気はもうないようだ。
「でも……もう少し落ち着いてから……」
「そう?」リンディは同行者を見る。「少しならいいけど?」
「いえ、十分落ち着きました」
正直、もう出かけたほうが落ち着く。
「あ、でも……」
なおも留めようとする世話焼きの肩にサンドラが手を置き、首を横に振る。
「もう行かせてあげたら?」
セレンディアでは、出かける人をやたらに引き止めるのは縁起がよくない。それはフィリスも知っている。
「はい……」
「じゃ、行こう」
立ち上がったリンディに、ナユカが続く。
「はい」
荷物を携えたふたりに、フィリスがこういう場合にお決まりの言葉。
「忘れ物はないですよね?」
しつこくも聞こえるが、この場の忘れ物という意味だろう。ナユカは最後のお付き合いとして、いちおう身の回りをさっと見る。
「ないよ」
「たぶんない」
リンディの言い回しに、フィリスが突っかかる。
「たぶん?」
ナユカ焦る。
「あ、ないですよね、リンディさん」
「ないよ。あたしが忘れてなければ」
もっとはっきり言って欲しい。
「それは、ないってことですよね」
「そう。あたしの知る限りはね」
ここで間隙を与えてはならない。
「うん、よかった。では、行きましょう」
「あ、そうだ」
「え?」
まさか……。また荷物を開ける……?
「用足してくる」
がくっとくるナユカ。だが、それは忘れていた。
「……わたしも行きます」
フィリスの引き止めも、多少は役に立ったのかもしれない。
そして、所用から戻ってきた旅人たち。改めて……。
「じゃ、行ってくる」
「行ってきます」
リンディとナユカが出口へ向かう。
「行ってらっしゃい」
サンドラは手を振り、ミレットが会釈。
「よいご旅行を」
「わたしは、外までお送りします」
フィリスは魔法省の玄関先まで、ふたりについてゆく。その間、さすがに自分を抑えて、面倒なことは口にしない……のみならず、ほとんど口を開かなかった。
「じゃ、またね」
リンディは前を向き、ナユカは振り返って手を振る。
「行ってくるね……心配してくれて、ありがと」
「気をつけて……いい旅を」
微笑んだフィリスは、出発した旅人たちの姿を見えなくなるまで見守っていた。