苦い帰郷
「海だわ!」
デルタ領へ向かう馬車の車窓に張り付いて目を輝かせていたミモザは、建物の隙間から少しだけ見えた青色に、気持ちがはしゃいでつい声を上げる。
「どこ? 見えなかった」
「今通り過ぎた黄色い壁の向こう側に……あっ、ほら!」
「本当だね」
指をさして教えると「ふふっ」と声を上げて笑った相手は、開いた窓の隙間から入る潮風で乱れた前髪を伸ばした指先で整えてくれた。それがくすぐったくて思わず目を瞑って、再度開くと優しい顔とかち合った。
嬉しくて思わず同じように声をあげて笑い合うと隣から「こほん」と控えめな咳払いが聞こえる。
「ミモザ、席から立つのは危ないです」
思わず二人の世界に入りかけていたミモザにかけられたのは「座って見ましょう?」という静かな声だった。
「ごめんなさい、ティア」
「いえ」
「ふふっ」
「何か?」
「ううん。楽しみだなぁって」
席についたミモザは隣に座る少女に肩を寄せて笑う。はじめは感情の起伏がない話し方や表情に距離を取られているのかと思って緊張していたが、一緒に過ごすようになってそれが彼女の性格であることが分かってきた。
ティティア・ライブラはミモザの侍女として王家から紹介された令嬢だった。
ライブラ伯爵家の息女であり、年はミモザと同じ。学園でもクラスは同じであったが今まで特に接点は持っていなかった相手だ。
アイスブルーの髪に灰色の目で、寡黙であり、決して表情も豊かな方ではない。はじめて対面したとき、ミモザは昔のメグレズのようだと思ったくらいだ。しかし見た目から受ける印象は冷たいようで、話す時はきちんと相手の目を見るし受け答えもそつがない。
将来的に側で仕えることを前提としての人事であろうが、ミモザは同級生の友人ができたことは素直に嬉しかった。スピカやレモンが居なくなって寂しかったせいもあるかもしれない。学園でも共に過ごすようになって相手のことが少しだけ分かるようになってきた。よく観察していれば感情の変化は言動の端々から読み取ることは難しくない。今だって愛想のないように見えて、ミモザの言葉に口の端がほのかに緩んでいる。きっと本人も気付かないくらいの変化なのだろう。それに気付くたびまた嬉しいと感じる。
「ティアはデルタ領に来たことはある?」
「いえ、私ははじめてです」
「私もよ。アルは何度か行かれていますよね。どんなところですか?」
「今は復興というより発展に近いかな。街の中を水路が走っていて景観が良いし、海が近いから食べ物も美味しい」
「わぁ」
思わず感嘆の声をあげたミモザを柔らかく見つめるアルコルの横で、さっきから一言も発しないメグレズに全員が視線を向ける。
「メグレズ、大丈夫?」
「メグレズ様……」
「す、すまない! 大丈夫だ」
心配そうに聞くアルコルに少し微笑んでいつものように片手で眼鏡を押し上げたメグレズは「もうすぐ着きますよ」と言った。
今回ミモザ達がメグレズの故郷であるデルタ領を訪れることになったのには二つ理由がある。
一つ目は、メグレズが久しぶりにデルタ領へ帰省することになって、それが心配だったからだ。
それを伝えられたのは学年が一つあがり、初夏にさしかかろうとしている頃だった。メグレズの兄がかねてより婚約していた相手と婚姻を結ぶことになり、その婚約式のため帰省をしなければならなくなったと。
『今まで何かと理由をつけて帰らなかったけれど、今回ばかりは流石に行かなきゃならないだろうな……』
そう言ったメグレズの声は固く、表情も暗く落ち込んでいた。メグレズがアルコルの従者となった経緯を知っていたミモザ達は、メグレズが躊躇う気持ちが分かっていたから何も言わずに顔を見合わせる。家庭の事情に首を突っ込む訳にもいかず、その日から落ち込み気味だったメグレズを励ましたり話を聞くことくらいしかできないでいた。
しかし数日後、それを打開できるかもしれない任務がミモザ達に齎された。それが二つ目の理由であるデルタ領への視察だった。
メグレズが王城へあがるきっかけとなった数年前の災害からの復興を続けてきたデルタ領は、その甲斐あって観光地としての賑わいを取り戻しつつあった。しかしまだ元の客足が戻った訳ではない。復興が済んだことを宣伝するにも口伝だけでは伝わりづらいし、一度離れた客足を取り戻すのは容易なことではなかった。
そこで白羽の矢が立ったのがアルコルとミモザである。婚約したばかりの二人が訪れたことで、話題になるのではないかと期待されての指名であった。
『いわゆる客寄せパンダよね。あ、パンダっているのは白と黒のツートンカラーの熊のことよ。すごい人気でパンダ見たさにお客さんが集まってくるっていう例えね』
どんな会話の流れだったかは忘れたが、今回の視察を言い渡された時にミモザは母に言われたことを思い出していた。名目上は視察だが、要はそういうことなのだろう。
王城でその話を聞かされたとき、アルコルもミモザも一も二もなく頷いた。これなら堂々とメグレズの帰郷について行けるし、傍でフォローできるかもしれない。
日取りや行程が調整され、迎えた今日。王都を発った頃にはまだ低かった陽も天辺近くまで昇ってきていた。開けた場所にさしかかり、その陽を浴びた青色の海が目の前に広がった。
「着きましたよ。あそこが俺の……デルタ家の邸です」
指差した先に見えたのは高台にある海を見下ろす邸だった。
停められた馬車からアルコルの手を借りて降りると、湿った風と遠くで波の音が聞こえた。特有の匂いが潮の香りだと気付いて大きく息を吸う。
「きれい!」
「そうですね」
はしゃぐミモザにすかさず日差しを避けるための白い帽子を被せたティアは、満足そうに頷いてさっと元の位置に戻った。潮風に白い外出着のドレスがふわりと靡く。ミモザが風で飛ばないよう両手で帽子の縁を押さえて振り向くとアルコルが手を差し出していた。その手に自分の手を重ねて歩き出す。少し前には先導するメグレズの背が見えた。後ろにティアがついてくる形だ。
「メグレズ様、大丈夫でしょうか……」
「メグレズは我慢してしまうところがあるから……なるべく気を紛らわせられたらいいんだけど……」
小声で会話をしながらミモザはアルコルに頷いて笑みを作る。邸の前に数人の姿が見える。周囲で頭を下げる使用人達の中心で四人を迎え入れたのは両親くらいの年齢の男女と一人の青年だった。面立ちがよく似ていることからおそらくあれがメグレズの家族であるデルタ伯爵夫妻と、彼の兄だろうと察せられた。
「ようこそおいで下さいました。この度は我がデルタ領へのご来訪、ありがとうございます」
アルコルの隣で伯爵の挨拶を受けながら、失礼にならない程度にメグレズの様子を横目で窺う。メグレズは両親とは一言も話すことなく、兄の方と言葉を交わしている様子だった。その表情には緊張が浮かんでいるように思えた。
デルタ伯爵は眼鏡をかけており、髪色もメグレズと同じで、メグレズが年を取ったらこうなるんだろうなという感じだった。ただ表情は明るく、無表情気味なメグレズと比べて社交的な印象を受けた。
メグレズの母である伯爵夫人はあまり語らず、伯爵の後ろで静かに笑んでいた。ただ伯爵と違うのは、久しぶりのメグレズの帰郷に喜んでいる様子が見られていた。
「殿下、サザンクロス様、お初にお目にかかります。メグレズの兄のルーカスでございます。遠路お疲れでございましょう。中へご案内いたします」
話の切れたタイミングでメグレズの兄が先導を申し出てくれる。
「ありがとうございます」
それについて歩き出そうとした瞬間、後ろからメグレズを呼ぶ伯爵の声が聞こえた。心配になりアルコルと共に足を止め振り返る。
「久しぶりに帰ってきたと言うのに、まともに顔も見せられないのか」
「ッ……」
「あなた、そんな言い方は……メグレズはお勤めを果たして――」
「帰郷する日程くらいあっただろう」
「……俺がいなくても貴方がたは何も困らないでしょう」
「な……」
メグレズへの不満を吐いていた伯爵は、息子に反論されると思っていなかったのか言葉を途切れさせる。みるみると険しい表情へ変わっていくのが分かった。メグレズの方も、しまったと言うように口を結んで視線を逸らす。思わず口から溢れてしまった言葉だったのだろう。
「お前は――」
「父上」
激高しそうな伯爵を押し留めたのはルーカスだった。
「殿下方をご案内するのが先です。……それに、きちんと話すと決めただろう」
「……そう、だな……お見苦しいところを失礼いたしました」
ルーカスの諭すような言葉に、ため息を吐いて再びにこやかな笑顔を浮かべた伯爵は「さぁどうぞ」と案内を再開した。
「…………」
「メグレズ、お前もだ。思うところはあるかもしれないが……殿下方に迷惑をかけてはいけないよ」
「はい……」
ルーカスに肩を一つ叩かれたメグレズは神妙に頷いて、ミモザ達へ頭を下げた。
「大丈夫か?」
「あぁ、本当に俺の事情で嫌な思いをさせてすまない」
「嫌とかではないよ。無理はしてほしくないだけ」
「そうです、困った時は頼ってください!」
ミモザ達がそう伝えると、眉を下げて少しだけ笑ったメグレズは「ありがとう」と呟いた。その様子を傍で見ていたルーカスは微笑んで「落ち着いたら、街へご案内しますよ」と海の方を指差した。




