アルカイドの後悔(後編)
アルカイドが漸く気持ちを自覚をしてからのことは、忙しすぎて記憶が定かではない。
冥王が復活し、その正体がドゥーベであったこと。しかも自分は呆気なくその手に操られアクルに害を成すところだったこと。しかもその相手に返り討ちに合い正気に戻してもらったこと。情けなさ過ぎてちょっと涙が出た。
冥王の脅威が消えた王国では、王城の人間達が我に返り、すぐに国境の戦闘の終結にむけて動き出した。アルカイドもすぐにでもサザンクロスへ確認しに行きたかったが、王城内もかなり混乱していてミザールもメラクもその対応に追われていた。自分一人が我を通すわけにもいかず、心を砕きつつも処理に奔走した。
国境への遠征を頼んだ兄からの連絡で戦闘の終結を知り酷く安堵したのを思い出す。
戦後処理のため、ハダルとの交渉に臨むミザールについてハダルに向かう途中に、サザンクロスへ立ち寄ったが、アクルに会うことは叶わなかった。彼女の父であるサザンクロス侯爵は国境戦の先頭に立ち戦ったため、大怪我を負って今も病床の上にいると聞いたから、きっと忙しいのだろう。さぞ心を傷めているだろうと思い、せめてもの慰めになればとアルカイドは短い手紙だけでもと送っていた。
『なかなかお返事を返せずすみません』
返事がそう書かれた走り書きの短い手紙だったとしても自分にとっては嬉しいもので。
もうすぐハダルとの平和条約が結ばれる。そうすれば国内外ともに落ち着くはずだ。早く顔が見たい。直接会って話がしたかった。
もうすぐ、もうすぐだと。
逸る気持ちを抑えながら、日々の仕事をこなしていたというのに。
どうしてこうなった。
「カイド様、お勤めご苦労様でした!」
長らく続いていたハダルとの国境戦後の処理が漸くひと段落着いてきた頃、交渉の場に着くミザールの護衛としてハダルから戻り、苦手なデスクワークを死に物狂いで片付けて、やっと学園へ顔を出せると思って城を出た途端に、会いたくなかった顔と出くわして、アルカイドの両肩にどっと疲れが圧し掛かる。
「差し入れをお持ちしましたの!よろしかったらあちらでご一緒に召し上がりませんか?」
「…申し訳ありませんが昨夜からの仕事がやっと終ったところで…」
「まぁ…お疲れでしたのね。ではご自宅までご一緒させて下さいませ!私疲労回復に効くハーブを勉強しておりますの!お話を聞けば何かお役に立てるかもしれませんわ!」
「いえ…貴女のような高貴な方を俺などの家路に付き合わせるわけには…」
「私がカイド様とお話したいのですからどうかお気になさらず」
「………」
気にする。気にしてほしい。
遠まわしに断っているというのに言葉の意味を汲み取ろうとしない。むしろこの場合わざと気付かない振りをしているのかもしれなかった。とにかく何を言っても端からアルカイドの言葉を聞き入れる気は相手にはないらしい。
戦後処理のためミザール達と赴いていた隣国の地で、まだごたつきの残る国境近くの街で馬車が襲われている現場に遭遇したアルカイド達は、ミザールの命で他の護衛達と共に馬車を襲っていた者達を撃退した。
馬車から引きずり出されようとしていた令嬢があげた悲鳴に、咄嗟に持っていた短剣を投げ襲撃者の動きを止めた。注意が逸れた一瞬をついて令嬢を掴んでいた腕を蹴り上げて離させ腕を切りつけて相手の剣を地面に落とす。
明らかに貴族のものであろう馬車を襲うにしてはお粗末過ぎると頭の隅で考えつつ、残りの襲撃者も同じように無力化していく。相手の目的が分からない以上、無駄に殺して情報が取れなくなっても不味い。
後で分かったことだが、捕縛した者が自白した内容によれば暴漢達はハダルとアウストラリスの同盟の締結をよく思わない戦争推進派の残党から依頼を受け雇われたゴロツキ共だったらしい。
襲われていたのはハダルの貴族、ピーコック公爵家の馬車で、馬車に乗っていたのはその公爵の娘であるヴィオールという令嬢だった。ピーコック公爵は同盟を望む第一王子派の筆頭らしい。そのせいで狙われたのだろうというのが両国の見解だった。
訓練された兵士ならいざ知らず、ただのならず者が護衛騎士に敵うはずもない。あっという間に鎮圧された現場に響いたのは場違いなほど明るい声だった。
『貴方が助けてくださったのですね!!』
そう言って一直線にアルカイドの元へすっ飛んできて頬を染めて見上げる令嬢に、思わず頬が引き攣った。
それから何故かその令嬢に付きまとわれている。
『だって貴方様は私の命の恩人ですもの!』
『きっとあそこで出会ったのは運命だったのですわ!』
『私もアウストラリスにお連れ下さいませ!』
付き纏われているなどと言い方は悪いが、遠まわしに断ったり拒否したりしても気付かないし、迷惑だと言っても聞き入れる様子もないのを見ればそう思ってしまうのも仕方ないだろう。
挙句、断ったにも関わらず父であるピーコック公爵を説得してアウストラリスに留学と称して追いかけてきたのだ。
他国とは言えこれから良好な関係を築こうとしている同盟国の要人の娘を邪険にするわけにも行かず、とにかくアルカイドは困り果てていた。
「今日はクッキーをお持ちしましたの」
「…クッキー…」
差し出される焼き菓子の袋をぼんやり眺めて、頭に茶色のふわふわとした髪が過る。
『お口に合わないかもしれませんが、遠征用に日持ちのするクッキーを焼いてみました。よかったら召し上がって下さい』
薄い桃色の花の透かしの入った可愛らしい便箋と、飾り気のないクッキーを思い出して口元が弛みそうになるのを堪える。彼女が懸命に焼き菓子を作っている姿や、試行錯誤しながらその手紙を書いてくれたであろう推敲の跡を見つける度に、浮き足立って顔がにやつく。
自分がハダルに行く事になったと知った時も、自惚れでなければ心配をしてくれていたように思う。自国に戻ってきた今、早く顔を見に行きたいと思うのにままならないこの状況に溜め息が溢れそうになる。
「カイド様、どうかされました?」
「いや……ピーコック嬢、申し訳ない、仕事を残していたのを忘れていた。俺は戻るから貴女も遅くなる前に帰った方がいい」
「あっ、カイド様!お待ちになって…!!」
内心が態度に出る前に言い切って踵を返したアルカイドは、走って城内へと戻った。また今日も学園へは行けない。
何度目かの溜め息はすぐに空気に溶けて消えていった。
「で、戻ってきたという訳か」
「何とかしてくれ…」
「そう言ってもな…相手はピーコック公爵の息女だ…粗末に扱う訳にもいかないだろうな」
視線は書類に落としたまま、眼鏡を直し言ったメラクに恨みがましい視線を向ける。
「何で俺なんだ、あの場にはお前だって、他の騎士だっていただろう」
「目の前で助けたのが大きいのではないか?」
人命第一とはいえ、こんなことになるならば助けなければ良かったとすら思って反省していかんと頭を振る。
「ピーコック公爵令嬢と婚約を結ぶことは、政略的に言ったらお前にとっても悪い話ではないと思うが」
「………」
「怒るな、分かってる。ただ俺が言わなくても両国の同盟を維持するためには両国間で婚姻を結ぶのが手っ取り早くていいだろうという声は強い」
「な……」
「周囲の声が大きくなる前に、はっきり断るなりした方がいい」
「相手が話を聞かない場合は?」
「…そんなに酷いのか?」
「少なくとも俺は3回以上ははっきりと迷惑だと告げている」
「お前な…要人の娘に何てことを…」
「仕方ないだろ!!剣を振るって鍛錬してるところに突然目の前に飛び出してきたり、警邏中にずっと馬車で後をついてきたり、勝手に愛称で呼ぶなと言っても聞く耳持たないし、時と場所を選ばず一時も黙ることなく話しかけてくるんだぞ!!」
「お前の苦手なタイプの典型的なやつじゃないか…」
「わかったら何とかしてくれ…」
「これだから女は嫌なんだ」と言いかけて口を噤む。溜め息と共に分別ついていなかった昔の自分を喉奥に押し込んだ。げんなりしてソファの背もたれに頭を預けて目を閉じる。
「………」
厳しかった寒さが過ぎて、この春ミザールとメラクはアルカイドよりも先に卒業し、こうして王宮の執務に就き、アルカイドも最終学年への進学した。そしてアクルもまた新入生としてルミナスへの入学を果している。
戦後処理が落ち着かず、進学してからまだ一度も学園へ行くことができなかったが、最近になりそれも落ち着き漸く学園へも通えるだろうと思った矢先にこんなことになって。四六時中ヴィオールが着いてくるせいで迂闊にアクルに会いにいくこともできず、アルカイドは不貞腐れていた。
会って話がしたい。ただ顔を見るだけでもいい。戻ってきたときに手紙は出したが、その後の返事もまだもらっていない。ヴィオールや他の女性に話しかけられるのは面倒で仕方ないと思うのに、アクルに対してだけは違うのかと現金すぎる自分の思考に呆れる。
「健やかに…過ごしているんだろうか…」
「大好きな姉と過ごせて楽しそうにしていると聞いているが」
「………」
分かっていたことだが、彼女の大好きな姉という越えられない壁の大きさに無言で項垂れたアルカイドを憐れに思ったのか、メラクは苦笑して机から立ち上がってその肩を宥めるように叩いた。
「はぁ……」
「そう溜め息ばかりつくな。ピーコック公爵令嬢のことはミザールとも相談しておく」
「あぁ…」
「それと……今日はアルコル殿下のところへサザンクロス嬢が来ている」
「そうか………?」
「妹御も一緒だそうだ、良かったな」
「っ!?早く言え!!」
飛び上がりそうな勢いで、身を沈めていたソファから飛び起きてメラクのいた部屋を後にする。慌しく走り去った背後で「廊下を走るんじゃない!」とか聞えたような気がするが、無視して城内を駆けていく。途中誰にもすれ違わなかったのは幸いだった。
時刻は学園の授業が終った頃だから、今から馬車の乗り入れ場に行けば城へ来た彼女に会えるかもしれない。
その読みは当たったようで、停車している馬車のすぐ近くで第二王子と話す彼女の姉の姿があり、彼女は丁度御者に手を借りて馬車を降りているところだった。
「アクル嬢っ…」
「アルカイド様?」
思ったよりも大きな声が出てしまい、全員の視線が此方を向いたことに一瞬怯みながら、慌てて第二王子に礼の姿勢をとった。すぐに苦笑した第二王子に手で制され、頭を上げるとアクルが早足で駆け寄ってくる。
「アルカイド様、おかえりなさいませ。ハダルでのお仕事お疲れ様でした」
「あ、あぁ…」
「どこもお怪我はされていませんか?」
「あ…まぁな…」
「よかった…ご無事で何よりです」
「っ」
相手が自分の無事の帰還を喜んでくれたことが嬉しいのに、久しぶりに会った相手に緊張してまともに返事を返すこともできない。
「…そちらも変わりなかったか?」
「はい、無事に入学できました。お勉強は大変だけど学園での生活は楽しいです!」
「そうか…」
毎日大好きな姉に会えることや同学年にできた友人のことなど、楽しそうに話す姿に自然と頬が弛む。
「アルカイド様はこれからお仕事ですか?」
「いや、仕事はさっき終ったんだ」
「えっ…じゃあ帰ることろだったんですね、疲れてるのに私沢山おしゃべりしてしまって…引き止めてしまってごめんなさい」
「そんなことはない…!その…元気そうで良かった…」
「ふふっ…ありがとうございます。私もお会いできて安心しました。またお手紙を書いてもいいですか?」
「あぁ」
お辞儀をしてまた姉のもとへ駆けていくアクルの後姿の向こうで、彼女の姉は少し複雑そうな顔をしていた。昔の自分がしたことを省みれば、こうして話す機会をもらえるだけで僥倖なのかもしれない。失った信頼を取り戻すのに時間はかかるだろうが、いつか認めてもらえるよう努力するしかない。
後姿を見送りながらそんなことを考えていた自分は、色々な意味で気が弛んでいたのだろう。
「アクルがかのご令嬢から嫌がらせを受けているのですが、どういうことですの?」
あの時、アクルに好意を向ける自分の姿を一番見られてはいけない相手に見られていたと気付いたのは、冷気を湛えたミモザに呼び出された時だった。
「な、何だと!?」
アルカイドは言われた意味が一瞬理解できなくて、目の前のテーブルに手をついて勢いよく立ち上がって叫んだ。
「落ち着いて下さい。怒鳴り散らしたいのはこちらですのよ?」
「っ……すまない…」
しかし自分以上に怒気を滲ませるミモザに睨まれて、すぐに冷静さを欠いたと思い直して謝罪して座りなおす。
「お仕事中にお呼びするのは申し訳ないと思いましたが、学園では話ができないと思いこうしてお呼びしたのです」
対面に座るミモザの隣には第二王子とその後ろにメグレズもいた。ミモザほどの怒気は感じないが難しい顔をしている彼等にそれが間違いではない事を知った。
ここは王城の庭にあるガセボの一つだ。
王城でミザールの執務の補佐をしている時に、メグレズが「話がある」と呼びに来て。一体自分に何の用だろうかと思いながら、ミザールに了承をもらいここまで連れてこられた。そこで待っていたミモザから聞かされた話に一気に体中の血が引く。
「どうしてそんなことに…一体いつから…!」
「…私が知ったのは一週間ほど前ですわ。最近アクルが考え込むような仕草をすることが多くなって…聞いても何でもないと言うばかりで…アクルの友人達に確かめたら、彼女達は一月ほど前からアクルがピーコック公爵令嬢に嫌がらせをされていると話してくれました」
「そんなに前から…彼女が何故学園へ…」
「留学してきているのですもの、学園へ通うのはおかしいことではないでしょうけれど」
一月前と言えば、アルカイド達がハダルから帰国して少し経った頃だ。
「アクルの友人達から聞いた話では、アクルはご令嬢からアルカイド様に近付くなと何度も言われているようです」
「な……」
「他にも婚約者でもないのに調子に乗るなとか、これだから私生児は、など…出自を貶めるようなことまで言われていると」
「なんてことを…」
聞いた内容にアルカイドは頭を抱える。アクルが嫌がらせを受けている原因は間違いなく自分であるからだ。
「最初は小さな嫌味を言われる程度だったと聞いています…けれど一昨日アクルが怪我をして寮に帰ってきました」
「な…無事だったのか!?」
「掌を擦りむいた程度ですから、怪我自体は大きくありませんが…どうしたのと聞いたら「靴の紐が切れていて転んでしまったの」と言ったんです。その靴は学園用に新調したもので劣化して切れるようなものではないし、確認したら紐の切れ口も刃物か何かで切断したように鋭利でした。決して不慮に切れた訳ではないと思いました。誰がやったのかはわかりません。保管してありますから後でどうぞお調べ下さいますようお願いします」
「………」
もしそれが本当ならばとんでもないことだ。
「…私もはじめは信じられませんでした。会ったことがないので本人の気性は知りようもありませんが…同盟を結んだとは言え、先まで戦争関係にあった隣国で留学しに来ている身分で同盟国の令嬢に危害を加えるなどと…正気とは思えませんわ」
「………」
「…俺もミモザ嬢から話を聞いて周囲に確認してきた。ピーコック公爵令嬢はアクル嬢の友人達にも姉であるミモザ嬢や教師達に言いつけないように脅しつけているらしい…相手は協定を結んだばかりの同盟国の公爵家の令嬢であるから、下手気に動いて同盟にひびが入るのは不味いからアクル嬢も含めて皆どう対応したらいいのか分からず困惑した様子だった」
「アクルはこのことを私に頑なに話そうとしませんでした。アルカイド様はご存知なかったのですか?貴方がアクルに中途半端な好意を向けるから矛先があの子に向いているのです。それとも本当にピーコック様の仰るとおり彼女と婚姻を結ぶおつもりですか?アクルの事は何とも思っていなかったと?出世のためならばもうどうでもいいと」
「違う!!そんなこと思っていない!!」
話しているうちに我慢が出来なかったのであろう、怒りを抑えられず立ち上がって訴えるミモザにアルカイドは反論する。
「ミモザ、落ち着こう…それではアルカイドが話せないよ」
「はい…ごめんなさい…アルカイド様も…貴方がそういう人ではないと分かっています…」
第二王子に宥められ苦しそうに唇を噛んだミモザはアルカイドにも「感情的になってごめんなさい」と頭を下げた。
「俺はピーコック公爵令嬢のことは何とも思っていないし、婚約する気もない。この身に誓ってそんな事実はない」
「信じて良いのですね…?」
「だが、俺のせいで…俺が不甲斐ないからこんな事態を招いたんだ…今まで彼女が理不尽な目に合っていたのに気付きもせず……申し訳なかった」
アルカイドは頭を下げた。
「…謝る相手が違いますわ。私が聞きたいのはこれからどうするのかということです」
「今回は学園内でしたが、もし紐が切れたのが魔物のいる森での演習中だったら?危険度の高い魔法を扱っている最中だったら?もっと大きな怪我をしていてもおかしくなかったのですよ?」
言い募るミモザの手を握り宥めながら第二王子は言った。
「アルカイドにその意思がなくても、相手が聞き入れなければ解決はしないだろう?どうするつもりなんだ?」
「それは…」
「それに関しては私達も相談に加えてもらっていいかな?」
「兄上、姉上も」
「王太子様…タニア様…」
「突然ごめんなさいね」
アルカイドの後ろ側から、突然降ってきた声に驚いて立ち上がる。
すぐに礼の姿勢を取った全員に「私が突然きたのが悪い、そのままでいい」と声をかけて二人は席につく。
「アルカイド、私はアルたちと話があるから…ミモザ嬢の代わりに学園へ行ってアクル嬢を寮まで送り届けてくれるか?」
「え、あぁ、俺は構わないが…」
ミモザが気にするのではと思って、思わずそちらを窺うが「サザンクロス嬢にも聞いてもらわなければならない話だから」とミザールは言った。
「サザンクロス嬢、構わないだろうか?」
「…アルカイド様がアクルの傍にいたらまたピーコック様の恨みを買わないでしょうか?」
「流石に本人の前で本性を出すほど愚かでもないだろう…メラクでもいいがアルカイドの方が腕も立つ。一人で帰らせるよりは安全だと思う」
「分かりました……アクルをお願いいたします、アルカイド様」
「承知した」
少し考え込んだ末に頷いてアルカイドに頭を下げたミモザに、同じように頭を下げすぐに踵を返す。
知らなかったで済む話ではない。自分のせいでアクルが理不尽な目に合っているなど我慢がならなかったし、同時にかの令嬢に対して殺気すら覚えた。
既に危害は加えられている。憎悪は膨らんでいくものだ。表在化していないことでエスカレートする可能性がある以上悠長になどしていられない。ミザール達の視界から外れた瞬間足は全力で地を蹴っていた。
学園に着いのは陽が沈みかけている頃だった。
アクルは委員会の仕事で遅くなるから、教室棟の前でミモザと待ち合わせをして一緒に帰る予定だったと聞いたためアルカイドは真っ直ぐ教室棟の入口へと向かう。
既に学園内を歩く人は疎らで、皆下校するためアルカイドとは逆の方向へ歩いていく。少しだけ急ぎ足で門を幾つか潜り、教室棟の入り口がが見える位置まで来たときに、何か物を落とすような音が誰も居なくなった校舎に響いた。
「婚約者でもないのに近付かないでって言ったわよね?」
そんな声が聞えて思わず足を止める。
「カイド様はミザール殿下の側近なのよ。貴方の姉はアルコル殿下の婚約者なのでしょう?同じ家から王家や王家に近しいものとの縁を結ばせないのは常識でしょう?いくら貴女がカイド様に懸想したところで無駄だって言っているの」
「っ…私は別にアルカイド様に懸想などしていません。何度も申し上げておりますが、アルカイド様からそのような言葉を頂いたことも、特別な扱いを受けたこともありません。ピーコック様の誤解です」
先の言葉を全否定するようなもう一つの冷静な声にぐさりと胸を刺され、飛び出そうとした足も釘でも打たれたかのようにその場に縫いとめられる。
はっきりと懸想などしていないと言われるのは悲しい気がしたが、自分とて断られるのが恐くてはっきりと言葉にもできないのだからアルカイドの自業自得だった。
「そんな筈はないわ!そうでなければ貴女なんかをカイド様が気にかける筈がないもの!」
「…ピーコック様にお尋ねします、それはアルカイド様がそう仰ったのですか?」
「そんなの言わなくても分かりきったことでしょう?」
「それなら直接アルカイド様にお尋ねになってください。誤解だと分かるはずです」
「公爵家の娘である私に口答えする気?…元は私生児だったくせに」
「…今はサザンクロス侯爵家の娘です」
「サザンクロスはアウストラリスの大貴族だと聞いていたけど…このような私生児に跡目を継がせようなど侯爵も貴女の姉も、たかがしれますわね」
「…お姉さまも…お父様もそんな人ではありません」
「何ですって…?」
ミモザを侮辱されたことにアクルが泣いてしまうのではないかと思い、踏み出したアルカイドは令嬢にまっすぐと対峙するアクルの姿に一瞬目を奪われた。
「そうやって相手を貶めることでしか自分を正当化できないなど…後でご自分が苦しい思いをするだけです」
諭すように苦しそうに言った彼女は、それでも令嬢からは目を逸らさず背筋をのばして言葉を紡いだ。
「やってしまったことは戻らないのですよ?自らの行いには責任が伴います。後からいくら悔やんでも、取り繕っても、なかったことにはできない。誰かにつけてしまった目に見えない傷はいつか癒えることはあっても、絶対になくならない。貴女がそういった振る舞いをなさるたびに諭してくれる方がいませんか?ご家族だって今の貴女のなさりようを知ったら悲しい思いをするのではないですか?そうやって自分を心配してくれる人達の信用を自ら捨てるような行いはどうかお止めください」
それはいつかの自分達に重なる言葉だった。
学園祭の時にアクルが少しだけ話してくれた昔の後悔。その言葉にこめられた想いがアルカイドは痛いほど分かった。大好きな姉や、家族を馬鹿にされ悔しいのだろう。制服を握る手は小さく震えていた。一方的に敵意をぶつけられて、そんな相手に反論を述べる恐ろしさもあっただろう。それでも向き合おうとしているのは過去の自分に重ねているせいだけじゃない。今まで彼女に向き合ってくれた人達に相応しくあろうとした結果なのだと思った。その姿にどうしようもなく心が揺さぶられた。
「このっ…!!」
静かに反論を口にしたアクルに激昂した令嬢が腕を振り上げる。アクルの前に躍り出たアルカイドはその腕を掴み力を込めすぎないよう払いのけた。今までのアクルへの仕打ちを思えば多少痛くてもいいんじゃないかと思いつつも、それは決してアクルの望むことではないだろうと必死に殺気を抑え殺す。
「貴女は自分が何をしたのか分かっているのか」
「か、カイド様…」
突然アルカイドが現れたことに驚いた令嬢からアクルを隠すように背に庇う。
「いくらハダルの公爵家のご令嬢とはいえ我が国の貴族に危害を加えようとするなど、貴方方はまた戦争を始めるつもりか」
「そ、そんなつもりはありませんわ!!」
怒気をこめてアルカイドが睨みつければ、途端に狼狽えて的外れな言い訳をする相手に怒りがふつふつと込上げる。
「ではどんなつもりでこんなことをしたと?貴女は我が国との協定を結んだハダル貴族だ。そのご令嬢が我が国の貴族に危害を加えるなどと、ハダル側に和議の意思がないと思われても仕方ない事だろう」
「あ、私は…」
「今回の国境戦では沢山の負傷者も出ている。住む場所を失った者だって少なくない。協定が結ばれたとはいえ、その地に住んでいた民は故郷や畑を失い、怪我で職をなくしたことで今も喘いでいる者がいる。それなのに貴女はご自分の立場も理解せず協定を壊すようなことをしたというのか」
兄から聞いた国境の状況は決して楽観できるものではなかった。戦後国境に足を運んだアルカイドでさえ、そこに暮らしていた者達の現状に目を背けたくなるほどだった。戦争で一番被害を被るのはいつだってそこに暮らす民だった。
令嬢は指摘されて漸くそのことに思い至ったのか、ただ単に好意を向けていたアルカイドに敵意を向けられたからなのかは分からなかったが顔を青くして唇を噛んだ。
「私はカイド様のために…!!貴女がカイド様に取り入ってるんでしょう!?貴女と婚約すればカイド様は側近としての地位を失うかもしれないのよ!?」
「それを決めるのは貴女ではないし、そもそも彼女は俺と何の関係もない……俺が一方的に拗らせているだけですよ。彼女には何の落ち度もない。俺のせいでこんなことに巻き込んでしまって…本当に申し訳ないと思う」
自分の背にいるアクルに少しだけ視線を向けると、驚いたような顔をしてアルカイドを見上げていた。こうしてアクルへの感情を口に出すのははじめてのことだ。本当はこんな形ではなくちゃんと伝えたいと思っていたのに、全くままならない。
「ど、どうしてそこまで彼女を庇いますの!?」
癇癪を起こしたかのような令嬢の声にすぐにアルカイドは視線を前に戻した。後悔している場合ではない。
「その娘はカイド様に相応しくありませんわ!!私なら貴方の望むものを与えることができる!!次期公爵の座だって…!!」
「俺が彼女に相応しくないと言われることはあっても、逆はありえない。俺は彼女を尊敬している。…彼女の心が得られるなら、この地位も惜しくないと、今はそう思います」
「カイド様…目をお覚ましになって…!!貴方はきっとその娘に騙されているのよ…!!」
「何度も言うが、無関係な彼女を貶めるのは止めていただきたい。これ以上は我が国への侮辱として正式にハダルに抗議することになる」
「っ…」
アルカイドに凄まれて怯えて息を飲んだピーコック公爵令嬢は、八つ当たりするようにその背に隠れるようにしていたアクルを憎々しげに睨みつけて去っていった。
「………」
「………あの」
建物の影になってその背が見えなくなるまで目で追っていたアルカイドは、遠慮がちに後ろからかけられた声にゆっくり振り向いた。
「すまなかった」
すぐに頭を下げると、下げた視界の端に、制服を握ったままの彼女の手が見えた。きつく握り締めたせいだろう白くなった指に不快な想いをさせてしまったのだろうと心が痛んだ。
「っ、いいえ、あの…助けてくれてありがとうございます」
「いや…元はと言えば考えの足りなかった俺のせいだ…本当に、申し訳ない」
「仕方ありませんわ、あれは話を聞いてくれる感じじゃなかったし…」
アルカイドが気にしないよう無理に笑顔をつくっているのだろう。緊張からか顔が赤くなっているように見える。
「あのっ」
「顔色が悪いな…ミモザ嬢から寮まで送るように頼まれている。早く休んだほうがいい」
「お姉さまが?あ…あの…えっと…さっきの……」
「大丈夫か?歩けるか?」
「あ……はい…歩けます…」
心労で熱でも出たんじゃないかと狼狽えるアルカイドに、赤い顔のままぎくしゃくと動き出したアクルは「大丈夫です」と言って俯いた。
アルカイドはその表情が見えなくなってしまったことに不安を覚えつつも、身分が上の令嬢に一方的に詰られた挙句、暴力まで振るわれそうになり、挙句好きでもない男から好意を向けらたりしたら困惑するか恐怖するかだろうと思い至ってアクルに伸ばしかけた手を引っ込めた。
「………」
「………」
無言のままの帰り道は酷く気まずかったが、少し前を歩くその小さな背中を見て間に合ってよかったとアルカイドは心の底から安堵していた。




