転生侍女の隠し事
私の記憶は酷く曖昧なところから始まる。
強面だが愛嬌のある父は、一人で国から国へと渡り歩くような実力を持った冒険者だった。そこそこ名の知れていた父は、依頼があればその地へ出向かなければならないため、幼い頃から何度も家族であちこちを転々としていた覚えばかりがある。討伐のため何日も家を空けることも多かった。それでも幼い自分の記憶にこれだけの父がいるということは、家にいる時はなるべく一緒に居る時間を作ってくれていたのだと思う。
対して母は、おっとりしていて世間と少しズレているような印象を受ける人だった。優しく気立てはよいが、決めたことは絶対に譲らない頑固な一面もあった。所作は優雅で、趣味は庶民が見たこともないような「ピアノ」という楽器を弾くことだ言っていて、一体母はいつ「ピアノ」を弾くような機会があったのだろうと幼心に思っていたが、父から母が昔どこかの国の貴族のお嬢様だったという話を聞いて納得した。
そんな二人がどうして結婚したかと言うと、母の生国で魔物のスタンピードが起き、国からの依頼で討伐に赴いた父に当時貴族の令嬢だった母が一目惚れをしたというのがきっかけだ。
『旦那様は魔物に襲われた私を助けてくださったの…とっても強くて格好良くて素敵で…一目で私は恋に落ちたのよ。そんな素敵な人が私を助けてくださったのは、もう運命としか思えなかった。だからその日のうちに荷物を纏めて書置きを残して家を飛び出して押しかけたの。絶対に誰にも取られたくなかったから』
寝物語に何度も母から聞かされ、当時は物語のようなそれに感心を覚えていたが、今思うと母のとんでもなさが改めて分かる。
後から知ったことだが、父は母が押しかけてすぐに母の生家に連絡を取ったらしい。しかし母の両親も「あの子は一度言い出したら絶対に聞かない子だから、どうか娘の気が済むまで付き合ってやってほしい…多分、死ぬまで気は済まないかもしれないけど…まぁ…よろしく頼むよ」と言われてしまい、仕方なく共に旅をするうちにほだされ、結局私という娘を一人もうけることになった。
自分の祖父母である母の生家の対応も大概だと思うが、母は毎日楽しそうだったし、父も母を見る目は優しかった。だから二人とも幸せだったんだと思う。
そんな二人の間に生まれた私はアリアと名付けられた。
面立ちは母に似ていたため、幼い頃は母の趣味の可愛い感じの服を着せられていることが多かったが、中身は父のように冒険者に憧れる活発な、どこにでもいる普通の子供だった。
けれど物心がつくにつれて、その「普通の子供の自分」の他に、自分の中にもう一人違う誰かの記憶があることに気が付いた。
父が薪を集め藁で火種を作るのを見て、もっと簡単に火を起こせる道具があった筈だと違和感を感じたりだとか。遠くの街まで何日もかけて移動する途中に、速く動く鉄の馬車のような乗り物が頭に思い浮かんだり。魔法を使う人々の姿を見て魔法なんかこの世にある訳ないじゃないと否定してしまったりだとか。
自分でも無意識に浮かんでくるそれと、それに伴う誰かの記憶に、何が現実で何がほんとうのことなのか分からなくなって。
恐ろしくなってそれをたどたどしい言葉で両親に伝えたら、父はすぐに私を冒険者のギルドへ連れて行き神官の元で鑑定を受けさせた。
そして鑑定の結果は私は『転生者』であることが判明した。
転生者とは、ここではない異世界で生を終え、前世の記憶を持ったままこの世界に転生した者のことを言う。
私は完全に転生者として目覚めていない『中途覚醒者』であった。神官が言うには、覚醒しきっていないから思い出す記憶が断片的なものなのだろうとのことだった。これから覚醒するか、それとも一生このままなのかは分からないとも。
異界の知識や、優れたスキルを有していることが多いため、この世界で転生者は重宝される傾向にあるが、同時に悪意を持った人物に利用されることも多い。鑑定の結果、私には稀有なスキルが備わっていることも同時に発覚したため、父は私の能力を秘匿することを決めた。
しかし人の口に戸は立てられず、その時にギルドにいた人間から漏れたのかどうかは分からないが、ある日事件は起こった。
父が仕事で家を空けている日だった。雪山での魔物の討伐依頼のために訪れた国で、山の麓に近い町の外れの家を借りて母と二人父の帰りを待っていた。
数日前から降り続いた雪が景色を白に染め、それでも足りないというように雪風が窓を叩いていた。山の方は吹雪いていて、まだ夕方だと言うのに辺りはもう夜のように真っ暗だった。
元々貴族のお嬢様だった母は家事が苦手だ。けれども父のために懸命に覚えて働いていた。だから私も幼心にそんな母の手伝いがしたかったのだ。
汲んでおいた水が少なくなっていることに気付いて、外は少し風が強かったけど井戸までは行けるだろうと思って、明日の朝でもいいと言う母に「大丈夫だから」と言って容れ物を持って外へ出た。
ぎゅっぎゅっと雪を踏む音と、木々の間を吹き抜けて麓へと降りてくる風の冷たい音が聞えている。頬が切られるように冷たい。
(もう少し…)
雪が吹き付ける視界に井戸を囲う屋根を見つけて、ほっと気を緩めたとき、突然後ろから羽交い絞めにされ体を持ち上げられる。
「きゃっ!?」
「っ大人しくしろ!!」
「いやっ離して!!」
何とかその腕から逃れようと暴れて手足を振り回したら、思い切り腕をつかまれて捻り上げられた。
「痛いっ!!」
「このっ…!!」
「アリアっ!!」
「っ」
母の声と、どんと何かがぶつかるような衝撃に腕を掴んでいた手が離れる。
「ぅあっ!」
どすんと落ちた先には雪が積もっていたからそれほどの衝撃はなかったが、突然のことに恐怖で身が竦んでしまっていた。
「くっ…!!」
「アリア逃げなさい!!」
「邪魔だっ!!離せっ!!」
「っ…おかあさ」
「アリア行くのよ!!」
「!!」
私を襲った男に体当たりをしたらしい母はその足に必死にしがみつき、男が起き上がろうとするのを阻止していた。
這ってでも寄って来ようとするその伸ばされた腕が恐ろしくて、母を置いていけないと思う気持ちとで固まっていた私を動かしたのは、普段怒鳴ったことなどないような母の声だった。
「っ…」
その怒声にびくりと体がゆれ、強張った足に力を入れその場を走って逃げ出した。
「どけっ!!」
「っあ…ぐ…!逃げ、なさい…!!」
後ろから母の悲鳴が聞えた。けれど立ち止まりそうになった足を動かしたのは同じく「逃げなさい」という母の声だった。
(どうしよう…どうしようこのままじゃお母さんが…!!)
冷たい息が入った胸が痛い。顔にぶつかる雪の粒が痛い。それでも足を止めれば母が逃がしてくれたことが無駄になる。誰かに知らせなければ。人を呼ばなければ。
「っ…おと…さ…!!」
無意識に助けを求めて呼んだ名前が届くことはないと知っていても、縋りながら走るしかなかった。
「おいッ!!」
「ぁぐっ…!?」
急に後ろから服を掴まれ仰向けに倒される。そのまま襟首を持ち上げられ、体の重みで締まった首元を手で掴んでもがく。さっきとは違う男に一人ではなかったのかとパニックになる。
「いやあっ、はなして!!」
「っおい暴れんな!!」
「はなしてよバカ!!誰かっ…たすけて…ぅあぁ…っ、お父さんっ!!」
「黙ってろガキがっ」
「っぅ…!?」
掌で頬を張られて、痛みと恐怖で一瞬言葉を失くす。
「大人しくしろ!!お前の父親は今頃山小屋で足止めを食らってる頃だ」
「!」
「助けはこない」と言った男に、はじめから自分を攫うつもりで父のことも依頼だと騙して山へ連れて行ったのだと知る。
「この吹雪の中山小屋に閉じ込められてんだ。もしかしたらもう死んで…」
「うるさい!!そんなはずないっ!!」
「ぐぁっ!?」
カッとなって足を思い切りばたつかせたら、運よく男の顎に直撃し仰け反った拍子に襟首を掴んでいた手が離れた。
どっと尻餅をついたが、すぐに立ち上がって倒れる男とは反対方向に逃げる。
「うそだ…!!お父さんは死んだりしない!!」
父は強くて勇敢な冒険者なのだ。そんなに簡単に死ぬはずがない。
(けど…もし本当にこの吹雪の中に閉じ込められていたら…!)
いくら強くても自然が相手では負けてしまうのではないだろうか。
「お父さん…」
せめて誰か助けてくれる大人がいる場所まで逃げつかなければ。何度も頭の中で繰り返して自分に言い聞かせて、竦みそうになる足を雪の中へ向けて必死に動かした。
「はっ……ぁ…は…」
吹雪は一段と酷くなっている。少し前まで聞えていた追跡者の声も完全に雪風の音に掻き消されて聞えなくなっていたが、きっと諦めたわけではないだろう。
「…ッ…」
がちがちと自分の歯が鳴る音が頭の中に響く。頬は切られるように冷たく、顔に当たる雪の粒のせいで目も開けていられない。雪に埋まった足が重い。一歩持ち上げてはまた膝の辺りまで埋めるように前に進める。冷えてもう感覚のない足ではどれだけ進んでいるのか全く分からない。それでも歩を止めることはできなかった。
(お母さん…)
母はあれからどうなったのだろう。「逃げなさい」と最後まで叫んでいた母の声が耳にこびりついている。
(お父さん…)
今頃雪山で寒さをしのぎながら抜け出す道を探しているのだろうか。きっと母や私のことを心配している。
「…っ……」
もし、もし母が死んでしまっていたら。もし父も、同じ目に合わされていたら。
「ぁ…あぁ…」
目尻がぼんやりと暖かくなったのに自分が泣いているのだと分かった。涙はすぐに雪風に飛ばされて元の温度を取り戻してしまったけれど、その暖かさは自分が今生きていることをはっきりと突きつけてきた。
私のせいで。私のせいでお父さんもお母さんもこんな目に合っているのに。どうして私は何もできずにこんなところを一人で歩いているの。
母の捨て身で逃がしてもらったくせに逃げ切る力もなくて。
せめて逃げ切って父を呼ばなければと思うのに、それを叶えるだけの力もなくて。
(私、のせい、で……どうしよ…どうしよう…お父さんと、お母さんが死んじゃったら…!!)
体の感覚はもう殆ど残っていないというのに、ボロボロと流れる涙の暖かさだけが酷く現実味を帯びていた。
(誰か…おねがい助けて…お父さんとお母さんを…たすけて…!!)
惰性のように前に出し続けていた足が、急に雪の浅い場所を踏みしめる。
「っ…」
勢いでそのままそこへ倒れこんでしまい、力の入らない体を持ち上げようとして失敗して、目を凝らしててこの場所が何なのかを確かめる。積もった雪で見づらくはなっていたが、自分が倒れこんだ地面に轍ができているのが見えた。
(これは……馬車…の…通ったあと…?)
山の麓の森の中をさ迷い歩いて、どうやら馬車の通り道に出てしまったらしい。
「ぅ…」
このままここにいたら見つかってしまうかもしれない。そう思って起き上がろうとするも、寒さで感覚を失った体が言うことを聞かない。視線を動かせば雪の上の自分の手は雪よりも白く、指先は青みがかってすらいた。
(…からだ、が…うごかない……どう、し……う…)
自分の上に降り積もる雪を払いのけることすら出来ない。このままここで死んでしまうのだろうか。父も、母も助けることすらできず…救ってもらった命すらここで無駄にしてしまうのだろうか。
朦朧とした意識の中で遠くに馬の嘶きを聞く。
(だれ……?)
雪の中に灯りが灯ったかのような朱色の髪に、お姫様が着るような美しい服を纏ったその美しい少女はアリアの体を抱き起こし「もう大丈夫よ」と言って、暖かい手でアリアの手を握った。
「ぅ…あ…」
「お兄様、すぐにこの子を馬車の中へ運んでくださいませ」
「…連れて帰るつもりか?」
「見捨てろというのですか!?まぁなんて酷いお兄様!!お兄様がそんな人でなしだとは思いませんでした!!」
「ひ、人聞きが悪い!俺はただ回復した後どうするつもりか聞いただけだ!」
「分かってます。けど、放ってはおけないでしょう?」
「さっきメンカ達がこの雪の中を歩いていた不審人物を見たと言っていたが…見たところ面倒事を抱えていそうじゃないか」
「それならば尚のこと我が家で保護するべきです、さぁ早く運んでくださいませ」
「保護するって言っても、それを決めるのは父上だ。駄目だって言われたらどうするんだい?」
「その時はお父様がいいって言うまで戦いますわ!私口喧嘩は得意なのです!」
「喧嘩と説得は違うだろう…全く…」
馬車から降りてきた少年に抱えられ、アリアは馬車の座席に寝かされた。
「おとう…さ…と、おか、さん…が…」
「今は話さないほうがいいわ、落ち着いてから…」
「っ…だめ…おか…あさ…たちが…」
「……お父様とお母様がどうかしたの?」
「さっ…いえでっ」
「大丈夫、ちゃんと聞くから、ゆっくり言うのよ」
凍えて噛み合わない唇を必死に動かして、アリアは父と母の窮状を訴えた。何度も言い直して伝えようとするのを、目の前の少女はアリアの手を握りながら根気良く聞いてくれた。
「……そう、お母様が今危険な状態かもしれないのね」
「人攫いか…」
アリアの話を理解した兄弟は揃って神妙な顔になる。けれど、少女はすぐにその顔に強い意志を宿して「お兄様」と口を開いた。
「メンカを助けに向かわせましょう」
「ちょっと待って、メンカはこの馬車の護衛も兼ねているんだよ」
「この子の話が本当なら戻って助けを呼んでいる暇はないように思います。それにこんな吹雪の中わざわざ馬車を襲おうと待ち構えている無頼者もいないでしょう」
「それはそうだけど…この子を匿うことでこの馬車が襲われる可能性だってあるんだぞ?それに護衛と離れないことがお前を連れて行く条件だと父上も言っていただろう」
「お父様は理由を話せばわかってくれるわ」
「その代わり俺は父上に滅茶苦茶叱られると思うけど…」
「…お兄様は困っている人を見捨てるような人ではないわ」
「……はぁ…わかったよ…」
少女の願いに根負けしたように額に手を当てた少年が馬車の外に声をかける。
「メンカ、リオン、話は聞いていたな」
「はい」
「メンカはすぐにこの子の母親のところへ。リオンは森を出るまでこの馬車についていてくれ、森を出たら先に侯爵家に戻り父に報告を」
「しかしファワリス様…」
「こいつが一度言い出したことを曲げると思うのか?」
渋る護衛が少年の言葉に遠い目になり「そうですね」と呟いたのに、少女以外の三人は溜め息を吐く。アリアが覚えていられたのは御者達が去った後の車内で「よかったね」と微笑んだその少女の顔を見るまでだった。
自分の身に降りかかった出来事が大きすぎて、つらくて仕方なかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私が転生者でなければ、お父さんもお母さんもこんな目に合わなくても済んだかもしれないのに。嫌われてしまうかもしれない。お前のせいだと、疎まれて。いやだ。いやだ。いやだ。
『大丈夫よ、ここにいるわ』
真っ暗な場所で蹲っていたアリアはその声に顔を上げる。そしてその声の方に手を伸ばした。
『大丈夫』
母親にも似たその優しい声音に縋りつく。
「アリアっ…」
その瞬間明るくなった視界に母親の泣き顔が飛び込んでくる。
「っ」
「よかったアリア…目が、目が覚めたのね…!!」
「おかあ…さん…?」
チカチカする視界に瞬きを繰り返して、抱きしめられた母親の肩越しに辺りを見渡すと、綺麗に整えられた室内であることが窺えた。
「おと…さんは…」
「大丈夫、お父さんも無事ですよ」
「ここは…」
「アウストラリスの北端のノーザンクロス侯爵様のお屋敷よ。私たちを助けて下さったのは…」
「っ…目が覚めたのね!!」
「!」
母の言葉を遮るように、部屋に飛び込んできたあの時の少女がアリアの元へ駆け寄ってきて身を乗り出しながら言った。
「よかった!!」
「あ、の…」
「ねぇ突然なんだけれど、あなた私の侍女になってくれない?」
「え…」
「私ずっとあなたみたいな妹が欲しかったの!!」
「えっと…」
「落ち着け」
「あいたっ」
はしゃぐ少女の頭上に軽い手刀を落としたのはあの時少女と一緒にいた少年だった。
「目が覚めたばかりで混乱させるんじゃない」
「だってすぐ言いたかったんだもん」
「だもんじゃない。第一お前は名乗ってもいないのだろう?」
「っ…そうだった!!」
「これだから…」
はあぁ、と大きな溜め息を零した少年から目をそらし、アリアに向き直った少女は背筋を正してスカートの端をちょこんとつまみ可愛らしくお辞儀をした。
「私はリディア。リディア・ノーザンクロスよ。よろしくねアリア」
ぱっと花が咲いたような笑みに、アリアは目の前がきらきらと光で溢れるような気がした。
アリアを助けてくれたリディアという少女は、このノーザンクロスという家の子供らしい。
最初こそ混乱してまともに考えることすらできなかったが、体調が落ち着くにつれてそれがどれ程のことなのかを理解して体が震えた。
ノーザンクロスというのはこの国で南端のサザンクロスと並んで大きな領地を持つ侯爵家の名前で、現代の侯爵は宰相を務めるほどの人物だということ。当主の妻は隣国の元お姫様だった人で、リディアはそんな二人の血を引いた正真正銘の貴族のお嬢様だということ。リディアと一緒に居た少年は二人の本当の子ではないが、次期侯爵として親戚から養子に迎えられた身なのだと、全て母から聞かされたことだ。
どうしてそんな高貴な身分の二人が吹雪の夜にあんな森の中にいたかと言えば、実家に里帰りする兄に無理矢理リディアがついて行ったせいらしい。実の父親が体調を崩し、急遽家に戻ることになったファワリスにどうしてもついていくと譲らなかったリディアは、護衛から離れず、すぐに帰ってくることを条件に同行することを許されたらしかった。結局ファワリスの父親はただの感冒だと分かり、ノーザンクロスへ二人で取って返す帰り道でアリアは二人に救われた。
アリアが気を失ったあと、メンカと呼ばれていたノーザンクロス家の護衛は家の前で倒れたままの母を発見し馬車へと連れ帰ってきた。この吹雪の中外にいたことで、母もまた意識を失っていたが、体の小さい分アリアの方が酷い状態だったらしい。二人をこの家まで連れ帰ったあとはすぐに侍医にも診せてくれたとのことだった。ファワリスから報告を受けたノーザンクロス侯爵は翌朝には父の捜索に人を山に向かわせてくれた。山中の山小屋に閉じ込められていた父は、助け出された事情を聞きすぐに侯爵家へと赴いて母と再会を果たした。そしてアリアを誘拐しようとした輩を必ず捕まえると怒り狂って再び飛び出して行ってしまったと。
「安心するといいよ。リオンからの報告では君の父殿はもうすぐここへ戻ってくるそうだ」
そう教えてくれたのは何かとアリアの世話を焼きたがるリディアについてきたファワリスだった。リディアは毎日アリアの元へやってきては「私の侍女になってほしい」とせがんだが、どう返事をしていいのか分からなかったアリアは口を噤むことしか出来なかった。今のアリア達は当主である侯爵の好意で身体が癒えるまでという条件でこの屋敷に置いてもらっている状況だ。転生者と言ってもまだ子供のアリアに大したことができる訳ではないし、本来ただの冒険者の一家を高位貴族の侯爵家が庇護する理由はない。アリア達がここにいることが出来ているのは、偏にこの家の娘であるリディアがアリアに執心しているせいであろうというのは幼心に理解していた。
どうして侯爵家のお嬢様であるリディアがそこまで自分を気に入ったのかは分からない。ただ単に住む世界の違うアリアが物珍しかったのかもしれない。けれどリディアはそんなこと感じさせないくらい、アリアにいつも優しくしてくれた。だからこそその優しさに甘えるのを躊躇っていた。
それでもこのままこの侯爵家を出て今までと同じ暮らしに戻ってしまったら、自分という存在がいる限り父と母はまたあんな目に合うかもしれない。そう思うと、笑えなくなって、うまく言葉が継げなくなった。考え込むことも多くなり心配してくれる父や母の顔を見るのも辛くなった。日を追うごとに身体は回復していったが、幾日経とうともアリアの心が晴れることはなかった。しかし塞ぎ込むアリアの元へリディアは毎日話をしにきてくれた。
「あのね、庭のカミツレが咲いたの、一緒に見に行きましょう!」
「今日のお勉強は大変だったわ…でもお兄様に褒められたの…えへへ」
「早く元気になってね!」
他愛もない話ばかりだったが、それがどれだけ心を軽くしてくれたか分からない。
「リディア様は…どうして私なんかに優しくしてくれるのですか?」
アリアの心はもうとっくに決まっていた。けれど、最後に自分を納得させるようにそうリディアに聞いた。
「私はあなたみたいに優しくないわ。あの雪の中、お父様とお母様のために懸命に訴えようとしていた貴女がすごいと思った。私よりも小さいのに…あんなに恐い目に合ったのに自分の事よりも家族の心配ができる優しい子なんだって思って、すごく仲良くなりたいと思った。……本当はずっとここに居て欲しいけど…お兄様がそれはアリアが決めることだって言うから…」
ごにょごにょと小さい声になってしゅんとしたリディアの前でアリアはしゃがんで床に頭をつけた。
「アリア!?」
「リディア様、どうか私をあなたのもとで働かせてください」
「ど、どうしたのアリア?さっき私の言ったことなら気にしなくていいのよ!あなたが侍女にならなくてもお父様はちゃんとあなた達を守って」
「私は…リディア様のそばにいたいです」
慌ててアリアの前に膝をついたリディアに上げさせられた顔でまっすぐ相手を見つめる。
「私がしたいんです。リディア様のおそばにいたいんです…やっぱり平民の私ではだめでしょうか?」
驚いて目を丸くするリディアに、やっぱりいらないと言われるのかと緊張していたアリアは両手を取られて「本当に!?」とがくがくと前後左右に揺さぶられ杞憂が吹き飛んだことを知った。
「本当なのね!?」
「り、りで…!」
「やったわ!!すぐにお兄様に言わなきゃ!!」
「ま、っ…!」
「あなたは今日から私の侍女よ。大丈夫、ほんとうのお姉様のように、あなたのことは私が守るわ!!」
普通逆ではないかと思ったが、揺さぶられたままのアリアは反論が出来なかったが、ちっとも嫌な気持ちにはならなかった。
それからアリアの毎日はめまぐるしく変わった。
リディアの侍女となったアリアは、相応しいだけの能力や作法を覚える為に毎日沢山勉強しなければならなかった。同時に転生者としての能力を高めるための訓練も課されるようになった。父は冒険者を辞め侯爵家で働くことになり、住まいも侯爵家の敷地内にある使用人用の家に移ることになった。成長して知ったことだが、これも全て転生者であるアリアを侯爵家の庇護下に置くためであった。
上手く行かなくて、叱られるたび挫けそうになったけれど、自分の失態は全てリディアの恥になるのだと教えられて歯を食いしばって乗り越えてきた。
転生者としての能力の使い方も少しずつ分かってきて、自分の身だけでなく、誰かを守れる力を得られたことが、できることが増えるたびリディアが喜んでくれるのが何より嬉しかった。はじめは訳ありなアリア達を遠巻きにしていた他の使用人たちも徐々に打ち解けていった。
そして最初にリディアに対して抱いた天使のようなイメージが崩れ去ったのも早かった。貴族のご令嬢だというのに、庭を走り回り生垣を穴だらけにしてしまったり、厨房に忍び込んでつまみ食いをしてみたりと、アリアが付き合わされた悪戯は数え切れず。自分があの時ファワリスの言った言葉に遠い目をしていた護衛たちと同じ顔をしているのに気付いたのはかなり早い段階だったと思う。
良い意味でも悪い意味でも奔放なリディアに振り回されているうちに一年が経ち、二年が経ち、数年が経ち。
漸く人に聞かなくても一通りの仕事ができるようになった頃、母が亡くなった。
病を患っての最期だったけれど、母は笑って父の腕の中で看取られて逝った。同じくらいの時期にリディアの母親である侯爵夫人も亡くなっていた。二人で沢山泣きあったことは今でも忘れられない。
リディアはその頃から自らの快活さを隠す術を覚えたようだった。それは彼女の兄を含め長くいる使用人など、リディアのお転婆に悩まされてきた一同は揃って「具合が悪いのでは」と心配する程の変わりようだった。
アリアはその理由を知っているけれど、それを告げることはリディアの望みではないから、誰に聞かれても決して言うことはしなかった。
リディアの母はハダルの元王女。その人が亡くなれば、その人が果たしていた役割は必然的にリディアのものになる。
それを分かっているからリディアは何も言わなかったし、父親が薦めている縁談にも反論しなかったのだろう。
『私ね、将来はお兄様のお嫁さんになりたいの』
そう無邪気に願いを零していたあの頃の自分を必死に押し殺す主の姿に、アリアは何も言うことができなかった。
悔しい。悔しい。もっと私に力があれば。
リディアは自分と家族を救ってくれたのに。彼女の憂い一つも払えない自分が情けなかった。
アリアがそうして忸怩たる想いを抱えている間にも、縁談の話はとんとんと進んでいった。
リディアと共に初めて目にしたサザンクロス領の侯爵には正直殺意しか湧かなかったが、リディアが首を縦に振らなかったから我慢せねばならなかったし、こんな結婚を強いたノーザンクロス侯爵のことを恨みたくもあった。一緒にノーザンクロスの邸から移ってきた父に何度も文句を吐き出しては「子を思わない親なんていない、何かお考えがあるんだろう」と窘められる日々を送らざるを得なかった。
その後もリディアの不遇は続き、アリアは日に何度も暴れそうになる自分の理性を持たせるのが本当に大変だった。懐妊の知らせにも正直素直に喜べないくらいにはアリアの我慢の限界は近付いていた。
許さない。あの男。もし御子が生まれるまでに考えと態度を改めないときは独断で消そう。お嬢様に叱られることになったとしてももう容赦するものか。
アリアがそう覚悟するくらいには、リディアの置かれた状況は酷かったのだ。
けれどアリアがそれを実行に移す前に、予想もしなかった転機が訪れた。
「ねぇアリア、ラーメン食べたくない?」
その言葉に間抜けにも口を開けた自分にリディアは初めて会った時のように笑った。
「ひぃいっ…!!な、なぜわ、私がこんなことをっ…!?」
「因果応報って知ってますか?ほら痛覚麻痺に加えてサービスで恐怖心も感じないよう暗示をかけてさしあげましたから。頑張って下さいね元旦那様」
「っ…あ、悪魔め!!」
「さっさと行きなさい」
「ぐあっ!?うわあっ…わああぁっ!?」
アリアはこんな状況になってまで往生際悪く主人に悪態を吐く侯爵を、どさくさに紛れて足蹴にして騒乱の中へと蹴り落とした。その様子をみたリディアは「あらまぁ」と苦笑する。
「アリアってば相変わらずあの人のことが嫌いなのね…」
「当たり前でしょう」
「今それなりの罰を受けているのだからもう許し」
「嫌です」
「即答ね」
むしろどうして許せると思うのか疑問だ。アリアのくい気味の返答にリディアはクスクスを笑い声をもらした。視界の端にひらめいた剣先の反射に、それを持つ手めがけて手刀を落とす。その手から力を失うように武器を取り落とした相手の懐に入り込み、足に魔力を集中させ鳩尾を思い切り蹴り飛ばす。
「アリア、私なら大丈夫だからあの人を助けに行ってあげて。あんなのでも一応ミモザの父親だから」
「はぁ?嫌ですよ。あんな人死んじゃえばいいんです」
「そんなこと言わずに…ほら、情けは人の為ならずって言うじゃない」
「嫌です。例え情けが自分に返ってこなくなるとしても、私はお嬢様だけでなくミモザお嬢様まで悲しませたあんな男大っ嫌いです」
「もしかしてものすごく怒ってる?」
「怒ってますよ。ついでに…ミモザお嬢様を私達と同じ境遇にしたお嬢様のことも」
「そう…ね…反省しているわ…」
母親が居なくなるということがどれほど寂しいことなのか知っている筈なのに、それを自分の子にも強いたリディアに対しての怒りもあった。
「ミモザお嬢様が本当に欲していたのは貴女の手です…私ではなく…」
寂しいときに手を差し伸べるのも、迷っているときに背中を押すのも本当はリディアがすべきこと。けれど止めるべき自分もそれに手を貸したのだから同罪だと思った。不甲斐ないのは自分も同じ。もっと力があれば、あの時リディアを助けられるほどの力があったなら、リディアにこんな未来を選ばせないで済んだかもしれないのに。
「…そうね、ミモザのために怒ってくれて、ミモザを好きになってくれてありがとう、アリア」
「………」
そんなアリアの想いを分かっているように、リディアは苦笑してアリアを一度ぎゅっと抱きしめた。
「もう戻ることはできないけれど…私は今、あの子のためにできることをするわ」
「…はい」
ぱっと身体を離していつものように笑ったリディアは戦場を見渡し、瞳に魔力を込める。戦場の空気が一瞬静かになったと思った瞬間、近くにいた敵兵が悲鳴をあげ武器を取り落とし地面に転がった。
「っ…?何をしたんですか?」
「広範囲に私の姿がお母様に見える暗示をかけたの」
「え…」
「お母様は和平のためにその身を賭してこの国に嫁いだハダルの王女ですもの。姿を知っている者達には良いお灸になると思うの。ついでに思考制限かけて片っ端から敵兵の情報を全部抜くわ。戦争を起こした人物をハダル側の協力者に引き渡しましょう」
「…精神魔法を広範囲でなんて…そんな反則技どこで覚えてきたんですか…」
「世の中のお母さんは通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃できるものと決まっているのよ」
「私はそんな常識知りません…それに攻撃じゃないじゃないですか…」
「そこはよくあるご都合主義というやつね」
この場に似つかわしくない楽しげな笑い声を洩らしたリディアは「じゃあ行きましょうか」と言う。
「危険です。ミアプラ様の姿に見えているからって武器を向けられない訳ではないんですよ。お嬢様はここにいてください」
「逆にここまで私の命が持ったのが奇跡じゃない?ここを守りきることが出来たならもう死んでも構わな」
「っ…そんなこと、言わないで下さい…!!」
「…そうね、貴女の前で言うことじゃなかったわ。ごめんねアリア」
アリアに謝った口で「もう少しだけ私に力を貸してくれる?」と自分の意思を変えようとしない頑ななリディアにアリアは唇を噛む。
いつだってリディアはそうやって自分を押し殺してしまう。自分さえ我慢をすれば、自分が口を噤めば。聡明と言えば聞えはいいが、アリアからすればただのやせ我慢だ。
そんな主を見るたびに、アリアは無力さに打ちひしがれて、何かできたのではないかと後悔してきた。
だから自分がリディアのために出来ることが一つでもあるのなら、今度こそ絶対にそれをやり遂げると誓った。
「大丈夫、そう簡単に死んでたまるものですか!」
リディアにも言えないことが一つある。
リディアはただの「身体強化」だと思っているが、アリアの転生者としての能力は相手から能力を奪うことと、それを自分の力として流用できる力だ。
そしてそれを教えてくれたのはノーザンクロス侯爵、リディアの父親であった。
アリアははじめ奪った力を無意識に自分のものとして利用していたが、奪ったものを誰かに移すことや能力以外に奪えるものがあるのでははないかと仮説を立てた侯爵は、秘密裏にアリアの能力を調べていた。
『あの子の病気をわしの体に移してくれ』
前侯爵が自分達を庇護していたのは単にその能力を危険視していたからだと、外交のためには自分の娘すら道具にする冷たい人間なのだと、そう思い込んでいた。
だから、そう言われてはじめてアリアは前侯爵がどれ程の後悔を抱いていたのかを知った。
自分の力でそんなことができるとは思ってもいなかった。力を使えば今度こそリディアを助けることが出来る。けれどそれは結局彼女を悲しませることになる。
『これは命令だ…お前にしか頼めない…すまない…』
言葉をなくしたアリアに頭を下げる前侯爵は、きっとアリアの葛藤も分かっているのだろう。
分かっていて、そうやって、命令だと、自ら泥を被った。
その姿にリディアの面影を見たアリアは、静かに頷いた。
「…本当に、親子そっくりですね…」
「え?何か言った?」
「何でもありませんよ。そうですね…そう簡単に死んでもらっては困ります。お嬢様は私が絶対に守りますから」
本人が知らぬままそれは実行された。
今のリディアは病魔に侵されていない。恐れていたシナリオ通りの死はもう彼女には訪れない。
この戦闘が収束したら、リディアは平民であるアリアの姉として、ノーザンクロス侯爵家の使用人として生きていくことになる。幼い頃に口にしていた彼女の願いが叶うかは当人達次第だろうが、未だに独り身の彼女の兄を見れば夢物語という訳でもなさそうだ。
前侯爵は高齢で病の進行も遅いとはいえ容態は静かに悪化していると聞いた。それでもアリアを見るたびに「ありがとう」と何度も繰り返した。何度礼を言われても心が軽くなることはなかったが、アリアもまた自分の罪から逃れることだけはしないと誓った。
彼女が知ったら絶対に元に戻すようアリアに迫るだろう。
アリアはリディアの頼みなら断れない。だから口を噤む。
恨まれてもいい。地獄に落ちたって構わない。
リディアが生きていてくれるなら、それでいい。
「アリア、もう少しよ!」
「はい、お嬢様」
ごめんなさい、ごめんなさいお嬢様。
私は貴女に幸せになって欲しいのです。
本編に挟むかどうか迷ったものです。




