母の教えその29「女子力(物理)」
「ミモザ嬢、準備はいいか?」
「えぇ、お願いします!」
アリアたちが着るようなお仕着せを着た上に外套を羽織り、特徴的な母譲りの朱色の髪は一つに纏めて頭から被った外套のフードの中にしまいこんだ。お腹には肩を通して括りつけた布の中にレモンを挟みこんで抱いていた。ミモザは置いていこうとしたのだが、レモンがどうしても一緒に行くと聞かなかったからだった。
『アイツ…一人ぼっちなんだ…おれ、行ってやらないと…』
ぐったりとしたまま、けれど決して譲らなかったレモンの意思を尊重して、ミモザはレモンを連れて王都へ戻ることを決心した。
(お願い…無事でいてね、レモン…)
眠るレモンを布の上から撫でて、手綱を握るメグレズの後ろでしっかりとその腕を腹に回した。
「お姉さまっ…どうかお気をつけて…!!」
「アクル…貴女も、どうか無茶はしないで…!!」
どうしても見送りがしたいと、ミモザのドレスを着て余ってしまう裾を持ち上げながらも、最後まで心配してくれるアクルにミモザも泣きそうになる。
既にアリアとカペラは国境に向かい、義母は父に援軍が来ることを伝え考え直してくれるよう伝令を送ると言っていた。父がミモザにつけた監視の侍女や衛兵達によって、ミモザがいなくなったことはすぐにばれてしまうかもしれない。それでもサザンクロスを出るまでの間持てばいい。
「しっかり掴まっていろ!」
「はいっ」
「っ……く…!?」
ぐっと手綱を引いたメグレズが馬の腹を蹴った瞬間、ミモザ達がいた場所のすぐ近くに火柱が上がった。
「っ!!」
「きゃ…!!」
驚いて嘶いた馬を何とか御しながら、メグレズはその場から数歩動いた位置で停まった。
「何、が…!!」
「…そこまでだ」
「っ…アルカイド様…!?」
ミモザ達の行く手を阻むように立ちはだかったのは、王都にいる筈のアルカイドだった。
「どうしてここに…」
「………」
アクルの驚いた声にも反応せず、城で見たときと同じように表情一つ動かさない相手は、今も冥王にその意識を操られているのだと分かった。
「どいてくれ、アルカイド様」
「……できない」
「それは貴方の意思ではない筈だ、目を覚ませ!!」
「………」
メグレズの怒号にもピクリともしないアルカイドは、手に提げた剣に再び炎をまとわせる。
「ぐっ…」
すぐに馬を走らせ魔法の軌道から逃れたメグレズは、地面から植物を生やしアルカイドの身体を拘束しようとする。けれどもそれはすぐにアルカイドの体から発した炎によって焼き尽くされてしまった。
「ちっ…こんな時に…!!」
「アルカイド様っ…どうしたのですか!?」
「っ…アクル…!!駄目よ、今アルカイド様は正気ではないの…っ、きゃあぁっ…!!」
ごぉっという音と頬を掠めるような熱気が再び傍を通り過ぎる。何とかメグレズが上手く避けてはいるが、防戦一方でこれでは前に進めない。
「お姉さまっ、メグレズ様!?やめてアルカイド様…!!」
「………」
「正気に戻ってください!!」
アクルの制止すら聞えていないかのように剣を持っていない方の腕を掲げたアルカイドは、その手に炎を練り上げる。
「っ…駄目…!!」
「アクル逃げて…!!」
「やめて…!!」
「………」
「っ…いい加減にして!!!!」
アルカイドとミモザ達の間に駆け寄って入ったアクルが思い切り叫んだのと同時に、アルカイドの頭上から大量の水が降り注いだ。
「がぼっ…っ…!?」
「お姉さまの邪魔をしないで!!」
アルカイドが手に生み出していた炎は一瞬で消え、降り注ぐというよりはいきなり滝が出現したようなレベルの大量の水が頭上から垂直に直撃した相手は、水圧に負けて呆気なく地面に膝をついた。
「一体何だというのですか!!」
「…ぐ…がはっ…」
「えいっ!!」
「んぐ!?」
やっと頭上から落下してくる水が消え、膝をついたまま噎せていたアルカイドの上から再び大量の水が落ちてくる。
「七騎士ともあろうものが、簡単に正気を失うなど…!!」
「がほっ…げほっ…ん、あ…あれ…?俺は一体……っぐ…」
「貴方は騎士でしょう!?情けないとは思わないのですか!!」
「が…ぼっ…!?」
「あ、アクル…」
ものすごい剣幕で怒るアクルを目にして呆然としていたミモザは、水圧の中ジタバタともがくアルカイドに気付き慌ててアクルに声をかける。
「アクルっ、落ち着いて!」
「いいえっ落ち着いてなどいられませんわ!!」
「がぼ…ご…っ…!!ま、待ってくれ…ア」
「待ちません!!正気に戻るまで止めません!!」
「も、もう…ごぼっ…!?」
「元に戻ってくださいませっ!!」
「~!!」
ごぼごぼと口から泡を吹き出しながら水の中でもがいていたアルカイドは、やがて息が続かなくなったのか力尽きたように地面に沈んだ。
「あ…アクル…」
いつの間にかすごく逞しくなっていたアクルに、ミモザは場違いにも感心を覚えた。
「……アクル嬢は君に似てきたんじゃないか…?」
「メグレズ様、どういう意味です」
呆然と呟いたメグレズの言葉に聞き捨ててはおけない感じを感じたミモザは、半目になり掴まっていたメグレズの服を引っ張る。
「いや…それよりも…彼は大丈夫なのか」
言葉を濁したメグレズは慌てて馬を降り、肩でぜーぜーと息をするアクルと息も絶え絶えなアルカイドに駆け寄った。
「げほっ…が、げほっ…!!」
「アルカイド様、大丈夫ですか…?」
「お姉さま、メグレズ様も危ないわ!!」
「多分大丈夫よ…だって、途中から何か喋ろうとしてたでしょう?」
それに気付かず攻撃を加えまくっていたアクルは「え、そんなの聞えました?」と可愛らしく小首をかしげる。
「がほっげふっごほっ…だ、大丈夫、だ…」
「良かった…」
何とか返事を返したアルカイドに「死ななくて」とまでは流石にミモザも口には出来なかった。其れほどまでにアクルが浴びせた水魔法は勢いが強かったのだから。
「ミモザ嬢下がって…何故ここにいる」
「…げほ、っ…は…俺は…俺は、わからない。気がついたらここで溺れていた…」
「溺れ…ごほっ、ここはサザンクロス領だ。王城にいたときの記憶はあるか?」
「王城……そうだ、俺は…ミザールのところへ行こうとしてその後…」
漸く呼吸が落ち着いてきたらしいアルカイドがぽつぽつと話した内容によれば、王太子も貴人が幽閉される室内牢に幽閉されている状態だということ、メラクと二人、王太子を助けに城へ行ったところ、ドゥーベと会いそれから記憶がないこと、操られている間の記憶が酷く曖昧になっていることなどが分かった。
「そうか…ドゥーベが……記憶がないとはいえ、俺はまたあんたに酷いことを…すまなかった…」
「いいえ…仕方ありませんわ」
それだけ冥王の、ドゥーベの力が強いということである。ミモザ達も今の段階で分かっていることをアルカイドに話した。
「俺達は王城へ行く。お前も…」
「あぁ、そうだな早く戻った方がいいだろう…だが、その前にイーター領へ寄って援軍を頼んでくる」
「援軍を…本当ですの?」
「しかし王家の命令もなしにイーター伯は私兵を動かして下さるだろうか…」
「…親父殿は分かってくれる筈だ」
あの城でのアクルの一件以降、アルコルに対して恩があるからというだけでなく、城で会う度にミモザやアクルのことも気にかけてくれていたイーター伯爵の顔を思い出す。
「腕だけには自信がある奴等だ、戦闘で役に立つだろう」
「っ…お願いいたします!!」
「アルカイド様…ありがとうございます!!」
「あ、あぁ…」
アクルに礼を言われ、思わず頬を染めたアルカイドはふいっと顔を背ける。
あんなにコテンパンにされておいてまだ恋心を抱ける辺り、案外大物なのかそれともちょろいだけなのか、何だか可哀相になったのでミモザはそれ以上考えるのを止めた。
「では、行こう…今日中には城へ着きたい」
「はい」
「強行軍になるが…耐えてほしい」
「えぇ、早くアルコル様を助けましょう!」
「っ、あぁ!」
メグレズの手を借りて再び馬に跨ると、同じように馬に乗り王都とは別の方角へ走っていくアルカイドの姿が見えた。その姿が見えなくなる前にミモザ達も走り出す。
慣れない馬での移動に不安はあるが、レモンにあまり振動を与えないよう腕でぎゅっとお腹に密着させた。
「お姉さま…メグレズ様…どうかお気をつけて…」
ミモザ達を見送ったアクルは、ドレスの裾を踏まないようにして、そっと見つからないようにミモザの部屋に戻った。
姉の監視をしていた侍女達の姿は見えない。もしかしたら母が姉がいなくなったことを知られないように使用人達を全員遠ざけたのかもしれなかった。
(よくわからないけれど…とにかく、一日でもお姉さまがいない事をお父様に知られないようにしなくちゃ…)
姉のドレスは着ているものの、背格好が全く似つかないアクルでは姿を見られればすぐにばれてしまう。
(布団でも頭から被ってようかしら…足元だけ見えるようにして…座っていれば、裾の長さも誤魔化せるし…)
姉はずっと塞ぎこんでいたと聞いていたから。そのように布団を被り頭を垂れていてもきっと不審には思われまい。アクルがいない事は母がきっと誤魔化してくれるだろう。
窓の外はまだ昼間だというのにどんより暗い。降り出しそうな雨の気配と、戦争になるかもしれないという民達の不安がここまで伝わってくるようだった。
(恐い……けど、頑張るわ…大丈夫…)
アクルのせいでずぶ濡れになってしまったアルカイドに、着替えをさせるために案内した先で、着替えも済まないまま言われたことを思い出す。
『援軍が来れば、侯爵領の民も少しは安心するだろう…俺も、冥王を何とかしたら必ずここへ戻ると誓う…だから、いくら強くても、その…無理はしないでくれ…』
全身ずぶ濡れで、ぽたぽたと前髪からはまだ雫が落ちているような状態で、それをやったのが目の前のアクルだとわかっている状況で。それでも「守りたい」と言ってくれたアルカイドにアクルは胸がぽわぽわとして「ふふ」と小さく笑う。
「……はい、待っていますねアルカイド様……」
不安に押しつぶされないよう、アクルがアルカイドのことを思い出していたとき、部屋の外が俄かに騒がしくなったのが分かった。
扉に近寄って耳を済ませたアクルは、使用人たちの「旦那様がお帰りになった」という声を聞いて肩を跳ねさせた。
(お父様が帰って来た…?)
母の話では国境にかかりきりだった父が、何故こんなにも早く屋敷へ帰ってきたのか。理由は分からないけれど、今入れ替わりが父にばれてしまったら、姉は無理矢理連れ戻されてしまうかもしれない。
(駄目、絶対そんなの駄目…!!)
今のアクルには父親がこの部屋に来ないようただ願うしかない。
母の取り成しで誤魔化されてくれることを願いながら、アクルは頭から被った布団を顔の前で合わせて見えないように身を固めた。
「お、お帰りなさいませ旦那様」
「またすぐに国境へ向かう。馬車はそのままでいい…すぐ出られるよう待機していろ」
服についた降り始めた霧雨を手で払いながら、脱いだ外套を傍に居た使用人へ押し付ける。
「旦那様、至急ご報告があります」
「っ…後にしろ、それより王都からの返事は来ているか」
「いいえ」
「ちっ…」
ここ数日のハダルとの交渉は上手く行っておらず、王家に窮状を訴えても返事は来ず。
領民達の不安は日に日に増していき、サザンクロスを逃げ出す者までいるらしい。
しかもそんな忙しい時に王城ではクーデター騒ぎがあり、不肖の娘がそれに関わっているらしいという情報が入ってきたため、そんな場合ではないというのに連れ戻しに行くことを余儀なくされた。その時に王城の人間には国境で起こっている戦闘のことを伝えた筈なのに、対応どころか返事もないとは。
隣の領地にも協力を要請したが、煮え切らない返事ばかり。あの女の生家であるノーザンクロスはミモザの名前を出せば助けてくれるかもしれないが、それは自分のプライドが許さなかった。
「くそっ…どうして私ばかりがこんな目に…!」
全く以て腹立たしいことばかりだ。これも全てあの女が悪いのではないか。
いつも自分を見下ろして、表面だけの笑顔を顔に貼り付けたあの女。
あの女がいれば、あいつの血を引く子供がいれば隣国は攻めてこられない筈だったんじゃないのか。それなのに今こうしてこの領が攻撃を受けているのはあの女には何の力もないということの表れではないか。そうだ。きっとそうなんだ。だったらもう必要ない。あの娘に抑止力としての力がないのなら、さっさとハダルへ送って、その見返りに戦闘を収束させよう。
追い詰められた頭では、これ以上の名案は浮かばなかった。
本来なら厄介払いに第二王子に嫁がせる筈だった娘だが、役に立つのなら相手は第二王子でなくていい。
娘ならば私にはまだアクルがいる。
リギルだって賛成してくれるだろう。
私は間違っていない。
それなのに。
『国境に援軍が向かっているそうです。どうかお考え直して下さいませ』
サザンクロスの屋敷から届けられた妻からの手紙には、自分の思惑とは真逆の内容が書かれていた。
「リギル!リギルはどこだ!」
「…ここにおりますわ、旦那様」
廊下を歩きながら怒鳴る自分に、使用人たちは恐れをなして蜘蛛の子を散らすように逃げていった。侯爵である自分の執務室の扉を開け、そこから姿を現した妻の顔は酷く疲れた様子だった。
「お帰りなさいませ…お疲れでしょう、まずお座りください。今お茶を淹れさせますから」
「あぁ…いや、茶はいい。それよりもあの手紙はどういうことだ」
「…そのままの意味ですわ」
普段なら自分の言うことに決して逆らわなかった妻の言動に違和感を覚える。
「庭師のルガスが、かつての冒険者だった頃の仲間を連れて国境へ加勢に行ってくれました」
「ルガスだと…?」
考え込んですぐに、あの女について侯爵家へ来た親子の一人だと気付く。
「冒険者崩れを雇っていたのか…なんと嘆かわしい。やはりあの女はこの侯爵家には相応しくなかった…冒険者風情が数人集ったところで…」
「…いいえ、ギルド同士で連絡を取り合い、数十人が我が領の加勢に来て下さるそうですわ…人脈のない私には出来なかったことです」
「リギル…?」
自嘲するように言った妻の言葉に疑問が浮かぶ。こんな笑い方をするような人ではなかった。いつも自分の話を笑顔で聞き、何でも肯定してくれた面影はそこにはない。
「あの子に何か言われたのか?」
「いいえ」
ミモザに何か意地の悪いことでも言われたのではないかと、疑って詰め寄ればそれはすぐに否定された。
「それより、何も口にしていないのでしょう?今食事を用意させますから…それまで湯浴みでもなさったらいかがですか?」
「いや…湯浴みはいい」
「またすぐに国境へ行かれるのでしょう。お休みになっては…」
「それもいい、今はそれどころでは…」
そう、自分は隣国との交渉に使うために、ミモザを連れて行くために戻ってきたのだ。
「あの娘の見張りにつけていた侍女に伝えろ。出かける支度をさせろと」
「あの侍女は粗相があったため、家に帰しました」
「な、何だとっ…それじゃあミモザは…!!」
「ちゃんと部屋におりますわ。私が確認しました」
「なんという勝手なことを…!!」
「嫌ですわ、そんなに怒らないで。粗相をしたメイドはいつでもクビにしていいって仰っていたじゃありませんか?」
「ぐっ…」
昔自分が言ったであろう言葉を出されて口を噤む。
「ならば他の人間でもいい。ミモザは隣国へ連れて行く。その支度をさせるんだ」
「しかし…すぐにとはいきませんわ。女の支度には時間がかかるもの」
「な…」
「それにハダルへ行くならドレスを新調した方がよろしいんじゃありませんか?」
「………」
おかしい。
さっきから今までの妻らしくない言動もそうだが、頑なにミモザを隣国へ行かせまいとする意思を感じる。
「もういい…私が直接あいつに言う」
「っ…いいえ、私が行きますわ。あんな娘のことで旦那様の手を煩わせる訳には…」
「…お前は…そう言うが、さっきからどちらの味方をしているんだ?」
「それは勿論旦那様で…」
「嘘をつけ!!」
自分の腕に縋ろうとした妻の腕を振り払う。
「もういい!!何なんだ!!」
「旦那様っ…」
「今更庇うのか!?あんなに冷遇しておいて…!!」
「っ…」
「お前だってあの娘にいなくなってほしいと思ってたじゃないか!!」
何故自分だけが責められなければならないのだ。
目を逸らしてきたこと。放棄してきた責任を、同じ穴の狢から責められるなど。
「私は否定する言葉を持ちません…そんな資格もないのも分かっています!!けれど、血は繋がっていなくてもあの子も私の娘であると気付いたんです…!!」
「何だと…」
「親であれば子には幸せになってもらいたいと願うものでしょう?あの子は貴方の血を分けた娘ではありませんか!!」
「うるさい!!黙れ!!黙れっ…!!あんなのが自分の娘だなどと思いたくない!!」
「っ…いい加減になさいませ!!」
感情的になったとは言え自分の発言が親として最低なものであることが分かった時には、もう口に出していた。
リギルはそれにショックを受け、怒りを通り越しその顔に失望を上らせ腕を振り上げた。
「お待ちください」
ぱん、と小気味よい打撃音が響くと思われたその部屋に現れたのは一人の侍女だった。
いつの間にか自分とリギルの間に立った彼女は、振り上げられたその腕を掴み自分の顔に届く前に止めた。
「その人を殴るのは貴女ではないわ」
「え…っあなた…誰…」
「な、何だおまっへぶっ…!!?」
言い切る前に下から突き上げた拳でその顎を上に撃ち抜いた侍女は、リギルの腕を離し床に転がる自分の前に歩みでる。
「私をお忘れですか?」
「なっ…お、お前など…しらな……え?」
「もう一度聞きます。私の、この顔をお忘れですか?旦那様?」
「な…なぜ…お前、お前は…」
ありえない。ありえない。だってアイツは。あの女は。
「サザンクロスの危機と聞き、このリディア、亡霊となって地獄の底より馳せ参じましたわ」




