母の教えその26「大事なことは言わなきゃ伝わらない」 後編
「変じゃないかしら?」
姿見の前で、何度も落ち着きなく動きながら自分の格好を確認する。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
ドレスの裾を直すためにしゃがんでいたアリアは、立ち上がって今度は背中のリボンを直す。
「本当に、お姉さまとってもきれい」
「そうかしら、変じゃない?」
「変じゃないですってば」
心配で何度も聞いてしまうのは許して欲しい。ミモザとて人から贈られたドレスを着るのははじめてなのだから。
アルコルから贈られたドレスは、絹のような白の光沢のある布地に青と緑の糸で胸元から細かな刺繍が施されたレースが重ねられたとても美しいものだった。幾重にも重なるように腰に巻かれたリボンはアルコルの髪色に近い黄色で。そのリボンに通されたアルコルのロザリオが揺れていた。ドレスに合うようにいつもは下ろしている髪も、今日は後ろにきれいに結い上げてもらっている。両側に編み込みをつくり後ろでまとめた髪には真珠の飾りがついていた。
刺繍の緑がかった青はアルコルの瞳を彷彿とさせて。腰に巻かれ背中で揺れるリボンはアルコルの髪の色を思い出させて。動くたびに揺れるイヤリングはアルコルから貰った星の花の破片で作ってもらったものだ。鏡の中の自分に混じるアルコルの色が酷く気恥ずかしくなったミモザは何度も鏡の前で回ったりしながら落ち着きなく動いてはアリアに裾を直されていた。
「もう、お嬢様、そんなに動くと髪形まで崩れてしまいますよ」
「だ、だって…」
「お相手の色を身につけることは夜会ではおかしくない事です、落ち着かれて下さい」
「うぅ…」
「アクルお嬢様の方が大人ではありませんか」
アリアに諭されてアクルを見れば、フリルやレースが幾重にも重ねられたドレスは数種類の生地が使われており、髪や首元に飾られたリボンは確かにアルカイドの髪色を意識した花の飾りのついたリボンが巻かれていた。小柄で幼い顔立ちのアクルにそのドレスはとてもよく似合っていた。
「…アクルは恥ずかしくないの?」
「私はお姉さまの勇姿が見られればそれでいいの」
「………」
それは流石にアルカイドが可哀相ではと、ミモザが言いかけたとき、控え室の扉を叩く音がした。びくりと肩を跳ねさせたミモザはさっと居住まいを正す。
「はい」
アリアによって開けられた扉の向こうにいたのは、騎士の礼装をしたアルカイドだった。
それにがっかりしたような、ホッとしたような気持ち半分で、ミモザはアクルへ道を譲った。
「すまない、早すぎたか…?」
「いいえ、もう支度は済んでいましたから」
「そうか…」
そこで「似合っている」くらい言えないものかとミモザは後ろからアルカイドを睨む。その視線に気付いたように、アルカイドは「あー」とか「う」とか意味のない言葉を発した後、消え入るような声で「似合っているな」と口元を隠して言った。
「まぁ、ありがとうございます」
それでもアクルの耳にはちゃんと届いていたようで、どことなく嬉しそうにしたアクルはアルカイドの前に歩いていってドレスの裾を摘んでお辞儀をした。
「今日はよろしくお願いいたします」
「あ、あぁ…」
相変わらず口元を隠したままのアルカイドは、おそるおそるとアクルに手を差し出した。その差し出された手を取ってアクルは微笑むと、ミモザ達を振り向いて「では、行ってまいります」とアルカイドの隣に立った。
「あまり遅くなりませんようお願いいたします」
「あぁ、約束する」
ミモザの言葉に神妙に頷いたアルカイドはどこかぎこちなく歩き出した。アクルの方はそうでもないようで「先程の試合はすごかったですね」などとアルカイドに話しかけていた。
扉が閉まり二人の話し声が聞えなくなると、再びミモザに緊張が戻ってきた。
(アルコル様ももうすぐ来るかしら…)
この自分の姿を見てどう思われるだろう。アリアもアクルも褒めてくれたけど、やっぱり婚約者でもないのにこんなにアルコルの色を身につけていてずうずうしく思われないだろうか。
タニアが選んでくれたドレスなら間違いはないだろうと思うが、果たしてそれを自分が着こなせるかは別問題で。
(ど、どうしよう…私、こういう時いつもどうしてたのかしら…)
滅多になかったこととはいえ、侯爵家の令嬢として夜会に参加したことだってあった筈だ。こんなに緊張していただろうか。
ばくばくと早鐘を打つ胸が苦しくてぎゅっと口を引き結ぶと、化粧が乱れますとまたアリアに叱られた。
「だって…」
「大丈夫です、お嬢様。リディア様なら「どーんと構えてなさい」って言うと思います」
「…お母様が?」
「えぇ、あの人はそういう人ですから」
ミモザの肩に両手を置いて、姿見の中のミモザの姿を後ろから覗き込んでいるアリアの目は、どこか懐かしげな色を浮かべていた。
「お嬢様はリディア様に似て美人ですし、中身はリディア様と似てなくて残念じゃないですから大丈夫です」
「…ふっ…ふふ、それお母様に怒られるんじゃない?」
「この場にいない罰ですよ」
拗ねたように言ったアリアに少しだけ元気を貰ったミモザは、深呼吸をして振り返る。
「そうね、折角アリアが綺麗にしてくれたんだもの、頑張って行ってくるわ」
「その意気ですお嬢様」
クスクスと笑いながらミモザの胸元を最後に直したアリアは、扉の方を見る。
次の瞬間部屋に響いたノックに「いらっしゃったようですね」とミモザの背中をそっと押した。
「はい」
アリアが扉を開けてくれるのをその場でじっと待つ。
扉の向こうには自分と同じようにどこか緊張した面持ちのアルコルがいた。それでもミモザと目が合うと、安心するような顔で笑ってくれた。
「…よく、似合ってる」
「…ありがとう、ございます」
アルコルが優しげな顔で見てくるので、ミモザは恥ずかしくなって顔を伏せる。頬が弛んでだらしない顔になってしまうのであんまり見ないで欲しい。自分でも語尾が窄んでしまうのに気付いた。
「アルコル様も、とても素敵です」
「そ、そうか…ありがとう…」
アルコルの礼装もよく似合っていてとても格好良い。会場に行ったらさぞ令嬢達の視線を集めることだろう。自分が今からこの麗しいアルコルの横でダンスを踊らなければならないのが、恥ずかしくもあり、嬉しくもあり、そして恐れ多くもあり、何だか複雑な気分だった。
「こうして正装して踊るのは初めてだね」
アルコルに言われて考えるが、確かに公の場でアルコルと踊るのは初めてではないだろうか。
「そうですね…沢山一緒に踊ったのに…こういう場面は初めてですね」
「うん」
気恥ずかしくて目を逸らせば、アルコルの胸元に自分の髪色と同じ色のタイが巻かれているのに気がついてしまい、余計に顔を上げられなくなった。
「どうかした?」
「な、何でもありません…」
ぶんぶんと首を振って誤魔化すと、後ろの方でまたアリアに「髪が崩れます」と注意をされてしまった。
「お嬢様、そろそろ行かれませんと遅れてしまいますよ」
「あ、そ…そうね…」
アリアが窓の外を見ながら言う。
「じゃあ行こうか」
すっとアルコルは頭を下げて片手を胸におき、もう片方の掌をミモザに差し出した。
「どうか私の手を取っていただけますか?」
「っ…はい…」
重ねた掌をぎゅっと力強く握られ、アルコルの腕に誘導される。その腕に掴まって隣のアルコルを見上げると、その横顔が少し赤くなっているのに、ミモザの頬にも熱が上った。
心臓が痛い。苦しい。熱い。でもどうしようもなく幸せで。人を好きになることがこんなにも苦しいことだなんて知らなかった。
「アルコル様」
「ん?どうかした?」
「…聞いて欲しい、ことがあるんです」
ミモザの思いつめた顔に何かを感じたのか、アルコルは「うん」とミモザと目を合わせて頷いた。
「…たくさん、言わなきゃいけないことがあって…本当はもっと早く言わなきゃいけなくて…」
「うん」
「それなのに意気地がなくて、言えなくて、今日まできてしまいました…」
「うん…たくさん悩んで、それでも話す決心をしてくれたんだろう?」
アルコルの優しい声にミモザは黙って頷く。
「だったら、私はあなたの出した答えをちゃんと聞くよ」
「っ…はい…」
「ただ、このままだと遅れてしまうから…ダンスが終ってからでもいいかな?」
「はい」
こくりと頷いたミモザに、少し安堵したような表情を浮かべたアルコルは、部屋の中にいるアリアに「帰りが少し遅くなっても構わないか」と問いかける。
「…それがお嬢様のお望みでしたら」
「感謝する…あまり遅くなりすぎないよう私も気をつける」
「…アリア、ありがとう…行ってきます」
「はい…お嬢様にとって良き夜になりますように…」
笑って送り出してくれたアリアに小さく手を振って、ミモザはアルコルと廊下を進んでいく。
はじめて着たドレスなのに歩きにくくないのはきっとアルコルが歩幅を合わせてくれているんだろう。
「私達が入場するのは兄上達の後になると思う」
「はい」
「緊張してる?」
「少しだけ…アルコル様は?」
「私はすごく緊張している」
「すごくですか?」
「すごく」
「ふふっ…」
アルコルの言葉に少しだけ緊張がとれたミモザはアルコルの腕を掴んでいないほうの手で口元を押さえて笑う。
ホールの前、警備の兵が並ぶ中、扉の前に数人待機しているのが目に入った。殆どの招待客はもう既に中に入っている。ここに残っているのは後から入場する王族とそのパートナーや従者だけ。必然的にそこには王太子とスピカ、そしてタニアやメラク、メグレズの姿があった。
「ミモザ!」
「タニア様、本日はこのような美しいドレスを賜りましてありがとうございます」
「…本当にごめんなさい、私早とちりをしてしまって…」
恥ずかしそうにしゅんと項垂れるタニアは今日もとても美しかった。
「いいえ、こんなに素敵なドレスを作ってくださったこと、本当に嬉しく思います」
「貴女が着てくれて本当に良かったわ」
ミモザがそう言って微笑むと、タニアも漸くほっとしたのか笑顔になった。
「タニア様のエスコートはどなたなのですか?」
「メグレズよ」
「えっ…メグレズ様?」
どうやら従者としてこの場にいたわけではないことに、漸く気付いたミモザはメグレズを見る。
「どうして教えてくれなかったのですか」
「あ、いや…別に隠していた訳では…今回のことも事情があって…」
「観覧試合の時といい…メグレズ様は報連相が足りませんわ」
「ホウレンソウ…?」
他愛もない話をしながら時間が過ぎるのを待つ。
タニア達よりも前にいるスピカの様子が気になってそっと様子を窺った。あれからドゥーベとは話ができただろうか。別れる前は元気そうに見えていたが、やはり心配だった。話かけようにも王太子と何か話していて声をかけることができそうもない。
王太子の隣にいるスピカは白と桃色の薄いシフォンを何枚も重ねた裾は羽のようなドレスを着ていて、元々可愛らしい顔立ちのスピカにとてもよく似合っていた。
王太子から贈られたものなのだろうかと、じっと後姿を見ていると視線に気付いたスピカが振り返る。手を振ろうとしたその時、中から聞えていた話し声が止んで音楽が変わったのが分かった。
「…兄上達が入るよ」
小さな声でアルコルに教えられて、前に向き直ったときには、スピカは王太子に連れられて会場の中へ行ってしまっていた。
(スピカ…きっと緊張してるわよね…)
この国の王太子の入場である。招待客の全員の視線が向けられているといってもい状況に、友人の心境を察してミモザは心の中でエールを送る。そしてそれに続くようにメグレズに手を引かれたタニアが扉の中に消えていく。
「…行こうか」
「はい…」
とうとう自分達の番になってしまい、肩に力が入るも「大丈夫」とアルコルから声をかけられて、深呼吸を一つする。
天使の装飾が施された大きなホールの入り口の扉を潜ると、中の灯りで一瞬視界が真っ白になった。廊下が暗いわけではなかったが、室内の明るさは別格である。細めた目を開いて真っ直ぐ前を見ると、会場に並べられた装飾がかったテーブルや、料理、そして沢山の着飾った生徒達の姿が目に入った。そしてその人々の注目が自分達に集っていることも分かった。
「………」
不自然にならない程度に辺りを見渡すと、進行方向にアクルとアルカイドの姿が見えた。アクルは両手を胸の前で組んできらきらとした目で此方を見つめていたが、アルカイドの視線はそのアクルに向いているようだった。アリオトやフェクダの姿は近くには見えない。そしてドゥーベの姿も。
あまりきょろきょろする訳にもいかず視線を前に戻すと、既に定位置に到着したらしいミザールとスピカが此方を向いて立っていた。スピカはぽーっとしたようにタニアとメグレズが自分達の横に行くのを見送っていた。きっとアクルと同じく絵になる二人にうっかり見惚れているのだろう。そして漸くミモザ達に気付いたスピカははっとして満面の笑みになる。ミモザが苦笑すると、気を抜いていたのを注意されたように感じたのか、恥ずかしそうに少し俯いてしまった。
タニア達の横に並んで立つように待っていると、音楽が終わり学園長が一段高くなったステージへ現れ開式を告げた。学園長の言葉と同時にキラキラとシャンデリアから降り注ぐ光は、魔法で作られた光らしい。同時にダンスのための曲が奏でられる。
「兄上達が踊り始めたね……それじゃあ私達も行こうか」
「はい」
アルコルに手を引かれてフロアの中ほどまで行く。片膝をついたアルコルがミモザの方に手を伸ばす。ミモザはその手を取ってアルコルに頭を垂れる。
柔らかく握られた右手が熱い。背中に回された腕も、自分が手を添えている肩も、触れた部分が全部火傷するみたいだと思った。
「顔を上げて」
恋愛小説の一節のようなチープな感想を抱いてしまったことが恥ずかしくて顔を俯かせると、すぐにアルコルから声をかけられて慌てて顔を上げる。碧の瞳と視線がかちあって「大丈夫だよ」と微笑まれた。
「沢山練習しただろう」
「そう、ですね…」
ミモザが緊張しているのだと勘違いしたのか、安心させるように笑ってくれたアルコルのその気持ちが嬉しくて、ミモザはくしゃりと顔を歪ませ笑った。嬉しくて、幸せでどんな顔をすればいいのか分からない。音楽に合わせて足を踏み出す。落ち着きなく跳ね回る内心とは裏腹に、足は羽が生えたみたいに軽やかに動く。
「…昔、はじめて一緒に踊った時のことを覚えてますか?」
「うん、覚えてる。私はあなたの足を何度も踏んでしまって、終いにはバランスを崩してあなたを巻き込んで転んでしまった」
「そうです、アルコル様ずっと真っ青な顔してごめんって何度も謝って…」
「そうだったね…あの頃は毎回そんな感じで、本当に申し訳なかったと思ってる」
「いいえ…本当は私あの時、アルコル様のお腹がクッションになって全然大丈夫だったのですけれど、それを言うのも落ち込ませてしまうかなと思ってずっと言えなかったんです」
「…それを今聞いた私はどんな顔をしたらいいんだ…?」
「複雑だ…」と言いながら同じように複雑そうな表情をするアルコルにクスクスと笑って、ミモザは掴まっていた腕にぎゅっと力を入れた。
「み、ミモザ…?」
「いつも間違えないよう一生懸命で、無意識に小さく呟くステップも、私が踊りやすいようにお腹に力を入れてへこまそうとしてくれるところも、上手くいったときに満面の笑みになるところも何だか可愛くて…だから私、アルコル様と踊るのが大好きだったんです」
「え…」
「それは格好悪いところでは?」と踊りながらばつが悪そうに耳を赤くしたアルコルに「だから」と言い募る。
(これで最後になってしまうかもしれないけれど…)
アルコルの瞳に映る自分が、曇りなく笑えていればいいと思った。
「今日のことも、一生の思い出にします」
「うん…私もだ」
嬉しそうに笑ったアルコルは、こつりと額をミモザの額に押し付けるように当てた。
「っ…アル」
「…ずっと、あなたが何かを思いつめていたのは知っていた」
「っ…!」
「それでも、信用を得られていない私ではそれを聞くことも叶わないのだと思っていた」
「そんなっ…違います…!私は、言えなかったのは、私が悪くて…!!」
音楽はいつの間にかスローテンポに変わっていた。
寂しそうな顔をしたアルコルにミモザは首を振って言い募った。
「幼い頃から、ずっと…ずっと貴方に言えなかったことがあります…」
「………」
「そうすることが自分の身を守ることにつながるのだと言い訳をして、嘘をついているわけではないと卑怯にも黙したまま、今この時まで過ごしてしまいました…」
ミモザは浅くなりそうな呼吸を宥めながらアルコルからそれでも目を逸らさずに言う。
「ミモザ…」
「私…私の本当の魔力はとても危険なものなのです」
「………」
「思考を制限したり、暗示や魅了をかけたり…誰かを意のままに操り、傀儡とすることさえ可能な強い力が私にはあるのです」
「城の鑑定士はあなたには闇の魔力を持っているがそこまでの強い力はないと言っていた」
「…精神操作の能力を持つ者は鑑定が正しく反映されないのだと、フェクダ先生が言っていました」
「………」
以前にフェクダに言われたことを伝えたが、アルコルの反応はどこか困惑しているように思えた。確かに実際に目にした訳でもなく、唐突に「私すごい力を持っています」と言われても信じることなど出来ないだろう。
「私がこんな力を授かったのにはもう一つ理由があります」
だからもう一つの秘密を話す。
「私のお母様は…転生者だったんです」
「転生者……母君が…?」
「はい」
この世界で類稀なる力を持つことが知られている「転生者」
その娘であるならばミモザが強い力を持っていてもおかしくないのだと証明してくれる筈。
「私の力は母から引き継いだものです。お母様はこの力がどれほど危険なものなのかを理解していました。そして私にこの力の使い方を教えてくれました」
『この力のことは誰にも言ってはいけないわ』
『身を滅ぼすことも、救うこともできる力よ』
『悪用駄目ゼッタイ!』
いつだってミモザを導いてくれた母。
震えそうになる声を、思い出の中の母の姿を支えにしながら振り絞る。
「母が亡くなってからあの家に私の居場所はなくなってしまいました…だから、いずれ家を出て行くことも考えていました」
「ミモザ…」
「だけど、あの日私はレモンに会った…レモンは冥王の復活を目的に動いていた悪魔だと言いました」
「っ…」
ミモザの言葉にアルコルの手に力が入る。
「それでもあの日、偶然だったのかもしれないけれど、私はこの力でレモンを無力化することができたのです。今のレモンには何の力もありません。本当はその時点で国に報告をするべきだったのかもしれない…けれど、そうすればこの力のことも打ち明けなければならなくなる…レモンももしかしたら殺されてしまうかもしれない、レモンと過ごす時間が増えていくほど放っておけなくなった。打ち明けるのが恐ろしくなった」
「ミモザ…」
「初めてアルコル様に会ったあの日…私、貴方に魔法を使ったんです」
「!」
アクルのためとか、家のためとか、どんなに言い訳をしても結局は保身でしかない。我が身可愛さにアルコルに暗示をかけ、意図せずとも自分という存在を植えつけることになってしまったのだから。
「…だから、貴方のその私を好きだと言ってくれた気持ちも…本当は、私にそう思い込まされただけのものなのかもしれないのです」
「………」
「それなのに、私はそのことをずっと貴方に言うことが出来なかった…打ち明けることで、嫌われたらどうしようとすごく恐かった、嫌われたくないと…ずっとそばにいたいと思ってしまった」
泣きそうになる顔を見られたくなくて、アルコルが黙ったままなのをいいことに俯く。
「…必死に変わろうと、努力している姿に、いつしか貴方の力になりたいと思うようになっていました」
出来ることが増えると一緒に喜んで、上手くいかないときは何が悪かったのか一緒に考えた。同じ景色を見て「きれいですね」と言えば「そうだね」と笑って返してくれるのが嬉しかった。ダンスの時に足を踏まれるのは痛かったけれど「ごめん」としょんぼりしてしまうのが何だか可愛くて、元気を出して欲しくて「大丈夫です」っていつも答えていた。
「ずっと一緒にいたから。貴方の隣は自分の場所であると、いつからか勝手に勘違いをしていたんです」
入学式のあの日、窓の外のあなたに当たり前のように手を振り返そうとした自分が浅ましいと思った。それでもあなたはそんな私を「あなたに振ったんだ」と呆気なく救い上げてくれた。
「私は狡い人間です…事実を貴方に告げることもせず、自分の気持ちを優先してしまった」
それを口に出来なかったのは自分が弱かったから。いつか家を出るつもりだと諦めた振りをして、ずるずると都合の悪い事実を告げることを引き延ばして。
「…毎年領地の小麦が金色に色づくのを見て、貴方のことを思い出していました。昔、私の髪の色に似ていると言ってくれたあの花を見て、私と同じように貴方も私のことを思い出してくれたらいいのにと…ずっと、そう思っていました…」
死亡フラグだからとか、既に建前でしかなかった。どんなに言い訳をしても、否定しても、この気持ちは変えられない。
「貴方様をお慕いしております」
自分のこの気持ちだけは偽りではないのだと信じてほしい。
「アルコル様が好きです…ごめ…なさ…、大好き、なんです…」
決して泣くまいと思っていたのに、勝手に涙が溢れてくる。アルコルの驚いた顔が視界に滲む。泣いてしまえばアルコルは自分の気持ちよりもミモザの感情を優先させてしまうかもしれないと思うのに勝手に嗚咽が漏れてしまう。
「嫌わないで、ください…っ…」
「っ」
ぼろりと、堪え切れなかった涙が溢れた瞬間、アルコルに手を引かれてフロアから連れ出される。ダンスをする他の生徒達の間を縫って駆けるように窓際まで辿りつくとバルコニーの外へ出て、大きなガラスの扉が閉まると同時に痛いほど抱き締められた。
「っ…」
「嫌うわけないだろう…!」
「アル…っ…さま…」
「ずっと…ずっとあなただけを想っていたんだ…!」
頭を肩に押し付けられるようにしながらきつく抱き竦められ、その腕と言われた言葉にまた涙が溢れる。
「ミモザと出会ったから、私は変わることができた」
「アルコル様…っ…」
「あなたが傍にいてくれたなら、やり直せると思った。ミモザが信じてくれたから、あの頃の私は愚かだった自分と向き合うことができたんだ」
「っ…ぅ…」
「あなたの暖かさに触れる度大事にしたいと思った。誠実さを知るほど尊敬したし、あなたの隣に立っても恥ずかしくない自分になりたいと思った。一目惚れだったけど…あなたが笑ってくれるのを見る度に、もっとミモザを好きになった」
「…っ…」
「一緒に過ごした日々も、そこに生まれた想いも…決して魔法で強制されたものなんかじゃない」
そっと離されて両手で頬をくるまれ顔を上げさせられる。
「ミモザは私を暗い場所から救い上げてくれた光だったんだ」
アルコルが心底嬉しいと言うように笑って言った。その表情にミモザは息を飲む。
「大好きだ、ミモザ」
「アル…コル様…」
「話してくれてありがとう」
「っ…ぅう…ぁ…」
アルコルに「ありがとう」と言われ、安堵したのと感極まったのでとうとう涙腺が崩壊したミモザはぼろぼろと涙を零して泣いた。
「泣かないで…ミモザに泣かれると、どうしていいか分からなくなる」
「ふ…っ…ぅ…だ、だって…もう、嫌われたと…思った、から…!」
「…私に嫌われるかと思って悩んでたの?」
「嫌われたくなかった…勝手だと思っていても…ずっと貴方の傍にいたかった…」
「っ……」
再びぎゅうと抱きしめられ、耳元でアルコルが「あまり喜ばせないでほしい」と告げる。
「あなたが狡いというのなら私はもっと酷いんだろう…あなたが私に嫌われたくないと泣くのを幸せだと感じてしまうのだから…」
「…アルコル様?」
「ミモザが好きだ」
「っ」
額を合わされ碧の瞳に自分の赤くなった顔が映る。こめかみにアルコルの黄金色の髪がさらりと当たった。肩に置かれた両手がひどく熱い。
「…触れるお許しを頂けますか?」
「っ…」
何を、とは聞くことが出来なかった。一気に立ち上った羞恥心からそんなこと聞かないで欲しいと思ったが、肩に置かれたアルコルの手が少しだけ震えていることに気がついてミモザは思い至る。
『あなたなんかきらい…!!大っきらい!!!』
昔の自分が放った一言。
おそらくそれがアルコルの震えの原因だろう。
「ふっ…」
「ミモザ…?」
目の前にいるアルコルの姿はあの頃とは随分変わってしまったけれど、こうして変わらずミモザの心を守ろうとしてくれる。そのことがどうしようもなく嬉しくて、ミモザは小さく笑みを零した。
「…触れてください」
「っ…」
「アルコル様が大好きです」
目を閉じたミモザにわずかに逡巡するような気配と、温かな感触が降って来る。
柔らかく抱きしめられ、アルコルの肩越しに見上げた空には満月に少し足りない上半月の月が輝いていた。夜毎に満ちる月は、あと数日で完璧な円を描くだろう。
満月でも半月でもない、特徴のない月だが、きっとこの月を見るたびにミモザは今日の事を何度でも思い出すのだろうと思った。
「………」
「こんなところで覗きとはいい趣味だな」
中庭の隅に植えられた樹齢百年を越え、枝を四方へ伸ばす大木。その枝の上で、ミモザ達のいたテラスを見ていた小鳥は、興味もなさそうに頭を声のした方に向けた。
「もう分かっただろ…お前がどんなに悪意を注ごうとも、アイツは…アイツ等はもうクーデターなんか起こさない」
「………」
「お前がコソコソ動いてたのは、全部無駄になったんだ」
「………」
「…もう、やめよう、ラムエル」
小鳥の傍に降り立った黒猫は諭すように言う。
「お前が王太子の周辺や、あの黒髪に悪意を吹き込んでたのは知ってる」
「………」
「人間は俺達が思ってるよりずっと強かなんだよ…自分の為だけに動いてる奴と、誰かの為に動いてる奴を比べたら、誰かの為に動ける奴の力の方がずっと強い」
黙ったまま何も反論しない小鳥に黒猫は言い募る。
「…だから、やめよう、今ならまだ止まれる…アイツはバカみたいなお人好しだからきっとお前のことも…」
「くくっ…あははっ!!」
ばさりと大きく翼を広げた小鳥を大きな黒い靄のような光が包む。
「っ…」
「本当に、バカみたいなお人好しなのはお前の方だろ」
「ラムエルっ」
「王太子の周辺に悪意を撒いて?あいつに悪意を吹き込んで唆して?僕がそれだけしかしてないと思った?」
「っ…」
ごぅ、とラムエルを中心にして局所的な強い風が起こる。レモンは吹き飛ばされまいと木の枝に爪を立てラムエルを睨む。強い風が吹いているのに音がしない。耳が痛くなるほどの静寂にレモンは背筋が冷たくなるのが分かった。
「ラムエル、話を聞け!」
「僕の邪魔をする奴の話なんか聞く気はない」
「っ」
「折角忠告してあげたのに。存在意義に反することをしたら消えるよって」
「………」
「封じられて大した力もないくせに、僕の蒔いた悪意を上書きして回ってたみたいだけど、そのせいで魂がボロボロじゃないか。そうして動くのだって辛いだろうに。それじゃ冥王様が復活する前に消えちゃうかもよ?」
「それでも、俺はお前に止まってほしかった…」
「…ほんとバカ」
やがて風が止み黒い靄が晴れた先に現れたラムエルは、鳶のように大きな黒い鳥の姿をしていた。魔物染みたその姿で嘴を天に向け乾いた笑い声を上げる。
「もうとっくに戻れないんだよ」
「っ…何を…」
「言っただろ、お前の大事なものを全部壊してやるって」
「ラムエル」
「うるさい!!僕の名前を気安く呼ぶな!!」
「!?」
「分かるか?一つでも失敗したら正妃の息子である弟王子に自分の地位を脅かされるのではないかとずっと怯えていた王太子の気持ちが。ずっと優秀な父と比べられ相応しくあろうと努力していた王太子の側近の目に映った、第二王子とその側近に覚えた焦燥を。そしてアイツの、たった一人愛した少女すら手に入れられず、自分から離れなければならないという絶望がお前に分かるか?」
「っ…」
「それだけじゃない。第二王子が邪魔だと、あの女の存在を疎ましく思う奴が他にどれだけいると思ってるんだ?たとえ当事者であるあいつらが行動しなかったとしてももう遅い。そいつらが勝手に悲惨なクーデターを起こしてくれるだろうよ」
「そんなことさせるか!!」
「きゃははは!お前に何ができるの?どれほどの嘆きか、悔やみか。今まで集めたその感情は全部僕の力になったんだ。もう僕とお前は対等じゃないんだよ。冥王様を揺り起こすには十分すぎるほどの力が僕にはあるんだ!」
「っ…ラムエル…!!」
「うるさいって言ってるだろ!!」
「ぅあ、ぁぐっ!?」
キィィイ、と大きく嘶いたラムエルが枝を蹴って飛び上がると突風と共にレモンは体を木の幹に叩きつけられた。その小さな体を木に縫い止めるよう黒い手が何本も伸びてくる。
「あ、ぐぅ…っ!!」
「もう一つ教えてやるよ。嘆きや絶望って、憎しみよりも恨みよりもずっと強い力になるんだ」
「らむ、え…!!」
「この力には兄弟を失った僕の嘆きも含まれてるんだよ」
「が…っ…え…」
「じゃあな、もう兄弟じゃない誰か」
大きく羽ばたいて円陣の突風を巻き起こして漆黒の空へ高く舞い上がったラムエルの姿が見えなくなってすぐ、レモンの体を木に縫い止めていた黒い手が消えた。押さえつける力が消えその体はぐらりと傾き重力に従って下へと落下する。
「ラム…エル……」
力の入らない体はそのまま下の茂みの中へ落ちて消えた。




