母の教えその25「好きな人には幸せになってほしいものね」
「お嬢様方、そろそろお夕食のお時間でございます」
「はい……もうそんな時間なのね」
「明るいから気付かなかった」
ノーザンクロスに訪れて数日。ミモザはアクルと街へ出かけたり、祖父達も交えてお茶を飲んだりと、穏やかに休暇を過ごしていた。
初日にアクルを見失ってしまった時は本気で焦ってはしたなくも邸の中を駆け回ってしまったが、結局自分が心配していたようなことは何もなく、穏やかに日々は過ぎていった。
ノーザンクロスは王国領でも北方に位置し、標高も王都よりは高いことから真夏でも過ごしやすく、避暑地としては人気の領である。それに加えて、花よりも樹木の方が多いこの邸の庭は木陰が多くてとても涼しい。ミモザ達もその恩恵にあずかり、今もアクルと庭を散策していたところだった。昔母もこの庭でよく遊んでいたらしい。よく探すと植え込みに子供が一人通れるくらいの穴が開いている箇所がいくつもあった。そんなところを見つけるのも何だか母の足跡を見つけたようで楽しかった。
「今日は旦那様も夕食には間に合うようですね」
ミモザ達を先導して歩いていた侍女に言われて立ち止まって邸の入り口を見れば、この家の馬車が玄関前に停まっていた。
「ファワリス叔父様はお忙しいのに、大丈夫だったのかしら…」
「きっとお嬢様方が明日お帰りになってしまうから、最後の晩餐に間に合うよう急いで仕事を片付けて帰ってきたのでしょう」
「そう…無理をしていなければいいのだけれど…」
昼日中はまだ暑いが、朝夕は涼しくなってきた。きっと伸びていた日も短くなり始めているのだろう。季節の変わり目には体調を崩す者も多い。
ミモザが心配しているとバルコニーから祖父が手を振っているのが見えた。
「お爺様!」
ミモザとアクルは手を振り返すと、邸に向かって歩き始めた。
ノーザンクロスでの最後の晩餐も終わり、湯浴みも済ませてあとは寝るだけだが、最後の夜ということもあって何となく眠りがたくて、ベッドの上でアクルとずっとおしゃべりをしていた。サイドテーブルの上に置かれたかごの中にはレモンが丸まって、その黒い背中をゆるく上下させている。暑さのせいで外へ出かけたがらないレモンは最近はずっと留守番という名の昼寝をしていることが多かった。あれだけ昼間寝ておいて、よく夜も眠れるものである。
「あーあ…こうしてお姉さまと一緒にいられるのも今日で終わりですのね…」
「そうね、しばらくこうして夜更かししておしゃべりもできなくなるわね」
「レモンちゃんともお別れだし…明日の今頃にはもうお姉さまは学園で、私はサザンクロスの自室のベッドにいるのですね、何だか変な感じ」
「…次に会えるのは年末の休暇の頃かしら…」
そうミモザがしみじみ呟くと、アクルが「いいえダンスパーティーの時ですわ」と首を振る。
「……アクル、貴女本当にアルカイド様とパーティーに出るの?」
あの時アルカイドの手を叩き落して牽制したミモザではあったが、アクルが「アルカイド様、私を誘って下さるんですか?嬉しい!!」と喜んでしまったため、ミモザは強く反対できないでいた。
『アクル、待って、それは貴女の一存では決められないことよ』
『そうね、お父様に許可を取らないといけないわよね』
『それもあるけれど…』
『アルカイド様が一緒にパーティーに行ってくだされば私もお姉さまと殿下が踊っている姿を見られるもの!やったわスピカ!』
『はい!良かったですねアクル様!』
『………』
『………』
手を取り合ってぴょんぴょんと喜び合う二人の姿に、思わず無言になってしまったのはミモザと当の本人のアルカイドだった。ミモザの場合は「どうやったら諦めてくれるか」という沈黙だったが、彼の場合は自分のエスコートよりも姉の勇姿を想像して頬を染める想い人の姿に項垂れた沈黙だったのかもしれない。
「貴女はアルカイド様のことが……その…やっぱり好きなの?」
「ううん、今は別に好きじゃないわ」
「もう怒っていないの?」
「うん、ちゃんと謝ってくれたし…好きかどうかは分からないけれど、過去のご自分を省みて良い方へ変わられたのは分かるわ」
「そう…」
「それにやっぱりアルカイド様にエスコートしてもらえれば、少しでも長くお姉さまと一緒にいられるもの」
「アクル…」
「お姉さまは心配?」
「そうね…アルカイド様が何かをすると思っている訳じゃないのよ?でもつい心配になってしまうのよ…あんまり早くアクルがお嫁に行ってしまったらどうしようって」
「もうお姉さまったら」
「気が早いわ」と笑うアクルに「笑い事ではないのよ」とミモザは眉を寄せる。
「貴女はあの侯爵家を継ぐのだから、そう遠くないうちに婚約者ができてもおかしくないのよ?」
「それは…」
「お父様のことだからきっともう候補は何人か考えている筈よ」
侯爵家に婿を取るつもりなら、きっとアクルの意思よりも政略的なものを重視する可能性だってあるのだ。自分の審美眼にどれほど自信があるのかは知らないが、あの父なら「自分が選んだ男なら間違いない」とか自分勝手に思っていそうだ。
「……前に、私貴女に政略結婚でも相手のことを好きになれると思うかって聞かれたわよね」
「え…うん…」
「あの時私は貴女に答えてあげることができなかったけど…」
あの時ミモザは母の姿が浮かんでアクルに気休めの一つも返せなかった。
「でも今の貴女なら、たとえ政略結婚でも相手の方と上手くやっていけると思うの」
「え…」
「学園で貴女の胸のうちを聞いて、ここへ来て貴女の行いを見て、貴女の心を知った」
ミモザはアクルのその成長に、本当に驚いたし、一方的に守るべきものと思い込んでいた自分を恥じた。
「貴女のその優しい心とひたむきさは、相手の方にもきっと伝わるわ」
「お姉さま…」
「もしそれが通じなかったとしたらそれは相手が悪いのよ、そういう時はすぐ言いなさい。私が懲らしめてあげる」
「え、お姉さまが?」
「えぇ、私がアルカイド様をやっつけたことがあるのを忘れた?」
「忘れてませんわ、ふふっ…でも、もう何年も前のことではありませんの…っふ…」
「あら、今でも案外いけるかもしれないわよ?あの人貴女の前では無様に呆けているもの」
あはは、と声を出して笑ったアクルは笑いを堪えるために枕に顔を押し付けている。
アルカイドの様子からは少なからずアクルに好意を持っているのだろうと察せられた。今のところアクルはそういった意味での好意までは至っていないようだが、嫌悪感などはないらしいのも窺える。
あの父の事だ。きっとアクルの婚約者候補には、まだアルカイドの名前が入っていることだろう。アクルにとってアルカイドと婚約することは死亡フラグにもなりえる。けれど、今のミモザのように、今のアクルなら嫉妬に駆られて我を見失うようなことはしないだろうと思う。
それにアクルの判定の時に部屋の隅に控えていたアリアから聞いた話では、アクルの魔力はそれなりに多いらしい。元々ミモザと同じ悪役令嬢ポジションであるから基本のスペックが高いのは何となく予想していたが、「入学した時にお姉さまの妹として恥ずかしくないように勉強しておかなきゃ」と毎日予習も訓練も欠かさないらしく、めきめきと実力を上げ「魔法を使えばおそらく暴漢の二人や三人なら簡単に倒せそうです」とアリアから聞いたときには耳を疑ったものだ。だから万が一アクルとアルカイドが対立する場面がきたとしても、簡単に返り討ちに合うことはないだろうともミモザは思った。むしろ属性だけで見れば水属性のアクルの方が有利である。
「なら、王子殿下がお姉さまを泣かせるようなことがあったときは、私が殿下をこらしめますわ」
「!?」
ミモザがそんなことを考えていると急にアクルからそう返されて言葉に詰った。
「な、何故アルコル様なの…?」
「何故って、お姉さまは殿下のことが好きなのでしょう?」
「………」
そうはっきりと言葉にされて、ミモザは返事ができなくなる。
「昔からずっとお姉さまは殿下のことが大好きだったじゃない」
「だ……な、何で、そう思うの?」
大好きと言われて思わずカッと頬を赤くしたミモザは、アクルと同じように枕を抱えて口元を埋める。
「昔私が殿下のことを悪く言ったときにすごく怒ったし、城へ行く日は毎回嬉しそうにしてたし、一緒にお茶しててもアルコル様アルコル様って殿下の話ばっかりで」
「そんなに私はアルコル様のことばかり言っていたの…?」
自分でも気付いていなかったことを指摘されて、恥ずかしくなりミモザは枕に額を押し付け項垂れた。侯爵家の跡を継ぐアクルと違い、ミモザは滅多に他の茶会などには出席しない。必然的に話すことが親しい人間であるアルコルやメグレズのことに限定されてしまうのは仕方がないのではないかとも思う。
「それに今の殿下ならお近付きになりたい令嬢は沢山いるでしょうけど…あの頃の殿下の周りにはお姉さま以外関わろうとする人は誰も居なかったわ」
「それはアルコル様にだって事情があったのよ…」
「たとえ事情があると分かっていても、自ら関わろうとしていたのはお姉さまだけよ」
「それは王家からのお願いがあったし…お父様は私をアルコル様の婚約者に納めたかったからで…」
「それはそうかもしれないけど、お姉さまは王女様とも仲が良いのだしお父様が渋ったとしても断ることだって出来たのではないの?あの頃の殿下の態度を鑑みれば王家だって強くはいえなかったでしょうし…」
「………」
「逆にどうしてお姉さまがそんなに頑なに認めたがらないのか分からないわ」
「お互いにあんなに幸せ一杯に笑い合っているのに」と言ったアクルの言葉に、反論しようと思うのに言葉が出てこない。
幸せ一杯。
アルコルといる時の自分はそんな風に見えるのだろうか。
「お姉さまだって好きだから傍にいたんじゃないの?」
「わ、たしは…ただ、アルコル様に幸せになっていただきたくて…」
「それを好きって言うのだと思うわ」
『相手の幸せを願うのは、その人の事が本当に大切だからなのよ』
アクルの言葉に、唐突に母の言葉を思い出したミモザは、漸く本当の意味で自分の想いを自覚できたような気がした。
ミモザも本当は分かっていた。どんなに言い訳をしても、もう手遅れなくらいアルコルのことが好きなこと。
「……うぅ」
言い訳ばかりしていた過去の自分の馬鹿らしさに、恥ずかしすぎて頭が限界を迎えたミモザは、両腕で枕を顔に押し付けた。しかも自ら自覚したのならまだしも、妹に諭されてそれに至るとか余計に恥ずかしすぎる。姉の面目丸つぶれである、穴があったら入りたい。
「お姉さまって意外と鈍いのね」
からかうように笑うアクルに、ミモザは一言も反論できないまま顔を上げないまま枕ごとベッドに倒れ伏した。
楽しい時間が過ぎるのはあっという間で、翌日ノーザンクロスを発ったミモザは、サザンクロスへ帰るアクルを見送り、再び学園へ戻ってきた。
休暇が終わるまではまだ二日ほど余裕があったので、早速ミモザはスピカを訪ねることにした。
まだ日にちはあるとはいえ練習に割ける時間は限られている。
「ミモザ様おかえりなさい!」
訪ねた部屋で満面の笑みで迎えてくれたスピカにお土産を渡して、時間が取れるか聞いたところすぐに了の返事が返ってきた。
「レモンちゃんもおかえりなさい」
「………」
スピカに微笑みかけられ、つーんとそっぽを向いたレモンは、相変わらずスピカのことがあまり好きではないらしい。
「レモン、ちゃんとお返事しなさい」
「やなこった、やっと帰ってきたと思ったらまーたお節介とか…物好きもここに極まれりだな」
「レーモーンー」
「あっ、いいんですミモザ様…きっとレモンちゃんにも事情が…」
そうこう言いながら三人で歩いていると、さっきすれ違った相手が何かを囁きあう声が聞こえた。
『ほら……あれ、やっぱり……』
『王家の…』
(う……そのうちばれるだろうとは思っていたけど予想以上ね…)
学園に戻ってからというもの、ミモザの制服につけられたロザリオは予想以上に生徒達の衆目を集めた。
(そんなに目立つものかしら…?)
休暇が明けたら本格的にダンスパーティーのパートナー探しがはじまるから、ロザリオに視線が集まる機会が増えるとはいえ、こんなにも早くに自分がアルコルのパートナーであるということが広まってしまうとミモザは思わなかった。
噂が広まるにつれ、先程のようにすれ違うだけでひそひそと話されるのは、何となく居心地が悪い。
あれからアルコルとはまだ会えていない。
学園へ帰ってきたその日のうちに、タニアへ手紙を届けてもらい、アルコルがまだ帰ってきていない事を知った。別に何かがあった訳ではなく、予定通りで数日後には帰城する予定だとタニアからの返事に書かれていたことにミモザはホッとして、アルコルのロザリオを部屋で一人撫ぜた。
アルコルが帰ってきたら、きちんと話をしなければいけない。
自分の気持ちも、この能力のことも。
そして冥王のことも。
学園へ帰ってきてから、レモンに自分の能力と悪魔の存在をアルコルに打ち明けたいと話した。
『いきなり悪魔がいますとか言われても、そんな話相手が簡単に信じるとは思えないけどな。お前の頭がおかしくなったんだって一蹴されて終わりじゃねぇ?』
『ううん…ちゃんと話して分かってもらう。信じてもらえるまで何度だって話すわ…大変なことになってからじゃ遅いもの』
本来クーデターを起こすはずだったミモザの行動を起点に、アルコルの人柄や登場人物達の関係性の変化、レモンとの邂逅など、母の言っていた「ゲームシナリオ」からは大分かけ離れてしまっている。本来起こるべきことが起こらず、新しく紡がれた未来ではまた違う事象が起ころうとしているのかもしれない。そしてこれから起きることが良いことであるのか悪いことであるのかは、ミモザには判断がつかないし、きっと一人で対処できるものではないだろう。もう既にミモザ一人では抱えきれなくなってきていると思う。
クーデターが起こらなかったとしても、冥王が復活したならば人々の上に厄災が降りかかるのは目に見えている。レモンの仲間、未だ暗躍している悪魔を抑えられれば冥王の復活を阻止できるかもしれない。
『たとえ悪魔がいるって伝わったところで、どうやって捕まえる気だよ?人間にはどうすることもできないだろ』
『レモンのときは何とかなったじゃない』
『うるせー!!あれは、その、ちょっと油断しただけだっつーの!』
『でもどうにもできなくても、やるしかないでしょう?』
悪魔の目的が冥王復活のための『悪意』を集めることであるならば、無理矢理クーデターを起こそうとしてくることだってあるかもしれない。
『もし本当にクーデターを起こそうとしたならば、きっと悪魔はアルコル様にも接触しようとするかもしれない、知っておけば備えられることがあるかもしれないわ』
今までのアルコルの努力を塗り潰されるようなことになるのは嫌だった。
『アルコル様を守りたいの…』
『そのせいで俺は王家に売られるってわけか』
『ごめんなさい…』
底冷えのするような声で吐き捨てられるように言われた言葉に、ミモザは頭を下げる。
『もし俺の存在が王家に知られたら、それこそ一生幽閉されるか被検体にでもされるか…最悪光魔法で殺されるかもな』
『そんなことさせないわ!!そうならないようアルコル様に話すの!!』
『馬鹿か、たとえあの第二王子がどう言ったところで国王がどう判断するか分かんねぇだろ』
『レモンにそんなことさせない!!もし分かってもらえなかったら国王陛下に暗示をかけてでも貴方と一緒に逃げるわ!!』
『!』
その自分の発言がどれほど不味いことなのかミモザにも分かっていた。国王に暗示をかけて悪魔を逃がすなど、それだけで反逆の意思ありと取られても仕方ないような発言だったからだ。けれど、ミモザがレモンに示せる紛れもない本心でもあった。
王家に悪魔の存在を伝えるということは、レモンの存在も話さなくてはいけなくなる。そうなった時レモンの言うとおり王家はその身柄を預かろうとするだろう。悪魔に対抗する術を得る為に酷いことをされるかもしれない。ミモザの身勝手でレモンがそんな目に合うなんて許されることではなかった。
『逃げたところで状況は変わらないかも知れないけれど…それは最悪の場合』
『は?』
『私の力を知れば悪魔や冥王に対抗しうる力になるし、政治的な意味でも王家だって手放したくないと思う筈…だからそうならないように貴方の身の安全の保障の代わりに私が協力します、って交渉するつもりよ』
『え、ちょっと』
『フェクダ先生はもう既に私の力のことを知っているし、協力してもらおうと思っているの』
『なに』
『ちゃんと話して、それでも分かってもらえなかった時は、仕方がないから一旦逃げましょう。戦略的撤退というやつよ。お母様も『命あっての物種よ』とよく言っていたわ。生き延びて体制を立て直して反撃の好機を待ちま』
『ちょっと待てー!!』
ミモザの言葉を遮ってレモンが吼える。
『何がどうしてそうなった!?』
『何がって…』
『なんでお前の思考っていつもいきなり妙な方向へぶっ飛ぶんだよ!?』
『おかしな奴だとは思ってたけど…』と、テーブルの上でじたじたと手足を動かすレモンにミモザは首を傾げる。
『別に変なことは言っていないじゃない』
『国王に暗示かけて悪魔と逃げる貴族のお嬢様が普通なら、この国は聖人だらけだな』
『もう私は真面目に話してるの!!』
『俺も真面目に話してたつもりなんだけどな…まさか一緒に逃げて反撃の好機を待つとか言われるとは思わなくてな…』
「ったく…」と心底呆れたように首を振ったレモンは、ごろりと体をテーブルに横たえて前足を舐める。
『大体、全員に暗示をかけるわけにもいかないんだからすぐに露見して反逆者として追われることになると思うぞ。しかも逃げたらお前の大好きな第二王子とはもう会えなくなるだろうな』
『それは…』
『逃げずに済んでも、きっと政治の道具として一生王家の管理下に置かれて使い潰されるだろうよ』
『………』
『たった一人で擦り切れていくお前の前に、他の誰かと結ばれた第二王子が現れたらどうする?』
『………』
『それ以前に、話をする段階で分かってもらえなかったらどうするんだ?その力を忌み嫌われたら?悪魔をかくまってたことを詰られたら?軽蔑されたら?』
『…そうね』
意地悪く聞くレモンに、ミモザは膝の上で握った両手の拳に視線を落としながら言った。
『好きだって言われたんだろ?このまま黙ってればいいじゃねーか。誰もお前を責めたりしない』
今のレモンはただの猫なのに、その言葉が耳触り良く聞こえてしまうのは悪魔の性なのだろうか。囁くような声にミモザの良心を飲み込もうとするが、そんなときに頭に浮かぶのはやっぱりアルコルの顔だった。
『…それでも、話さなきゃいけないと思うの』
アルコルの身に危険が及ぶ可能性がある以上、このまま黙っていることはミモザにはできない。たとえ軽蔑されたとしても、嫌われてしまったとしても、危機感を持って自分の身を守る行動をとってほしいと思う。
『アルコル様が、大切なの』
大事にしてもらえて幸せだった。好きだと言ってもらえて嬉しかった。お互いが同じ気持ちであったとしても、自分の力を黙ったままアルコルに返事をするのはずるいと思った。
『別に自分がどうなってもいいと思ってるわけじゃないけれど、ただ私がアルコル様に幸せになってもらいたいだけなの』
アルコルならばミモザの言葉を最後まで聞いてくれるだろう。その結果受け入れられなくても、身を守る術を得てくれたらいいと思った。
『ほんと変な奴ばっかりだ…』
呆れたように『勝手にしろ』と言うレモンに、ミモザは苦笑してその背を撫でながら、心を決めなければいけないと、アルコルのロザリオを掌にのせて眺め溜め息をついた。
アルコルが帰ってくるまでに、話す決心がつくだろうかと考え事をしていたミモザは、前を歩くスピカが立ち止まったことで、はっと我に返った。
「あ、いた、ドウ!」
ドゥーベの名前を呼びながら大きく手を振ったスピカは小走りで駆けていった。
「スピカ」
先導されるまま歩いていたミモザは、スピカの後姿を目で追い星の花の庭の手前でドゥーベの姿を見つけた。スピカの話ではドゥーベはよくこの庭で星の花を眺めているらしい。
「どうしてここに?」
「あのね、ミモザ様が帰ってきたから早速ダンスの練習をみてくれるって言うの。だからドウも一緒がいいかなって探しにきたんだ」
「そうか…」
「お久しぶりです、ドゥーベ。早速で申し訳ないのだけれど、あまり余裕はないから早速練習をはじめようと思うの。今日は急だったからアリオトさんには連絡していないから型の確認だけになってしまうかもしれないけれど…貴方も来てくれる?」
「いや、こちらこそ、わざわざ探しに来てもらって済まなかった…宜しく頼みます」
「………」
「…?レモンどうしたの?」
ドゥーベに返事をして歩き出そうとしたミモザは、腕の中のレモンが空を睨みつけているのに気がついて声をかけた。
「……何でもない」
「そう…?」
何でもないようには見えなかったが、しつこく聞いたところで教えてくれそうもない様子に肩を竦めてミモザは歩き出した。
「どこで練習するんですか?」
「フェクダ先生に音楽室を使わせてくださいってお願いして許可をもらったの」
休暇空けのこの時期、学園のあちこちで放課後や昼休みにダンスの練習をする生徒も見られる。だから別に庭でも良かったが、人目につかない方がスピカ達も気が楽だろうと思って、あらかじめ許可をとっておいたのだ。
「練習用の靴は持ってきた?」
「はい!」
「じゃあ早速はじめましょうか、今日は初めてだから…」
音楽室についてすぐに、ミモザ達は練習を始めた。
「組み方と最初のステップだけ確認しましょう」
「わかった」
「はい」
「横に半歩ずらして向かい合って立ってくれる?そう、もうちょっと近くに…それで両手を胸の高さに上げて…こっちの手は軽く握るようにつないでみて」
「は、はい…」
距離の近さに頬を染めて照れたスピカを内心で応援しつつ、「腰を引いちゃだめよ」と注意して型をつくっていく。
「肩の力を抜いて、肘は下げない、引かない…顔を上げて、視線は下げない…」
「う、うぅ…この格好とてもつらいです…」
「がんばって!見た目の美しさは踊りやすさにつながるってダンスの先生も仰ってたわ」
「うー…」
四苦八苦しながら呻るスピカとは対照的に、ドゥーベはどこか微笑ましそうにスピカを見ていた。
「ドウ笑ってるでしょ!」
「笑ってないよ、がんばれ」
「もうっ、ドウだってこれから踊るんだからね」
「笑ってられるのも今のうちよ!」 と頬をふくらませたスピカと、怒られているのにどこか楽しそうなドゥーベの姿に、ミモザも微笑ましくなって口元を弛ませる。
これが幼馴染の距離感なのだろうか。ドゥーベのスピカを見る眼差しはミモザを糾弾したときとは別人のように優しい。それが親愛によるものなのか好意なのかは判断できないが、お互いを大事に想っているのが伝わってくるようだ。
(練習の間に二人の距離が少し縮まればいいんだけど…)
二人がお互いの気持ちを自覚して、パートナーとしてパーティーに出られればいいなと、ミモザがそんなことを考えていたとき、音楽室の扉を叩く者があった。
「っ…どなたかしら…?」
ハッとしたミモザは、ぱっと離れてしまったスピカ達に「練習をしていて」と言って、返事をして入り口の扉を少しだけ開けた。
「…練習中に失礼する」
「っ……王太子殿下…」
扉を開けた先にいた予想外の人物に、ミモザは思わず固まりかけて慌てて礼をとる。
「あぁ、突然押しかけたのは私なのだから、かしこまらなくていい」
「此方にスピカ嬢がいると聞いてきたのです」
ミザールの横にいたメラクが王太子の訪問の目的を告げる。
「王太子様、メラク様も…何かあったんですか?」
「いや、そういうわけじゃない。君に伝えなければいけない事があって探していたんだが…フェクダ先生からおそらくここだろうと聞いてきたんだ」
冥王のことで何かあったのかと顔色を悪くしたスピカがミザール達の方へ歩み寄る。それに気付いたミザールは表情を和らげスピカにそう告げた。ミモザは七騎士の仕事の邪魔をしてはいけないと思い、部屋の隅へ控えることにした。
「伝えなければいけないことってなんですか?」
「…学園長から、今度の学園祭では君をエスコートするように言われたんだ」
「えっ」
「もちろん陛下もご存知のことだ。人が集まる学園祭で、君に何かあっては大変だからとの措置だそうだ」
「そう……ですか…」
突然の王太子の申し出に困惑を隠せないスピカは、俯いて胸の前で片手を握る。
ミモザもまた動揺を隠せないでいた。今の今までスピカとドゥーベが一緒に参加できたらいいと思っていただけに衝撃は大きい。
そんなスピカの様子を不安ととったのか、ミザールはスピカの前に手を差し出して名前を呼ぶ。
「スピカ嬢、確かに護衛としての意味が大きいかもしれないけれど…私は君と一緒に踊れたら嬉しいと思っている。本当ならば陛下に言われる前にきちんと申し込みたかった」
「え…」
「不安なら私もできる限り練習に付き合おう、当日も君の傍を離れないと誓う…だからどうかドレスを私に贈らせてほしい」
「……わたし…は…」
ミザールの表情に嘘はない。真摯に訴える眼差しからは純粋にスピカへの好意が窺えた。単純に王太子からの申し込みであるなら最悪保留にして考えることはできるだろうが、陛下と学園長から言われているのでは断るのは無理に等しい。
「…良かったじゃないか、スピカ」
はらはらとスピカを見守っていたミモザは、スピカの背中からかけられた言葉にその声の主をハッと見る。
「ドウ…?」
「王太子様にパートナーにしていただけるなんて光栄なことだろ?さっきまですごく不安がってたじゃないか。王太子様ならダンスだってお上手だし、ちゃんとお前をエスコートしてくれるはずだ。早くお受けしろよ」
「……ドウは、平気なの?」
「平気も何も、別に約束してた訳じゃないだろ?スピカの安全のためにもその方がいい」
「っ…」
「約束してたわけじゃない」と言われて一瞬泣きそうな表情になったスピカは、すぐに俯いて口を引き結んだ。
(スピカ……)
スピカの苦しさが伝わったみたいにミモザの胸もぎゅっと苦しくなる。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。さっきまであんなに二人とも幸せそうだったのに。
ドゥーベは笑ってはいるが先程までの自然な笑みとは違う作られた顔で、スピカもまた俯いて泣きたい衝動を耐えている。
見ていられなくて目を逸らしたミモザの耳に届いたのは「わかりました」というスピカのか細い声だった。
「私、ダンスなんて初めてで…うまく踊れないと思うけれど…お願いします」
「あぁ、こちらこそ宜しく頼む」
無理して笑顔を作ったスピカに、どうすることもできなかった自分の不甲斐なさにミモザは悔しさで唇を噛んだ。




