母の教えその3「お猿さんだと思いなさい」
地道な特訓と努力を重ね、ミモザがこの力を自分の意思でコントロールできるようになった頃、母はこの世を去った。
『不思議ね、死ぬのに後悔はないなんて…貴女ならきっと大丈夫…どうか幸せに…』
そう最後に言って息を引き取った母に、ミモザは何も返すことが出来なかった。
母は前世で不慮の事故で命を落とし、この世界に転生した。
頭の薄い父と穏やかな母、ちょっと生意気な弟の四人家族のどこにでもいるようなごく普通の家庭で暮らしていたそうだ。
その世界はとても平和で身分階級などもなく、全員が十分な教育を受け、どんな仕事につくのも自由で。魔法は使えないけれど文明はここよりもずっと栄えていたのだという。
ありふれた毎日だったが、確かに幸せだったのだと母は言っていた。
きっとそんな母だから、あのような恐ろしい力を手にしても自分を見失わずに居られたのかもしれないとミモザは思った。
母は沢山のものを残してくれた。
貴族令嬢としての教育の他、護身術、能力の使い方は勿論、一般的な庶民の知識や冒険者のことなど、一人で生きていくことができるよう様々なことを教えてもらった。
中でも法律や、道徳は特に厳しく『悪いこと、ダメ絶対』というのはほぼ口癖のようになっていた。
そのせいかこの時点ではゲームのミモザとはだいぶ違う感じに成長したのではないかと自分でも思う。
『ゲームのミモザは、ぶりっ子で猫かぶりの要領のいい義妹に父親を奪われたと嫉妬して力を暴発させてしまう、それで余計に孤立してしまうのよ』
そうゲームの内容が詳しく書かれた日記も母が残してくれたものの一つだ。
茶色の革の表紙の日記を読みながら溜め息を吐く。
今のミモザならきっと力を暴発させることはないだろう。それに母が死んだ時、家に帰ってくることもなかった薄情な父親を義妹に取られて嫉妬するなんてとてもミモザには考えられなかった。
使用人達の噂で、父親は愛人の元へ行っていたのだと知った時は母の教えを一瞬忘れそうになるくらい腹が立った。しかしすぐに母の顔を思い出して踏みとどまった。
(母は私に幸せになってほしいと言った…)
瞼を閉じればいつも母の笑顔が浮かぶ。
もっと生きていて欲しかった。けれどもう叶わない。
私も母のようにいつか「後悔はない」と言えるようになるだろうか。
まだ将来どうするか決めかねている状況で、せめて母に恥じない人間になろうと、母の葬儀の日、空に昇る煙を見て決意した。
決意した、が。
「お父様ぁ、アクルぅ新しいドレスがほしいの~」
「んん~アクルはどんなドレスがほしいんだい?」
「えぇっとねぇ~アクルお花のドレスがほしいのぉ」
「まぁ!アクルが花のドレスを着たらきっと妖精のように美しいわ!」
「アクルはお父様とお母様の妖精さんだなぁ!はっはっは!」
何この茶番。
目の前で繰り広げられる頭の悪い会話にミモザは思わず頬を引き吊らせ、令嬢らしからぬ表情を咄嗟に扇で隠した。
母がいないことを実感できなくて、ぼぉっと日記を読んで無為に日々を過ごしていた頃、唐突にそれはやって来た。
父親に呼ばれ、気乗りしないまま向かった応接間へ入った瞬間ミモザの目に飛び込んできたのが先ほどの頭の悪そうな光景だ。
うわぁ、と声を漏らさなかった自分を誉めてあげたい。ついでに言えば「なにが妖精さんだ阿呆じゃないの?」とついぞ暴言を吐かなかったことも誉めて貰いたい。
呆れてため息が出るのと同時に、とうとう来たかと心の中で気合いを入れる。
我が家にやってきた新しい母親とその娘。連れてきたのは勿論この家の家主、ミモザの父親のサザンクロス侯爵である。
「アクルはリギルに似て本当に愛らしいなぁ」
父の普段不機嫌そうにひそめられていた表情は、今日はとても明るい。
肩口で短く切り揃えられたくせのある薄茶の髪に目鼻立ちは深くはっきりとしている。それなりに整った顔と国内有数の大きな街道を領地に有する裕福な侯爵という爵位だけを見れば、父はかなりの優良物件だったと言えるのではないだろうか。
ただし、その背はかなり、かなり低い。
一般的な成人男性がどのくらいなのかは知らないが、屋敷内で働く男性より…というかメイドよりも低い。
お母様曰く「とっちゃん坊や」と言うらしい。
子供のような背丈しかないのに、顔はしっかり大人というアンバランスな見た目のせいで結婚相手としては敬遠されていたという。
女性の平均身長より少し高めであったお母様を伴って夜会に出た時もまるで大人と子供のようだったと、今でも屋敷のメイド達が噂をしているのを知っている。
そんな父と母は政略結婚だった。
両者にとって不本意な結婚ではあったが、母は精一杯夫となった父には尽くしたらしい。けれどもそんな母の献身は父には届かなかった。
この父は自分よりも背の高い母のことが余程気に入らなかったのだろう。
母に対する劣等感を一方的に募らせ、身勝手に浮気をし母を裏切った。ミモザとアクルの年がそう変わらないのがその証拠だろう。
目の前にいる継母はそんな父よりも背が低く、その娘のアクルとやらも父親そっくりだった。
人を呼びつけておいて、挨拶も紹介もなく。
いつまでこの茶番劇を見せられなければならないのだろうと、眉間に寄った皺を人差し指でぐりぐりと押す。
「………お嬢様、お部屋に戻られますか?」
隣を見上げれば、自分と同じような顔をしたメイドのアリアが声をひそめて尋ねてくる。
アリアは母についてこの家に来たメイドで、今は私付きとして働いてくれている。母亡き後元の家に戻ることもできたのに、私を心配してこうして側に居てくれる優しいお姉さんだ。
「………そうね」
「おい、挨拶もせずどこに行くと言うんだ!」
踵を返してアリアの開けてくれた扉を潜ろうとした瞬間、背中から怒声がかかった。
「新しい母と妹に挨拶もできんのか」
挨拶も何も紹介すらされていないのにどうしろと言うのか。そんな思いが表情に出てしまったのか、父親は目に見えて顔をしかめた。
「……失礼しました」
何を言っても無駄だと分かっていたので、ミモザは大人しく頭を下げることにする。
「ふん……まぁいい。リギル、アクル、これが娘のミモザだ」
「………リギルよ、今日この日よりこの屋敷のことは私に任せて頂戴ね」
「えぇーアクルの他にも娘がいるなんて聞いてないもん!!ねぇ、アクルのお部屋はどこ?勿論一番いいお部屋を用意してくれたんでしょお父様?」
「あ、あぁ勿論だともアクル!」
「当然ですわ、なんといっても今日から貴女は侯爵家の令嬢なのだから」
継母であるリギルはそう言うと、耳にかかる黒髪をかきあげミモザを嘲笑うかのようにねめつけた。
一方義妹となるアクルの方は、既にミモザへの興味は薄れたらしく早く自分の部屋を見たいと父にせがんでいる。瞳こそ母親のリギルと同じく赤銅色であったが、くせのある髪は薄茶で父親によく似ていた。顔立ちは可愛らしく、眉を寄せ上目遣いで舌ったらずな喋り方は父母の心を掴んで離さないらしい。
「お父様ぁ、早くお部屋を見に行きましょう?」
「そうですね貴女に相応しい“一番”のお部屋をね」
「アクルの可憐さはまさに一番だな」
母はよく「ちんちくりんが何言ってもちんちくりんなのよ、話の通じないお猿さんだと思いなさい」と言っていたが、ここまで酷いとは思わなかった。
基本的に人の話を聞かず、言いたいことだけを言い、ミモザを置いてけぼりにし父達は三人の世界を作り出している。
会話は全く成り立ちそうにない。
屋敷のことは任せて(今日からこの屋敷の女主人は私よ)とか、一番いいお部屋(私の方が娘として愛されているのよ)とか貴族特有の本音を隠した嫌味なのかと思えば、此方の反応を見ずしてお花畑を繰り広げるし。
決して背の小さい人を馬鹿にしている訳ではないが、この人達に関しては本当に小さいお猿さんが騒いでいるようにしか見えない。
「………アリア、もう戻っていいわよね」
「はい、戻りましょうお嬢様」
取り敢えず紹介は済んだのだからもういいだろう。今度は見咎められないように念のためミモザは自分の気配を遮断する。
これならミモザが部屋を出たことに誰も気付きはしないだろう。まぁあの様子では気配遮断などしなくても気が付かないかもしれないが。
すぐ後ろをついてくるアリアと歩きながら、これからのことを考える。継母と義妹が来たということは、これからミモザの不遇な生活が始まるのだろう。
(確か…食事を抜かれたり、物を取られたり理不尽に罵倒されたりするんだっけ…)
不安がない訳ではなかった。どんな恐ろしい人達が来るのかと思っていたが、あの調子ならそれを躱して生活できるかもしれない。けれど油断は禁物だ。
(お母様、私がんばります…)
明日からの暮らしに思いを馳せつつ、どんなことになっても生き延びてやるとミモザは腹を括った。