閑話:悪魔の憂鬱
俺は悪魔だ。名前はまだない。
気がついたときには、片割れと一緒にこの世界を漂っていた。
何故生まれたのか、どうしてここにいるのか、生まれた瞬間からその理由を知っていた。
この世界には、もうすぐ自分達の主である冥王が復活を果たす。だから自分達は主の為に、来るべきその日が来るまで、できるだけ沢山の悪意を準備しなければならなかった。
人間は身勝手だ。ちょっと脅してやれば、保身のため平気で他人を裏切り、貶める。そうやって身を滅ぼしていく姿を見るのは滑稽で面白かった。生まれたばかりでまだ力の弱い自分の撒いた種は小さくとも、その種が撒いた人間と共に成長すれば、その芽も大きくなり、やがて無視できないほどの大輪の花になる。
最初に目をつけたのは、一人の貴族の男だった。
コンプレックスを抱えるその男に近付いて「お前のせいじゃない、全て悪いのはお前を見下すあの女だ」と囁いてやれば、あっという間にその男は、妻である女を裏切り、別の女のところへ通うようになった。
次は、王宮。
母である王妃を亡くしたばかりの王子の周りに、噂を振りまいた。使用人へ「第二王子には近寄らないほうがいい」とちょっと言っただけなのに、人間と言うのは噂が好きだ。あっという間に膨れた悪意は「兄上様は簡単にできました」などと兄王子と比べては第二王子を蔑ろにした。王子は孤立し、誰にも縋れない。やがて王子は寂しさから心を壊して傍若無人な振る舞いをするようになった。
その次に行ったのは、辺境の地。
災害に見舞われたばかりのその荒れた街の暗い屋敷。噂の届きようもないそんな辺境の地に、王子の悪評をもたらす。王子のときと同じく、一言囁けば、ここでも人間達が勝手に話を大きくしてくれた。
計画は順調だった。
どの種も、周囲の人間の悪意を吸収し、芽吹いてきている。そう気分が良くなった自分は、最初に撒いた種を見に行った。
妻が死に、男に後妻として迎えられることになった女に「あの娘がいる限りお前はずっと二番目だ」と悪意を刷り込んだ。女は嫉妬にかられ、義娘となった少女を冷遇した。さぞや憎しみを募らせ大きくその悪意を成長させていることだろうと思っていた少女は、ただ黙って義母や義妹からの仕打ちに堪えていた。
何故まだ心が壊れていないのかと不思議に思ったが、どうせすぐに壊れるだろうと、重大には捉えていなかった。
思えばこの頃からだった。今まで順調に育っていた悪意が急に育たなくなっていったのは。
どんなに義母からの悪意をぶつけられても、父親から冷遇されようとも、少女が憎しみを募らせることはなかった。それどころか楽しげに働き、懸命に一人で生きていこうとしていた。
それが不満で、面白くなくて、度々義妹をけしかけた。けれどそれでも少女の心を折ることは出来なかった。
そうしてとうとう王宮へ行く日が来た。
大きく芽吹いたその悪意の苗床であった王子に、少女を絶望させるべくその存在をひっそりと教えた。
『王子の婚約者に選ばれれば彼女も家族に疎まれずに済むんじゃないかしら』
近くにいた貴族の女の口を通してそう唆せば、思った通り王子は権威を振りかざし少女を自分のものにしようとした。
しかし今度こそ怯えて絶望すると思っていた少女は、ここでも屈しなかった。それどころか、同じ境遇の王子に同情し、ほだされて友人の座におさまると、その後も王子と行動を共にすることで、その悪意の芽をきれいに取り払ってしまった。
それどころか王子と過ごすうちに、王子の従者になる予定だったあの辺境の地から来た少年の不信の芽も、同じように取り去ってしまったのだった。
おかしい。何かがおかしい。
折角芽吹いた種が枯れ、新たに播いても育つこともなく。気付けば王子は少女への思慕から元の心を取り戻し、従者の少年と良好な関係を築いていた。少女もまた、義妹をも味方にし家での平穏を取り戻し始めていた。
何故、上手くいかない。
今まで順調だったのに、こうも急に上手くいかなくなることがあるのだろうかと。思えば、焦っていたのだろう。この時、きちんと冷静に考えて行動していれば、あんな目に合わずに済んだかもしれないというのに。
結果、焦った自分は少女に直接干渉することにした。
その時、少女のもつ力のことを知り、上手くいかなかったのはこの力のせいかと勝手にそう結論づけていた。きっと王子もあの従者も義妹も、その心を操る力で自分の思うとおりに言うことを聞かせたのだろうと、勝手にそう思い込んでいた。そうしてその力を逆に利用してやろうと思ったのだ。
少女の心に巣食う不安を増長させ、悪夢を見せた。魘され苦しむ少女の姿に、今度こそこの少女を絶望に落とすことができると思うと、愉快でたまらなかった。
『貴女が私の言うとおりにすれば幸せになれるわ』
母親の姿を騙り、優しい声で甘い言葉を囁いた。
頷け。頷いてしまえ。そうすれば。
しかしそれまで従順だった少女は、その言葉に急に反発の意思を見せた。それどころか、はっきりと此方の存在を認識し、明確な意思を持って目の前の悪夢を次々に消していった。
あっと言う間に上下をひっくり返され、追い詰められる。
それでも自分は止めるわけにはいかなかった。止めれば自分の存在理由はなくなってしまう。仲間の元へも帰れない。
「出来ないのなら仕方ありません」などと見下したように言う少女に不満を覚え、大きな狼に姿を変えたところまでははっきりと覚えていた。その後は、思い出したくもない。
怯えた少女に気を良くした自分は、これならまだ少女の心を壊せると、そう思ってしまった。調子に乗って、彼女の頭の中にあった、恐怖や、目の奥の不安を自分の体で再現してやった。巨人の姿で少女へ手を伸ばすと、一層震えがひどくなり、その目が恐怖によって見開かれたものなのだと疑いもしなかった。
『捕まえた』
気がつけば、もう自分は少女の膝にも満たない大きさの子猫にされていた。
『さっき、あなたと目を合わせたとき、恐いものの代わりに可愛いと思うものを浮かべました』
にっこり笑ってそう言った彼女の手の中で、漸く自分が少女にしてやられたことに気がついたのだ。
その後は、もう泣こうが喚こうが、少女がその暗示を解いてくれることは決してなかった。
そりゃそうだろうと自分でも思うが、はいそうですかと納得できることでもない。力を失い、ただの猫にされ、逃げ出そうとすればすぐに連れ戻され。しかも運悪く他の人間に見つかったならば更に最悪だ。
「まぁ!お姉さまの猫ちゃんだわ!かわいいっ」
「あ、あの子の猫だというのは不本意だけど、こっちへきなさい!ほら、あなたのために専用のキャットフードを用意してもらったのよ!」
「奥様、アクルお嬢様、私も触りたいです!」
「わ、私も…!!」
捕まって代わるがわる抱き上げられ頬ずりされ撫で回され猫撫で声で話しかけられ、とにかく地獄だ。最悪だ。
そしてげっそりとしてよろよろと部屋に戻れば、哀れんだ顔で苦笑して籠に戻されるというのを繰り返す日々を情けなくも送る羽目になっている。
「レモンも懲りないわね」
「……うるさい」
もう文句を言い返す気力もなかった。
もらった名前を反芻しながら目を瞑る。籠の中でぐったりと丸まった背を優しく撫でる手に意識がどんどんと落ちていく。
今まで目をとじると浮かんできたのは、生まれたときからずっと一緒だった片割れの姿だった。そこにミモザの姿も加わったことに気付いたのは、こうして暮らすようになって暫くしてからだった。
妙な人間だと思う。
相手を思うままに操れるだけの力を持っているのに、それを肝心な時には使わず、自分の言葉と行動をもって、王子や義妹の心を変えてしまった。そんなことしたって自分の為にはならないというのに、他人の為に怒ったりする。自分のやったことを知ったときだって「もう悪いことはしちゃ駄目よ」と恨み言を一言言って済ませてしまったくらいだ。
「お嬢様、そろそろ城へ行く時間ですよ」
「わかったわカペラ」
そっとその手が背中を離れていくのが分かった。
「今日は、王女殿下とマナーのレッスンを受けられる予定でしたよね」
「そうなの、お茶に誘われたのだけどタニア様はお忙しいみたいで、レッスンがてらお茶しましょうっていうことになったの」
「そうなんですか…」
「王女様もお忙しいんですねぇ」と感心したように侍女が言うが、この屋敷でその茶会の目的を理解していないのはその能天気な侍女とこの鈍い少女だけだ。
未だ婚約していないとはいえ、あの第二王子があからさまに好意を寄せているこの少女を、王家が放っておくわけがない。
茶会と言う名の王子妃教育を受けさせられ、外堀を埋められているということにこの少女が気付くのはいつになることやら。
呆れてレモンはふんと鼻を鳴らした。
自分が動かなくても、物語は動いている。力はなくとも冥王の気配はひしひしと強くなっていくのを日々感じている。
主や仲間を裏切ることはできないと思うのに、この少女のことも知らぬ振りはできそうもないと、どうしてかレモンは思う。
この少女がいなくなれば自分の暗示も解けず、庇護してくれる者もいなくなってしまうからだと言い訳をしているが、自分でも心に芽生えたこの想いをもて余していた。
(せいぜいあの豚王子には役立ってもらわなければ…)
こうしてただの猫になってしまった以上、自分にできるのはせいぜい服を毛だらけにするとか、足跡で汚すとかそんなことだけだ。あと数年もすれば仲間が播いた種が成長し、きっと彼女に直接害を為すだろう。少女には隣で守ってやれる人間が必要だった。
この間城へ付いていったときに、ミモザの腕の中にいたレモンに隠しもせず嫉妬の眼差しを向けてきた王子の姿を思い出す。
(面白くないな…こうして撫でる時間を奪われているのはこっちだというのに…)
「第二王子殿下は背が伸びて最近見違えたようだって噂になってましたね」
「そうかしら…?いつもと同じだと思うけど…」
背中から消えたぬくもりに不満を抱くも、最近少しずつ痩せて背が伸びてきている王子に気付きもしない少女を見ていると少しだけ胸のすく思いがした。
「じゃあレモン、行ってくるね」
仲間とミモザへの二心を抱える自分を見ないようにして、レモンは返事の代わりに尻尾を一振りし眠りについた。
たくさんの方が読んでくださったおかげで異世界恋愛日間ランキングで一位になりました(*´▽`*)信じられなくてドキドキしております…ありがとうございました!遅筆ですががんばります!




