その少女の光に目を凝らす
世界恐慌で一度は衰退した都市も、いまや再成長を進めている。
基本的な都市機能に加え、最近ではようやっとネットワークの再普及も国会法案で提出されたらしい。全盛期の生活が、もうすぐ戻ってくるかもしれない。
ささやかな鶴見川を埋め立てたその土地に、摩天楼のように犇めきあう高層ビル群をほど近く望む汚れた街角。そこに秋と桐子は揃っていた。
教会の事後処理班が忙しくしている。その外周を、連携している警察は野次馬が入らないよう規制線を張っていた。
今日の現場は学校から比較的に近くて、すぐ到着できた。旧横浜駅前……中央区の掃き溜めもとい、通称《闇市》のど真ん中だ。
横浜駅がまだ機能していた頃のショッピング街は、公的には違法とされる様々な店が借り上げて活気づいている。その名に恥じぬ怪しさを持って独自のルートで仕入れた旧時代のバイクパーツなんかは、骨董品のアメリカンバイクを愛車にしている秋も重宝していた。
そんな街中で起きた今回の任務も、桐子とふたりで力を合わせて無事に解決。
中級輔祭として名目上は現場責任者とされている秋は、事後処理班とやり取りを交わしていた。
「それじゃあ……この人のこと、お願いします」
悪魔が祓われて気を失っている女性に目を向けて、秋は事後処理班に彼女を託す。女性は事後処理班の手配によって、これから近くの精神病院へ搬送されることだろう。
学校にいたときとは違い、秋の胸元には正教会発行の紀章が飾られていた。真ん中に十字架と林檎が美しく彫り込まれた銀細工。階級を表すサテンのリボンは、深く豊かな臙脂色――――最下級から二番目の位階、中級輔祭の色だ。
ほっとひと息ついたところで、秋はゆっくり憂いを込めた瞳を伏せた。
西暦二〇三四年現在の日本において宗教的観点と同時に重要視されるのは、やはり医療の世界だ。
【悪魔】とは――――精神医学的根拠を上げるとするなら、精神病に罹患した状態を指している。
罹患者によって病名は様々。各々の原因によって精神が著しく乱れてこころに隙間ができた、その瞬間を狙って【悪魔】は棲みつく。
精神科医はその罹患者の状態に合わせた薬で治療する。しかし、それが根本的な解決に至らないことは、もはや常識。いくら薬で感情をコントロールしようが、そのひと自身のこころが変化しなくては薬など意味を持たない。悪い状態を繰り返すだけだ。
修道士と修道女の使命はそうした『迷える子羊』たちのこころに耳を傾け、変革を与える引き金となること。こころのケアという非薬学的な側面からのアプローチ。
そしてひとと【悪魔】の傷ついたこころを星海のごとき慈愛で抱擁し、双方の魂を浄化できる修道士は――――
「秋、お疲れ様です」
「……」
悪魔祓いの影響で気絶した罹患者は救急車で搬送され、秋と桐子に任された分の事後処理はもうない。ひと心地ついたところで、桐子は相棒に労いの言葉をかけたのだが。
どうやら桐子の声は、秋に届いていないようだ。いつまでも憂いた眼差しで、桐子の手が届かないようなどこか遠くを見詰めている。
「秋」
これ以上、遠くへ行かないで……と。
桐子が彼を引き留めるように名前を呼び、固く握られた拳に手を添えた。どうにか引き戻された秋は目を瞬いて、相棒の哀しそうな顔を眺める。
桐子の透き通って青みを帯びた灰瞳が、心做しか潤んでいるように見えた。
「あなたは優しすぎます。任務で関わった子羊のことをいちいち気にしていては、あなたのこころが壊れます」
秋がなにを考えていたのか、桐子には手に取るようにわかっている。
彼は修道士としての経験が浅く、まだまだ未熟者だ。しかし他人のこころの機微にはとても敏感で、そしてなにより――――他者を救いたい、という気持ちが些か大きすぎる。
秋には他者の苦しみを取り除き、背負いこむ癖がある。それを『悪癖』と呼んでしまうべきなのか、それとも『美徳』と捉えるべきなのか……桐子にはわからない。だが。
「ミイラ取りがミイラに、ってか?」
鼻で笑って茶化しながらも、秋の拳は絡む桐子の指から逃れるようにそっと避けた。
不真面目なのは振りだけで、彼の実直さと真面目さは誰にも負けないだろう。
そんな彼が抱える罪も苦しみも、桐子は相棒として、もしくは近しい友人として一緒に背負いたいのだ。
桐子の真っ直ぐな眼差しから目を逸らしたいのか、それともこころの痛みを真正面から受け止めたいのか。秋はまだ戦闘の跡がまざまざと残る現場へ目を向けた。
「……確かにな」
自らのおこないを嘲笑うかのような秋の声は、幾分か嗄れている。
まるで独り言のように呟いたその声は、青く澄み渡った空に溶け、風に乗って桐子の耳を撫でた。
いま秋の脳裏に思い起こされたのは、戦闘の合間と別れ際に交わされた罹患者……悪魔とのやり取りなのだろうか。秋の伏せた睫毛が潤んでいるように見えた桐子の眼差しも、ほんの刹那で不安そうに揺らいだものの。
「あなたは充分に尽くしました。これまでの笑顔と感謝の言葉を、お忘れですか?」
問いかける桐子に一切の迷いもなく、冗談でもお世辞でもないことは充分すぎるほど秋に伝わった。彼女が自分のこころの負担を軽くしようとしてくれている、相棒としてのその優しさを秋は理解しているつもりだ。
しかし、だからこそ……。
「……さぁな。記憶力には自信がない」
そう言って秋はいかにも柄が悪そうに、真っ黒な制服のスラックスに備えられたポケットへ乱暴な素振りで手を突っ込んだ。その後ろ姿はどこか、彼の保護者を匂わせる雰囲気だった。
自嘲気味に笑って踵を返す秋の背中を数歩ばかり追いかけて、桐子は引き留めようとする。
「秋、どこに行くのです?」
「うんこ」
秋の姿はそのまま雑多な街中へ消えていった。
左手に巻かれた、古いコンボスキニオンが揺れる。
幼い頃にルカからもらったものだ。銀製の『不思議のメダイ』はところどころ錆びついているし、革紐もかなりへたっている。
それでも『ルカを超える』という目標とともに、秋が一番大切にしている宝物だ。
旧時代に建てられたランドマークタワーなどの超高層ビルが、わずかに霞みがかって遠く、橙色の光を反射している。巨大な観覧車の真ん中に据えられた時刻表示は、時を止めたまま。緑色に苔むし、蔦が絡まり放題だ。
いつのまにか夕方へ差し掛かった街角には、香ばしいファストフードと屋台の匂いが一帯に漂っていた。少し早い夕飯、あるいは重たいおやつを求める客の姿がちらほら見える。
政府の保護下にある旧鶴見区とは違って、やはりならず者が多い印象だ。
確かに裏ルートを利用して入手した違法部品も取り揃えてはいるものの、《闇市》とは名ばかりの賑わいを見せている。
秋の足はどこを目指しているわけでもなく、気の向くままにガムを吐き捨てた黒い跡やら煙草の吸い殻が散らかるアスファルトを踏みしめていた。
「お、兄ちゃん久しぶりだな! いいパーツ仕入れたんだが、どうだい? 見てかない?」
馴染みのバイクパーツ屋が厳つい髭面に笑顔を浮かべ、人懐こく声を掛けてきたが、秋の耳には届いていなかった。
店内BGMとゲーム筐体の効果音が騒がしいゲームセンターの前まで来たところで、秋の足はぴたりと止まる。
桐子の声が秋の脳裏に蘇った。
――――『「これまでの笑顔と感謝の言葉を、お忘れですか?」』
「忘れるわけないさ……」
食いしばる歯の奥から絞り出された声は、こころが軋む音のようだった。
桐子に言われずとも、一日たりとも忘れた日はない。
父を喪ったあの日のこと、母が自ら命を絶った雨の日。幼い身体を冷たい雨に打ちつけ、己の無力を呪った夜。雨が肌を打つ感覚も、父の血の噎せ返るような臭いも、思い返せば鮮明に湧いてくる。
それから忘れてはいけない、初めてひとりで戦った悪魔……あの『少年』のこと、苦しそうな表情も、優しい微笑みも。ぜんぶ覚えている。
彼らだけではない。さまざまな笑顔が秋の脳裏で鮮やかに咲いていた。
秋が修道士となった三年間は、確かに桐子の言う通りに笑顔も見ることができる。しかしもっとも忘れてはいけないのは、彼ら悪魔と罹患者が長く苦しんできた時間。
もしも早いうちに相談できるところがあれば、罹患者は悪魔に取り憑かれることもなかっただろう。
もしも悪魔の声に耳を傾ける修道士がたくさんいたら、彼らの淋しいこころが暴走して人類を傷つけることはなかっただろう。
そこまで考えをめぐらせてから、秋は小さな溜め息を吐いて独りごちる。
「そんな『もしも』ばっか追いかけてたって……仕方ないんだよな」
この三年間で、秋はそれこそ血の滲むような努力を続け、修道士としての実力と実績を重ねてきた。その努力の甲斐があって、まだまだ未熟者ではあるものの、教会内でも一目置かれる存在となっている。
保護者であるルカ・アスカリ中級司祭の背中を追って入った世界は、まだまだ子供の秋にとって厳しい世界だ。
割り切って棄てなければいけないものがあり、見て見ぬふりをしなければやっていけない状況だってある。修道士は世界の総てを救うことができない。
『聖職者』といったところで、結局のところ世間となんの変わりもない。普遍的で残酷な世界であり、ひとりの人間なのだ。
秋が目指している『修道士』という生き物は、完全無欠な存在ではない。失敗するし、誰かのこころを傷つけるときもある。泣きたくなるときもあるし、そのこころには確かな憎悪の種さえ内包している。
だがそれでもなお立派な修道士になりたいと思う胸には確かに、迷える子羊たちの穏やかな微笑みが刻まれていた。
自分自身が経験したあの地獄を、誰かに背負わせてはいけない。
【悪魔】が棲んでいるのは空想の地獄ではなく、ひとのこころなのだから。
「ん?」
道行く人垣の合間から見えたその存在に気づき、秋は首をかしげた。
旧時代に建設され、世界恐慌後の数年は放置されていた、コンクリート製の汚い雑居ビル。そのわずかな谷間に少女がいた。
細くて小柄だが、顔つきは大人っぽくて正確な年齢を推し測れそうにない。少なくとも秋には、小学生か中学生くらいに見える。
桐子に負けず劣らず、美しい金の長い髪。その髪をふたつに束ねている華奢な金細工の髪飾りは、彼女の可憐さと儚さを際立たせていた。光の加減によって翠緑に見える、最上級の宝石みたいな青い瞳は、髪と同じ色の長く豊かな睫毛に縁取られている。
人形のような白磁の肌まで揃っており、その美貌から異国の血を引いていることが容易に窺えた。
美しいのは外見だけで、服は素っ気ないワイシャツとカーゴパンツに、重々しいコンバットブーツ。どう見ても彼女の美しさと体のサイズには合わない、ちぐはぐな格好だ。格好も纏う雰囲気も、まるで異国の少年兵のような荒々しさを彷彿とさせる。
しかし問題はそんなことより。
「おい、ちびっ子」
行き交う人垣を割って入り、秋は少女に声をかけた。
秋の声に反応した少女の肩がわずかに揺れ、首だけで振り向く。あれだけ美しい瞳のはずなのに、どこか光に濁りが垣間見えた。
少女は訝しげに秋の全身を眺めているが、秋は気にする素振りもなく話を続ける。
「こんなとこにひとりでいたら、危ないぞ? 親はどうした?」
秋が心配している理由は、少女がたった独りで居座っている場所が《闇市》であるということ。
《闇市》といえば、戦前戦後の混乱期にあった日本で横行した、非合法の取引市場を先に想像させる。
現代の闇市も非合法の市場である点では同じだが、ここで取引されている商品はただの現物だけではない。歌やゲーム、映画などのデータ販売もしているし、大昔の貴族のように肖像画を描いて欲しい、といった美術品の制作依頼もある。『労働力』という、目に見えない商品もある。
労働力とはつまるところ――――人身売買だ。
単純に力仕事だけならましな部類で、なかには性的サービスを目的としてヒトを買う輩もいる。彼女のような見目麗しい少女など、格好の餌食だ。
少女が独りでここまで来たわけではなく、保護者と一緒であるというなら秋の出る幕はない。しかし誰も連れがいないというならば。
彼女の返事を辛抱強く待つあいだにも、秋はこれからの動向に思考を使っていた。
――――警察……もしくは本部に行ってルカに……。
警察が無能というわけではないが、正教会と警察は【レザーフェイス】一連の事件以降、三十年に渡って地味な仲違い状態だ。
精神障害を【悪魔】と捉える正教会は、警察にとって《頭のイカれた連中》となる。一般人にも広く知られた存在の正教会だが、一部ではまだまだ怪しい宗教団体だ。その筆頭が警察、ということ。
下っ端とはいえ一介の修道士である秋が行けば、警察にも正教会にもあまりいい顔はされない。
だったら一番に信頼の置ける大人、ルカに任せる方が双方へ波風立てる事態にはならないだろう。少なくとも秋ひとりよりは、ずっとうまく対応してくれるはずだ。
しかし少女の返事は、秋の想像を斜めに越える内容だった。
「あんまりわたしを子供扱いすると、おにいさんを性犯罪者に仕立てあげますよ」
優しい風が歌っているような可愛らしい声。その声と可憐な姿に相応しくない生意気極まる脅し文句を受けて、自他共に認める短気な秋は『大人の余裕』を喪失させた。
「ほっほー! どうやってだ?」
やれるもんならやってみろ、このクソガキ。
そんな子供みたいなくだらない思いを込めて、少女を見下ろして挑発した秋に……ちょっとした天罰が下ったのは数秒後のこと。
秋からのあからさまな挑発に乗った少女は、腹いっぱいに息を吸い込んだ。
そして。
「誰か助けてぇぇぇぇぇぇえええええ!!!!!! お兄ちゃんに裸にされるううううううううう!!!!!!」
「んな!?」
少女の悲鳴は『闇市』じゅうを騒がせる。秋があげた驚愕の声は容易にかき消され、多くのひとが集まってきた。秋と少女のやりとりは、当然ながら誰も気に留めていない。
秋が少女に性的な悪戯をしていないという証拠は残念ながら皆無で、悪い話ばかりが、尾ひれをつけて拡散されていった。あんな若い少年が、まさか人身売買のバイヤー? などといった噂まで立ち始めている。
「ち、違う!! 違いますからね!? 俺はなんっっもしてないですからね!?」
秋の弁明も虚しく、通行人の誰かが呼んだのであろう警官ふたりが、秋の肩を掴んだ。
「ちょっとキミ、署まで来てくれる?」
「だから俺はなんも……っ!」
「ハイハイ、犯人はみんなそう言うの!」
暴れる秋をふたり掛かりで押さえつけて、聞く耳を持たない警官は無線で本部と連絡を交わしながらパトカーに向かおうとしていた。
当初と比べて何十倍にも膨れ上がった大勢の野次馬が、面白半分に連行される秋の姿を写真に収める。
こんなことでフラッシュの嵐に包まれたなどと知られれば、沙也加には怒鳴られて簀巻きにされ、ルカにはゲンコツを喰らうだろう。桐子はゴミを見るような視線を、一心に向けるかもしれない。
それで済めばいい方だ。警察沙汰になったのだ、正教会からなんらかのペナルティが与えられるかもしれない。
――――え、俺……修道士クビ?
そんな嫌な予感ばかりが脳を走り、その怒りの矛先をふと思い出して、パトカーの後部座席で怒声をあげた。
「あ……あンのクソガキぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!」
《闇市》全体にまで広がる断末魔。
暴れる秋をパトカーに押し込んでひと息吐いた警官が、野次馬の中心地となっている現場へ声をかけた。もちろん、事件の被害者である少女へ、だ。
「お嬢ちゃんにも話を聴きたいから……って」
しかしその現場にはいたいけな少女の姿など、どこにも見当たらず。残された野次馬たちが作っていた円だけが、虚しく残されていた。
「あれ……?」
警官が野次馬たちをいくら問い質しても、そこにいたという少女の情報は得られない。
被害者からの事情を訊くことは叶わず、証拠不十分――――ということで秋は一番星が瞬き始めた頃になって、ようやっと釈放された。
警察署で無駄に等しい事情聴取を受け、最後は厳重注意だなんていって、延々とお叱りの言葉を浴びせられてぐったり。しかしそれでも、秋は旧鶴見区内にある正教会の本部へ向かった。
携帯端末で時刻を確認したときに鬼のような着信履歴を見てしまい、これは直帰したら怒鳴られると判断したためだ。
着信履歴を残したのはほとんど桐子だが、ルカと相棒のシスターカナコからのものも幾らか混ざっている。本来であれば悪魔祓いをした後は、本部で報告書を作成する時間のはずだったからだ。
空を見渡せばとうに天鵞絨が舞い降り、深い藍色のなかに星が煌めいている。