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少年と青年の狭間

凍解が始まりつつある、明るい春の季節が巡ってきた。


ようやっと立春を過ぎた二月の横浜は、しかしまだ独特の寒さが執拗に残っている。

匂い立つ紅白の梅花があちこちで見事に咲き誇り、まるで訪れた春を優しく歓迎しているようだ。山から下ってきた雪解け水が混ざった河川は、いつもよりきんと冷たくて澄んだ色を纏わせていた。

吐く息は白くたちこめ、風を切って歩けば頬と鼻が冷えて赤く染まる。

今朝方は靄が重くたちこめていた空も、いまは初春らしい涼しく澄み切った青を望めた。

大昔に山を切り開いた土地であるがゆえの割と急な上り坂は、自転車に乗ったまま上りきるには伸び盛りの体力でももたない。


ぴったり通学の時間帯なので、通りを行き交う人の数が多く、自転車登校の生徒はほとんどが押して歩いていた。

男子生徒は黒づくめのタイトなブレザー、女子生徒は同色の一般的なセーラー服を身に纏っている。

着こなしも様々で、学校指定の白シャツとワインレッドのネクタイできっちりの生徒もいれば、自分好みのシャツを堂々着用している強者もいた。

女子の胸元もスカーフやらリボンやら、なかにはお気に入りのループタイを好んで着けた生徒もいる。

しかしまだまだ寒さが厳しい。少年少女はそれらの制服の上から、色とりどりのコートとマフラーを羽織っていた。

その光景もまた、情緒溢れる景色だな、とため息をひとつ。

全身黒づくめの制服を纏った少年————黒澤秋は、ざっくり編まれた白い毛糸のマフラーに顔を埋めて、眼前に広がる校舎をちらりと見上げた。


およそ二十数年前に介護施設として建設された神奈川エリア第一高校の校舎は、公立高校にしては洒落たデザインを誇っている。

爽やかなミントグリーンで配色されたドーム型の屋根、晴れた日は気持ちいい庭園のような屋上と中庭。

広く清潔なラウンジは生徒たちの憩いの場として賑わい、高校にしては多数の蔵書量を誇る図書室は学ぶ心を豊かにした。

風通しのよい教室は夏でも冷房なしで過ごしやすく、友人との時間も楽しく過ごせる。

古びたペチカが教室内をよく暖めてくれた冬場には、家族とはまた違った賑々しい団欒が生まれた。

自然いっぱいの裏庭では、たまに季節の植物を楽しみながらひとりでゆったり過ごす。

秋の脳裏に、三年間の思い出が走馬灯のように蘇った。


高校に入学した最初の頃。馴染まなくていい、友人なんか一人もできなくてもいいと本気で思っていた。

憧れ目指していた修道士として働ければいい、学校なんか通わなくていい……保護者のルカに強気で、しかも本気でそうのたまっていたはずだった。

しかし修道士として戦い、疎ましがっていた他人との深い関わりを持ち、大切なひとと本気でぶつかり合うことで————秋のこころに、確かな変化が現れる。

浅くても深くても、他人ひとと関わりをもつことは、生きている限り避けては通れない当たり前の事象。

そしてそのぶつかり合いこそが、ひとのこころを立派に育てる大切な栄養源である。

傷つくこともあるだろう、腹が立つこともあるだろう。

しかしどこへ行っても必ず付いて回るもの、時として……絶対に逃げてはいけないものだから。

秋はそのことをこの三年間で、大切なひとたちから体を張って教えてもらった。


本音のこころでぶつかり合う勇気。

誰かのことを想う気持ちの、清き貴さ。

誰かに想ってもらえる、その幸せ。


『少年』から『青年』へと変わるその狭間で、秋はひととして、修道士としてもひと回り成長できたような気がしていた。

そしてその立派な節目に相応しく、来月の三日には高校の卒業式を迎える。

せっかく仲良くできた友人クラスメイトたちと道を分かつのは、正直に吐けば淋しい思いがあった。

秋以外のクラスメイトたちの全員が、この厳しいご時世でありながら大学や専門学校への進学と、各企業への就職を控えている。

幼なじみでクラスメイトの赤木沙也加も、無事に四月から神奈川エリア随一の国立大学へ進学が決まっていた。

三年間、あるいはもっと長く時間を共にしてきた友人と離れる。

その不安と悲しみは、秋にとっては小学生以来の感情だ。自身の感情に振り回され、戸惑うのも無理はないだろう。

しかしとうの昔に鬼籍に入った両親と違って、卒業が今生の別れではない。

現状で民間人が日常的にエリア間の移動が困難な日本において、進路のためだけに神奈川エリアから出る学生はほとんどいない。エリア内で一生を過ごすなどザラだ。

それに本気で連絡を取ろうと思えば難しくはない時代だし、秋のクラスでは早くも同窓会の企画が活発になされている。

秋自身も含めて、それぞれが選びとった進路へ向かうことは、とても素晴らしい人生の門出なのだ。

秋は両手で自身の頬を軽く叩き打ち、表情を一気に引き締める。今年一番の寒さのせいで肌がかじかんでいるのか、頬を叩いた痛みはいささか鈍い。しかしそれでも、十二分に身もこころも引き締まった気がした。


「……よし!」

————いまは残り少ない学生時代を、思いきり楽しもう……。

後悔のないように。

友人との貴重で大切な時間を。

学生でいられるわずかな甘酸っぱいひと時を、《いま》しかできないことを。

精いっぱい謳歌するのだ。

使い古した黒革の編み上げブーツが軽やかに鳴り響き、少年を『日常の象徴』たる学び舎へと運んでいく。迎え撃つ風は実に穏やかで、秋の意志を後押ししているようだ。

決意も新たに結んだ、その瞬間。


「いてっ!」


秋の後頭部を何者かの強めな手刀がクリーンヒットしたことで早速、出鼻をくじかれてしまった。

振り返らずとも相手が誰かわかっているが、それでも面と向かって文句を言ってやらねば気が済まない。やられっぱなしでは、男が廃るものだ。

朝から秋にこんな無礼講を働く不届きな輩は、この学校にはひとりしかいない。

振り返った視線の先にいたのは、予想通りに見慣れた長身の少女。服装は当然、神奈川エリア第一高校の黒いセーラー服に、芥子からし色のマフラーと白のダッフルコート。


「なーにひとりでカッコつけてんのよ?」

悪戯っぽく微笑む

利発そうな赤茶色の柔らかい髪を背中に流し、丸めで可愛らしいのに強気そうな印象を拭えない栗色の瞳が、爛々と輝いて主張している。

凶器となった右手をいまだ構えた幼なじみの赤木沙也加を威嚇するように、秋は軽くひと睨みした。


「お前な……いい加減、ヒトの頭を気安く殴るのやめろよな! 頭悪くなるだろ」

「あら大変。これ以上悪くなったら、もう生きていけないわね」

「馬鹿にしてんのかクソアマ」


高校の三年間でほとんど毎日続いていたこんな軽口の応酬も、あと少しで滅多にできなくなるのかと思うと、少しばかり淋しい気がする。

しかしそのノスタルジックな感傷も、ほんのいっときのこと。

秋の視線は自然、沙也加の脚へじりじり向かった。

短めのプリーツスカートから伸びるほっそりした子鹿のような脚は、落ち着いたワインレッドのタイツに包まれている。

しかし細くても適度に肉がついており、その乙女らしい甘酸っぱい色香は、男の情欲を煽るには充分な輝きを帯びていた。

思わず触りたくなるような魔力をもっているかもしれない。触ったら吸い付くようなみずみずしい肌が、タイツの下に隠されているのは勿体ない。

その脚線美は相棒の完璧すぎるスタイルにも引けを取らない、などと秋は密かに惚れ惚れと眺める。だが。


「どこ見てんのよっ!」

「いてっ!」

べしっと鈍い音を立てて、秋の額ど真ん中に沙也加の手刀が突撃した。

叩かれる直前に秋の目に入った沙也加の顔は、熟れた林檎のように真っ赤で、乙女の恥じらいを見て取れる。

そんな彼女の年頃らしい素顔もまた、とても可愛らしい……。

————って言ったら、また殴られるのか?

沙也加の腕力は長年スポーツで鍛えているせいか、女子の平均を大きく超えたものだ。

抓られても痛いし、殴られても痛いし、握られても痛い。

その痛みをほんのわずかでも想像するだけで、秋の顔は目に見えて青ざめ、背筋が震えてしまう。

そんな秋の想像を知ってか知らずか、沙也加は怪訝な眼差しで「どうしたのよ?」と訊ねた。しかし秋がなんでもない、と慌てて答えるとそれ以上の追及はせず。

一歩前へ踏み出し、振り向いた。

風に揺らめく赤茶色の髪が、優しく撓んだ。

「早く教室行かないと、遅刻するわよ?」

紅色豊かな梅花のように、鮮やかに笑う沙也加はやはり美しい————密かにそう思いつつ、秋は柔らかな微笑みを返し。

「あぁ……そうだな」

軽く駆け足で沙也加の隣に並び、いまでは愛おしい教室を目指して歩き出した。


第一高校において三年生の教室は、第一校舎の二階部分に集約されている。

秋と沙也加が所属する七組は、その第一校舎二階の一番端だ。

一階にある購買からはとても遠い。お昼ご飯で気に入ったものを買おうと思えば、四時限目が終わってすぐに教室を出なくては、とてもじゃないが間に合わない。

あまり人気のないチーズくるみパンしか残っていなくて、しょっぱい思いをした日が何度あることだろうか。沙也加は好きだと言うが、少なくとも高校生男子の口にチーズくるみパンの味は好ましくない。

卒業間近でほとんどの日が自由登校となったいまでは、それもいい思い出として昇華される。


クラスメイトとの簡単な挨拶と軽い雑談を済ませた秋は、廊下側の一番後ろにある、自分の席に座って教室を眺めた。

受験戦争、もしくは就職活動から解放されたクラスの雰囲気は、以前にも増して活気づいている。

これから頻繁に会えなくなるであろう時間を埋め合わせるかのように、学友たちは積極的に放課後のお誘いを交わしあう。もちろん秋も誘われるが、いつ仕事が入るかわからないからと断るのが、最近になって強い淋しさを感じる一因となっていた。

修道士の道は自分で決めてやっていることだから、文句を言うなど自分勝手な我儘だとは思っている。

しかし仲良くなった友人たちと放課後を楽しみたいという欲求は、学生として正しいものであるというのも正しい感情だ。


実のところ秋も、ルカや沙也加からそれとなく進学を勧められ、進路に悩んだ時期があった。

高校一年時であればこのまま修道士職に一直線、その他の選択肢など絶対に絶対に有り得ない! と意固地に決めつけていたことだろう。

しかし学校がただ勉学に励む場ではないことを痛感したいまでは、進学すら秋の視野にしっかりと入っていた。勉強が好きとか得意というわけではない。むしろ苦手だし、やらなくていいのであれば絶対にやらない。

だけどもっともっと、誰かのこころと触れ合ってみたいと思うのは……人間として当たり前の欲求である。

そのひとつとして、放課後の時間というものは大切だ。

淡い恋愛や、家族や友人との関係の悩み、先生のちょっとした悪口、将来の夢……。

学校では話せないことをお喋りして盛り上がり、些細な秘密を共有して友情をより深めていく。

それは『学生時代』でなくては経験できない、大人になってしまっては得がたい貴重な時間だ。大人になるための大事なステップ、とも言えよう。


————なんにせよ。

限られた大切な時間のなかで、精いっぱいに楽しむべき時期だ。今日は任務がなさそうであれば、たまには素直に誰かの誘いを受けてみよう。

ひとり納得して頷いていると……。

「なにを神妙な顔つきでスケベな妄想しているのです?」

「あぁ……沙也加の太ももに挟まれたいなとか、桐子のおっぱいでぱふぱふしてもらいたいなぁ……って!」

いつのまにか隣に人がいて、ひとの頭のなかを大変失礼な想像するので思わずノリで答えたものの。

「違うからな!?」

慌てて否定してみたものの、口は災いの元。どんなに冗談を冗談で返したとしても、アメリカンジョークよりひどい冷めた視線が飛んでくる。

冗談だとわかっていて、この仕様。

だから秋が冷静になればこの展開は防げたはずなのだが……残念ながら、条件反射というものにいつまでも勝てない。これではこの女の思う壺である。


「なにが『違う』のか、まったく理解できませんが?」

などと鼻にかかった声音で言いながら内心では思いきりニヤニヤして、慌てふためく秋の様子を堪能しているのだろう。

なんて底意地の悪い女だ、と呆れて嘆息しながらも、秋はようやっと本題に取り掛かることに決めた。

「なんで学校にいるんだよ? 任務なら携帯に連絡くれりゃあ……」

秋は闖入者に怪訝な表情を向けながら、冗談が失敗に沈んだバツの悪さに頭を掻く。

隠者のこどくするりと隣に忍び寄って、容赦のない精神攻撃を加えてきたのは、今朝方に別れたばかりのパートナー。

シスタートウコこと青柳桐子は、今朝と同じ真っ黒のロングドレスを身に纏って威風堂々と、賑わう教室に溶け込んでいた。

ロングドレスは正教会が支給している修道着だが、彼女オリジナルのデザインとなっており、胸元が広く開いていたり、大胆なスリットが入っている鬼仕様だ。はっきり言って目立つ。

彼女は秋と同い年の十八歳だが、訳あって高校に進学していない。だからこの神奈川エリア第一高校において、完全に部外者である。

以前は警備用の機械人形ドルチェによる厳重警戒包囲網を、文字通りの力ずくで突破して侵入。各方面に秋が頭を下げて回るのが常だった。

しかしどうも最近は、校長のお墨付きで顔パスしているらしい。いったいどういうつもりだと、校長に問い質すべきなのかもしれないな、と秋が本気で考えていると。

桐子が白い頬を鮮やかな桜色に染めて、身を燻らせている。


「なんだよ、モジモジして。トイレか?」

「違います!」


激しい怒りの声とともに見事な鉄拳を喰らい、秋の身体は冗談でもなく宙に浮いて教室と廊下を仕切る引き戸に激突した。その衝撃音でクラスメイトが全員振り返るも、「まーたやってるよ」なんて半笑い。誰も秋を心配する声がないのは、桐子が校長だけでなく、このクラスに広く受け入れられている証拠だろう。

秋は気を遣って尋ねたつもりが、桐子をひどく怒らせたようだ。秋としてはとても気を遣ったつもりなのだが、桐子はお気に召さなかったらしい。

「いつまでもデリカシーが備わりませんね、まったく」などと呟きながら、赤くなった頬をぷりぷりと膨らませている。

「じゃあなんなんだよ?」

木製の引き戸に激突して小さなコブができた後頭部を労わりながら、秋も同じように頬を膨らませて不機嫌を露わに問いかける。

すると桐子の頬は桜色を通り越して見事な薔薇色に染まり、恥じらう乙女の素顔を垣間見せた。


「あなたに会う理由が……なくなるじゃないですか」


秋を見詰める桐子の視線が熱を帯び、照れ隠しに指と指を絡ませはじめた。白い指の先が薄紅色に染まり、その熱が目に見える。

好きなひとと顔を合わせる、ほんの僅かな時間だとしても。

恋する乙女にとってはなによりも大切で、この世で一番欲しい時間なのだろうか。

出逢った頃は鉄面皮のようだった彼女の表情は、いまとなっては零れ落ちるように咲き誇った桜のよう。

彼女の髪と瞳の淡い色が相まって、儚い絵画のようだ。

どんなに彼女への気持ちがなくとも、匂いたつ色香に魅了されてしまいそうだ。


「……お、おう」


内心でドギマギしながら返答に困って、どうにか出た秋のひと言に対して。

桐子は「なんですか、その微妙な顔は」などと言いながら眉根を寄せて不服そうに腕を組む。彼女の豊かな胸が腕に押し上げられて、服の上からでもその質量が十二分に強調された。秋は桐子にわからない程度に喉を鳴らし、彼女の胸に注目する。

男子たるもの、女体への興味を欠かしたら終わりだ! などと、誰に向かってかわからない不審な言い訳を繰り返しながら。

幸いにも秋の視線の行方に気づかなかった桐子は、すぐに表情を緩めて少し淋しそうな溜め息をひとつ。


「あなたの気持ちは、知ってますから」

桐子の切ない表情は森羅万象のなによりも美しく、しかしほんの僅かなこころの痛みを伴う軋みを感じる。

「……」

押し黙ってしまった秋に向けて、桐子は「ごめんなさい、気にしないで」と意味を込めた穏やかな視線を送った。

桐子からの愛の告白を受けても秋がいつまでも返事をできないのは、沙也加への想いがあるからだ。つらいときも苦しいときも側にいて見守ってくれた沙也加への、ほのかな恋心。

桐子も彼の気持ちを察しているからこそ、返事を急かすことなく、しかし時に大胆なアピールを加える。

だが桐子も気づいていない、秋のこころに秘められたもうひとつの感情。

桐子を想う気持ちが『相棒』という意味なのか、それとも『ひとりの女の子』を意識するものなのか。

その感情の行方が果たして、恋心へと昇華されていくのかは……いまはまだ、誰にも予測のつかないこと。

「さぁ」

これ以上は秋を困らせるつもりはない、という意味を込めて、桐子はどうにか話題を切り替える。


「悪魔祓いのお時間ですよ」


春先の優しい風に翻る黒いロングスカートと、淡い金髪のコントラストは解語の花か。

いつになく不敵な笑みを漂わせて先を促す桐子に、秋もまた軽い冗談を交えた軽口で応える。

「へいへい。ったく、神父さまは忙しすぎて泣けるぜ」

秋の左手首に巻かれた黒革のコンボスキニオンが揺れ動き、柔らかな陽光を反射して輝いた。銀製の『不思議のメダイ』に刻まれた聖母が、ふたりの戦いを見送るかのごとく嫋やかに微笑んだようだ。

任務に向けて教室を飛び出した秋の背に、直前までクラスメイトと雑談を交わしていた沙也加が声を投げかけた。

「秋? これから卒業式の練習……」

「すまん沙也加、先生には任務だって伝えといてくれ!」

沙也加の言葉尻も待たずして、秋は暖かい陽射しが降り注いだミントグリーンの廊下を駆け抜ける。その背中を呆気に取られて見送る形となった沙也加は。

「んもう! まーったく落ち着かないんだから、あのアホ神父さまは」

秋の忙しなさに腹を立てて、沙也加は溜め息を零しながら腰に手を当てる。

いまの時期の進路が決まった三年生はほとんどが自由登校とはいえど、今日は残り少ない卒業式の練習だ。全員が体育館に集まっていなくてはいけない。

一時はどうなることかと沙也加も散々に気を揉んでいたが、秋だって立派な卒業生のひとりである。練習に参加しなくては、教師やクラスメイトも困るし、当日の秋も困るかもしれない。入学から散々に心配ばかりかけられたのだから、せめて卒業式くらいは安心させて欲しいものだ。


————でも……。

校舎を柔らかな春風が吹き渡り、沙也加の髪を揺らした。どこからか迷いこんだ小さな花弁を見詰めれば、訪れた春の温もりを感じる。

もう遠くへ行ってしまった背中を思い出して、沙也加は誰ともなく嬉しそうに微笑みを浮かべた。

その微笑みは巣立っていった弟の成長に喜ぶ姉のようでもあり、しかし同時に彼の背中の大きさを感じて愛おしく想う少女のもの。

沙也加には秋の隣に立って、同じ景色を見ることができない。悪魔と戦う力はないし、これから目指す世界も違う。

それを悔しいと思う日々も、確かにあった。自分も一緒に戦うことができたなら、彼が背負う多くの悲しみや苦しみを分かち合うことができるのに……と。

だが彼が帰る居場所を守ることはできるから、今日も無事を願って待つ。

廊下の窓を隔てた中庭には、大きな桜の木が植えられている。ここ数日の暖かさで蕾が膨らみ、いまにも弾けそうだ。三月三日の卒業式までには開花するかもしれないと、国営ラジオのアナウンサーの言葉を思い出した。

その木々のあいだから漏れる優しい春の陽射しに目を細め、沙也加は静かにエールを送る。


「……がんばれ、秋!」


教室に戻れば、いつも通りに騒いでいるクラスメイトたち。

沙也加を迎えた女子生徒たちが「黒澤くんは?」となにげなく訊ねるので、仕事に出たと答える。これもいつものやりとりだ。

やがて担任教師が出席簿を手に教室へ現れて、席に着くように促す。

この平和を彼が守っているのだと思うと、沙也加のこころは温かな誇らしさで埋め尽くされた。

さざ波が月の引力に導かれて、幾度も繰り返すように。厳しい気候に置かれても毎年きちんと咲き誇る、儚くも美しい桜のように。

きっと今日も明日も、当たり前のように秋に逢える。たとえ行く道が違っていても、目に映る景色が違っていても。太陽と月は変わったりしない。

彼らのこころの強さに確証を持って、信じているから。今日も待つんだ。


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