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紛い物の真珠に、光を与えん。

————春を待ちわびた夜風は強く冷たく吹き荒び、ただでさえ凍てついたわたしのこころを冷やしていく。まるで永久凍土が造られていく過程のように、わたしのこころは硬く閉ざされていった。


神奈川エリアの中心地である中央区は、横浜市の旧鶴見区だ。

かつては鶴見川が灑ぐ穏やかな住宅街も、いまでは開発が進んで東京エリアとさほど変わらぬビルが乱立した近代的な景観だ。樹木や土の道路はほとんどなく、自然というものが完璧に排除された、冷たい街。

それを『風情がない』と思うものの、わたしはかつての鶴見区を肌で感じたことのない年代だ。

だがそれでも懐古的ノスタルジーというものがどういうものか、曖昧ながら理解できるようになったこの頃では……この街が嫌いである。

最大にして唯一信頼できるはずの母も、いまや狂信者となり果てて、宝物のように想っていた娘を悪魔へ差し出すほどに壊れた。

そんな母との思い出を、わたしはほんの一時でも棄てたかったのかもしれない。わたしは時折、人の目を逃れてエリア外に足を運び、すっかり荒れた廃墟に身を委ねる。

人びとの営みの痕跡が静かに佇んでいる空間は、下手をしたら安心できるはずの自宅よりも安寧の地ではないかと、時おり思う。

瞼を閉じ、風の音だけに身体を預けることによってのみ、わたしはこの世界で確かに息づいているのだと感じるのだ。

その【悪い癖】が顔を出したのか、わたしは任務を忘れて吹き付ける風を無心で感じていた。

しかし当然ながらそんなわたしにお構いなく、


「聴こえるか? 《真珠の乙女ファルソ・メイデン》」


ビル風の隙間にトランシーバーから漏れる声を受け、わたしは僅かに顔を顰めた。骨董品のトランシーバーから聴こえる音は、決して耳に心地よいとは言い難い荒さだ。

白い布を深く被ったわたしは、誰も見えないのに頷く。


「良好です。ご指示を」

わたしの事務的な答えを受けたトランシーバーの向こうにいる男が、双眼鏡を手に取って様子を伺うような音が聴こえる。微かな衣擦れと、背後にいる幾人かのやり取り。車が走行する音も、時折入ってくる。

やがて男が言った。

「十時の方角、そちらから二千メートルの位置に標的がいる」

わたしは言われた通りの方角を探って、愛銃のバレットM82に装着したスコープで覗く。事前に渡された写真に収まっていた小太りな男が、いかにも偉そうにふんぞり返って高級そうな車の後部座席に乗っているところだ。

「いけるか?」

わたしが標的を目視したと予測しての声。いま一度、標的と周囲の状況を確認するために視線を素早く走らせる。

入手していた予定通りなら、男を乗せた車はそろそろ目的地のホテルに着く。ホテルに着けば、男は車を降りる。あの車がいくら防弾性に優れていようと、標的が外にいれば関係ない。

わたしはまた、素っ気なく答えた。

「問題ありません。いつでも任務遂行できます」

————そもそも……。

この子に貫けないものなんかない、といささか盲信的になって愛銃の黒いボディを指の腹でゆっくり撫でた。狙撃ライフルのなかでも、対人に使用することを制限された対物ライフルのバレットM82は、枝のように細く幼いわたしの身体にとって鞭を打つような衝撃を与える。

しかし身体が成長するにつれ、訓練を積むにつれ、この化け物はわたしによく馴染み、身も心も深く融合していった。

いまでは同年代の子がぬいぐるみに執着することと同義のように、わたしはこの銃を片時も離すことなく同じ時間を過ごしている。わたしはこの子を愛し、この子もわたしの愛に応えてくれる。これまでの成果が、それを証明していた。


「……タイミングは任せた。期待しているぞ」

言葉の割に冷たさのある声はきっと、わたしのことを不気味がっているのだろう。

子供のくせに、怯えもせずひとを殺しやがる。あんなの人の子じゃない。そんな陰口を叩かれていることなど、百も承知だ。

それでもわたしは、成し遂げなくてはいけない。

誰のためでもなく、わたし自身のために。

再びスコープで覗けば、標的はちょうどよく車から降りるところだった。わたしはそのまま照準を定め、引き金に指をかける。

これから自らの手で命を奪う男に対して、なんの感情も湧かないのは悪いことなのだろうか。

スコープ越しで見ているからではなく、赤の他人だからでもない。刃物のように人を傷つける感触がない銃だからでもなく、きっと……。

わたしの指がなんの躊躇いも感慨もなく引き金を引き、その結果としてスコープの向こうで男が死んだ。発射時の反動で、次弾が自動装填された音が響く。

男が突然に射殺されたことで、周囲の人びとが騒いでいた。わたしはその様子を最後まで見届けることなく、広げていた携帯食糧のゴミや現場の地図、読んでいた本や薬莢を手早く片付ける。

わたしがここにいた形跡は一切残すことなく、幽鬼のように姿を消した。

わたしの手のなかにある一冊の本が、風に靡いて頁を揺らす。

かん高い風鳴がわたしの耳を打ち、空虚を音に変えた。

天鵞絨の夜空に浮かぶ月は、冴え冴えとした銀。まるでなにもかもを弾くように、煌めいていた。


————わたしは《真珠の乙女ファルソ・メイデン》、まがい物の真珠だ。悪魔に身を捧げたわたしの魂が行き着く先は、きっと……。

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