迷える子羊に、救いの手を。
暦の上ではもう春だというのにも関わらず、朝はまだまだ冷え込む。
朝夕の激しい寒暖差で現れた朝靄も、徐々に晴れてきた頃。
神奈川エリアの海沿いに面した旧大磯町地区といえば、いまやエリア内でも随一のスラム街として有名な場所だ。
廃墟と化したリゾートホテルが多く建ち並ぶ上に、食糧となる海産物が豊富にとれるので浮浪者が溜まりやすい。
大磯ロングビーチにほど近いこの元三つ星ホテルもまた、そういった浮浪者たちの溜まり場となっていた。
かつての栄華を想起させる、立派なロビーのなかで。
漆黒の修道女が、華麗に舞い踊る。
彼女の身体に合わせて揺れ動く長い金髪もまた、その艶を帯びた魅力を最大限に発揮していた。
硝煙のつんとした臭いをひと息で搔き消すのは、少女の強烈な脚風。
大の男を高らかに蹴り上げてもなお有り余るその膂力には、舌を巻くどころか大きな恐怖を覚えてしまう迫力がある。
彼女が手にした愛用のハンドガンが4.7ミリの銃弾を発射し、痩せ細った身体からは想像もつかぬ素早さを発揮して男が避けた————と思いきや。
一切の隙を与えることなく少女の強烈な蹴りが男を襲い、対応する間もなく直撃する。
緊迫する現場のなかにありながら、黒ずくめの学生制服を纏った少年は、少女の爆走ぶりに唖然として棒立ちになっていた。
彼女を相棒としてともに戦い始めてから、かれこれもう三年もの時が経っている。
まるでアニメやテレビゲームさながらの無双ぶりを目の当たりにして、いい加減に慣れてもいい頃なのだが……。
相変わらずの容赦ない追撃に、男は手も足も出ず。
少女の銃が、脚が。テコでも動きそうにない雰囲気と眼差しを向け続けた男に、多大なるダメージを蓄積させていく。
大の男が一見して華奢な少女に蹴り飛ばされ、スプリングが壊れたソファーに派手な音を立てて倒れ臥した。
男は顔を真っ青にして喀血するほどに痛みを感じているが、少女の顔色が変わることはない。
男の体重でソファーは木製の脚をぽっきりと折り、男を巻き込んで呆気なく崩れた。
戦いの行方は、誰が見ても明らかだろう。
しかし少年の視線の先は場違いも甚だしく、相棒の白い太腿に吸い寄せられていた。
男を蹴り上げる際に、細いながら肉感的な太腿が黒いロングスカートのスリットからちらりと覗き、少年の劣情を大いに煽る。
少年の喉が大きく鳴って、欲望を激しく訴えた。
少年から青年へと差し掛かった彼のなかで、男としての大きな葛藤が波打つ。
見たい!
————だけど紳士として、あるまじき行為。
でも見たい!
————修道士として情欲に絆されていいのか?
太腿の奥めっちゃ見たい!
————いや、あかんよ。
チラッとだけならいいじゃん。
あんな服を着てる奴が悪いんだよ。けしからん。
いつのまにか少年は首をあっちやこっちへ必死に傾け、揺れるスリットの奥を必死に覗きこみ始めた。
彼女オリジナルの改造修道服は、豊かな胸元も大胆に開き、スリットは脚の付け根の極限まで入っている扇情的な鬼仕様だ。以前にその理由を尋ねたところ、どうやら戦闘時の動きやすさを重視した結果らしいのだが……。
彼女の小柄な割に豊満な身体はどうも目に毒だと、青少年代表として常日頃から思う。
年頃の女の子なのだから、もう少し男の目を気にするべきだろう。
もうちょっと、もうちょい! 頑張れ、俺!
などと夢中になって首を傾けていたところに。
「なにをデレっと見てるのですか、いやらしい」
などという白けた台詞と視線を向けられた。
男を痛めつけるのはひと段落したようで、少女の足もとで男が棒切れのごとくすっかり伸びている。
しかし少年は悪びれもせず、堂々たる物言いでツッコミ。
「いやらしいのはお前の服装と身体だよ!」
そう、すべてはそのスケベなわがままボデーが悪いのさ! と偉そうにふんぞり返る。
しかしその余裕ぶりも、一分ともたなかった。
伸びきった男を放置して、少女は相棒たる変態の首を絞めに取り掛かる。少女の一見してか細い指が、少年の喉元に遠慮なく食い込み、気道を圧迫。
少年の顔はみるみるうちに蒼白を乗り越えて、明らかに危険な色へ変わっていく。
予感していた凶行に走る相棒の目には、『スケベ撲滅』の文字が鋭く光っていた。
「ごめんなさいマジ調子こきましたどうかご慈悲を」
どうにか喉から捻り出すと少女の手から解放され、美味しい空気を腹いっぱいに吸い込むことが許された。
「————さて」
冗談はここまでにするとして、という前置きを踏まえ。
少年が履いている制服とほぼ同色の黒いブーツの鋲が、男を威嚇するように大きく鳴り響いた。
「お前の《真名》を、教えてもらおうか」
先ほどまでのふざけた態度はほんの一瞬で消え失せ、少年の顔つきは『神父』と呼ぶに相応しい、敬虔さを含めたそれとなる。
男はその変化に面食らったものの、すぐに血の混じった唾を下品に吐き捨てた。
「へっ……誰が素直に言うかよ、クソ神父っ!」
「……残念だ」
少年はそう呟くとグレンチェックのネクタイをむしり取り、さらに染みひとつない白いワイシャツの釦も外し、薄い胸板を露わにする。
年頃にしては少し貧相な胸板には丁寧に包帯が巻かれており、少女がやや乱暴に剥ぎとると————
男性にしては白めの素肌には、新旧の痛々しい傷痕が疾っていた。
まるでなにかに、幾度も肉を食い千切られたような深い傷痕。おそらく完全に癒えぬうちに包帯を巻いたのだろうか、幾らか血の跡が滲んでいる。
一見してどこにでもいるような少年には、似つかわしくない傷痕。
少女がその傷痕に赤い舌を這わせると、少年は抗い難い確かな快楽を感じた。
彼女の髪から甘い花蜜のような香りがたちこめ、少年の鼻をささやかに誘惑する。
少年と少女の唐突なエロティシズムを擽る情景が眼前で繰り広げられ、なにも知らない男は面食らった。
少年の肌を吸い込む水音が、派手に飾り付けられたコンクリートを通して大きく反響。男の耳朶を打ち付けて、強く惹きつけて離さない。
これがたかが高校生の男女の織りなす景色なのだろうか。
年頃らしからぬ色香を漂わせる彼らの姿に、男の身体は抗いきれぬ激しい疼きを必死に訴えた。
男の欲望が満ち満ちて、喉が鳴る。
恍惚に籠絡して頬を染める間もなく、少年は漏れでる吐息の合間に聖なる文言を紡ぎ始めた。
「主よ。我らの原罪を、どうかお許しください」
詠唱は教典の第一章、その第一文で必ず始まり、そして締めくくるのが悪魔祓いの鉄則である。
少年の詠唱開始とほぼ同時に、少女は彼の胸を食い破って温かな鮮血を貪った。
罪人の鮮血は甘美なる味わいを処女の舌に残し、供物を受け取った神は聖なる神器 《ロザリオ》を施し与える。
少年の右手が激しく脈打ち、刹那のあいだに血液が凝集。血液が白く眩い光を放ち、徐々に形作られていく。
数瞬のうちに、立派なハンドガンが姿を晒した。
ハンドガンの形状は一般と少し変わっており、大きさを除けばまるで小型銃器でも有名なデリンジャーのように丸みを帯びている。
華美過ぎない装飾が美しく豊かな彩りを与え、使用者の隠された純真さをそのまま模しているかのよう。
少年はその美しき断罪の天使を真っ直ぐに構え、日本語ではない言語で滑らかに文言を紡いでいく。
保護者からはラテン語だと教えられたその文言は、教会が世界に広く普及している教典の一部。
悪魔には猛毒であるその言葉たちを少年が完璧に暗記したのは、そう遠い昔ではない。
「ぐっ……くそっ、やめろクソ神父! 耳が腐る……っ!」
少年が紡ぎだす教典の一音一音が、痩身の男————に取り憑いた悪魔を確実に苦しめている。
少女によって痛めつけられた身体が激しくのたうち回り、その振動が少年たちの脚に伝わったことで身体の均衡が揺らぐ。
しかし少年は銃口の向きを変えることなく。そればかりか追い打ちに、左手首に巻いている古びたコンボスキニオンを掲げた。
従来通りの十字架とともに、聖母の慈悲深い肖像が印象的な『不思議のメダイ』を備えたそれは、強力な魔除けとして機能している。
悪魔は更なる苦悶の表情を浮かべ、少年を射殺さんばかりに睨みつけた。しかし少年の瞳が鏡のように映す真なる感情、それは……。
————優しさ。そして憂い。
海よりも青く透き通ったその感情は、茨が抱えた悪魔の心を簡単に溶かして、呑み込んでいく。
敵であるはずの悪魔でさえも、持ちうる総ての慈悲で包み込むだけの深さが、この少年にあるというのか。
神よりも篤いその瞳を、悪魔は吸い寄せられたかのように見つめ続ける。
安らかな静寂を秘めた黒の瞳は、正邪などというくだらない概念、理屈すら丸ごと受け止め呑み込めようとしていた。
懐が広い、というよりも。
森羅万象という不条理の総てを識っているような。
「……いいだろう」
悪魔はこれまでにない清々しい思いで、《真名》を明かす決意を固めた。
神父の少年————名も知らぬはずの彼になら荒れ狂う感情の総てを、委ねられると確信できる……そう思える自分が不思議でならない。
彼にこの寄る辺なき魂を託すのなら、後悔はないだろう。
「我が《真名》はプルフラス……欺瞞の悪魔」
悪魔プルフラスの《真名》が明かされたその瞬間に、少年神父の脳裏にはとある記憶が古びたビデオテープ映像のごとく流入。
それは絶望に心が壊れて悪魔に取り憑かれた男の、哀れな半生。
世界中を襲った先の大恐慌により、大学卒業後からずっと続けている仕事を失った。
この歳での再就職は難しく、やっと手に入れた一軒家も泣く泣く手放すことになった。
そこまでならまだ、男も一からやり直したいという希望を持てた。
妻と子どもたちとであれば、どんな艱難辛苦をも乗り越えられるという確信に近い自負が、男を支えていた。
しかし衣食住の不安が強く襲いかかったからだろう。妻は子ども三人を連れて、安定した生活を求めて離れていった。
家族を取り戻すために多方面から無理して金を借りたものの、しかし大恐慌のご時世においては焼け石に水。
残ったものは莫大な約束手形と、耐えかねる孤独。
親戚からは疎まれ、信頼していた友人たちもみな離れていった。
なにもかもを失った彼の行き着く先はこのスラム街しかなく、しかし新参者に厳しい世界は、彼から生き抜く希望すらも容易く奪う。
スラム街の住人たちには不可避の不文律や不可侵のテリトリーがあり、ひとつでも踏み越えた者には制裁が待っていた。
空腹に耐えかねてそのテリトリーを侵した男に、待ち受けていた制裁……。
住人のホームレスたちによる私刑と、実質的なスラム街からの追放。
スラム街からも追い出されてしまっては、機械や便利な物に頼りきった文明人にもはや生きる術は無きに等しい。
旧大磯町地区に辿り着く前から衰弱していた彼は、容易に食糧に有りつける場所すら失い、あとは真綿で首を絞められるように死を待つばかり。
どうしてこうなった?
長年勤めてきた俺を、なぜ会社は初めに蹴落としたのだ?
なぜ俺ばかりこんな目に遭わされるんだ?
どうして妻は、俺を信じて付いてきてくれなかったんだ?
誰ひとりとして、味方についてくれなかった。誰も俺のこころを守ってくれなかった。誰も————!
信じていたひとたちからの、手酷い仕打ち。
その強烈な悲しみに悪魔プルフラスはつけいり、彼のこころを堕とした。
いまどきこの手の話は、よくあることだ。
だからこそ教会の需要は常に高まり、少年たち修道士と修道女に食い扶持を与える。
しかし決して忘れてはならない現実。
彼もまたこの未だ抜け切れない大恐慌時代における、被害者のひとりなのだと……少年たちは痛感する。
引き裂かれた愛情を、砕かれた絆を、傷つけられたこころを。
いったい誰が、なにで補ってくれるというのか。
悲しみに暮れる日々のなかに、救いなどありはしない。
いつか幸せになれる、だなんて。誰かが言った無責任な言葉は、しかし男の怒りを焚き付けただけ。
————嗚呼、そうか。
その答えは少年神父の瞳に隠されていた。
彼の美しき天鵞絨を想起させる深い黒の瞳には、同情などという安っぽい感情は決してないのだ。
ただただ悪魔プルフラスの、ひいては男の苦しみを悼み、助けてやりたいというその一心で……彼は動いている。
それは男が求めては諦めていたもの、そのものだった。
どうして信じていたはずの人たちから見放され、名も知らぬ少年から与えられたものを『嬉しい』と感じるのか。
ずっと欲しかったヒトの感情の、その名前。
その答えはもう、プルフラスにも男にもわかっていた。
悪魔プルフラスはそっと瞼を閉じ、断罪の刻を静かに待つ。男の目尻には、真珠のように美しい涙が光っていた。
その深く尊き意思を汲み取った少年は男の痩せた胸に銃口を押し当て、重い撃鉄を押し上げる。そして————引き鉄はひかれた。
ささやかなさざ波と哀愁漂う風音、そして海猫の切ない鳴き声の合間に。
辺り一帯を震わせるほどの、耳を劈く銃声が響いた。
非現実的な純白の銃弾は男の心臓を真正面からぴたりと捉え、その役目を忠実に果たす。
神器たる 《ロザリオ》が奪うのは、命ではない。
迷い悩む子羊のその鉛のように重くのしかかった苦しみを、悲しみを奪うための武器だ。
彼らが『次へ』と進むために。
そのために修道士と修道女は日夜、激しく苦しい戦いに身をやつしている。
神へと捧げた罪人の魂で、迷いし子羊たちの闇を討ち払う。
《ロザリオ》が放った聖なる光の銃弾が、惑い苦しむふたつの魂の曇りを切り払った。
「『神の御名において、汝プルフラスの惑いし魂を救わん』」
少年の厳かな締めくくりとともに……男の身体は糸が切れた傀儡人形のように、意識を失ってその場で倒れた。
「あり……が、とう……」
意識を失う直前に、確かにそんな声が少年の耳に届いた。
それが男の言葉なのか、あるいは悪魔プルフラスの言葉なのかは……いまとなっては確かめようもない。
「……」
少年の瞳は穏やかな男の顔を優しげな面差しで数秒見つめたのちに、よく晴れた空を見上げた。
天高くどこまでも続いた青空と、差し込む陽射しの眩さは————世界の美しさと残酷さを程よく示しているような……そんな気がして目を眇める。
禁断の赤き果実を口にした最初の人間アダムとエヴァは、神の手により楽園から地上の荒地へ送られた。彼らは【原罪】という永遠に解けぬ楔に縛られ、茨の道を辿る運命を課せられる。
彼らの子供たち……すなわちこの世界に生きる総ての人びとには、その罪過がのしかかっているというのが、【教典】という人類最古の物語。
よい行いをたくさんして神に赦しを得ることこそが、人類の永久なる使命なのだ……と教会は広く教えている。
遠き祖先が遺した【原罪】が清算されるその日は、果たしていつの日のことか。
————罪人たちは永遠に贖いを求め、この荒野を駆け抜けるのだろうか。
人類の見えない未来へ思いを馳せ、少年はそっと瞼を閉じた。
つんと香る磯の香りに混ざって、梅花の華やかな初春の匂いが鼻腔を撫でる。
その香りはどこか麗しの処女を思わせる、儚さと慎ましさを感じた。
「秋」
相棒の涼やかな声に応えて、少年は振り向いた。
彼女の淡い金糸に似た髪が風に煽られ、陽光を受けてこの世の万物にも例え難い美しさを放っている。
青にも似た宝石のように煌めく灰瞳もまた、彼女の人間離れした完璧な美しさに花を添えていた。
黙っていれば女神のようなその顔。
しかしせっかくの印象も、ほんの数瞬でぐずぐずに崩れる。
「なにを間抜けな顔で、ぼけっとしているのです? 遅刻しますよ」
「わかってんよ! いっちいちひと言余計だなっ!」
呆れたような、蔑むような視線を一身に浴び、少年は相棒の少女のもとへ駆けていった。
もう登校しなければいけない時間だが、三年経っても足のない彼女を、エリア中心部の横浜へ送り届けなければいけない。
早く原付免許を取れと口が酸っぱくなるほど言ったのだが、どうも彼女にその気がないのか、それとも馬鹿なのか。何度試験を受けても、取得できないままだ。
「私は本音しか言えませんので」
と廃ホテルを出た直後に、意地悪そうな微笑みを湛えた彼女の横顔。
その表情は伝説の夢魔リリスのように蠱惑的で、意中のひとがいる少年の心臓でさえ高鳴ったくらいだ。
「それが余計だっつの!」
と少年は照れ隠しで無遠慮に投げつける。
互いに『異性』としてハッキリと意識してはいるものの、必要以上に踏み込まない。
『友人』ではなく、『恋人』でもない。彼らはあくまで《相棒》。
それがふたりの『ちょうどいい』距離感だった。
少なくとも少年に、この関係を崩すつもりはなかった。————しかし。
少年が廃ホテルの入口ど真ん中に駐車していた旧時代のアメリカンバイクに跨り、無言で少女用のヘルメットを投げつける。受け取った少女はヘルメットを着用し、バイクの後部へ跨った。
彼女の腕は一分ほど、なにか迷うように宙を彷徨う。少年の「早くしろよ!」という苛立ちの声を受けて、ようやく彼の腰を抱きしめた。
少年から匂う石鹸の爽やかな香りが、少女の鼻を掠める。
自分のものや親族の男とは明らかに違う匂いに、少女の鼻は酔ったように桜色の様相を浮かべた。
「ほんっと……乙女心をわかっていませんね」
少女はほんの少しむくれて呟いた。
同年代と比べて決して広くはない少年の背中に、少女は安心と緊張という、相反する感情を抱いて体を預ける。
少年の温もりがこんなにも優しく、愛おしいと感じるのは、いつの頃からだったか。
初めて出逢ったあの頃には、想像もつかなかった深く優しい感情。満開の白梅にも似ている、楚々とした乙女の愛情だ。
少女の呟きが、中途半端に少年の耳に届いたらしい。
「あ? なんだって?」
バイクのエンジンをかけて周囲の音が聴き取りづらくなったこともあり、少年は大声で乱暴に問いかける。
排気量百二十五cc、廃棄物寸前の超オンボロバイクは、エンジン音もマフラーからの排ガスも公害レベルだ。
少女の体温が急上昇し、頬や耳が見事な薔薇色に染まっていることを少年は知らない。
とくんとくん、と。
速まる鼓動が少女の気持ちを、乙女のこころを急かしていく。
自身の心臓の音が少年に伝わらないように……でも少しは伝わって欲しい、と矛盾した感情を震わせる少女は。
「……なんでもないです! ハイヤー!」
「ヒトをタクシー代わりにすんのやめろ、クソアマ!」
少女の叱咤激励を込めた乱暴なボディタッチを受けとり、少年は痛みでぶすくれた顔をしながらバイクを発進させた。
バイクの速度があがることに比例して、冷たい海風がふたりに吹きつける。その海風にたなびく少女の金髪が、春の陽光を受けて鮮やかに煌めいた。
突き抜けるような晴天のした、青い海に沿って完成された神奈川エリアの新名物である長い長い神奈川新高速道路。
少年と少女を乗せた古びたアメリカンバイクは一路、横浜を目指してひた走る。
朝の陽光は眩く光り輝き、海を宝石箱のように彩っていた。さざ波の緩やかな音に混じって、海猫のたおやかな羽ばたきと鳴き声が響き渡り。
その美しい風景を、少女は優しい瞳で見送っている。
少年もまた少女の体温を感じながら、横目で同じ景色を目に映していた。
迷いし子羊の、内なるこころの声に耳を傾け、その魂を救うこと。
それが修道士と修道女に神より与えられた、永久なる使命————悪魔祓いである。
時は二〇三四年、二月。
先の大恐慌に加えて世界を震撼させる日本の猟奇的な大事件を受けて、『こころのケア』を重要視する現代。宗教が人びとの生活に、密接に関わっている社会である。
かつての技術大国日本は様々な現象と事件の影響を受けて、その面積と人口を大きく減らし、機械とともに信仰が人々の中心となった。
この世界は神様に見守られていて、しかし人間の心の弱りにつけ込んで、【悪魔】というものは地獄からやって来る。
機械が台頭した世の中にあって、なおも変わらずアナログなものといえば、人間の心そのものであろう。
ヒトと悪魔の声に耳を傾け、その両方を救うことができる修道士は————おそらく、黒澤秋中級輔祭のほかにいない。
戦闘能力が他と比べて極端に低い上に下級位の修道士でありながら、しかし彼の実力を高く評価する者は教会内外に多い。
大空のように澄み渡り、海のように深い眼差しで、彼はどれほどの苦しみを目の当たりにしてきたのだろうか。
遥か遠方に見えるのは、最盛期に建てられた高層ビル群。しかしとうに朽ちはじめ、人の往来が極端に減ったアスファルトには植物が根を張って生き生きとしている。
野良犬や野良猫ならまだしも、野良牛や野良豚などの野生化した動物たちが自由に闊歩する街。
人の影がなければ生活音もなく、車の音も、大海を漂う船も、空を飛び交う飛行機の姿すらほとんどない。
ひたすらに響くのは、海のさざ波と海猫の鳴き声のみ。
とても静かな世界だ。人類が排除された地球というのは、こういうものなのだろうか。
自然の優しい音色に混じる、一台のバイクのエンジン音。
荒廃した景色に真新しい道路という、ミスマッチな世界を突き進むバイクに跨った若きふたりは、修道士と修道女。
少年の名は黒澤秋、階級は中級輔祭。
少女の名は、青柳桐子。
まだまだ駆け出しの、修道士と修道女のパートナーである。
『その武器は神より賜りし宝物……神器 《ロザリオ》。
《ロザリオ》は使用者の命————心臓を喰らうことで、その能力を十全に発揮し、迷いし魂を神のもとへ送り届ける。
汝その身を、心臓を神に捧げ、神のためにその生命を賭して戦え。』