8 彼の表現
夏樹が学園を卒業してしまえば、美羽が彼に会う機会はまったくなかった。
騎士学校は美羽の家からはすぐそこという距離だが、若い娘が気軽に行ける場所ではないし、帰宅する夏樹を待ち伏せするのもはしたない。
やはり確実なのは、兄の力を借りることだった。美羽がどのように切り出そうかと悩んでいると、突然、兄が夏樹を伴って帰宅した。
部屋にいた美羽はそれを聞くと、慌てて友哉の部屋に向かった。
夏樹はその身に纏う制服が騎士学校のものに替わって、さらに大人っぽく見えた。しかし、美羽の姿に気づいた夏樹の顔に浮かんだ表情は、学園で顔を合わせていた時と変わらない、柔らかいものだった。
「久しぶり」
「お久しぶりでございます」
夏樹に子供だと思われぬよう、美羽はしっかりと淑女の礼をした。
「ご丁寧にどうも」
夏樹は可笑しそうに言ってから、紳士らしく礼を返してくれた。
翌日、美羽は帰宅した友哉を玄関まで出迎えた。夏樹の姿はなく、美羽は密かにがっかりしたが、友哉はお見通しのようだった。
「夏樹が一緒でなくて悪いな」
「私は別にそんなつもりでは……」
「そうか。また近いうちに連れて来ようと思っていたが、それなら、やめておこう」
兄の言葉に、美羽は思わず口を曲げた。
「意地悪なことを言わないでください」
「美羽こそ素直になるべきだな。ずっとおまえが夏樹に会いたそうな顔をしていたから、昨日、連れて来てやったんだぞ」
美羽は急いで胸の前で両手を組んだ。
「兄さま、お願いします。私は夏樹さまにお会いしたいの」
「あまり素直だと、妬けるな」
苦笑しながらそう言うと、友哉は美羽の頭を撫でた。
その後、夏樹は数日おきに藤森家を訪れるようになった。美羽は玄関で夏樹を迎え、居間や兄の部屋で彼と過ごした。友哉が気を利かせてくれたのか、ふたりきりになることもあった。
夏樹が藤森家で一緒に夕食をとることが増え、両親も彼と親しくなっていった。
半年程がたったある日、美羽は居間で夏樹とふたり、長椅子に並んで座っていた。会話を交わしながら夏樹の横顔を見つめると、こめかみに小さな切り傷があるのに気づいた。
毎日、騎士学校で厳しい訓練を受けている夏樹や友哉の身体はあちこちに傷があるのが常だった。美羽も小さな傷はすっかり見慣れてしまっていて、時には消毒してあげたりもしていた。
「夏樹さま、こんなところに傷が」
美羽が伸ばした手が夏樹に触れる前に、夏樹の手がそれを掴んでとめた。勝手に顔に触れようとするなんて失礼だったと美羽は恥じて、俯いた。
だが、夏樹が美羽の手を放そうとしないので、美羽は伺うように再び夏樹の顔を見上げた。思いの外、近くで目が合って驚いた美羽に、夏樹が呼びかけた。
「美羽」
それまではたまたま機会がなかったのか、もしくは敢えて避けていたのか、夏樹は美羽の名を姓のほうでさえ呼んだことがなかった。
夏樹は空いていたほうの手で美羽の頬に触れ、さらに距離を詰めてきた。
夏樹の唇が美羽の唇に重ねられたのは、ほんのわずかな時間だったが、美羽は自分の顔が赤く染まるのを感じた。夏樹は優しく笑いながら、美羽の頬をフニフニと摘んだ。
夏樹は休日にも藤森家にやって来るようになった。その場合、夏樹は必ず事前に美羽の父に許しを得たうえで、美羽を訪ねた。
美羽と夏樹が過ごすのは美羽の部屋になった。時にはふたりで庭を歩いた。そばに人がいなければ、夏樹は美羽の手を取った。
美羽が学園の3年生になると、友人たちとの間で卒業後が話題に出るようになった。
騎士学校を卒業する予定の夏樹は、正式に騎士として採用されれば、最初の1年は地方勤務になる。
夏樹が美羽とのことを何か考えているのか、それとも離れてしまえば終わりなのか、美羽は期待と不安を抱えていた。
その日は休日で、やはり夏樹が美羽に会いに来た。天気が良かったのでふたりで庭に出て、いつものように手を繋いでしばらく歩いた。
ふいに夏樹が足を止めたので、美羽は振り向いた。夏樹はいつになく真剣な表情で美羽を見つめていた。
「美羽、1年待っていてほしい。都に戻ったら結婚しよう」
美羽は目を見開いて夏樹を見つめ、それからペコリと頭を下げた。
「はい。よろしくお願いします」
美羽は笑ったつもりだったが、涙が頬を伝った。夏樹が美羽をそっと抱き寄せた。
部屋に戻ると、夏樹が懐から出した細長い箱を美羽の手に乗せた。中に入っていたのは、薄紅色の小さな石のついた首飾りだった。
夏樹がそれを手に取って、美羽の首に掛けてくれた。
「どうですか?」
「よく似合ってる。気に入ったか?」
「はい、とっても。ありがとうございます」
その日のうちに、夏樹は美羽の両親から婚約の許可をもらった。
次の休日、美羽は初めて葉山公爵邸を訪れた。
夏樹の母である公爵夫人は美羽を歓迎する様子を見せてくれたものの、父である公爵は厳しい顔をしていた。
「平民の娘を嫁に迎えるなど、ありえん。諦めろ」
それだけを告げて去って行く公爵の背に向け、夏樹がはっきりと言った。
「諦めるつもりはありません」
美羽は、公爵に婚約を認めてもらうには時間がかかるだろうと覚悟した。だが、どのように説得したのか、夏樹はわずか一月後には父から許しを得てくれた。
家族以外で美羽が夏樹との婚約を最初に報告した相手は明香だった。
明香は笑顔で祝福してくれたが、その後でさらに言った。
「それにしても、ようやくって感じよね。本当に夏樹はのんびりしてるんだから。どうせなら、地方に行く前に婚姻まで済ませてしまえば良いのに。まあ、大事な美羽をおじさまに預けて行くのが不安なのでしょうけど」