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7 彼女の父母は誰なのか

 『鏡の祭』から4日が過ぎても美羽は目覚めなかった。


 友哉や恵人から伝え聞いた医師の話によると、美羽の頭の傷はおそらく板の端でザックリと切れたもので、縫合されたそれは順調に塞がりつつある。

 事故の後、経過を観察してきたが、やはり頭の中にまで損傷が及んでいるとは考えにくく、美羽はただ眠り続けているような状況だった。

 毎日、美羽の診察に訪れる医師がしていくことは、傷の具合を診ることと、栄養剤の点滴を打つことくらいらしい。


 4日目の朝、夏樹が美羽の部屋を訪れると、恵人と一緒に祐の姿もあった。

 祐は改めて礼の言葉を口にしたが、夏樹は感謝されることがやはり心苦しかった。


「私はお礼を言ってもらえるようなことは何もできていません」


 祐は首を振った。その顔には薄っすらと自嘲するような笑みが浮かんでいた。


「あの時、私たちもあそこにいたんだが、あまりに人が多くてなかなか美羽のそばに近づけなくてね」


 そう言われて、いつも仕事で忙しく飛び回っているはずの祐が、あの時は家族とともにすぐに神殿に現れたという事実に、夏樹は初めて思い至った。


「美羽が倒れているのに誰も助けてくれないどころか、美羽を置いて逃げるなんてまったく信じられなかったよ。だが、君だけは美羽のところに駆けつけてくれた。もっとも神殿で顔を合わせるまでは、あれが夏樹くんだと気づかなかったんだが」


 夏樹の顔をまっすぐに見つめて、祐は続けた。


「地方での勤務が延びていたんだろう。夏樹くんがあの日、あそこにいてくれて本当に良かったよ」




 5日目は非番で、夏樹は初めて昼に神殿に向かった。

 この時間なら美羽の母がいるだろうと思いながら夏樹は部屋の戸を叩いたが、中から返事をしたのは別の声だった。

 夏樹は戸惑いながら戸を開けて中に入った。


「あら、ごきげんよう、今日はお休みなの?」


 寝台脇の椅子に座ったまま、顔だけ夏樹の方へと向けて、明香が言った。


「何でおまえがここにいるんだよ」


「あなたと同じ、美羽のお見舞いに決まっているでしょう。美羽はもう夏樹のものではないのだから、おかしな独占欲は見せないでちょうだい」


 明香は呆れたように眉を寄せた。


「別にそんなつもりはない」


 そう答えながら、夏樹も椅子に腰を下ろした。


「どうかしら。美羽のご両親は夏樹に感謝しているそうだけど、私から言わせてもらえば、あなたがのんびりしていないで地方に行く前に結婚しておけば、そもそも美羽が『鏡の巫女』に選ばれることもなかったのよ」


 夏樹に対して明香は容赦も遠慮もなかったが、その言葉は正しかった。未婚でなければ選ばれないゆえに、『鏡の花嫁』という別名があるのだ。


 だが、夏樹が美羽の顔を見つめて束の間考えたのは、結婚していれば彼女は今も自分のそばにいたのだろうかということだった。


「どうして美羽が選ばれたんだ?」


「そんなの、私も教えてほしいわ」


「美羽は皇女なのか?」


 美羽の家族には訊けずにいたことを、夏樹は明香に尋ねた。


「先帝陛下の皇女だと言われたそうよ」


「先帝陛下?」


 思ってもみなかった答えに、夏樹は目を見開いた。

 先代皇帝は10年程前に崩御しているが、もし健在だとしても80歳前後のはずだ。


「誰に言われたんだ?」


「宮殿だか神殿だかから美羽を迎えに来た人、だと思うけど」


「つまり、美羽が皇女だと言い出したのは宮殿側なんだな」


「それは間違いないわ。でも、その話が本当なら、美羽はおじさまのはとこになるのよね」


 明香の言った「おじさま」が自分の父のことだと気づいて、夏樹は思わず顔を歪めた。明香が可笑しそうに笑った。


「夏樹とおじさまは相変わらずなのね」


「それは今はどうでもいいだろう」


「そうね。私は今さらあなたと結婚するつもりもないし」


 その言葉に、夏樹は明香の顔を見た。


「婚約の件はこちらから断らせてもらうわ。それで構わないわよね?」


「ああ」


 頷いた後で、夏樹は少し考えてから言った。


「この前は、悪かった」


「別に、あれが理由ではないわよ。私は何ともなかったわけだし。むしろ、夏樹があそこで美羽のところに行かなければ、それこそ私はあなたを殴り飛ばしていたわね」


 明香はさらりと口にしたが、本気であることは夏樹にはわかった。


「美羽に未練があるのでしょう? 美羽が目を覚ましたら、今度こそしっかりやりなさいよ。それから、美羽のためにも、おじさまと仲良くすることね」


  そう言うと、明香は椅子から立ち上がった。


「私はもう帰るわ。そろそろおばさまがお帰りになると思うから、また来ますとお伝えしておいてね。美羽、ごきげんよう」


 美羽の上に屈み込むようにして声をかけてから、明香は部屋を出て行った。夏樹は明香が座っていた美羽の枕元にもっとも近い椅子に移った。

 美羽の寝顔を見つめながら、夏樹は明香の言葉を反芻した。


 明香に言われたとおり、夏樹は美羽に対して未練がある。だが、目を覚ましたところで、美羽が夏樹を受け入れるとは限らない。

  『鏡の巫女』である以上、美羽は未婚のはずだが、手紙に書いていた「大切な方」とはどうなっているのだろうか。

 美羽の家族はそれに触れないし、それらしい人物も現れないので、夏樹は美羽の相手がわからないままだった。あの様子では、明香は何も知らないようだ。


 祭の舞台の上で、美羽は夏樹に会えたことを喜ぶような言葉を口にした。だが、あの状況で果たして美羽は冷静に考えることができたのだろうか。

 目の前に現れた夏樹の顔を見て、会場と同じように混乱していた美羽の心が過去に戻ってしまった可能性だってある。

 美羽がまだ目を覚まさないのに、何も問題はないという医師の言葉をそのまま信じることは、夏樹にはできなかった。


 夏樹が物思いに耽っていると、ふいに戸が叩かれた。我に返った夏樹が慌てて返事をすると、紗夜子が部屋に入ってきた。夏樹に気づくと、紗夜子は笑みを浮かべた。


「あら、夏樹さん、いらっしゃい。今日は非番なのね」


「はい。お邪魔しています」


 夏樹は立ち上がって頭を下げた。


「そのまま座ってらして。明香さんは帰ってしまったのかしら?」


「また来ますと言っていました」


 答えながら夏樹は再び腰を下ろした。紗夜子は美羽の枕元に立って娘の顔を見つめ、その頬に優しく触れた。


「明香さんや他のお友達が交代で来てくださるのよ。夏樹さんも毎日ありがとうございます」


「いえ」


「実は、近いうちに家に連れて帰れそうなの」


「それは、良かったですね」


「ええ。だけど、何もしてくれないのにどうしてすぐに許可を出さないのかしらね」


 紗夜子の話し方は穏やかなままだが、表情に怒りが滲んでいた。


「許可が必要なんですか?」


 夏樹は思わずそう尋ねてしまってから、今の美羽が皇女と呼ばれる身分にあることを思い出した。


「本当に腹が立つわよね。娘を家に連れて帰るだけなのに。そもそも向こうの都合で宮殿に上がれと言いながら、こんなところに半年間も閉じ込めておいて」


 紗夜子はさらに顔を顰めた。


「ここに半年?」


 夏樹も眉を寄せた。

 美羽が眠る部屋は、事故の後で会場から近かった神殿内に急遽整えられた病室だと夏樹は思い込んでいた。そのくらい、寝台と箪笥くらいしかない殺風景な部屋だった。皇女であることを抜きにしても、若い娘が暮らすには淋しすぎる場所だ。

 ただ、よく見れば家具や寝具はどれも高級そうではあった。


「愚痴を聞かせてしまってごめんなさいね。家だとここよりも遠くなってしまうけれど、これからも美羽に会いに来てもらえるかしら?」


 気分を変えるように紗夜子が言った。


「私が伺って、迷惑でなければ」


「迷惑なんてとんでもない。いつでもいらしてちょうだい。この娘も喜ぶわ。ね、美羽?」


 紗夜子はそう言うと、今度は美羽の頭を撫でた。


 必ず訪れることを紗夜子に約束して、夏樹は美羽の部屋を後にした。

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