5 想いは消せぬまま
翌朝、夏樹は常より早くに起床して朝食をとり、家を出た。父と顔を合わせたくないというのもあったが、最大の理由は仕事の前に美羽の様子を知りたかったからだ。
鏡の神殿に着くと、夏樹はさっさとひとり奥へ進んだ。
目的の部屋の戸を叩くと、昨夜とは異なる声が返ってきた。戸を開けると、室内で振り向いたのは恵人だった。
「おはようございます」
「おはよう」
答えながら夏樹は寝台のそばまで近づいた。美羽は昨夜と変わらぬように見えた。ただ、窓から差し込む日の光の中では、美羽の肌の青白さがよくわかった。
「姉さんはまだ起きませんよ」
恵人は夏樹が訊くより前に、夏樹が美羽を見て予想していたとおりを口にした。
「そうか」
溜息混じりに言ってから、夏樹は改めて恵人を見た。
1年半前はまだ子供子供していた恵人は体が大きくなって、声は低くなり、顔つきにはどこか精悍さを感じさせた。以前は姉に似ていると思っていたが、兄の方に寄ってきただろうか。
恵人が身につけているのは、夏樹には懐かしい学園の制服だった。
「もう学園に通う歳だったか」
夏樹が呟いたのに、恵人が答えた。
「先月、15歳になりました」
「背が伸びたな」
「姉さんを追い越しました」
恵人はフッと笑みを浮かべた。その表情がやはり友哉を彷彿とさせた。
「友哉やご両親は?」
「父は一緒に来て、もう仕事に向かいました。母は昼間ここで過ごす予定です。兄は昨夜遅かったので、朝は来ないと思います」
友哉は夏樹には「すぐに帰る」と言いながら、あれからも長居したのだろう。そのくらいは夏樹の予想の範疇だった。
友哉にとって美羽は大切な大切な妹だ。
美羽本人に会う前から、夏樹は友哉に妹の話を繰り返し聞かされていて、そのことを知っていた。だから、実際に初めて美羽と顔を合わせた時には、「ああ、これが」と一歩引いたような気持ちで眺めたものだった。
だが、美羽が夏樹にとっても大切な存在になるまでに、それほど時間はかからなかった。
「また来る」
夏樹は恵人にそう告げて部屋を出た。
夏樹が騎士団本営の第2隊控所に行くと、黒川隊長に手招きされた。夏樹は黒川について隊長室に入った。
「巫女さまはどんな様子だ?」
「状態は悪くないそうですが、目が覚めません」
「それは心配だな」
そう言いながら、黒川は何か考えるような表情をしていた。黒川の本題は美羽のことではないのだと夏樹は気づいた。
案の定、黒川は再び口を開くと、別のことを訊いた。
「昨日、舞台の上で鏡を見たか?」
夏樹は前日のことを思い返した。
舞台に駆け上がった時、鏡を守っていた神官が倒れているのはわかったが、彼が抱いていたはずの鏡を目にした記憶はなかった。
「いえ、見ていません」
「そうか」
「なぜ、そんなことを?」
「『鏡の祭』は無事に終了したと神殿が宣言したのだが、その神殿の動きがやけに慌ただしいようだ。何かあったのかも知れん。もし何か気づいたら報告してくれ」
美羽が祭の最中に怪我を負って神殿の中で眠ったままなのに、「無事」だということが夏樹の中で引っかかったが、上司の前ではそれを顔に出さなかった。
普段どおり宮殿の警備につき、訓練に参加して勤務を終えた夏樹は、再び神殿を訪れた。
今朝聞いた黒川の言葉を思い出しながら神殿の様子を伺えば、やはり違和感があった。人の気配はあるのだが、奥の方に籠っているのか姿は見えない。
しかし、夏樹はもはや美羽の部屋まで迷うこともないので、むしろ人の姿がないのは面倒がなくて良かった。
部屋の中には美羽の他は誰もいなかった。
夏樹は寝台に近づくと、美羽の顔を覗いた。美羽の目は閉じたままだ。
夏樹は寝台の脇に置かれた椅子に腰を下ろした。遠くから人の話し声らしきものは聞こえるが、部屋の中は静かだった。
黙って美羽の寝顔を見つめているうちに、夏樹の求婚の言葉に花が綻ぶように笑った美羽の顔が鮮やかに思い出されて、夏樹は自覚した。この半年間、どうにか美羽を忘れようとしていたことはまったく無駄に終わったのだ。
夏樹が美羽を目の前にして感じているのは、以前と変わらぬ愛おしさだった。
一度認めてしまえば、美羽と過ごした日々の記憶が次々に溢れ出した。
初めて会った時に小さく頭を下げてから見上げてきたこと、人混みの向こうにいても目が合ったこと、たまに拗ねて口を曲げてみせたこと、そして、地方に向かう夏樹を涙を堪え笑って見送っていたこと。
夏樹はゆっくりと美羽の頬に手を伸ばし、だが触れる直前で止めた。
美羽はなぜ、突然で一方的な別れの手紙を書いておきながら、夏樹の腕の中で目を閉じる直前にあんなことを言ったのか。夏樹は恨みがましい気持ちになった。
夏樹は美羽に向かって伸ばしていた手を引き、握りしめた。そのまま立ち上がり、部屋を出る。
そこで友哉に出会した。
「もう帰るのか?」
「ああ」
「そうか。また明日」
夏樹は美羽に会いに来るべきではないのかもしれないと考えていたのに、友哉は夏樹が毎日通うのは当たり前だと考えているようだった。
夏樹は少しだけ救われたような気分になった。
夏樹が友哉と初めて話したのは、学園の入学式だった。友哉が夏樹に声をかけてきたのは、単純にふたりの席が近かったためだろう。
皇立学園は高額の学費を払えば平民でも入学できた。もちろん、貴族の中にはそれを良く思わない者もいた。
友哉は入学直後に行われた学力試験で首位をとってみせた。友哉と少し付き合えば、彼が下手な貴族以上にしっかりとした教育や躾を受けてきたことはすぐにわかった。
それでも、平民であることを理由に友哉を「成金の子」と蔑む生徒はいくらでもいた。基本的には人当たりの良い友哉も、そういう相手は適当にあしらっていた。
夏樹はむしろ、公爵家の嫡男である自分をただの同級生として扱う友哉に好感を持った。一方で、貴族とは異なる見識を持つ友哉から学ぶことも多かった。
結局、友哉は学園での3年間と騎士学校の2年間を通じて、夏樹にとって最も親しい友人であり続けた。
家に帰って自室に落ち着くと、夏樹の頭にそれまでは考えることを放棄していた疑問が改めて浮かんできた。
なぜ美羽が皇女しか選ばれないはずの『鏡の巫女』になったのか。
この皇国で皇女と呼ばれるのは、皇家に属する娘だけだ。
夏樹の祖母である前葉山公爵夫人は先代皇帝の従妹にあたる皇女だったが、貴族に降嫁したのでその呼称は失った。もちろん、夏樹の伯母たちや姉が皇女として扱われることはない。
また、皇家の男性が臣籍降下して貴族になった場合も、その娘は皇女ではない。
つまり、美羽が本当に皇女であるならば、その父親は皇家一族の誰かということになる。
だが、皇家は『鏡の祭』の時、ほとんど舞台上に揃っていたはずだ。美羽を置いて逃げた人々の中に彼女の父親がいたなどと考えたくはなかった。
もっともそれ以前に、藤森一家が美羽の家族ではなく、美羽が友哉の妹ではないということを、夏樹は受けとめられずにいた。