4 恋敵
放課後の教室で友人たちと会話を交わしていた美羽の前に、突然ひとりの女生徒が現れ、にこやかに言った。
「あなたが、藤森友哉さまの妹さんですわね?」
美羽は他の女生徒たちからも、たびたび同じことを訊かれていた。大抵は、「友哉さまのことを教えて」とか、「お兄さまとの仲を取り持って」と続くのだ。
だが、彼女がそういうことを求めて美羽のところに来たとは思えなかった。目が笑っていないのだ。
しかし、美羽が驚き、慌てて立ち上がったのは別の理由だった。美羽は彼女に向かって丁寧に頭を下げた。
「は、初めまして。友哉の妹の美羽と申します。水嶋さまにお声をかけていただけるなんて、光栄です」
美羽の声は少し震えてしまった。
「あら、私をご存知なのね」
「もちろんです。水嶋さまのようにお綺麗な方、知らぬ訳がありません」
1学年上の水嶋明香は、学園で一番美しいと、美羽が密かに憧れを抱いていた侯爵令嬢だった。
美羽の言葉に、明香の表情が柔らかくなったように見えた。
「それもそうね」
「あの、お名前でお呼びしてもよろしいですか?」
「構わなくてよ」
「ありがとうございます、明香さま。感激です」
「大げさね」
「それで、明香さま、私に何かご用でしょうか?」
美羽が尋ねると、明香がハッとした様子で、緩みかけていた表情を厳しくした。
「あなたのお世辞に惑わされて、目的を忘れるところだったわ」
美羽に「お世辞ではない」、と言う間は与えられなかった。明香はキッと美羽を見据えて続けた。
「あなた、最近、夏樹の周りをうろちょろしているようね。夏樹が藤森友哉さまのような方と仲が良いのも納得できないけれど、そちらは百歩譲るわ。でもね、友人の妹だからと言って、あなたまで夏樹に馴れ馴れしくするのはやめてもらえるかしら? 私と夏樹は婚約する予定なの。それなのに、あなたと夏樹の間におかしな噂が立ったら迷惑だわ」
美羽は目を見開いたまま、返す言葉に迷った。胸が痛むような気がして、戸惑ってもいた。
「では、失礼するわ」
明香が踵を返し、颯爽と教室を出て行くのを、美羽は呆然と見送った。
翌日、美羽が学食で友人たちと空いていた席に着こうとしていると、夏樹と友哉が揃って食堂に入ってきたのが目に入った。そのまま、ふたりは昼食を受け取るために列に並んだ。
昨日までなら、夏樹が気づいてくれることを期待してドキドキしていたところだ。しかし、この時の美羽はすぐに視線を逸らした。
モヤモヤした気持ちで食事をしていると、美羽の隣の席に盆が置かれた。
美羽が顔を向けると、そこにいた明香が椅子に腰を下ろしながら、美羽に微笑んだ。その表情に、美羽は思わず見惚れてしまった。
「ごきげんよう。私の言葉を理解してくれたようで嬉しいわ」
明香の言葉で、美羽も忽ち前日のことを思い出した。
「ごきげんよう、明香さま。あの、昨日のことなのですが……」
「おや、水嶋侯爵令嬢」
突如、横から呼びかけた声に、美羽は言葉を遮られた。
「いつの間にうちの美羽と食事を一緒にするほど親しくなったのでしょう?」
友哉は珍しく剣呑な表情を浮かべていた。明香も明らかに嫌そうな顔になった。
「私が誰と昼食をとろうと、あなたには関係ありませんわ」
「もちろんです。その誰か、が美羽でさえなければね」
前日から、美羽はもしかしたらと思っていたが、やはり友哉と明香の関係はあまり良くないようだった。
困惑してふたりのやり取りを見つめていた美羽の耳に、今度は背後から別の声が聞こえて、心臓が飛び跳ねそうになった。
「あいつに何かされたか?」
美羽は夏樹を振り返ると、急いで首を横に振った。
「ただ仲良くしていただいているだけです。明香さまは憧れの方なので」
「憧れの方? 明香が?」
夏樹がごく自然に明香の名を口にしたのに、美羽は気づかない振りをした。
「はい。明香さまのようにお綺麗な方、他に見たことがありませんから」
「そういう対象として、あまり勧められないが」
夏樹が眉を寄せながら言うと、友哉も続けた。
「美羽、何かされたら、すぐに言うんだよ」
「失礼ね。私を何だと思っていらっしゃるの?」
明香の眉間に皺が寄った。
「見た目は綺麗だけどかなり口の悪い夏樹の幼馴染、ですよ」
悩む様子もなく、友哉はそう言った。
食事を終えてから、先に学食を後にした明香を、美羽は追いかけた。明香は気づいて振り返った。
「何かしら?」
「あの、兄が失礼を……」
「それは、お互いさまよ。今さら態度を変えられても困るわ」
「それから、昨日、明香さまに言われたことなのですが」
美羽は緊張で顔が強張るのを感じながらも、明香をまっすぐに見つめた。憧れの人である明香には嘘を吐きたくなかった。
「私、葉山さまのことが好きです」
それを口にしたことで、美羽は自分自身でも初めて夏樹への恋心を自覚した。しかし、明香が目を細めたので、美羽は慌てて言い足した。
「でも、明香さまから奪おうとか、そんな大それたことを考えているわけではありません。だけど、好きです」
「だったら、その大それたこととやらを考えなさいよ」
明香の言葉に、美羽は目を瞬いた。
「ですが、明香さまも葉山さまをお好きなのでしょう?」
「好きよ、小さい頃からずっとね。だからこそ、夏樹のほうにはそういう気持ちがないこともよくわかっているわ」
明香は嘆息して続けた。
「夏樹はああいう性格だから、特に親しい友人もそれほど多くないの。それなのに、あなたのお兄さまにはずいぶん心を許しているみたいで、それを知った時、何だか面白くなかったわ」
明香が夏樹と友哉が仲良いことに納得できないというのは、友哉が平民だからとかではなく、たんに嫉妬からだったようだ。
「だけど、夏樹にそういう相手ができることを、幼馴染として喜んであげたい気持ちもあるの。だから、中途半端に戦線布告するくらいなら、夏樹の心をしっかり捕まえて、私を認めさせなさい」
はっきりそう告げた後、明香の顔に浮かんだ笑みは艶然と美しく、美羽は身を震わせた。