3 ただ無事を願う
ようやくやって来た宮殿医は美羽の状態を診てから止血の処置を施した。
その後、美羽は戸板に乗せられて神殿の中へと運ばれた。神殿の前にいた神子が奥へと案内した。
夏樹は黙ってそれについて行ったが、美羽が入れられた部屋の前で医師の助手らしき女に止められた。助手は夏樹の姿を見て声をかけてきた。
「あなたもお怪我を?」
「いや」
夏樹が首を振ると、助手は小さく頷いてから部屋の中に消えた。音を立てぬように戸が閉められた。
夏樹は廊の壁に寄り掛かると、そのままズルズルとしゃがみ込んだ。両手で顔を覆って気持ちを落ち着けようとしたが、美羽の涙が瞼の裏に浮かんできて、余計に苦しくなった。
やがて、表の方からいくつかの足音が近づいてきて、夏樹はそちらに顔を向けた。
廊の角から現れた3人が目に入ると同時に夏樹は立ち上がった。夏樹に気がついた3人の顔に驚きが浮かんだ。
「夏樹くん?」
そう口にしたのは藤森祐ーー美羽の父だった。その後ろにいるのは母の紗夜子と、弟の恵人だ。
「ご無沙汰しております」
何を言うべきか思いつかず、夏樹は短い挨拶を口にして深く頭を下げた。
「そうか、戻っていたのか」
祐は困惑の中に安堵を滲ませながら言った。
「美羽はどうなのですか?」
紗夜子の問いに、夏樹は慌てて口を開いた。
「頭に怪我をして、まだ中で治療中です」
「意識はあるのですか?」
「最初はありましたが、すぐに目を閉じてしまいました」
「そうですか」
不安の色を顔に浮かべている紗夜子の肩を、祐が支えるように抱いた。
「夏樹さんは大丈夫なのですか?」
恵人が夏樹を見ながら尋ねた。
「ああ、大丈夫だ」
答えながら、夏樹は恵人が自分の顔ではなく服を見ていることに気がつき、視線をそちらに向けた。
濃紺の騎士団の制服に染みができていた。それは夏樹ではなく、美羽の血だった。
3人もそれを理解したらしいのが表情から読みとれた。
「姉さんと何か話せましたか?」
恵人が話題を変えようとしたのか、そう尋ねた。
「ああ」
夏樹は頷いてから、少しの間考えた。美羽が口にしていた言葉を、この状況で彼女の家族にすべて伝えるのは憚られた。
「俺のことはわかったようだった。また会えると思っていなかったと言ってた」
夏樹が当たり障りのなさそうなことを選んで話すのを、3人は神妙な面持ちで聞いていた。
その後は無言の時間が過ぎ、しばらくして部屋の中から医師が姿を見せた。
「頭の傷は出血は多かったですが、それほど深いものではありません。今後も注意して経過を見る必要はありますが、目が覚めれば問題ないでしょう。他にも打撲や擦り傷がありましたが特に酷いものは見受けられません」
夏樹はホッとして息を吐いた。藤森夫妻と恵人の表情も幾分緩んだようだった。
医師に促されて藤森家の3人は部屋の中に入ったが、夏樹はそれに続くことは躊躇った。美羽の顔を見たい気持ちはあるが、家族ではない自分は今は遠慮すべきだろうと思った。
夏樹が動かないことに気づいて恵人が振り返った。
「私は仕事に戻ります。終わったら、また様子を見に来ても構いませんか?」
部屋の中から夏樹を見た祐が頷いた。
「もちろんだよ」
「ありがとうございます。失礼します」
夏樹は3人と医師に頭を下げてから、その場を後にした。
夏樹は部屋の前でずいぶん待たされたように感じていたが、外に出て太陽の位置を確かめると、神殿の中にいた時間は思っていたほど長くはなかったようだ。
とはいえ、広場に集っていた人々の姿はすでにほとんどなく、騎士たちがあちこちに散らばって片付けをしていた。
夏樹が直属の上司である黒川第2隊長の姿を見つけて近寄っていくと、それに気づいた黒川は顔を顰めた。
「どこへ行っていたんだ」
「申し訳ありませんでした」
夏樹は言い訳をせずに頭を下げた。
「勝手に持ち場を離れて舞台に向かったというのもおまえだな?」
隊長は確認するように尋ねた。
「はい」
「何故そんなことをした?」
少しだけ迷ってから、夏樹は正直に話した。
「危ないと思うのと同時に体が動いていました。彼女が知り合いだったので」
「彼女というのは、巫女さまか?」
「はい」
黒川は夏樹の顔をジッと見つめた。次に口を開いたときには黒川の声は柔らかいものになっていた。
「巫女さまは無事なのか?」
「頭に怪我をしましたが、命に関わるものではないそうです」
「それなら良かった。おまえは一度本営に戻って着替えてから合流しろ」
「はい」
夏樹は黒川に騎士式の礼をしてから、神殿からは宮殿を挟んで反対側にある騎士団の本営へと急ぎ向かった。
夜になり、任務を終えた夏樹は再び神殿に向かった。まだ神殿内は混乱が続いているのか案内を乞おうにも人が捕まらず、夏樹は昼間の記憶を頼りに奥へと進んだ。
おそらくここだろうと思った部屋の戸を叩くと、中から「どうぞ」と返したのは夏樹が久しぶりに耳にする声だった。
夏樹が静かに戸を開けると、そこにいたのはやはり美羽の兄であり、夏樹にとっては学園時代の同級生で騎士としても同期の友哉だった。友哉も夏樹と同じ騎士団の制服姿だ。
友哉は寝台の脇に置かれた椅子に腰掛けていた。あまり広い部屋でもないのに、椅子は3脚もあった。
他に部屋の中には侍女らしい者がひとり控えているだけだった。侍女の顔にも見覚えがあるので、おそらく藤森家で働いている者だろう。
「久しぶりだな」
夏樹のことは家族から聞いたのか、友哉に驚いた様子はなかったが、笑顔の印象が強い友哉の表情もさすがに硬く見えた。
「ああ、久しぶり」
夏樹はゆっくりと寝台に近づいた。その中で美羽が静かに眠っていた。頭に巻かれた包帯は痛々しいが、表情は穏やかだった。
「おまえが美羽を助けてくれたんだって? うちの両親が、きちんと礼も言えなくて申し訳ないと言っていた」
「いや、礼を言われるようなことは何もしてない。何もできなかった」
美羽を腕に抱いていることしかできなかった自分の無力さを思い出し、夏樹の心が疼くように痛んだ。
「でも、美羽のそばにいてくれたのは夏樹だけだったんだろ。ありがとう」
友哉の言葉に、夏樹は黙って首を振った。
「美羽は、その後どうなんだ?」
美羽の兄の前で彼女のことをどう呼ぶべきか悩んだが、結局、夏樹は以前のままを口にした。
「まだ目が覚めない」
夏樹は自分の耳を疑い、眉を寄せた。
医師は「目が覚めれば問題ない」と言ったはずだ。美羽はあれからすぐに目を覚ましたのだと、夏樹は考えていた。
「何か問題があるのか?」
「今のところは何も。呼吸も脈もしっかりしていて、いつ目が覚めてもおかしくないそうだ」
夏樹は改めて美羽を見つめた。先ほどは安堵したはずの寝顔に、今度は恐怖のようなものを覚えた。
「失血が多かったから、そのせいかもしれないと医師は言っている。しばらくは様子を見るしかない」
友哉が努めて明るい声を出しているのが夏樹にはわかった。
「夏樹、もう帰れ。明日も仕事だろ」
「おまえも同じだろう」
「俺もすぐに帰る。そう言えば、夏樹はどこの所属になったんだ?」
「第2隊だ。友哉は?」
「第4だ。まあ、積もる話は追々だな」
「そうだな。じゃあ、帰る」
戸を開ける前に、夏樹は振り向いて尋ねた。
「明日も会いに来て良いか?」
美羽に、というのは友哉には伝わったらしい。
「良いんじゃないか」
友哉は美羽の方に顔を向けたまま答えた。
夏樹が家に帰ると、父が険しい顔で待っていた。
「夏樹、広場で一緒にいた水嶋の娘を放り出したというのは本当か?」
夏樹は眉を顰めた。明香に会ったことなど、今の今まですっかり頭から抜け落ちていた。
「一緒にいたわけではありません。私は勤務中だったのに彼女が勝手に寄ってきたのです。あの場で私が彼女より任務を優先するのは当然です」
「ならば、おまえがまっすぐ『鏡の巫女』のところに行ったことに、私情はまったくなかったと言えるのか?」
父のその言葉で、夏樹は自分の顔色が変わるのを感じた。
あの場で夏樹の行動を見ていた誰かがそれを父に報告したことは、仕方ない。夏樹の気持ちを抉ったのは別のことだ。
「美羽が『鏡の巫女』だと、なぜ私に言わなかったのですか?」
「誰もが知っていることを知らないのは、おまえがぼんやりしているせいだろう」
ぼんやりしていたとは思わないが、夏樹は都に戻って以来、仕事の他は様々なことに対して耳目を塞いでいた。美羽の消息を知りたくなかったばかりに。だから、反論できなかった。
「何にせよ、あの娘はもう我が家とは無関係で、おまえの婚約者は水嶋の娘だ。つべこべ言わずに、明日、水嶋家に行って謝ってこい」
「お断りします」
父がさらに口を開こうとしたところで、ふたりの間に母が割って入った。
「もうやめてください。色々あって夏樹も気が立っているのです。話はまた今度にしてやってくださいませ」
父は鼻息荒く夏樹を睨みつけていたが、やがて背を向け去って行った。
その姿が見えなくなってから、母が改めて口を開いた。
「美羽さんは無事なの?」
「はい。まだ目を覚ましませんが」
「そう」
母は小さく嘆息した。
「夏樹にとって美羽さんは今でも大事な人なのね。あなたにそういう相手がいて、私は嬉しいわ」
父とは違い、母は美羽を好もしく思ってくれていた。だからこそ自分と美羽のことを気にしていたのだろうと、夏樹は初めて気がついた。
母に対しては、自然に頭を下げられた。
「ご心配かけて申し訳ありません」
「いいから、しっかり食べて早く休みなさい。今日は疲れたでしょう」
もはや考えるのも億劫で、夏樹は素直に母の言葉に従った。