22 鏡の巫女は目を覚ます
神殿に乗り込んでから5日後の夜、夏樹が藤森邸に行き美羽の部屋に入ると、友哉と恵人がいた。友哉は夏樹の顔を見ると、何も言わず、不機嫌そうな顔で出ていった。
わけがわからず首を傾げた夏樹に、恵人がにっこり笑って言った。
「姉さんが、目を覚ましました」
夏樹は目を見開いた。
「本当か?」
「はい。ちょうど俺が帰宅して、母と一緒にここにいた時に」
美羽の顔を見つめるが、夏樹には前日までと変わらぬように見えた。
「それなら、友哉はそこに居合わせなかったから、あれなのか」
「違います。姉さんの第一声が、『夏樹さまは?』だったと言ったら、あれなんです」
夏樹は恵人の顔を見ながら目を瞬き、それから改めて美羽の顔を見下ろした。
「ちゃんと、毎晩来てくれてることは言っておきましたよ」
「他には何か話したのか?」
「いえ、声が掠れて話しづらそうでしたし、またすぐに眠ってしまいましたから。でも、これから目を覚ますたびに起きている時間は長くなるだろうと、お医者さまが言ってました」
「そうか」
もうすぐ目を開けた美羽と会えるということが、夏樹には信じられなかった。
翌日、翌々日と、夏樹は起きている美羽には会えなかった。しかし、恵人から美羽の伝言を聞かされた。
「『もう少しだけ待っていてください。話したいことがたくさんあります』だそうです」
「それなら、『いくらでも待ってる。俺も話がある』と伝えておいてくれ」
「わかりました」
さらに翌日、いつもどおりに藤森邸に向かった夏樹が美羽の部屋に行くと、一度こちらを見た恵人が、美羽に向かって言った。
「夏樹さんが来たから、俺は行くね」
すれ違いながら、恵人は夏樹に笑ってみせたが、夏樹はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
夏樹はひどく緊張しながら部屋の中へと足を進め、美羽を見下ろした。寝台の上から、美羽の両目がまっすぐに夏樹を見つめていた。その顔に微笑みが浮かんだ。
「夏樹さま」
「美羽」
夏樹は上手く笑えなかった。美羽が伸ばしてきた手を、縋るように両手で握った。
「美羽」
何を口にすべきかわからずに、夏樹はただ美羽の名を繰り返し呼んだ。
その時、足音が聞こえてきたと思うと、扉が開いて、友哉が慌てた様子で入ってきた。
「美羽」
「兄さま」
友哉が美羽の顔に自分の顔を寄せていったので、夏樹からは美羽の顔が見えなくなった。夏樹はイラッとしたが、友哉の気持ちもわからなくはないので、少しの間は我慢することにした。
「美羽、良かった」
「心配かけてごめんなさい」
「いや、美羽が謝ることはない」
友哉と話しているうちに、美羽はまた眠ってしまった。
「美羽とは話せたのか?」
「おまえのせいで何も話せなかった」
「それは悪かった。だが、これからいくらでも話せるだろ」
「……そうだな」
翌日も大して話せずに終わったが、その次の日は休日だった。
夏樹は仕事の日と同じ時間に起床して朝食をとっていると、後からやって来た父が眉を顰めた。
「美羽が目を覚ましたからと浮かれて、あまり早くに行けばあちらに迷惑だぞ」
「わかっています」
先日の件から父に歩み寄りたいとは思っているのだが、正直なところ、まだ父との距離感が掴みきれなかった。
だが、父があまりに自然に美羽の名を口にしていたことに、夏樹は近頃ようやく気がついた。
夏樹が予定していたよりもだいぶ遅い時間に藤森邸に行くと、ちょうど明香が屋敷から出てきたところだった。
「美羽が目を覚まして良かったわね」
「ああ」
「ところで、もうおじさまには聞いたのかしら?」
「何の話だ?」
「やっぱり聞いてないのね。私との婚約の件だけど、うちの父は知らないことだから、黙っておいてちょうだいね」
「は? どういうことだ?」
「あれはおじさまの夏樹に対する狂言だったのよ。夏樹が帰ってきてからも美羽に会いに行こうとしないから、ずいぶんご立腹のようだったわ」
「おまえに別の相手がいるから断ったっていうのも嘘だったのか?」
夏樹のその問いには答えず、明香は微笑んだ。
「美羽が待っているわよ。ではまた、ごきげんよう」
夏樹は明香を見送ってから、改めて藤森邸を訪い、美羽の部屋へと向かった。
美羽は目を開けていただけでなく、枕を背に当てて身を起こしていた。夏樹の姿を見て、笑顔を浮かべる。
「夏樹さま、いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
夏樹は寝台のそばの椅子に腰を下ろした。
「調子はどうだ?」
「まだおかしな感じです」
「そうか」
美羽が目覚めるのを待ち続け、声を聞きたい、笑顔を見たいと思っていたのに、いざそれが現実になると、夏樹は戸惑ってしまった。
美羽のほうも同じなのか、ジッと夏樹の顔を伺っている。思えば、こうして美羽とまともに顔を合わせるのは、1年半ぶりになるのだ。
とりあえず何か話そうと、夏樹は口を開いた。
「美羽が半年前に出さなかったほうの手紙を読んだ」
美羽は目を瞬いた。
「どうして?」
「友哉にもらった」
「兄さまったら、勝手に……」
美羽は案の定、口を曲げた。
「色々と気づいてやれなくて悪かった」
「夏樹さまが謝ったりしないでください。悪いのは私です。あんな嘘を吐いてごめんなさい」
「嘘なら俺も吐いた。おまえが他の男と幸せになればいいなんて思えるわけがない」
「私も、夏樹さまが他の女性と一緒にいるところを見て、すごく苦しかったです」
「あの時、一緒にいたのは明香だ」
夏樹が慌てて言うと、美羽は小さく嘆息した。
「はい。明香さまから聞きました。後ろ姿だったとはいえ、私が明香さまに気づかなかったなんて……」
美羽がそこにがっかりするのに、夏樹は複雑な気持ちになった。だから、夏樹も確かめることにした。
「美羽のほうは、他の男と何もなかったのか?」
「ずっと神殿にいたのに、何があるというんですか」
美羽が再び口を曲げた。
「例えば、友哉とか」
「兄と何かあるなんて、それこそありません」
「あいつが、自分は美羽と結婚できると言ったんだ」
美羽は目を丸くし、それから笑い出した。
「兄に揶揄われたのではないですか? 兄にはもう、心に決めた方がいますから」
美羽の言葉に、今度は夏樹が目を見開いた。
「そんなこと、聞いてないぞ」
「私も兄から直接聞いたわけではないのですが、最初に求婚したのは卒業式の日だったそうです」
「1年半も前なのか」
「いえ、騎士学校ではなくて学園のですから、3年半前です」
夏樹はさらに驚いた。夏樹が美羽に求婚したより早い。
「その時は断られたそうなのですが、それから何度も求婚して、地方勤務の間もこまめに手紙を送っていたようです。それで、とうとう明香さまも絆されてくださったみたいです」
「ちょっと待て。今、明香って言ったか?」
「はい。明香さまです」
美羽がにっこりと笑った。
「冗談じゃないのか? 何で友哉が明香に?」
基本的には女性に対して人当たりの良い友哉だが、明香にだけは慇懃無礼という態度ではなかったか。
「私も初めて知った時は驚きましたが、つまりは兄にとって明香さまが特別だったってことではないでしょうか」
「そう、なのか?」
夏樹にはいまいち納得がいかない。だが、再会してからの友哉の屈託の理由は、美羽のことだけでなくそのあたりにもあったのかもしれない。
「とりあえず、今はあいつらより俺たちのことだ。あの手紙が嘘だったなら、また俺と婚約、いや、今度こそ結婚するってことでいいのか?」
「そんな、都合のいいこと許されますか?」
「誰に許されなくても、俺は美羽が頷いてくれればそれでいい」
美羽が思わずという風に頷いた。その目から涙が溢れる。
「もう夏樹さまと離れるのは嫌です」
「俺もだ」
夏樹は椅子から寝台に移ると、美羽の体を抱きしめた。