1 再会とは呼べない
騎士団の地方勤務に従事していた夏樹が1年半ぶりに戻ると、都は『鏡の祭』の開催を控えてどこか浮かれたような雰囲気に包まれていた。その光景は夏樹に地方と都との温度差を感じさせた。
もっとも夏樹はこの半年の間、余計なことを考えずに済むよう、ひたすらに仕事だけをしてきた。それも明るい空気に馴染めない理由だった。
『鏡の祭』当日、騎士団員は警備の役目を割り当てられ、夏樹の所属する第2隊は第1隊とともに鏡の神殿前の広場で任務に就いた。
『鏡の祭』はおおよそ60年に一度の儀式であるため、祭場である広場には都やその周辺からたくさんの人々が集まっていた。
神殿の前には儀式のための舞台が設置されており、3人の神官がその中央に鎮座する鏡を囲んでいた。人の顔よりやや大きいくらいの丸い銅鏡だ。
広場の隅で人の群れを目の前に、舞台を横目に見ながら夏樹が周囲を警戒していると、ひとりの令嬢が近づいてきた。
「ごきげんよう、夏樹。久しぶりね」
声をかけてきたのは、幼い頃から知る水嶋侯爵家の明香だった。だが、夏樹は父から明香を「今度こそ」婚約者にすると告げられていたため、あまり会いたい相手ではなかった。
「仕事中だ。邪魔するな」
夏樹は敢えて邪険な言い方をして、視線を明香から舞台に移した。明香が苦笑する気配があった。
「わかってるわ。知り合いがいるのに気がついてしまったから、一応、挨拶しに来ただけよ」
「もう始まるぞ。早く観覧席に行け」
夏樹は舞台の近くに用意されている貴族用の観覧席を顎で示した。
「ええ、そうするわ」
ちょうど舞台の上では、神官たちが皇帝や皇妃、皇太子ら皇家の人々を迎えるところだった。
広場の大部分を埋めている平民は、皇帝を目にする機会など滅多にないので騒めいた。
最後に『鏡の巫女』が舞台上に現れた。
巫女の纏う婚礼衣装のような白い着物が日の光で輝いて見えた。『鏡の巫女』は別名『鏡の花嫁』とも呼ばれている。
『鏡の巫女』が広場へと視線を向けたので彼女の顔がわずかに見えて、夏樹は目を瞠った。
訳が分からなかった。なぜ彼女がそこに、そんなところにいるのか。
人違い、ではない。例え姿を見るのが1年半ぶりだとしても、ふたりの間に距離があったとしても、夏樹が彼女――美羽を見間違えるはずがなかった。
「夏樹、まさか知らなかったの? 美羽が巫女に選ばれたこと」
明香が訝しむように言った。
夏樹は呆然として言葉を失いながらも、舞台の中央へと進む美羽から目を離せなかった。
美羽は鏡の前まで進むと、まっすぐにそれと向き合い、そっと鏡面に触れた。夏樹の目には、美羽の後姿しか見えなくなった。
「皆、驚いていたのよ。美羽が皇女さまだなんて誰も知らなかったから」
『鏡の巫女』が皇女の中から選ばれることは常識だ。少なくとも、貴族の間では。
だが、美羽が皇女のはずがない。
美羽の父は平民だが、国内で指折りの大商会の経営者であり、そこらの貴族よりよほど裕福だった。そして、美羽が両親と兄弟から愛されていることを、夏樹はよく知っていた。
「巫女さまにはそれ相応のご褒美が与えられるのだろうから、それを目当てに名乗り出た偽者に違いないなんて酷いことを言う人もいたみたい」
明香は腹立たしそうに言った。
美羽やその家族がそんなものを欲するはずがない。何も知らない者たちが無責任なことを口にしているのだと思うと、夏樹も憤りを覚えた。
その時、こちらに背を向けていた美羽がふいに振り返った。美羽が何を見つめたのかはわからないが、夏樹は彼女と目が合ったような気がした。
たが、美羽はすぐに鏡へと視線を戻してしまった。
夏樹は思わず足を数歩前へと動かしていた。
自分の周囲で何が行われているのかも、自分が何をしているところだったのかも、そばで心配そうに夏樹の名を呼んでいるのが誰だったかも頭から消えていた。
突如、舞台の上で鏡が光を放った。太陽の光を反射したのではなく、鏡自体が白く光っていた。そこに触れている美羽の手までも輝いて見えた。
徐々に増していく光に包まれて美羽の姿が見えにくくなった。さらに光は強くなって舞台を、神殿と広場を覆い尽くしたかと思うと、一瞬ののちにはあっという間に小さくなり、全てが鏡に吸い込まれるように消え失せた。
美羽は先ほどと何ら変わらぬ様子で鏡を見つめていた。
儀式が始まったときには騒がしかった広場がいつの間にか静寂に満ちて、舞台の上を注視していた。
次の瞬間、光を追いかけるように猛烈な風が舞台に向かって吹きつけた。広場のあちこちで悲鳴があがり、飛ばされぬよう人々が互いの体を掴み、庇い合った。
明香が支えを求めて夏樹の腕に手を伸ばしたが、それが触れるより早く、夏樹は彼女から離れていた。明香がよろめくのは見えたが、気にしてはいられなかった。
咄嗟の判断で夏樹は風の勢いに身を任せて舞台の方へと足を進め、そのまま走り出した。
舞台の右手では、護衛役の騎士たちがそれぞれの主である皇家の人々を守ろうと動き出していた。しかし美羽に近寄っていく者はなかった。
騎士の代わりに左手から飛び出したかに見えた神官がその胸に抱えたのは鏡だった。
ひとり取り残されたまま、美羽は風の力でふらつき倒れこんだ。
一度弱まった風が再び強まり、美羽のすぐ近くで舞台の一部が捲り上がった。風で浮き上がった巨大な板が美羽の姿を隠してから後方へと飛ばされていった。
「美羽っ!」
夏樹の声は風音と人々の混乱に掻き消された。
夏樹はようやく舞台にたどり着くと、その脇に設けられた階を皇家の人々が降りていくのとすれ違いながら駆け上がった。
舞台の真ん中あたりにふたり倒れているのが見えた。
舞台に残った者たちは、そのうちのひとりである鏡を抱いた神官の方に集まっていた。彼らが無事を確認しようとしているのは鏡だ。
だが、そのことに怒りや哀しみを感じる余裕も夏樹にはなかった。
夏樹は美羽のそばに駆け寄って膝をつくと、彼女を抱き起こした。美羽の目は閉じられ、頭から血が流れていた。
「美羽」
夏樹がその名を呼ぶと、美羽はゆっくりと目を開けた。夏樹を認めると、美羽の顔には微笑みが浮かんだ。
「夏樹さま」
美羽の声は小さく、掠れていて、夏樹は思わず腕の力を強めた。
「またあなたに会えるなんて思っていませんでした」
「無理に喋るな。すぐに医者が来る」
美羽を安心させるためにそう口にしてから、夏樹は医師の姿が見えないことに焦りを覚えた。しかし、美羽は僅かに首を振った。
「私のお役目はもう終わりました。夏樹さまの腕の中で死ねるなら私は本望です」
美羽の瞳から涙が溢れて、夏樹はさらに焦った。
「おまえがこんなところで死ぬわけないだろう」
夏樹の声に苛立ちが混じったのを、美羽は別の意味に捉えたようだった。
「あなたを裏切ったのに、最後まで甘えてごめんなさい。どうか私を赦してください」
そう言うと、美羽は静かに目を閉じた。
「美羽、美羽!」
夏樹がどんなに呼んでも、美羽の目が再び開くことはなかった。
ふたりのそばでは神官たちが頻りに何か言い交わしていたが、夏樹の耳がそれらを意味ある言葉として捉えることはなかった。
夏樹の頭の中には、美羽の口から聞いたばかりの言葉と、半年前に彼女から送られてきた最後の手紙の文面が交互に浮かんでいた。
ーーごめんなさい。他に大切な方ができたので婚約を解消してください。今までありがとうごさいました。さようならーー
本来なら、美羽は夏樹のために花嫁衣装を着るはずだった。