14 鏡との対面
美羽は夏樹への手紙に思いの丈を綴ると、これまでと同じように宛名を書いた封筒に入れた。だが、しばらくして冷静になった。
夏樹の地方勤務が延びたことを自分のせいだと謝罪した美羽に向けられた、葉山公爵の言葉と眼差しが思い出された。やはり、こんな手紙は夏樹に出すべきではない。
美羽は改めて便箋を取り出したものの、筆はなかなか進まなかった。当たり前だ。絶対に書くはずのなかった、夏樹に別れを告げる手紙なのだから。
必死に涙を堪え、悩みに悩んでようやく書きあげると、美羽はその手紙の投函をいつもどおり花に託した。
手元に残ったもう1通は、引き出しの奥に仕舞い込んだ。捨てられなかったのは、自分の選択を後悔する気持ちがあったからだ。
翌日、美羽は生まれて初めて宮殿に足を踏み入れた。一緒についてきてくれた両親は、門の中に入ることを許されなかった。
ひとりになった美羽の手が無意識のうちに触れたのは、外すことができなかった夏樹に貰った首飾りだった。
宮殿のあちこちで騎士たちが警備についており、その姿が視界に入るたび、美羽の胸は疼いた。
謁見の間に連れて行かれた美羽は、そこで皇帝らと対面した。
美羽は投げやりな気分になりかけていた。それでも背筋を伸ばしてきちんと礼をとったのは、門の向こう側で美羽を心配そうに見送っていた両親の姿を思い出したからだった。
美羽を育ててくれたふたりに、恥をかかせるようなことはできなかった。この日のためだけに両親が美羽に誂えてくれた着物の価値も、皇家の方々にならわかるはずだ。
謁見の間に並んだ人々の中には、美羽の姿を見てわずかに表情を変えた者もあった。だが、ほとんどの顔は冷たい目を美羽に向けていた。
「余とそなたは兄妹であるらしい。何かあれば頼るが良い」
そう言った皇帝も、まったく心にもないことを口にしているのは明白だった。
美羽は自分にとってただひとりの兄と、最愛の人を人質に獲りながら、何憚かることのない男を心の中で呪った。
謁見の間を後にした美羽が次に連れて行かれたのは、宮殿の隣にある鏡の神殿だった。
その奥に、美羽の部屋が用意されていた。小さな寝台と小さな箪笥くらいしかない、藤森家の屋敷では侍女が使っているような部屋だ。いや、花の部屋のほうがずっと明るい雰囲気だろう。
美羽がその部屋に運びこんだのは、わずかな衣類などだけだった。長居するつもりはないのだ。
しかし、美羽は巫女の衣装だという白い質素な着物を渡されて、それに着替えるよう言われた。
美羽は着替えを済ませると、今度は本殿に向かい、神殿の神官長からふたりの神官、さらに数人の神官見習いや神子らを紹介された。彼らは宮殿で会った人々よりは仲良くなれそうに見えた。
それから、神官たちは美羽にお祓いやらお清めやらを散々受けさせた。
最後に美羽が案内されたのが、鏡の間だった。その中に、皇国の護り神だという鏡が置かれていた。
一目で古いものであることはわかるが、他には何の変哲もなさそうな丸い銅鏡だった。
「本日より毎日、できるだけここに来て、鏡に触れて対話をし、あなたの呪力を鏡に馴染ませてください」
「本当に私は呪力を持っているのですか? 自分ではまったく実感がないのですが」
「あなたの中には確かに大きな呪力が存在しているようです」
神官長の曖昧な答えに、美羽は首を傾げた。
「神官長さまが私を選んだのではないのですか?」
「『鏡の巫女』を選ぶのは、鏡です」
美羽は目を瞬いた。神官長の言葉は何かの比喩だろうか、それとも、もっと深い意味があるのだろうか。
美羽はさらに質問を重ねようとしたが、神官長は鏡に向かって一礼すると、部屋を出て行ってしまった。
仕方なく美羽は鏡に近づき、覗きこんだ。鏡面が平らでないらしく、美羽の顔が歪んで映った。
鏡の中に首元の鎖も見えて、美羽は首飾りを着物の下から引っ張り出し、その薄紅色の石を鏡に映した。
「鏡と対話とか、呪力を馴染ませるなんて言われても、よくわからないわ。半年間もこんな鏡を見続けていたら、私自身が歪んでしまいそう」
美羽は口を曲げながら、鏡の中の首飾りに手を伸ばした。
指先が鏡面に触れた途端、わずかではあるがピリッとするような感覚があって、美羽は慌てて手を引いた。
美羽は鏡と自分の手とを見比べてから、もう一度、恐る恐ると鏡面に指を伸ばした。
『手を離すな』
先ほどと同じピリッとした感覚とともに、どこからともなく声が聞こえて、美羽は引きかけた手を咄嗟にペタリと鏡に当てた。
『そう、そのままだ。やっと来たな、儂の新しい巫女よ』
美羽は一応、周りを見回してから、改めて鏡を覗きこんだ。
「ええと、私が今聞いているのは、鏡の声ということで良いのかしら?」
『そなたは思考が素直でいいな』
その声は少年のようであり、老婆の声にも聞こえた。あまり耳に心地よいとは言えない。
「鏡と対話をしろって、何かの比喩ではなかったのね。だけど、いったい何を話せと言うの?」
『別に何でも構わん。時間はたっぷりとあるのだ。そなたの話したいことを話し、儂に聞きたいことがあるなら聞け』
「こうしていれば、私の呪力があなたに馴染むってことなの?」
『そうだ。大して難しいことではあるまい?』
「そうね」
美羽は嘆息すると、鏡をキッと睨み据えた。
「ではまず、なぜ私をあなたの巫女に選んだのか教えてください」
『そんなの、そなたがもっとも相応しいからに決まっているではないか』
「相応しいって、何が? 呪力が強いってこと?」
『そうだ。そなたの呪力は織音にも匹敵する』
「織音?」
『初代皇妃と言えばわかるか?』
「あなたに最初に呪力を注いだ方ね。だけど、呪力があると言われても、私にはまったくわからないわ」
『昔は呪力を持つ者は幼い頃から使い方を学んでいたが、今はそもそも呪力の有無を見ることのできる者もほとんどいない。神官たちですら、そうだ。平和な世が続いたことの弊害とも言えるな。だが、そなたほどの力を持っていれば、無意識のうちに使っているはずだ』
「それで『鏡の祭』は大丈夫なの?」
『祭は儂が主導するから問題ない』
「ならいいわ。別に使い方なんて知りたくないし」
『もったいないことだが、儂も祭さえ無事に終わればそれで良い』
何となく鏡が笑っているような気がしたが、実際に鏡の表情が美羽に見えるはずはなかった。
その日、神殿の食堂で出された夕食は質素で、美味しいとも思えなかった。しかし、今まで自分が家で与えられていたものはとても贅沢なものだということは理解していたので、美羽は文句を言わずにすべて食べた。
部屋に用意されていた布団も薄くて固く、家で使っていた寝具とは比べものにならないほど寝心地が悪かった。そのうえ、なかなか寝つけない美羽が寝返りを打つたびに寝台がギシギシと音を立てた。
早くここでの暮らしに慣れなくてはと思うと、逆に藤森の屋敷と家族が恋しくなって、美羽は静かに涙を流した。