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 暑い夏だ。


 クーラーの一切ない弓道場は、まるで農業用ハウスの中にいるように熱気に満ちている。風がほとんどなく、矢を放つ先の屋外はギラギラと強烈な日差しに襲われ、陽炎が立ちのぼって見えた。射場には日の光が直接入ってこないから、それが唯一の救いか。


 ぼくは、そんな弓道場の後ろの壁際で、弓道着姿で正座している。近くの壁にかけてある温度計は、三十度を超えていて、顔の汗があごを伝ってひざに落ちていく。


 こんなことをしているのはぼくだけではなく、同じ一年の同級生も、同じように横に一列になって座っている。


 そして、ぼくたちの視線の先には、射場に立つ日向ひなたさんの姿があった。

 日向さんは二年生の先輩で、学校内で一位、二位を争うほどの美人として知られている。

 彼女もまた弓道着を着ていて、大きな胸には胸当てを付けていた。長い黒髪を頭の後ろで結っている。背は百六十五センチだと聞いている。弓道着だとよく分からないが、彼女の友人でこの部活の先輩は、余計な肉がついていなくてうらやましい、と言っていた。


 細くてきれいな指で彼女が弓に矢をつがえる様子を、ぼくは一秒も見逃さまいと、食い入るように見る。

 弓道場は、外から聞こえる小鳥の声と、射場にいる日向さんの衣擦れの音しかしない。つばを飲みこむ音さえ、響いてしまいそうだ。

 日向さんは、顔に汗をほとんどかいていないように見える。ぼくは顔どころか首筋や背中まで汗びっしょりなのに。まるで、彼女の汗が、静寂を壊さないように出てくるのを遠慮しているかのようだ。


 日向さんが弦を最大まで引き、口元の高さに平行になるように矢の位置を合わせた。その動作は、この静かな空間を一切邪魔しないゆっくりとしたものだった。

 約五秒後、彼女は弦から手を離した。


 矢を放った瞬間、ピリッとした緊張感がぼくの全身を駆け巡った気がした。見えない棒がぼくの背中をピンと伸ばす。撃ったのはぼくではないのに、ひどく心臓が痛く感じた。


 矢は空を切り、陽炎を散らせ、紙製の的に乾いた音を立てた。


 射場での彼女の動作を、ぼくたちは見守る。そして、


「ふうー」


 日向さんは、小さく息を吐き、その顔から緊張感が消えた。それを待っていたかのように、彼女の額から汗が一筋流れた。


 その瞬間、弓道場の空気も同じく変わり、ぼくの同級生も安心したように、ふう、と息を吐く。


 

 帰り道でのこと、ぼくは学校からバスで一時間の畑道を歩いていた。自前の弓道具を持って。


「わたし、弓道が好き」


 隣で、日向さんがそうつぶやいた。もちろん学校指定の夏服姿。白いポロシャツは汗で肌に張り付き、下着の線が少し見えているので、あわてて目をそらすけれど、どうしても気になってチラチラ見てしまう。

 ちなみに、彼女はぼくの近所に住んでいるから、帰りはいつも一緒だ。


「射場に立っているとね、みんなの息をのむ音が聞こえてくる気がするの。矢をつがえながら、誰かが汗をぬぐう音とか、正座してるのが辛くて少し体勢を変えたときに軋む床の音とか、そういうのを聞くのが楽しいのよ。あと、みんなが緊張してる空気みたいなのが感じられると、何か、わたしがみんなをドキドキさせてる優越感があって、ちょっと、いえ、かなり気持ちいいわ」


 日向さんと、夏の日の弓道について話をしていたのだが、うん、小さいころから知っていたけど、彼女、ちょっと変なお姉さんだ。

 てっきり、的に矢が当たるときの音が心地よい、武道に関われていることに誇りを感じる、といった、ありきたりの言葉が返ってくるものと思っていた。頭がいいと、やはり他の人にはない感性が培われるものなのか。


「だからね、もっと今の活動に緊張感が欲しいわけ。ねえ、あなたを縛って的の横に座らせるのはどうかしら。わたし、絶対にあなたに当てないから」


 また変なことをいうお姉さん。SM的な漫画に影響されすぎじゃないのか。それは法に触れるからダメです。


「じゃあ、射場に立つとき上半身裸っていうのは? この前の大会で、和服姿の男の人がやってたでしょ?」


 たしかに、撃つとき袖が邪魔になるから脱ぐことはあるけど、それをわざわざ多感な高校生がやらなくても……。ぼくはひょろひょろだから、裸なんてさらしたくないし。


「女の子の前で肌を見せられるのよ? 興奮しないわけがない。今度やりましょうよ。先輩が引退してわたしが部長になったんだから、誰もわたしを止められないわ」


 いや、顧問がいるし。


「顧問なんてめったに顔を見せないわ。ちょっとだけよ、一日だけとかいいと思う」


 それでも、ぼくが止めます。


「あら、裸になるのはあなただけよ。安心して」


 ぼくだけ!?


「当然でしょ。いじりがいがあるのはあなたしかいないもの」


 小さいころから、ぼくは日向さんにちょっかいをかけられていた。小学生の時、毎日学年の違うぼくのクラスに現れては、ぼくの名前を大声で呼んでいた。クラスメイトからは、


「あんな可愛い人と幼なじみなんてズルい」


 と妬まれたけど、顔が真っ赤になるくらい恥ずかしかった。


 そして、こんな風に行動や思考がエスカレートするのは、夏の間だけだ。他の季節になると、比較的おとなしくなる。セミか。


「虫に例えるのはひどくない? ねえ、あなたの本名、学校で叫んじゃうよ? キラキラしてて恥ずかしいって自分で言ってたわよね?」


 突然、日向さんがぼくの背中を突き飛ばした。けっこう力が強く、前のめりで倒れてしまった。


 ご、ごめんなさい。本名はやめて。「この漢字とこの漢字を組み合わせて、こう読むのよ!」って小学生の時クラス中に言って回ったこと、ぼく覚えてますからね。普通にいじめですよ?


「ジョークよジョーク。わたしも大人だもん。みんなと同じく、日陰ひかげくんって呼ぶわ」


 よくぼくに絡んでいる女の子の下の名前と対比させるように、ぼくのあだ名はいつの間にかそうなっていた。それもちょっと引っかかるけれど、まあ、本名よりはいいか。一体誰が考えたのか、もう覚えていない。


「じゃあ、その代わりに、今から今後部活でどうしたら刺激的な毎日を送れるか、考えましょ。ほら、さっさとわたしの家に行く!」


 ぼくは、彼女に手を強く引っ張られ、走らされた。



 日向さんの暑い夏が、今年も始まった。

2へ続きます。

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