準備期間
ずいぶんと、先の事まで考えるようになった。
こんなにも、誰かの事を考えられるようになった。
ほんのちょっと前までは、先の事も誰かの事も考える事なんてなかった。
今の自分も嫌いじゃない。
前向きな自分。
ちょっと前なら、前向き、と聞いても、どっちが前でどっちが後ろだよ。何をもって前とするんだよ、何て考えてたかもしれない。
今なら、そんな屁理屈は聞きたくない。
自分で選んで一歩でも動き出したら、それがもう前だ。後ろ向きなんてない。後戻りは出来ないんだから。動き出す為の準備なら、止まってもいい。
オレは、随分長く止まっていた。
でもきっと、それも無駄じゃなかった。そう思えればもっと、次の一歩が楽になる。
この一歩の為の準備期間だったんだから。
デザートは結局、全種類を半分ずつ食べた。
さすがに甘すぎて、いつもは砂糖もミルクも入れるコーヒーをブラックにした。
『ヤバい、食べ過ぎた。』
『さすがに全部一人では食べられなかったかも。でも、美味しかったぁ。』
『ん。旨かったね。』
なみとまだ一緒にいたい、と思う気持ちと、早く家に帰って、話の続きを書きたいと思う気持ちが交差していた。
『次は、こっちにしてみましょうよ。』
デザートを選ぶ時に迷ったもう一方を、メニュー表を指差してなみが言う。
『もう、決めちゃう?』
『保険、です。また一緒に来るための。』
『じゃ、ここのメニュー、全部制覇する?』
『します!します!あ、でも、他の店にも行きたいけど。』
『そりゃそーだ。ここだけじゃ、つまんない。』
これから、という楽しみができた。
それでようやく店を出る事が出来た。
夜でも、外の寒さは和らぎ始めていた。
バスターミナルまで、ゆっくり歩く。
また、なみがバスに乗り込むのを見届け、駅に向かう。
なみといた時間の余韻に浸りつつ、頭の中ではすでに、老人と少年が動き出していた。出番が来るのを今か今かと、待っている。
電車を降りてから、自宅に帰る途中で電話をかける。
『あぁ、母ちゃん?オレさ、転勤なるわ。』
『えー?転勤なんて、あったの?あんたの会社。』
『ははっ、あったんだよ。オレには関係ないと思ってたけど。』
『どこ行くの?』
『とーきょー』
『何?何?栄転?いやー、ほんとぉ?そーねぇ、あんた、結婚できなそうだから、仕事一筋で頑張ってよねー。』
『おいおいおいおい、色々勝手に決めんなよ。栄転でもねーし、結婚できなかねーよ。』
『なになになになに?結婚すんの?できんの?彼女もいないのに?』
『めんどくせーな、おい。まぁ、また週末帰るから、そん時話す。詳しい事、まだ分かってないから。じゃ、切るよ。』
『ちょっともー、まっ』
待たずに切ってしまった。面倒だ。メールにしとけば良かった、と後悔する。
伝えるべき事は伝えた、と自分ひとりが納得をする。
アパートに着くと直ぐに、机に向かう。
オレの脳ミソを溶かした本が、読みかけて広げられたままで、真ん中に重しの替わりに別の哲学書が載せてある。机の真ん中で存在感を誇示するそれらをどけて、端っこに追いやられていたノートを真ん中に置く。
そんな作業を終えてから、ようやくスーツを脱ぐ。一度肩から下ろした上着をもう一度羽織る。
“そのスーツ姿、いいです”
なみの言葉を思い出し、部屋の窓ガラスに写した自分の姿を確認する。
ひとりでニヤけながら、ちょっと格好つけて右を向いたり、左を向いたりしてみる。
“いいじゃん”
自己満足で気分も上がり、今度は本当にスーツを脱ぎ、直ぐにシャワーを浴びる。
机に戻ると携帯が点滅していた。
なみからのメール。
<今日もまた、ごちそうさまでした。美味しかったですね。>
<今度は私が!>
<社会人になるのが不安でしたけど、楽しみに変わりました。>
ルンルン気分なスタンプで、気持ちがより伝わってくる。
<美味かったね。じゃ、なみが社会人になったら、奢ってもらおっかな。>
<オレも、転勤不安だったけど、楽しみができた。何驕って貰おっかな。>
同じようなルンルン気分なスタンプを付け、
<また、連絡するね。>
<おやすみ。>
でメールを終える。
“おやすみ”は、これから集中して書くための予防線だった。
なみからの
<おやすみなさい。>
と、寝ているスタンプで、今日のやり取りを終了する。
準備万端で机に向かい、真ん中に置いたノートを広げる。




