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池  <第1部>  作者: M:SW
26/30

準備期間

ずいぶんと、先の事まで考えるようになった。

こんなにも、誰かの事を考えられるようになった。

ほんのちょっと前までは、先の事も誰かの事も考える事なんてなかった。


今の自分も嫌いじゃない。

前向きな自分。

ちょっと前なら、前向き、と聞いても、どっちが前でどっちが後ろだよ。何をもって前とするんだよ、何て考えてたかもしれない。

今なら、そんな屁理屈は聞きたくない。

自分で選んで一歩でも動き出したら、それがもう前だ。後ろ向きなんてない。後戻りは出来ないんだから。動き出す為の準備なら、止まってもいい。

オレは、随分長く止まっていた。

でもきっと、それも無駄じゃなかった。そう思えればもっと、次の一歩が楽になる。

この一歩の為の準備期間だったんだから。


デザートは結局、全種類を半分ずつ食べた。

さすがに甘すぎて、いつもは砂糖もミルクも入れるコーヒーをブラックにした。


『ヤバい、食べ過ぎた。』

『さすがに全部一人では食べられなかったかも。でも、美味しかったぁ。』

『ん。旨かったね。』


なみとまだ一緒にいたい、と思う気持ちと、早く家に帰って、話の続きを書きたいと思う気持ちが交差していた。


『次は、こっちにしてみましょうよ。』

デザートを選ぶ時に迷ったもう一方を、メニュー表を指差してなみが言う。

『もう、決めちゃう?』

『保険、です。また一緒に来るための。』

『じゃ、ここのメニュー、全部制覇する?』

『します!します!あ、でも、他の店にも行きたいけど。』

『そりゃそーだ。ここだけじゃ、つまんない。』


これから、という楽しみができた。


それでようやく店を出る事が出来た。

夜でも、外の寒さは和らぎ始めていた。


バスターミナルまで、ゆっくり歩く。

また、なみがバスに乗り込むのを見届け、駅に向かう。

なみといた時間の余韻に浸りつつ、頭の中ではすでに、老人と少年が動き出していた。出番が来るのを今か今かと、待っている。


電車を降りてから、自宅に帰る途中で電話をかける。

『あぁ、母ちゃん?オレさ、転勤なるわ。』

『えー?転勤なんて、あったの?あんたの会社。』

『ははっ、あったんだよ。オレには関係ないと思ってたけど。』

『どこ行くの?』

『とーきょー』

『何?何?栄転?いやー、ほんとぉ?そーねぇ、あんた、結婚できなそうだから、仕事一筋で頑張ってよねー。』

『おいおいおいおい、色々勝手に決めんなよ。栄転でもねーし、結婚できなかねーよ。』

『なになになになに?結婚すんの?できんの?彼女もいないのに?』

『めんどくせーな、おい。まぁ、また週末帰るから、そん時話す。詳しい事、まだ分かってないから。じゃ、切るよ。』

『ちょっともー、まっ』

待たずに切ってしまった。面倒だ。メールにしとけば良かった、と後悔する。

伝えるべき事は伝えた、と自分ひとりが納得をする。


アパートに着くと直ぐに、机に向かう。

オレの脳ミソを溶かした本が、読みかけて広げられたままで、真ん中に重しの替わりに別の哲学書が載せてある。机の真ん中で存在感を誇示するそれらをどけて、端っこに追いやられていたノートを真ん中に置く。

そんな作業を終えてから、ようやくスーツを脱ぐ。一度肩から下ろした上着をもう一度羽織る。

“そのスーツ姿、いいです”

なみの言葉を思い出し、部屋の窓ガラスに写した自分の姿を確認する。

ひとりでニヤけながら、ちょっと格好つけて右を向いたり、左を向いたりしてみる。

“いいじゃん”

自己満足で気分も上がり、今度は本当にスーツを脱ぎ、直ぐにシャワーを浴びる。

机に戻ると携帯が点滅していた。

なみからのメール。

<今日もまた、ごちそうさまでした。美味しかったですね。>

<今度は私が!>

<社会人になるのが不安でしたけど、楽しみに変わりました。>

ルンルン気分なスタンプで、気持ちがより伝わってくる。


<美味かったね。じゃ、なみが社会人になったら、奢ってもらおっかな。>

<オレも、転勤不安だったけど、楽しみができた。何驕って貰おっかな。>

同じようなルンルン気分なスタンプを付け、

<また、連絡するね。>

<おやすみ。>

でメールを終える。


“おやすみ”は、これから集中して書くための予防線だった。

なみからの

<おやすみなさい。>

と、寝ているスタンプで、今日のやり取りを終了する。


準備万端で机に向かい、真ん中に置いたノートを広げる。



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