摩擦
三人は同じ電車に乗ると、平日の九時台で空いていたため、椅子に横並びで座る。
すると田島が鞄の中から大事そうに縦長の重厚感のあるケースを取り出した。その箱の形から、オレも遠藤も、それが何であるのかはすぐに分かった。
『マジかよ。』
二人とも驚いて田島の手元をまじまじと見つめる。
それは、田島が以前から欲しがっていた万年筆だった。十万は越えるもので、ボーナスが出た時でも、買うのにはなかなか踏ん切りがつかないでいたはずだった。
ケースから取り出し手に持って、オレたち二人を見る。
自慢気な表情は、憎たらしかったが、憧れのブランドの一品に、触れてみたかった。
『まさか、見せただけじゃないよね?』
両手を差出し、触らせて欲しいアピールをする。
遠藤も気持ちは同じで、同じように両手を出していた。
『しょうがないなぁ。』
田島は万年筆を一旦ケースに戻し、オレにケースごと渡す。
オレと遠藤は、順番にその万年筆の重みと感触を確かめた。文房具の最高峰でもある万年筆の、その中でもトップクラスの一品は、見ているだけでも幸せな気分になるが、それに触れる事ができるなんて、大げさかもしれないが、人生最大の喜びだ。
それを、なんでこんな場面で披露するかな、田島は。天然もいい所だ。そう思いながら万年筆を、粗相がないように返すと、大事そうにまた鞄の中にしまった。
遠藤が降りる駅が近づき、慌てて立ち上がる。ドアに向かって歩きながら
『諦めんのか?』
降りる直前で、答えを聞く気もないくせに、オレに爆弾を落とした。
ドアが開き、右手を高く上げて電車を降りていく。
何なんだ。この天国と地獄の空間は。
人がせっかく、人生最大の喜びの余韻に浸っていたのに、敢えて地獄に落としやがって、と恨めしく思えた。
『諦めるの?』
田島が遠藤の代わりに、答えを聞く役目を引き継いだ。
実際のところ、本当に自分でも解らない。ただ、諦める、という言葉は合っていない気がして、
『諦めるって訳じゃない、と思う。』
と、気持ちをそのまま答えた。
『そうだよね。ただの憧れだったものでもさ、手に入れるんだって思い続けてれば、手に入るよ!』
そう言って鞄を抱きしめる。
『万年筆と一緒にすんなよな。』
『一緒じゃダメ?』
『カネじゃー買えねぇよ。』
『あ、そっか。』
やっぱりド天然だな、と思っていると
『でも、お金じゃ買えない物って、どーやって手に入れるんだろうね。』
たまには鋭い所を突いてくる。
その答えは
『努力でしょ。』
次はオレの降りる駅に着き、立ち上がる。
降り際に、半分ふざけて念を押す。
『努力だよ。』
そう言うと、閉まりかけたドアの向こうから
『じゃあ、努力しろよ。』
と言って手を振り、笑っているのが見えた。
自分で言っておいて、努力って何だよ、と思ってしまった。
夢、努力、憧れ、欲、今まで全部直視しないようにしてきた。
その全てがオレを苦しめていた。たった一日で、あの理由もよく解らない涙のおかげで。
逃げてきたツケが回ってきたのか。30歳になる前に、精算しろってことなのか。
いや、あの時、いつもの冷静な自分の声をしっかり聞いていれば、邪魔になどしなければ、こんなにも思い悩むことなんかなく、平穏な心が保たれていたはずだ。
人間は、なかなかすごい能力を持っているもので、無意識でも自宅に辿り着く。気付くと玄関前まで来ていた。
実家に住んでいる田島も、結婚している遠藤も、帰れば家にいる人がいる。オレは、一人だ。一人暮らしの人間は、こういう瞬間に、犬か猫を飼いたいとか、思うんだろうか。いてくれたら、気は紛れた事だろう。
真っ暗な部屋の電気を付けて、今日は取り敢えずテレビを付けた。
机の上に置かれたままのボールペンとノート、乱雑に積まれた本。
ノートを広げ、白紙の部分に線を引いてみる。滑らかで書きやすく、そのまま無意味な形を書き続ける。
田島の万年筆を思い出し、家にある万年筆を取り出す。ペンのコーナーの片隅に、ほんの数本だけ置いてある。この一本だけでも、ボールペン100本分近い金額になるが、普段使いはしにくかった。広げたノートに、同じように無意味な形を書いてみる。やっぱり違う。万年筆は勿論、ボールペンだって、どんなに良いものであっても、紙との相性が悪ければ、本来の力が発揮されない。
ボールペンに必要な摩擦は、万年筆には必要ない。
摩擦を避けてきた今までの自分は、光沢紙の上で使われる油性のボールペンのようなものか。
書けないことはなく、一見滑りが良いように見えるが、ちゃんとは書けていない。




