今、あえて「からかう」ことについて言及する
タイトルとあらすじ通りのこと。
ただそれだけ。
昨今の人間関係というものは、複雑怪奇という他ない。
それまで仲の良かった知人ですら、ちょっとしたことから仲違いをしてしまうことなど珍しくもない。
学校などで話をするような奴が、裏では悪口ばかり、などというのも、よくよく考えれば昔からのことであることだ。
さて、そんな人間関係が変化してるんだかしてないんだかを考えているのは、俗に言うところの偏屈な私だ。
私は自分を真面目な男である、と認識している。勿論これはただの自己認識であり、見る者が見れば堅物の、何の面白味もないような奴であることを否定できないところもある。
そんな私であるから、人間関係というやつについてはほとほと困惑してしまうことがあるのである。
最近は何でも、相手を「からかう」ことによって友好関係を築いていくのが一つの手段となっているようだ。
しかし、堅物な私としては、この方法に苦言を呈したくなってしまうのである。
そも、「からかう」ということは相手を困らせたり怒らせたりする行為である。
それによって相手の反応を誘う、というのは、果たしてどういう思考をしているのだろうか。そう、私は考えてしまうのだ。
怒らせる、ましてや困らせる、というのは言葉の通り相手を不快にさせる、ということである。
不快にさせる、ということが、コミュニケーションとして成り立つというのが、私にはどうしても理解できない。
「からかう」
この言葉が何故、印象のよいものとして世間に受け入れられているのか。
その理由として、苦しいながらもこういうものが原因ではないのかというものを幾つか選出した。
まず、人間関係というものの弛緩である。
ゆるい、というべきか。とかく固い関係というものにならない。
その場その場、その時々で面白ければいい、というのをよく見るのだ。その内心が思うことには、面倒なことなどにしたくないという考えがあるように見える。
次に、暴力の陳腐化である。
暴力に見えない暴力、というのだろうか。
本人たちはふざけているだけ、というのがある。しかし、私から言わせてもらえれば、プロレス技の練習は十分に暴力と言える。
ふざけているだけ、本気ではない。
この言葉には全くもって理解できない。
しかし、世間というのはそんなことはなく、いじめのような事件として取り扱われなければ問題はないとでもいうような雰囲気が蔓延っている。
そして、怒りの不平等である。
怒ることは格好の悪いこと。言葉でそうさせておきながら、怒れば馬鹿にするのだ、堪ったものではない。
怒るだろう。そりゃ怒る、怒るに決まっている。
何故ならそう仕向けているからだ、なのに怒るとその者を非難する。怒ることを悪いことだと、そういうが如くである。
主にこの三つが、私に「からかう」ということを受け入れがたいものにしているのではないかと考える。
そして単純に、「からかう」ということが薄まった嘘であることだろう。
本気ではないくせに、相手をその気にさせる。嘘と何が違うのか。悪質でないだけで、その本質は偽りである。
それをさも青春の彩りであると語るのは、いかがなものだろうか。
私が語ったことに、「からかう」というものの本質がある訳ではないだろう。
しかし、そうと感じる者がいるというのを、少しばかり考えてほしい。
それは雰囲気が許しているだけの、遊びというには質の悪い行いであるとも言えるのだから。