そして金曜日
グロ描写は極力、というよりほぼ抑えてあります。
――そして金曜日――
男は遠回りのルートであるが故、普段よりも早めに家を後にした。
ここ数日は電車に乗ることさえ軽い恐怖を感じていたが、今日は絶対的な安心感があった。
なんせルートを変えたんだ。あの女が確約を破ったとしても俺がルートを変えたことによって、“遭遇する”確率は0%になっている。
何も臆することは無い。
こうして男は初詣のような人混みで溢れ返る新たな乗り換え駅のホームに降り立った。
あまりにも人が多すぎて牛歩のような進行速度をとることになったが、男が焦ることはなかった。
昨日の帰宅時にこの駅を使った時はラッシュ時間とズレてたからそんなには混んでいなかったが、これはもの凄いな。まぁ、早めに家を出たし遅刻の心配はないだろう。
安心感からくるゆとりは心の余裕を生んだが、それは油断も生んだ。
男が普段のように混雑をいち早く抜けていれば……。
男が女の異常性をより高く想定していれば……。
男が周囲確認を念入りに行っていれば……。
男が死ぬことはなかったのだろう……。
「やっと追いつきました。……おはようございます」
「…………ッ!?」
男の耳に届いたのはそんな言葉だった。
やっと追いつきました……それはどこまでも追いかけるという女の意志の表れ。
まるで心臓を握られたかのように身動ぎどころか、呼吸すらできないでいる男。
そんな間に女は徐々に男へと近づく。
「昨日のお帰りから通勤経路を変更なさったんですね?」
「…………な!?」
「けれどこちらの方があなた様のお勤め先へ向かうには些か遠回りなさっている気がするのですが……」
「…………」
「それは私と少しでも長く一緒にいてくださるというご配慮なのでしょうか?」
――そして女は男の背後に立ち、昨日同様に抱きしめると、声を直接耳に送り込むようにささめいた。
「私……嬉しいです。……鈴木実さん? ふふっ」
「クソがぁぁぁ! 離しやがれ!」
「ダメです♪ もう離してあげませんよ?」
「っざぁけんじゃねぇぇぇ!?」
「暴れちゃダメじゃないですか? 私実は武道の有段者なんです。ですから言うことを聞いてくれない悪い子さんのココとココを押さちゃうと……」
「てめぇぇぇ!?」
「あら不思議。サブミッションホールドが決まって身動きが取れないではありませんか」
「うぐぐ……」
傍目から見たら女がただ抱き付いているようにしか見えないが、その実、身体のツボとなる部分を的確に押さえることによって極技を行っていた。
「これ以上無理に暴れようとすると、痛くしちゃいますからね? えへへ♪」
何がえへへ、だよ!? 既にいてぇんだよボケェェェェ!?
「……わかった。もう暴れないから離してくれないか?」
「どうしましょう? ……ではふたつほどお約束していただけますか?」
「なにをだよ!?」
「ひとつは昨日あなた様……実さんが初めて誓ってくださった、“前に”姿を現さない、という契りをお守りしたいので、こちらに振り向かないこと……」
「あぁ、約束する」
「もうひとつは……私とこの先、末永く、悠久の時を、未来永劫、死んでもなお、添い遂げてください♪」
そんなことを約束するくらいなら“死んだ方がマシだ”!
……いや、それはダメだ! 俺には心から愛している嫁と娘がいる。とにかく今は何が何でもこの女から逃げることが最優先だ。それから“警察”に駆け込もう。……初めからこうしておけばよかった。
「分かった」
「本当……ですか?」
「あぁ」
「ほんとのホントですよ?」
「本当……だ」
「う~ん? 今の間は怪しいですけれど、実さんを信じます。……ありえないと思いますけど、もし嘘を吐いて逃げようとしたら………………逃げられない身体にしちゃいますからね? けど、安心してください。私が永遠にお世話してあげますから。……えへへ♪」
「……ふー……ふー」
「……? どうしました? 早く役所に参りま……」
「――うおぉぉぉぉぉぉ!」
女からの拘束が解かれた瞬間、男は呼吸を整え、己を奮い立たせるように雄叫びを上げながら猛然と走り出した。
そんな男の逃亡を予期していた女もすぐさま駆け出し、追跡の態勢に移る。
「逃げちゃダメっていいましたよね? 実さんは本当に悪い子さんですね? お仕置きが必要ですね? そうですよね? 逃げられないようになりたいってことですよね? 私のそばにいたいってことですよね? それは永遠に私と一緒にいてくれるってことですよね? ……あれ? アレレ? ならどうして逃げるんですか? どうして? どうして私から逃げるの? だめ? ……ダメ! 絶対に駄目!! 実さんは私のもの! 他の誰でもない私だけのモノ!! だから……だから逃げないでください? 逃げないでください!? …………ニゲルナ。ニガ……サナイ」
狂気の花が咲き乱れる女の瞳には淀んだ光が灯り、映し出されているのは男の姿だけだった。
背中に突き刺さる女の発狂した視線を確かに感じている男は振り返ること無く走り続ける。
人の合間を縫い、時には衝突しながら、ただひたすらに、ただがむしゃらに、女から1cmでも1mmでも離れるために男は逃げ続ける。
『――まもなく6番線に』
「やめろぁぁ! 付いてくるなぁぁぁ! 俺の前から消えてくれぇぇぇぇ!!」
「えへへ♪」
『――方面行きが参ります。危ないですから』
「ハァ……ハァ……なんで……なんで俺なんだよぉぉぉ!?」
「実さんだからです。あなた様だからです。愛しているからです」
『――の内側までお下がり下さい』
「……しね! ハァ、ハァ……死んでくれぇぇぇぇ!」
「愛してます。実さん……」
「もう勘弁してく……アァァァァッ!?」
「実さ――」
電車のフロントガラスにこびり付き、ホームや人々に飛び散ったかつて男であった肉塊。
人々が今起きた出来事を脳内で処理し終えるまでの刹那の沈黙の後、ホームは悲鳴に包まれ地獄絵図と化した。
――そんな中、女だけは冷静に行動を起こした。このような場面を過去に見てきたかのように……。
明日更新の後日譚で終了となります。