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木曜日

 ――遡ること1日前の木曜日――


 随分と空いている車内で男は深く長いあくびを漏らした。


 電車が空いているのはいいが、いかんせん眠い。けれどさすがに1時間も早く行動していればあの女に会うことは無いはずだ。昨日キッパリと断ったがあの女のことだ、用心するに越したことはないだろう。


 男は女を警戒して普段よりも早い時間に家を出ていた。理由は女の行動が未知数であり、己にとって恐怖だったからだ。


「はぁ~」


 女が待ち構えていた乗り換えの駅が近くなるにつれ、あくびはため息へと変化していった。


 どうか、女がいないことを。願わくば、このまま時間が止まれば。望むらくは、何事も無く。


 そんな希望的観測を並べた男を乗せた電車はホームに滑り込んだ。

 到着を告げるチャイムが鳴り、ドアが開く。

 異様な緊張感から呼吸は浅くなり、口内に一切の水分は無く、手も軽く震えている。


 正直、降りたくはない。


 だがそれでも男は力強く、己を鼓舞するように一歩を踏み出した。

 愛する妻子を養い守るために。


「……ははは。なんてことないじゃないか……。1時間も早いんだ。あの女のことなんて気にす……」

「おはようございます。今日は随分とお早い出勤ですね?」

「う、うわぁぁぁぁぁぁ!? やめろ! 抱き付くな! 離れろ!」


 人影の少ないホームに女の姿は無く、安心し切っていた男に訪れたのは背後からの抱擁だった。

 突然の抱擁に情けない悲鳴を上げた男は背後から回された“片手”を振り解こうともがいた。


「はい」


 そう言って女は名残惜しそうに右手を胸板から離すのと同時に、“左手を男の上着のポケットから抜いた”。


「なにをするんだ!? いきなり抱き付いてくるなんておかしいだろ!」


 背後から抱き付かれるというあまりにも想定外過ぎた事態に男は気付かない。

 女が上着のポケットに手を入れていたこと――そして“ある物を忍び込ませた”ことに。


「すみません。こんなにも早い時間にあなた様の姿を見ることができて、気持ちが抑えられなくなりました」


 女は男の対面に移動すると心底申し訳なさそうに目を伏せ、光沢のある長い黒髪が地面につきそうな程に深く頭を下げた。


 ……違う。頭を下げるどうこうの問題じゃないだろ!? もっと本質的な問題だ……。

 この女はなんで俺に話し掛けてくる? そもそもなんで今日も俺を待ってたんだ? しかも今は普段より1時間も早い時間だぞ!?


「おい! なんでお前はこの時間にいるんだよ!?」

「……はい? 当然のことではありませんか?」

「はぁ? どういう意味だ?」

「あなた様をお待ちしていたからです」


 ……聞くまでもなく答えは分かっていた。俺はこの女の異常性を十二分に理解していた……つもりになっていたのだ。


 俺の想定は甘すぎた。緩すぎた。低すぎた。……軽すぎたのだ。


 この女はイカレテいる。狂気なんてそんな簡単な言葉だけで片付けられるものではない。

 根源から、根底から、根本から、イカレテいる。もう何もかもが狂ってしまっているのだ。

 ここで俺が何を言ってもこの女が解釈を変えないのは連日見てきたことだ。


 初めて言葉を交わした日に断り。

 翌日は嫌いだと明確に拒絶した。

 ならば今日はなんと返せばいい?


 俺は一体全体どうすればいいんだ!?


「頼む……頼むからもう俺の前に姿を現さないでくれ……」


 男の口から正直な心の声が零れ落ちた。

 微かに震えている声から漂うのは恐怖と懇望。

 そんな男の懇願に女は口角を上げ、たおやかな笑みを湛えて答えた。「……はい。わかりました」と。


「……本当に、か?」


 幻聴でも聞いたのかと男は信じられないものを見るような目付きを女に向けた。


 話しの通じないこの女のことだ。きっとまた訳の分からない解釈をしているはずだ。

 だからこそ真意を聞かない限り安心することはできない。


「はい」

「絶対にだぞ?」

「はい」

「なら、もう二度と俺の前に姿を現さないと約束……確約してくれるか?」

「ふふっ。はい。もう二度とあなた様の“前に”姿を現さないことを誓います」


 女は何故かクスリと微笑を浮かべると、確約の内容を復唱した。

 どうやら今回はまともに解釈してくれたようだと男は安堵の胸を撫で下ろした。


「じゃあもう会うこともないだろう。それじゃあな」

「はい。お仕事頑張ってください」


 踵を返し歩みを進める男。

 そんな男へと声を掛けた女は小声でひとりごちた。


「……あの方と初めて誓いを結んでしまいました。これはもう私は結ばれてしまったということも同然……だって愛って誓うものよね? ふふっ。私は愛しております。あなたを……あなたのすべてを」


 女の手に握られているのはただのスマートフォンだが、その画面に表示されているのは……、


「これで愛おしいあなたのすべてを知ることが……愛すことができます。うふふ……」


 ビーコンが点滅する地図だった……。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――木曜日夜――


 帰路につく男の足取りは軽かった。

 直近の懸案事項である女からのストーカー行為に終止符が打たれたからである。


「明日からは今帰ってきたあのルートで通勤しよう……定期代が出るまで自腹だし、遠回りにはなるが念には念を、だな」


 ……だが男も女の異質さを十二分に理解したため、通勤ルートを変更するという手を打った。具体的には女と鉢合わせる可能性の高い乗り換え駅を使わないルートへと。


「ただいまー」

「……わぁっ! ぱぱ! ぱぱだぁー!」


 鍵を開け玄関のドアを開きながら帰宅を伝えると、廊下の先から幼児特有の可愛らしい舌足らずな声が返ってきた。


 なんてこった……。声だけで可愛いと確信できるのはうちの娘だけじゃなかろうか? え? 親バカだって? 当たり前だろ! 親バカのなにが悪い!


 その声を聞いた途端、張りつめていた男の頬はどうしようもなく緩んだ。


「ぱぱぁーっ! おかえぃ()ー!」

「ゴファッ!! ……た、ただいま!」


 短い手足を一生懸命に動かして曲がり角から勢い良く現れた娘の姿が目に入ると、男は口元と頬を極限まで緩ませ相好を崩した。


 あぁ~。我が娘は天使かよ! この鳩尾に走る痛みすら可愛く思えるぞ!


 鳩尾に飛び込むようにして抱き付いてきた娘をやわらかく包み込み、頭を撫でながら「今日も良い子にしてたかなぁ~?」と声を掛けると「うんっ! いーっぱぃ、おえかきぃしたの!」屈託のない笑顔が花開いた。


「おかえりなさい、あなた。今日もお疲れ様」

「あぁ、ただいま」

「……あら? なにか良い事でもあったのかしら?」


 遅れて出迎えにきた妻にそんなことを呟かれ「なんでだ?」と首を傾げながら返す。


「ここ最近疲れた顔をしていたのに、今日は随分とリラックスしている様だから」


 何気ない妻の一言。


 どうやら俺は表情に出る程追い詰められていたようだ。


 自分ですら気付いていなかったことを妻に言い当てられ、なんて良くできた最高の嫁さんなのだろうと男は幸せを噛み締めた。


 マジかよ。うちには天使がふたりもいるのか。最高かよ!

 

「懸案事項が片付いたんだ」

「そう、良かったじゃない。改めてお疲れ様ですあなた」

「あぁ、ありがとう」

「うふふ。じゃあ私の懸案事項も解決してもらおうかしら?」


 がらりと変わった色香の滲む声音に男はゴクリと喉を鳴らす。

 見れば妻の頬が僅かに上気していた。


 そういえば最近ご無沙汰だったな……。


 それとなく当たりを付けながら聞き返す。


「なんだ?」

「ヒントは今晩のメニュー。牡蠣とレバニラのガーリック炒め、長芋とオクラと納豆のゴマ和え、それと……ハブ酒」


 牡蠣、レバー、ニラ、ニンニク、長芋、オクラ、納豆、ゴマ、それにハブ酒。

 これらに共通するものは精の付くものであること。

 己の予想が当たっていた男は半笑いを誤魔化すように娘の頭を再度やさしく撫でた。


「……おいおい」

「わぁぁぁ~! ぱぱが、いーっぱぃ、いーっっっぱぃ、いいこいいこしてくぇぅ(れる)ー!」

「――ちゃん、お絵かきのお片付けできるかな~? できたらパパが肩車もしてくれるわよ~」

「ぅんっ! おかたじゅけすぅ(づけする)ーっ! かたぐ()ーまぁー!」


 顔を輝かせた娘が小さな握り拳を元気よく突き上げ走り去る様を見て、男は堪え切れずに噴き出した。


「ははは……可愛い……ん!?」

「――あっ……んんっ……」


 娘の姿が見えなくなったことを確認してから妻は男の背に両手を回し、唇を塞いだ。

 暫時重なり合った唇が離れると顔を見せるのが恥ずかしいらしく、そのまま男の耳元で囁いた。


「うふふ。ふたりめ……お願いしますね? その……今日は私のことも一杯、いーっぱい、可愛がってください」


 ……。

 …………。

 ………………!

 な、なんて単純なんだ! なんて破壊力なんだ! 娘は純真無垢な天使で嫁は小悪魔堕天使とか……ここは楽園か!? エデンなのか!? ……いいや守るべき我家だ!


「寝かさないからな? 後から文句言うなよ?」

「……うふふ……やさしくしてくださいね? さぁ、ご飯にしましょ? 鞄と上着下さいな」

「あぁ」


 ネクタイを緩めながら鞄と上着を妻に手渡そうとしたところ、左ポケットから500円硬貨サイズの――“四角くて小さな黒い箱のようなもの”が軽い音を立てて床に転がった。


「あら? ……あなた~? 上着から何か落ちたけど、これなにかしら?」

「なんだそれ? 特に必要そうなものでもないから捨てておいてくれ」

「はい」


 それを拾い上げた妻は後で捨てようと身に着けていたエプロンのポケットにしまった。

 ――そしてそれがどのようなものであるのかを知るのは、まだ先のことだった。

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