水曜日
新年明けましておめでとうございます!
――遡ること2日前の水曜日――
男は昨日の出来事は既に終わったものだと、気にすることなく普段通りの時刻に駅に着いた。
すし詰めの車内から吐き出されるようにしてホームへと降り立ち、酸欠気味の肺に目一杯の酸素を取り込む間も無く揉みくちゃにされながら、歩みを進める。
――そして辿り着いたのはエスカレーター前の通勤者が渋滞するあのポイントだった。
昨朝は驚きよりも恐怖の方が大きかったが1日経つと大したことのないように思えた。
早い話が一目惚れした相手に思いを告げただけじゃないか。なのになんで俺はあんなにも恐れていたのだろうか? むしろお世辞や美人局だとしても、あんな美人に声を掛けてもらえるなんて喜ばしいことだろ。
利己的な思考を展開し、男は昨朝の出来事を己の武勇伝に入れるべきかと考えながら歩みを進めていたところ……、
「おはようございます」
「――うおぉっ!?」
背後から急に手を握られた。それも俗に言う恋人繋ぎといわれる握り方で、だ。
いきなりのことに男はビクリと身体を震わすと、つい昨朝ぶりの聞き覚えのある声に恐る恐る振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「え!? いや、どうかなさいましたか、じゃなくて、君なんでまだ話しかけてくるんだ?」
繋がれた手を辿って顔を上げると変わらぬ美貌を纏い、ニコリと嬉しそうに微笑む女がそこにはいた。
そんな女の無邪気な笑みを見て生まれた感情は――恐怖そのものだった。
俺はなんて楽観的な考えをしていたんだ。
昨日確かにこの女から感じたではないか……狂気の片鱗を。
男は今更ながら後悔した。なぜもっと真剣に考えなかったのか、と。
己の物差しでは到底図り切れない女の行動と言動は狂気の沙汰であり、男に言い知れぬ恐怖を生み付けた。
「……はい? それは昨日お伝えしました通り、あなた様をお慕いしているからな……」
「――そういう意味じゃない! 昨日断っただろう!? なのになぜまだ話しかけてくるのかと聞いているんだ!」
女の言葉を遮り、男は周囲の目も忘れて思わず声を荒げて問い質した。
「確かにあなた様はご結婚なさっているから、とお断りになられましたけれど、それは私が理由ではありませんよね? 妻子への配慮からそう仰っただけですよね?」
「……そういうことか。俺の言い方が悪かったな」
「……?」
小首を傾げる女は不思議そうに男を見つめた。
男はその視線に逃げることなく向き合い、掴まれていた手を振り解くと決意の滲む硬い表情を湛えて口を開いた。
「俺は君のことを愛してなどいない。ましてや好きでもない。無論興味もない。偽りなく本心を言うならば、君のことは……嫌いだ」
「…………」
「……それでは俺は失礼するよ」
切れ長の目を見開き、瞳にただただ驚きを映した女。
余程ショックだったのか言葉を発することは無く、男は無言を返事と受け取りその場を離れた。
「……きらい……嫌い? 私のことが嫌いなら好いてもらえるように努力しなきゃダメ……だよね? 明日も頑張らなきゃ……折角“嫌い”ってお返事をもらえたんだから。……キライ? 嫌いって……なに?」
――そんな狂言は当然男の耳には届かなかった。