火曜日
――遡ること3日前の火曜日――
男はいつも通りの時間の電車に乗り、定刻通り乗り換えの駅に降り立った。
苛烈を極める満員電車に揺られ、ただ歩くだけで押し潰されるような人混みに揉まれながら会社に向かう毎日。そんな生活に嫌気がさすのは誰だって至極当然のことだろうが、男には守るべき家族がある。だからこそこの日々の地獄を乗り越えられるのだと、自分に言い聞かせるようにして歩みを進めた。
「あの、すみません」
エスカレーター前の最も混みあうポイントに辿り着いたところで、男は何者かに袖口を掴まれた。
いち早くこの人混みから抜け出そうとしていた男は、苛立ちと困惑の入り交じった表情を浮かべて振り向いた。えぇい、忌ま忌ましい、と内心で呟きながら。
「……は、はぁ」
勇ましく振り向いたはずの男はそう口にして立ち尽くした。
自分の袖口を掴み、声を掛けてきた相手があまりにも美しかったからだ。
光沢を内包した流れるような長い黒髪に、白蝶草を思わせる色白のキメ細かい肌。優美さと芯の強さを併せ持ったような切れ長の目には、決意の光に満ちた“正義感”の強そうな瞳が輝き、まるで大和撫子を体現するかのように整い過ぎた容姿のその女は男を見据えてから、ゆっくりと口を開いた。
「初めてあなた様をお見掛けした時からお慕い申しておりました」
「……え?」
絶句。男が出来た反応はただそれだけだった。
言うまでもなく女の言葉が理解に苦しむものだったからだ。
俺は寝惚けているのか? 夢でも見ているのか?
男は答えの出ない自問を延々とループした。
「どうか私と結婚を前提にお付き合いしていただけないでしょうか?」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ。話しは聞くがここでは邪魔になるからそちらの端に移動してくれないか?」
「はい」
突如深々と頭を下げた女に男は慌てた。
発言内容もだが、周囲の目がいくらなんでも痛すぎる。過ぎ行く通勤者達の「何やってるんだこんな邪魔なところで」という冷めた視線に耐え切れず、男は女を連れてホームの端へと移動した。
そして男は今自分の置かれている状況について必死に考えを巡らせた。
これはきっと夢だ。でなければドッキリだ。こんな美人さんにいきなり声を掛けられた挙句、プロポーズされるだなんていくらなんでもありえない。……考えれば考える程にこれは典型的な美人局じゃないか。俺が少しでも怪しい行動をしようものなら、どこかに控えているであろう強面のお兄さんが出てきて因縁をつけられるパターンだ。それだけはなんとしても回避したい。
「俺と君は初対面だよな?」
「いいえ? 私は毎朝あなた様のお姿を拝見していました。237日ほど前から。その内あなた様と目が合ったのは23回です」
「……いや、そうではなくて俺と話しをするのは初めてだよな?」
気恥ずかしそうに頬を上気させた女の回答に得体の知れない恐怖を感じ、男の肌に粟が生じた。
一体なんなんだこの女は!? 美人局よりも何かヤバい雰囲気がするぞ……。さっさと断って終わりにしよう。
「はい。この日を私は待ち望んでおりました」
「……そ、そうか。それで返事だが、俺は結婚しているんだ。嫁と子供を愛している。だからすまないが君の気持には応えられない。それでは」
そう口早に告げると男は足早に立ち去った。
その背に絡み付くようなねっとりとした女の視線が注がれていることも知らずに……。




