#プロローグ3
時間は少し遡る。
さくらが目覚まし時計と格闘する前。まだ彼女が夢の中にいたころ。
ある部屋の一室に、一人の青年が自身を中心とした不思議な陣の真ん中に立っていた。
太陽と月。対極のシンボルが描かれ、周りには呪文らしき字が円を描くように並んでおり、円の中心には大きく五芒星が描かれている。
彼が使う、魔法の陣だ。
彼を囲むその場所だけ、こことは違う別のナニカと繋がっているような、ただならぬ空気がそこに広がっていた。
「それじゃあ、始めようか」
そう言って開かれた右眼は血の色に染まり、目つきが獣のように鋭くなる。
左の眼は眼帯によって隠されていてわからないが、たぶん右と同じようになっているのだろう。
青年は自分の着物の袖から小さな果物ナイフを取り出し、自分の指先を少し切る。
白い手の長い指先から一滴、二滴と血が流れ魔法陣の上に落ちる。
血が落ちたところから淡い緑色の光が浮かび上がり、くるくると魔法陣が回りはじめる。
そしてしだいに光の色は緑から黄色。黄色から赤。赤から青色へと変化し、部屋の中に風が激しく吹き荒れる。
青年の柔らかな金色の髪がふわりと揺れ、彼がなにか呪文のようなものを唱えると、部屋の中で吹き荒れていた風がやんだ。
スゥッ……。と、まぶたを閉じ、開く。
すると、血のように赤かった瞳の色が本来の海のような鮮やかな青い色に変わり、さっきまでの眼の鋭さも消えていた。
青年はなれた動作で手を体の前に出し、なにかを呼ぶようにゆっくり、ゆっくりと手招きする。
「おいで、おいで。こっちにおいで」
おいで、おいで。と繰り返すうちに一冊の本が、彼の声に呼ばれるようにふわりと手元に収まる。
彼の手にした本は、少々飾りの施された表紙に三日月の描かれた茶色い本。
古そうな本なのに傷一つどころか一切古びていない。
「やっぱり。封印が施してあるか…」
本を開こうとしなくとも、魔術師である彼には本に封印術式がかかっていることが、さも当然かのようにわかっていた。
それは彼が、かなりの力の持ち主である証拠でもあるのだが……。
「結界貼っといて正解だったなー」
んーっ!とのびをして、その場の雰囲気に合わない緊張感のない声を出す。
先程彼の言った結界とは、部屋の四隅に貼った四枚の札で作られた内部結果のことだ。
結界自体はそれほど大したものではないのだが、
「うーん。我ながらすごい本の量なんだよねー」
見渡す限りの本、本、本。
棚から溢れ出る本の山。
どうしてこんなにも集まったのか彼自身一応理解してはいる。が、
「自然と集まるからなー。 オレ自身がどうこうできるもんでもないしね…」
そう、別に自分から集めてる。とかではないのだ。
普通に一般的な量は読むが、読書家というほどのレベルでもない。
ただ、集まって来るのだ。
意図せずとも本が集まって、どんどん増え続けた結果、
「こーんなに高くなっちゃたんだよねー。
もうこれ棚には、はいんないよねぇ…」
本を見上げる彼は、細身ではあるが背は高いほうだ。
しかし、その彼よりも高く積み上がった本。
どうしようかと悩んでいると、部屋に貼っていた結界がパキパキと割れ始め、四方に貼った札が燃え始めた。
青年はじっ…。とその様子を見つめる。
最後の札が燃え終わると、扉の前に一匹の猫が座っていた。扉は開かれていないのに。
「ひどいなぁ、オレがせっかく貼った結界壊すなんて」
「ひどいもなにもあるか。オマエが勝手に性懲りもなく結界などを貼るのが悪い。」
「そうは言われもねぇ…」
「まったく…。オマエの力は計り知れないほど強大なのだ。私ほどの力を持つものならともかく、力の弱い者なら消されていたぞ。」
「……」
有無を言わさない無言の笑み。
「ぅぐっ…!そ、それより、先程オマエのところに用があると訪ねて来た者がいたぞ。
あの姿の者は…」
猫の話を聞いてふっ…と、表情を変える。
「水精霊だよ。オレのところにお代を払いに来たんだ」
「正確にはさくらもだろうが」
「うん。まぁ、それに見合ったものはオレにも、さくらちゃんにも支払ってもらわないと割りに合わないしね」
手の平から小ぶりな魔法陣が浮かび上がる。
すると、次の瞬間。手の中に小さな石があらわれる。
力がない者でもわかるほど、その石からは澄んだ清らかなオーラが出ている。
「でも、彼女。なかなか珍しい物持ってきたじゃないのー。これ、月の石だよ」
猫はそれを聞くとつり上がった目をまんまるにして、すっとんきょうな声を上げる。
「魔除けなどに使われると言われるアレか!聞いてはいたが私も見るのは初めてだ‼︎」
猫は興奮した様子で黄金の目をキラキラと輝かせている。
「あいにく、オレには必要のない物だからねー」
それを聞いて猫は耳をピンッと立てて青年の顔を凝視する。
「ならば私によこせ‼︎私ならそれを上手く使いこなせる。…それに、それがあれば酒がわんさか飲めるぞい」
最後のほうが本音だろう。顔がにやけている。
よこせ!よこせ‼︎と青年の手の平にのっている月の石を取ろうと青年の足元でぴょんぴょん飛び跳ねる。
まったくとどいてないが…。
「お酒の話は魅力的だけど、残念。これはさくらちゃんに必要な物だから、にゃーさんにはあげられないなー」
「オマエ…。わかってて私をからかったな…?」
「あははははー」
猫の顔にピキッと音を立てて青筋がたつ。
「スザク…貴様ァア…ッ‼︎」
「あははー。にゃーさんが怒ったー」
猫が襲いかかると青年はひらりとそれをよける。
「こしゃくなぁっ…!」
「あははー」
「逃げるなっ…!」
「にゃーさんが攻撃するのをやめてくれたら逃げないよー」
十分後__。
「にゃーさん息ぜぇーぜぇーだねー」
「っ…だれのせいだっ、だれの…っ!」
「あははー。オレかなー」
青年は余裕の表情どころか汗ひとつかいていない。
それに対して猫の表情には余裕がない。
青年は真面目な顔になり、再びあの本を手にとる。
「まあ茶番はこれくらいにしておいて、にゃーさん。この本、にゃーさんならわかるでしょ?」
「……何が言いたい」
猫は青年を鋭い目で睨みつける。
「もう時間がないんだ。オレの時間も、さくらちゃんの時間も…」
「だからその封印を解く、か…」
「オレが彼女にしてあげられることはほんの少ししかないから。だからこそ、オレにできることならできる範囲内で手伝ってあげるつもりだよ」
青年はどこか悲しげに微笑む。
その憂いを帯びた表情は絵になるような美しさがあった。
ふれたら消えてしまうのではないか。猫は青年のそんな顔を見てそう思った。
「オレたちができることなんて限られているけどね…」