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苦手な方はご注意ください。

ホラー短編

鬼百合奇譚

作者: 時永めぐる

 夏休みは長い。

 大学生の、おそらく大半がそうであるように、僕もダラダラと日々を過ごしていた。

 エアコンのきいた部屋で時間が許す限り寝っ転がり、シフトが入っている日だけ重たい体を引きずってバイトに出かける。

 まるで熱帯のジャングルのように蒸し暑い街にうんざりしつつ、早く暑さが和らぐようにと祈るうち、あっという間に八月も終わりに近づいていた。

 見上げる空はいつの間にか高くなっていて、浮かれ狂う夏はそろそろ終焉の匂いを漂わせている。


「ねぇ! 話、聞いてる? 隼人(はやと)君」


 目の前に座った(あおい)が、ずいっと身を乗り出して僕の顔をのぞき込んで来た。


「あ……。えっと……。ゴメン、何だっけ?」

「やーっぱ聞いてなかった! もー!!」


 頬を膨らませて怒る彼女に、僕はもう一度「ごめん」と頭を下げた。


「ね、せっかくの夏休みなんだしさ。どこか行こうよ! ね?」

「う、ん……」


 僕の口から洩れるのは、歯切れの悪い返事。

 葵と旅行に行くのが嫌なわけじゃない。

 ただ、残暑厳しい中の旅行って言うのが……ね。旅行に行く気力を奮い立たせるだけの気力もないって言うか。

 まぁ、とにかく暑いのは苦手なんだ。


「だいじょーぶ! ほら、ここ! この記事見てよ」


 そう言いながら、彼女はテーブルの上に広げた雑誌の一角を指差した。

 開かれていたそのページには


『まだ間に合う! この夏に行きたい避暑地』


 と大きなフォントで書かれていた。

 そのページの端を、彼女が細い指でトントンと叩く。

 葵が指し示すのは一枚の小さな写真。青い空、濃くて深い森の緑、そして一面を覆い尽くすオレンジ色の花。

 途端、僕の胸の奥がザワリと蠢いた。泣きたいくらい懐かしくて、しかしどこか怖い気もする。

 田舎の光景と言うのは、まるで日本人のDNAに故郷として組み込まれているかのように、縁もゆかりもない人間を時としてノスタルジックな気分にさせる。けれど、そんな淡い憧憬なんかじゃない。

 僕は、この野原を知ってる……?

 いや、そんなはずはない。

 だって、美花(みはな)村なんて名前の村、知らない。

 写真に添えられた、その村の紹介記事を読みながら僕は首を傾げた。


「綺麗だよね。行ってみたくない、ここ?」

「うーん。……でもさ、今からだと宿の予約も難しいんじゃないかなぁ」


 いくら小さい記事でも雑誌に出たら、人気がでるだろう。


「ところが、取れたんだなーこれが!」


 は?

 今、何て言った?


「ちょ、待って。取れたって……何が?」

「決まってるじゃない。旅館の予約~。ってことで、来週行こ?」

「ええええー?」

「良いじゃない。来週はバイト入ってないんだし、どーせヒマでしょ!」


 屈託ない笑顔で返されて僕は反論をもごもごと呑み込んだ。

 バイト先が同じって言うのは、こういう時に誤魔化しがきかなくてちょっと不便だ。


「ね? 良いでしょ?」


 整った顔立ちの葵が、大きな目をキラキラさせて僕を見る。惚れた弱みってやつか、こういうふうに見つめられると反対するのも難しい。

 追い打ちをかけるかのように、小首を傾げる仕草まで加わるからもう抗うなんて無理だ。


「う……分かった……よ」

「やったー!」


 こうして葵と僕は、美花村と言う小さな村を訪れることになった。





 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 




 バイト代を貯めてようやく手に入れた愛車を運転して、慣れない高速を行く。

 小中高生が休みだと言っても、やはり平日の高速は空いていて、不慣れな僕でも困ることなく、一時間も走ればあたりの景色は、街のそれから徐々に山ばかりになっていった。

 山間を切り開いて出来た道だけに、長いトンネルが続く。あまりに長すぎてもう出口がないんじゃないかと錯覚を起こすぐらいだ。


「隼人君、大丈夫? 次のサービスエリアで休憩する?」

「ん。僕は大丈夫だけど、葵は?」

「私も大丈夫。もうすぐ高速降りるんだよね。このまま行っちゃおうよ! ──あ、ガム食べる?」

「食べる。一番辛いやつがいい」


 「了解!」と笑った葵はダッシュボードの中から黒い包装紙に包まれたガムを取り出す。視界の端で、彼女の細い指が黒いガムを取り出そうとしているのが見えた。


「ん」


 この手の上に置いてくれ。そういう意味を込めて左手を差し出したのに、


「ダメだよ。隼人君はまえ見てなきゃ。はい、あーんして?」

「はっ!?」

「いいから、はい、あーん!」


 呆気にとられた僕の口に、小さな物体が放り込まれた。


「あ、ありがと」

「どういたしまして」


 僕の間抜けな顔がよっぽど面白かったのか、彼女のくすくす笑いはしばらく収まらなかった。

 そうこうしているうちに最後のサービスエリアの脇を通り抜け、次の出口で降りた。後はカーナビの指示通りに山道を分け入ること小一時間。それで目的地に着くはずだ。

 高速の出口辺りは民家が密集し人も車も多かった。が、二十分もすれば、人どころか民家もまばらになり後は、鬱蒼と茂った木々に囲まれながらの道中になった。

 一人で走れば不安になるような道だけれど、葵と二人で他愛もないおしゃべりをしながらだったので、寂しいとも感じなかった。

 小さな沢にかかった橋を越えれば、『美花村』を書かれた石の道標が姿を現した。


「あ、美花村って書いてあるよ、隼人君!」

「そうだね。やっと着いた」


 長時間の運転はやっぱりちょっと疲れる。僕は安堵から深々とため息を吐いて肩を丸めた。


「お疲れさま! 後でマッサージしてあげるね?」

「まままま、マッサージ!? え、あ、その! いや、えっと」

「──隼人君、何言ってんの?」

「い、いや、ごめん。何でもないっ。そ、それよりさ、旅館って村に入ってすぐだったよね? そろそろそれらしい建物が見えても……」


 マッサージの一言で良からぬ想像をしてしまった僕は、慌てて話題を変えた。


「そう。この道の左側にあるはず。あれじゃない!?」


 葵が指差すその先に、大きなお屋敷……と言うしかないくらい大きな建物が見えてきた。黒々とした瓦が日光を弾き、真っ白な塀が熱さえ寄せ付けなげに眩しい。

 中心に、楼閣だろうか三~四階建ての建物があり、それを取り囲むように平屋が建っている。


「うん。間違いない。看板も出てるし。あ、駐車場の入口はそこっぽいよ!」

「こ、ここ!?」


 いきなり言われて、僕は慌ててハンドルを切った。




「遠いところ、ようこそいらっしゃいました。お疲れでしょう? すぐにお部屋に案内させていただきます」


 にこやかに笑う女将に迎えられた僕たちは、まるで迷路のように入り組んだ建物の中を奥へ奥へと通された。

 これは一度通ったくらいじゃ覚えられなさそうだ。あとで、館内を探検してみよう。我ながらガキっぽいと思うけど、好奇心が掻き立てられる構造なんだから仕方ないじゃないか。

 中庭に面したガラス張りの窓から、さっき見えた楼閣が見えた。遠くで見かけた時も大きいと思ったけれど、間近で見ると圧倒されるくらいに立派だった。

 つい立ち止まって見上げる僕に、女将はその楼閣の由来を話してくれた。代々この辺りを治めていた大名の一族が湯治に来る時だけ使われた建物で、今も普段は使っていないと言う。

 要人が泊まることでもあれば使うことになるだろうけれども、こんな寂れた村ではそんな機会なんてあるはずがない、そう言ってコロコロと笑う女将に、僕はなんと答えていいか分からず、曖昧に笑った。

 その傍で、葵はぼんやりと楼閣を眺めている。何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。不思議な目の色と能面のように表情の消えた顔がまるで別人のように見えて、僕は慌てて彼女の手を握った。僕の方を振り向いた彼女はいつも通りの彼女で、今しがた見た別人のような顔はただの錯覚か、傾きかけた陽光の悪戯だったようだ。


「お疲れのところ、お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。さ、こちらへ」


 通された部屋は角部屋で、窓からは小さな渓谷と瑞々しい緑が眺められる。窓を開ければ、エアコンが要らないほど清涼な風が入ってくる。


「良い部屋だね」

「ほんとにねー!」


 僕らは並んで畳の上に大の字に寝転がった。天井を見ながら大きく伸びをすれば、真新しい畳の匂いが鼻をくすぐる。

 

「ね、百合ノ原を見に行くのは明日にしてさ、今日はもうのんびりしよ?」


 彼女の言う『百合ノ原』と言うのは、例の雑誌に載っていた場所だ。地図で確認する限り、この旅館の本当にすぐそこらしい。

 当初の予定では、今日は夕暮れの鬼百合の原をちょっと見て来ようと言う話になっていたのだけれど、こうして寝転んでしまうと起きるのさえ億劫になってくる。

 山間は日没が早い。無理して出かけたりせず、温泉にでも浸かってのんびりして、観光は明日にすればいいか。そんな気分になってくる。


「そうだね。もう少しゆっくりしたら温泉に行こう」

「うん! 温泉、楽しみだね。 あ、いまお茶入れるね? ちょっと待ってて」


 座卓のそばに置かれたポットから急須にお湯を注いで、お茶の用意をする葵の姿を眺めつつ、『僕の彼女はほんと完璧だよなぁ』と鼻の下を伸ばした。

 これから三日間、二人っきりかと思うとなおさら鼻の下がずるずると伸びる。


 




 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 






 翌日も良い天気で……と言えば聞こえは良い。とにかく暑かった。

 目的の百合ノ原は旅館から徒歩で十分もかからない。そう聞いていたので軽い気持ちで出かけたものの、徒歩五分は予想以上にきつかった。

 日光にじりじりと肌を焼かれて、暑いと言うより痛い。しかし吹き抜ける風は冷たいし、日陰はひんやりしている。僕らは日陰を伝って百合ノ原へと向かう。

 ミンミンゼミの鳴き声と沢を流れる清水の音、そして僕らのはしゃぐ声が、静まり返る木々の間へ吸い込まれていく。緑と土と水の匂いが混じりあった独特の匂いが、何かを思い出せ、と僕の記憶のどこかを刺激する。

 しかし、東京で生まれ育った僕のどこに、田舎を懐かしむ記憶があるというんだろう。

 

「待てよ、葵」


 すたすたと先を行く彼女を呼び止めるように、声をかける。


「隼人君、おっそーーい! しっかりしてよ~」


 片手を口に添えてメガホン代わりにして声を上げる彼女は、白のサマードレス。膝丈のそこからすらりと伸びた白い足が眩しい。黒い髪はラフに纏められていて、清楚なのにどこかに色香が漂う。どきどきと煩い鼓動を持て余しながら、僕は彼女に追いついた。


「悪ぃ。お待たせ」

「ちょっとここで休憩する?」

「いや、大丈夫。もうすぐだろ? 行こ」

「りょーかーい!」


 陰りのない笑顔で僕を見上げる葵。その白い顔に、レースをあしらった日傘が不思議な影をつけている。

 ああ、まただ。葵が違う人に見える。


「私の顔に何かついてる?」

「──え。あ。ごめん」


 謝ると彼女は小さく頷いて、前に向き直った。

 百合ノ原に続く道は意外と複雑で、宿を出る前に女将に地図を書いて貰っている。

 しかし、葵はその地図を一度も見ることなくすたすたと歩いて行く。本当にこっちで合ってるのか?


「葵。地図も見てないのに、行き先分かるのか?」

「えー? 女将さんに地図描いて貰った時に覚えたから大丈夫! あとは勘よ、勘!」


 おいおい。それで迷ったらどうすんだよ? 

 呆れ顔の僕を尻目に、彼女は楽しそうだ。


「迷ったらその時はその時。普段運動不足なんだから、ちょうど良いでしょ」

「へーへー。分かりましたー」


 そんな会話を繰り広げた数分後。

 突如開けた視界に、一面のオレンジ色が飛び込んできた。

 写真で見た通り、一面の鬼百合。オレンジ色の花弁に、暗褐色の斑点が散る。茎は太く、葉は生命力にあふれた緑。美しく艶やかで、そして凛とした佇まいの花々を、葵も僕も声もなく眺めた。

 涼風が吹き抜けて、ざっと花を揺らす。


「綺麗だ、ね……」


 掠れた声がのどから出たのは、どの位経ってからだろう。

 百合ノ原の鬼百合は自生のもので、人の手は入っていないのだと言う。手入れをしなくてもこんなに美しく咲き誇るものなのか。花の女王ともいえる花々は、薔薇だって牡丹だってみんな人の手がなければ、あんなに美しく咲かないのに……


「ねぇ、隼人君。この村の伝説、知ってる?」

「──いや」

「この百合ノ原の百合はね、もとは白百合だったんだって」


 そんな風に、葵は昔話を始めた。






 昔、速時(はやとき)と言う男がいた。彼は美花村一帯を治める領主だった。

 端正な顔立ちに、人懐こく明るい気性。知勇に勝れ、臣下や民からもよく慕われていた。少々血気盛んだと言う欠点はあったものの、時としてそれは美徳にもなりうる。つまり、国を治めるに必要な資質を充分に持ち合わせた名君であった。

 そんな速時のもとに、隣国からひとりの姫が嫁いだ。その姫は月のように冴え渡る美貌でその名を諸国に轟かせており、名は小夜だったと伝えられている。その美貌に加えて、控えめながら誠実で優しい気性。

 速時が新妻に夢中になるまで、そう時間はかからなかった。

 もともと情が深い性格だったからか、速時は少し行き過ぎたくらいの傾倒ぶりを見せたが、しかしそれでもそれはおしどり夫婦という範疇のうちであり、周囲もそれを微笑ましく見守っていた。

 が、それを快く思わない臣下が一人だけいた。その臣下は自分の娘を側室にと目論んでいたのだが、とうの速時が小夜姫以外に女は要らぬと突っ撥ね、その話は立ち消えになった。

 その腹いせに、臣下は軽い気持ちで噂を流したのだ。


 『小夜姫には、速時の他に想う男がいる』 


 その噂は巡り巡って速時の耳にも届いた。

 彼は馬鹿馬鹿しい、と一笑に伏したものの、心のどこかで引っかかっていたのだろう。

 ある日、小夜姫が庭師とが親しく言葉を交わしているのを目撃して、速時の中で何かが壊れた。

 炎のように勢いよく吹き上がる疑念に身を任せた彼は、館から小夜姫を引きずり出し、白百合の咲き乱れる野原の真ん中に立つ樫の大木に繋いだ。

 感情の赴くままに小夜姫を責め立てた挙句、速時は愛刀を鞘から抜いた。

 小夜姫は抜き身の刀に臆することなき身の潔白を訴え続け、そして潔白の証に無抵抗を貫いた。

 その小夜姫を、男は膾に切り刻んだ。鼻を削ぎ、耳を落とし、手足の指を次々に切り落とす。そのたびに周囲に咲く白百合の花弁に鮮血が飛び散り、絶叫が空へ山へと消えて行った。

 夕焼けがあたりを染める頃、美しかった小夜姫は見るも無残な態で息を引き取った。

 最期まで潔白を訴え、速時を恨むことなく、ただ『お慕いしています』と繰り返しながら。

 己が殺した愛妻を見下ろしながら、速時は狂ったように笑い始めた。全身を血に染め、血のように赤い残光を浴びながら。

 白かった百合はいつしか、夕焼けの色と、乾いた血のような斑点を持つ鬼百合に変化していた。

 以来、その野原には鬼百合しか咲かないと言う。

 それからすぐに小夜姫は潔白であり、臣下の一人が嘘の噂を流したと判明した。臣下は、娘ともども速時に斬り殺されたと言う。小夜姫と同じ場所で。

 そして、娘の非業の最期を聞いた隣国の領主は怒り狂い、あっという間にこの地を攻め滅ぼした。館は焼け落ち、速時は生きたまま捕えられ、小夜姫と同じ場所で、小夜姫と同じく膾に切り刻まれて果てた。速時は切り刻まれながらなお笑っていたと言うのだから、もうすでに狂っていたのだろう。 


「で、その野原って言うのが、この百合ノ原なんだって!」


 明るく締めくくる葵と裏腹に、僕は今しがた聞いた凄惨な昔話に鬱々としていた。

 ただ美しいと思っていた野原が、急に不吉なものに思えてくるし、吹いてくる風は血の匂いを運んで来そうで、そうっと顔を背けずにはいられなかった。

 

「ずいぶんと血なまぐさい謂れだね」


 平静を装ってそれだけ言うと、僕は鬼百合を見ないで済むように空を見上げた。

 たかが伝説。たかが昔話。事実か虚構かも分からない遠い昔の話だ。なにも、こんなに気にしなくたっていいじゃないか。

 だいたいどこの土地にだって酸鼻を極めるような昔話はあるだろう。いちいち怯えてたらキリがない。

 そう思うのに、理性では割り切れないところで、何かがざわざわと蠢く。


「葵。そろそろ旅館に戻ろう。こんな強い日差しの下にいたら具合が悪くなっちゃうよ?」


 本当は僕自身がここにいたくないからだけど、適当な理由をこじつけた。


「えー! もうちょっと眺めてたかったのにー。──ま、いっか。お昼食べてから、また来ればいいし」


 最初は不満げにしていたけれど、気持ちを切り替えてからの彼女の行動は早かった。

 もたつく僕を置いて、彼女はもと来た坂道をすたすたと下りていく。


「ちょっと待って!」

「隼人君、おそーい。あ、ねぇ。置いてきぼりにならないように、手を繋いであげよっか~?」

「あ、あ、葵!! からかうなっ」


 なんて悪態をつきながらも、手を握り、日傘の中に入れてもらう。

 晴れた日の相合傘か。こういうのも悪くないね。

 さっきまで感じていた不気味さなんてもうほとんど感じていなかった僕は、葵の綺麗な横顔をちらちらと眺めながら、上機嫌で昼飯の相談を始めた。


 ───……様。 は……や、と……様


 不意に誰かに呼ばれた気がした。慌てて振り向いてもそこには、鬼百合が咲き乱れるばかり。


「どしたの、急に?」

「いや、なんでもない」


 不思議そうに聞いてくる葵に向かって反射的に返事をしながら、僕は百合ノ原をぼんやり眺めた。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 







 昼間、村をあちこち回って歩き疲れた僕たちは、他愛もないおしゃべりの合間の欠伸をかみ殺しきれない。温泉に入ったあと特有の心地よい倦怠感も相まって、葵も僕もクラゲのようにフニャフニャだ。


「そろそろ寝よっか、葵?」

「んー。そうだねぇ。そーしよーかぁ」

「よし。じゃー寝よう。おやすみ」


 お互い話し方まで、間延びしている。


「明日はもう帰んなきゃいけないんだよね」


 布団が敷いてある部屋へ行こうと立ち上がった僕の背後から、しみじみとした声が聞こえた。


「──そうだね。二泊三日なんてあっという間だ」

「もーちょっとゆっくりしたかったなぁ」


 と言いながら大の字に寝転がる葵に苦笑いしつつ「行儀悪っ」とからかったら、蹴りが返ってきた。


「痛っ! 葵~」

「お、や、す、み~」


 今までのダラダラが嘘のように素早く立ち上がり、彼女は彼女の部屋へと引き上げてしまった。取り残された僕は部屋の電気と、なんとなくつけていたテレビの電源を切って、自分にあてがわれた部屋へ戻った。

 大学生カップルが二人っきりで旅行するって言うのに、休むのは別々の部屋だ。悲しいため息がこぼれるのは仕方ない。

 もしかしたら……と期待をしていた僕に、


「じゃ、私、こっちの部屋で寝るから、隼人君はそっちね!」


 と輝くような笑顔を向けた葵は、天使の顔をした小悪魔だと思う。

 まぁそう言うところも可愛いんだけど! と惚れた欲目丸出しのことを考えつつ布団に潜りこんだ。

 仰向けに寝て、見るともなしに部屋を見渡す。松の木を模した欄間も、床の間に使われている網代天井も、常夜灯に照らされて不思議な陰影をつけている。

 古ぼけて煮詰まったような色になった天井板のあちこちに、黒いシミ浮き出ている。じっと見つめているとそのシミはじわじわと広がっているような錯覚を覚える。不気味に思えて目を瞑ったら、じんわりと眠気が戻ってきた。

 ああ、眠い……

 窓の外から、さらさらと沢を流れる水音がかすかに聞こえる。それを子守唄代わりにうとうととしていた。


 ────……様。は、や……様ぁ……


 せせらぎの音に紛れて、何かが聞こえた気がした。隣の部屋のいる葵が何か言ったのか?

 眠気に重たくなったまぶたを開けて葵がいる部屋の方を見たら、欄間から煌々とした明かりが漏れてきていた。

 どうやら彼女はまだ起きているらしい。僕に用があるなら、もっと大きな声ではっきり呼びかけてくるはずだ。

 空耳だ。

 そう結論付けて、僕はまた目を閉じた。


 ────……は、や……様ぁ……


 また、聞こえた。

 

 ────はや、と……き、様ぁ


 声はどんどん明瞭になっていく。酷くしわがれた、けれど女の声と分かる声が誰か呼ぶ。


 ────はやとき様。


 耳元で声がした。冷水を浴びたように背筋が冷えた。


 ────はやとき様。ようやくお見つけいたしました。ようやく。


 耳元で、耳障りな声が笑った。生臭い息が僕の耳たぶをかすめる。

 今、この声は『はやとき』と言わなかったか?

 はやときって誰だ。はやとき……。

 速時!?

 そうだ、その名前はあの血なまぐさい伝説に出てきた男の名前じゃないか!?


 ────速時様。なぜ、私を見てくださらないの? ずっと待っていたのに。ずぅうっと待っていたのに。


 ひやりとしたものが顔にかかった。頬をくすぐるようにさわさわと揺れる。見なくてもなんとなく分かった。女の長い髪が顔にかかっているんだ。

 と言うことは、この声の主は僕の顔をのぞき込んでいるに違いない。

 目を開けたらダメだ。絶対ダメだ。


 ────速時様ぁ。どうして? どうして? わたくしを信じてくださらなかったのぉおおおお


 ごぼごぼ泡が弾けるような不気味な音がした。ひゅーひゅーと空気が漏れるような音もする。


 ────速時様、速時様、速時様、はやとき様、はやときさま、はやときさま、はやときさまぁああああああああああああ


 冷たくじっとりと濡れた指先のようなものが、僕の喉元を下へ下へと滑っていく。横になった際に少し乱れてしまった襟元に、何かブヨブヨとした冷たいものが触れた。まるでナメクジが這うような感覚に鳥肌が立った。


 違う、僕は速時じゃない。隼人だ!


 心の中でそう叫んでも、僕の上にのしかかる何かには通じない。

 ああ、そうか。きっとこの何かはあの百合ノ原に住んでいて、たまたま葵が僕を「はやと」と呼ぶのを聞いて、それを「はやとき」と聞き違えたんだ。そうだ、そうだ。

 人違いでこんな目に遭わされたんじゃたまらない!

 心で叫んでも通じないなら、ちゃんと声に出すしかない。

 

「あ、う……う……」


 声が出ない。

 いや、声だけじゃなくて、指一つ動かせないじゃないか! これが世に言う金縛りってやつか!?

 パニックを起こしかけている間にも、胸元を貼っていたブヨブヨの物体は相変わらず蠢いていて、徐々に首筋へと上がってくる。ぬちゃり、ぬちゃりと聞こえる音がおぞましくて、気が狂いそうだ。

 いっそ気を失ってしまえれば……とも思うけれど、意識がない間に何をされるのかと考えると気を失うわけにもいかなかった。


 ──はやとき、さまぁ


 その声に合わせて、肌を這うぶよぶよの物体が震える。

 僕に触れているのは、唇なのか!? この化け物の!!


「っ!」


 不自由な喉から、声のない悲鳴が漏れた。

 そのおぞましさに、僕は完全にパニックを起こした。混乱しながら足掻いて、足掻いて、そして唯一自由になるまぶたを……開けてしまった。

 目の前に女がいた。長い髪を振り乱し、青白い顔をしたその女は、口の端から血の泡を吹いていた。そして首にもう一つ大きな口が……違う。口じゃない。これは傷だ。何か鋭利な刃物で喉を切り裂かれた、その切り口だ。ああ、そうか。さっきひゅーひゅーいっていたのは、この傷から漏れ出した空気の音か。

 人は恐慌を来し過ぎると、逆に冷静に観察してしまうんだろうか?

 僕は淡々と目の前の女を眺めていた。


 ────速時様ああああ、いぃ痛ぁかったのぉおおおおお首からぁ血ぃがああああああ溢れぇてえええええ


 血泡を吹きながら、ニタニタと笑う。

 違う、違う、違う、僕は速時じゃない!!


 ────あぁんなにぃいいいいお慕ぁいしてぇたのにぃぃいいいい、あああぁんな女ぁああああ


 首に細い指がかかった。途端、女とは思えないようなすごい力で首が絞められる。

 何とかしないと。この女に殺される!

 もがいても、指一本動かせない。唯一動くのは目だけ。だけど、それだけじゃどうにもならない!

 くそ! 何か……何か……対抗できる手段はないのか!?

 苦しくて頭がガンガン痛む。目の前にもチカチカと星が飛んで、耳鳴りがする。現実感が遠のいて、意識が……


「隼人君!!!!!!!」


 もうだめだと諦めた時、スパンと小気味よい音がして襖が勢いよく開いた。逆光の中に、葵のシルエットが浮かぶ。煌々とした明かりが一気に部屋に溢れ、僕は眩しさに一瞬目を瞑った。


「隼人君から離れろっ!」


 葵が叫んで何かを投げつけた。と同時に僕の上にのしかかっていた女はギャッと叫んで消えた。

 金縛りが解けた僕は慌てて布団の上に体を起こし、荒い息を繰り返した。


「……サンキュ……めっちゃ助かった……」

「何だったの、あれ」


 僕の隣に座り込んだ葵が、感情の見えない固い声で聞いてきた。


「いや、僕にも何が何だか。どうやら『はやとき』って人と勘違いしてたっぽい」

「はやときぃ~? 何それ。もしかしてあの鬼百合の伝説の?」

「──もしかして今の小夜姫の幽霊だったのかな」


 ぼそっと呟いたら、葵が盛大に噴き出した。


「小夜姫? 今のが!? んなわけないじゃん~」

「そ、そうだよね」


 笑い飛ばされて、僕は心の底から安心した。彼女といるとさっきのことがただの夢に思えてくる。


「そーそー! だいたいさぁ、小夜姫って絶世の美女だったんでしょー? 今のやつ、全然美女じゃなかったじゃん!」


 え? 突っ込むのはそこ!?

 いつもは言わないようなこの毒舌は僕を励ますためなんだろうか。僕は葵の心遣いに乗ることにした。


「ちょ、葵。ひっでぇなぁ」

「いいじゃん。事実を言ったまで! そんな事よりもう寝よ? さっき塩ぶちまけちゃったからここじゃ寝られないし、またあの変な女が来てもムカつくし、私の部屋で一緒に寝よ?」

「え、ええええ!?」

「ふふふ~。今晩は特別! でも、不埒な行動に出たら速攻で窓の外に叩き出すから~」


 窓の外って……崖ナンデスケド……

 生まれて初めての怪奇現象に凹んでた僕に、彼女の明るい笑顔は救い以外の何物でもない。

 さっきは天使の顔をした小悪魔って思ったけど、前言撤回。やっぱ彼女は天使だ!

 予備の布団を引っ張り出して彼女の布団の隣に敷き(もちろん一メートルくらい離した!)、僕らは再び眠りについた。

 今晩の出来事はいつか『いや~、幽霊に人違いされちゃってさ~』なんて笑える怖い思い出になるんだろうなぁ。なんて呑気なことを考えながら。








 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 









 隣の布団に潜りこんだ隼人君は早々に眠ったみたいだ。かすかに規則正しい寝息が聞こえる。あんな目に遭ったって言うのに、意外と図太……いや、強靭な精神をお持ちらしい。それとも私と一緒ってことで安心してくれたのかな?

 女としては嬉しいような、ちょっと寂しいような複雑な心境だ。


 ああ、でも、ほんと、間に合って良かった。



 まさかあの女が、隼人君に付きまとうとは思いもよらなかった。

 隼人君が言う通り『速時』と『隼人』を聞き違ったんだろうか。それとも、『速時』の気配を感じて目を覚ましたのか。

 生前からいけ好かない女だと思っていたけれど、まさか死んでまでも私の邪魔をするとは許しがたい。

 分かっていたらもっと徹底的に殺しておくんだった。

 それこそ、自分の姿形を忘れて、魂が壊れるくらいに徹底しておけば良かった。


 にしても滑稽なことだ。

 あれほど嫌っていた姫を、私と勘違いするとは。

 愚か者は死しても愚か者でしかないと言うことだ。

 笑いが止まらない。

 

 隼人君を起こさないように、声を殺して笑った。苦しいけれど、それでも笑いを止める気にはならなかった。


「ん……」


 小さく呻いて、隼人君が寝返りを打った。端正な顔が私の方を向く。

 決して女っぽいわけじゃないけれど、どこか繊細な印象を与える整った容貌。

 絶世の美女と言われた小夜の面影がある。と言うより、もし小夜が男だったらこんな顔だったろうと言うほどに似ている。


 なのにあの馬鹿な女はそれに気づきもせずに彼を『速時』と勘違いしたのか。

 これ以上に滑稽なことはそうそうないだろう?

 一臣下のくせに思い上がった父ともども、本当になんとも救いようのない浅はかさだ。


 しかし、馬鹿と言うのはなかなか侮れないから、あとで何か手を打っておこう。二度と隼人君の前に現れないように、供養塔でも建てて縛り付けてやるか。それとも……


 私は布団を這い出して、隼人君の髪を撫でた。

 途端、彼の顔が心地よさそうに笑みを刻んだ。


 ああ、なんて愛おしいんだろう。

 遠い昔、この顔が血に塗れたあの日を思い出す。

 浮気などしていないと必死に訴えた声、私だけを慕っていると告げた唇の動き。私が信じるまで絶対逸らさないと決意したような凛とした眼差し。

 今でも鮮明に覚えている。

 

 そうだ。そうだ。

 激昂して我を忘れたのはほんの初めだけだった。

 斬りつけても斬りつけても言を翻さない小夜に、私は真実を見た。

 それでも凶行を止めなかったのは……


『このまま生かしておいては、自分のものにならない』


 そう思ったからだ。

 姫が他の男を見るだけで嫉妬に胸が焼ける。少しの間離れるだけで心配でたまらなくなる。正直に言えば、恋い焦がれすぎてまともに生活するのすら苦しかったのだ。しかしいくら苦しくても姫を手放すことは出来ない。


 『ならば、いっそ……』


 自分の手で殺してしまおう。

 それもこれ以上はないくらい残酷な方法で。

 憎め。恨め。全身全霊をかけて、私に祟れ。すべての感情を私に向けるがいい。私を、離すな。

 それなのに。

 小夜は恨むどころか、しがらみを見事に断って輪廻の渦に飛び込んでしまった。


 彼女の後を追って何度も生死を繰り返し、すれ違い、ようやく捕まえた。

 今度こそ間違えない。

 絶対に。

 殺しても縛り付けられないと言うなら、理解のある恋人を演じながら長い人生を共に過ごすしかない。二人を引き裂くすべての要因を排除して、共白髪のその先まで生きる。

 そうしてまた輪廻の先で巡り会う。繰り返し、繰り返し。

 前世での縁が濃ければ濃いほど、また巡り会う確率は高くなると言うのだから、きっとそれは叶うだろう。


 誰にも、邪魔なんてさせない。


 性懲りもなく、さっきの女が今度は畳の中からずぶずぶと音を立てて頭を出した。


「邪魔なんだよ、お前は」


 足で踏みにじりながら笑った。


「消えろ」


 女は私を一度も振り返ることなく、ぱちんと弾けるように消えた。


 

 

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 読みました。面白かったです。 ミスリードにあっさり引っ掛かってしまいました。それそのものは大した仕掛けでもないように思うのですが……思い込みって怖い。 文章はラフなところもありつつ、風景の…
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