つらららのこと
つららら かわいいつららら
つららら すてきなつららら
いっしょにあそぼう つらららと
つららら つららら
中田えりかは自分でつくった歌をくちずさみながら、小学校から家までの凍りついた道をとぼとぼと歩いた。ちっともあたたかくはないけれども、きれいに晴れわたって風もない、おだやかな冬の日のことである。
家に帰りつくと、玄関には入らずに、まず家の横にまわって声をかけた。
「ただいま、つららら」
えりかの家は庭のない木造モルタルの古ぼけた小さな平屋で、その横手の軒の下にそれはあった。つららである。季節がら珍しいものではないが、長さ二メートルちかい大きさには一種の風格があった。隣の家とのあいだの狭い隙間は、このつららのおかげでほぼふさがってしまっている。光の加減か、つららの奥のほうは蛍を閉じ込めたかのようにときおりまたたいて見えた。
「つららら、わたしが学校に行ってるあいだ、さびしくなかった? わたしはずっとつらららに会いたかったよ」
ぽつりぽつりとえりかはそのつららに話しかける。そうして日が暮れてあたりが暗くなるまで、えりかはつららのところにいた。
えりかの父は、娘がつららを友達あつかいして話しかけているなどとは、まったく知らなかった。中田家は父とえりかの二人の所帯である。母は二年前、えりかが三年生のときに病気で亡くなり、それ以来父が男手ひとつでえりかを育てているが、貧乏ひまなしという言葉のとおり仕事が忙しくて、えりかが大きくなってきたこのごろでは、あまり娘のようすに注意を払っていなかった。
その日も夜おそくに帰ってきた父は、えりかとほとんど話をすることもなく、夕飯をたべて風呂にはいって寝てしまった。仕事で疲れすぎていて、まさか娘が学校がおわったあとずっとつららと話をしていたなどとは想像もしなかった。
このつららができたのは、冬になったばかりのころだった。いつも学校が終わるとすぐに家に帰ってほとんど出かけないえりかは、軒先にできたちっぽけなつららを毎日ながめて過ごした。冬がふかまって冷え込みがきびしくなるにつれて、つららはぐんぐん育った。はじめストーブのある家のなかからつららを眺めるだけだったえりかは、つららが自分の背丈と同じぐらいの大きさになったころから、何を思ったかセーターにコート、手袋に冬靴を身につけて家の外に出てゆき、軒先でつららといっしょに過ごすようになった。つららをつらららと呼んで話しかけるようになったのもこのころである。
寒さのきびしい冬のまっただなかを、えりかは毎日そうやって過ごした。
その日もえりかは軒下のつららのそばにいた。
「つらららはいいね。学校に行かなくていいんだものね」
つららは答えない。せまい軒下にえりか一人のつぶやき声だけがとめどなくつむがれる。
「わたしもつららに生まれればよかった。そうすればずっとつらららといっしょにいられたのに。学校に行っていろんなつらい目にあうこともなかったのに」
えりかのこごえた青白い顔には、くつろいだ笑みがうかんでいる。いつものように、日が暮れてえりかが家に入るときまでこの静かな時間がつづくはずだった。
だがこの日は、えりかに話しかける者があらわれた。それは、冬のつめたい日差しがしだいに傾いてくるころのことだった。
「中田じゃない。こんなとこで何してんの。ああ、ここってあんたのうちだっけ」
その少女は道路からえりかのいる軒下をのぞきこんでいた。えりかが身をかたくして答えないでいると、少女はつららに目を移して、かるくのけぞった。
「うわ、でっかいつらら! なにこれ!」
少女のうかべた驚きの表情は、つぎの瞬間にはあざけりに変わっていた。
「そっか、あんたのうちってボロだもんね。うちの親が言ってたけど、家がボロいとでっかいつららができるんだってさ。さすがだね、中田」
えりかはつららに寄り添ったままじっと少女の言葉に耐えていた。
「じゃあね、またあした、学校でね」
少女はしゃべるだけしゃべって立ち去り、えりかはこの日も暗くなるまでつららのところにいた。えりかを慰めるかのように、つららの奥がときおりかすかに光った。
えりかが毎日つららのところにいることを知っている人は、二人だけだった。そのうち一人は、となりの家のおばさんで、佐藤さんといった。となりというのは、中田家のくだんのつららが下がっているほうのとなりである。
おばさんはえりかのことを気にかけてくれていて、えりかが軒下にうずくまっているところを見ると、うちに来ておやつを食べないかと誘ってくれたりもしたのだが、えりかがそれに応じることはついになかった。えりかはつららといっしょにいるほうがよかったのだ。おばさんのほうもなにかと忙しく、よその家の子にばかりかまっていられるわけではなかった。
えりかとつららのことを知っているもう一人は、先にたまたま軒下のえりかを見かけて声をかけてきた同級生の少女で、高崎という名前だった。
高崎にそれを見られたころから、えりかは前にもまして元気をなくしていった。朝、学校に行くときにはためいきをつきながらうつむきがちに足どり重く。午後、学校から帰ってくるときは鼻の頭と目頭を赤くして、ときには泥まみれだったり、腕や足の見えにくい場所に青あざをこしらえていることもあった。帰りがひどく遅くなることも何度かあり、ちょっと探し物をしてたらおそくなっちゃった、とえりかはつららに語った。探し物はいろいろだったが、中には外履きやランドセルといった、ふつうなくしそうにない品もあった。、つららはあいかわらず何も答えなかったが、そんなときはきまってつららの奥のほうに不思議な光がともった。それはえりかをなぐさめるようでもあり、力づけるようでもあった。
急に春めいて暖かい日のことだった。えりかは学校から全身ずぶぬれで帰ってきて、着替えもせずに軒下へむかった。つららはこの冬いつもそうだったように静かにぶらさがっていたが、この日はさすがにその先からぽたりぽたりとしずくをしたたらせていた。えりかはすぐさまそのことに気がついた。
「つららら、つららら、とけちゃってるよ。だいじょうぶ?」
つららは答えない。えりかはつららにすがりついた。えりかの体からもしずくがぼたぼたこぼれ、つららのしずくといっしょに地面に吸い込まれた。
「いなくなっちゃいやだよ、つららら。わたしを一人にしないでよ」
これまでつららの前で泣いたことのなかったえりかが、そのとき初めて涙をこぼした。とめどなく涙はあふれ、足元の地面に落ちてはしみこんで消えていった。つららの奥ではあの不思議な光がいままでになくはげしくきらめいた。
ずぶぬれのえりかは、日暮れごろまでずっとつららのそばで泣きつづけた。となりの佐藤さんのおばさんがえりかを見つけたときには、ひどい熱を出していた。あたたかい日だったとはいえ、ずぶぬれのまま外にいつづけてはひとたまりもなかった。
えりかは病院に運ばれ、そのまま入院した。
えりかの父は職場でやり残しの仕事を片づけていたが、病院から連絡を受けてあわててかけつけた。医者の見立てではえりかは肺炎で、症状はきわめて重く、今晩が峠だとのことだった。そのあと父は、えりかに付き添ってくれていた佐藤さんから、えりかがいつも軒下でつららとおしゃべりをしていたということを初めて聞かされた。話を聞き終えると、父はだまって病室を出て行こうとしたので、佐藤さんはけげんに思って呼び止めた。
「えりかちゃんに付き添ってあげないんですか」
父は振り向かずに答えた。
「ちょっと必要なものを家から取ってきます。佐藤さんはお帰りになってください。今日はほんとうにありがとうございました」
そして、そのまま立ち去った。
父が向かった先は佐藤さんに言ったとおり、自宅だった。まず物置に行って雪かき用の長い柄のシャベルを持ち出すと、父はぎらぎらと目をひからせて軒下に向かった。つららを屋根からたたき落としてしまうつもりであった。
だが、勢い込んで踏み込んだ軒下には、つららの影もかたちもなかった。父は拍子抜けして、ぼんやりとあたりを見まわした。よく見れば、地面になにか大きなものが落ちたような跡があった。つららはこの暖かさでひとりでにとけて軒から落ちたのであろうか。それにしては、つららそのものはどこにも見当たらなかった。佐藤さんの話では、そうとう大きなつららだったらしいから、半日かそこらですっかりとけてしまったとは考えにくい。まさかつららが歩いてどこかへ行ってしまうはずもない。
父はしばらくのあいだシャベルを手に立ちつくしていたが、やがてわれに返ると家に入って、保険証やえりかの着替えを揃え、病院に戻っていった。
父が家の軒下で立ち往生していたのと同じころ、病院では小さな異変が起こっていた。
えりかの病室の前をとおりかかった看護師が、えりか以外だれもいないはずの部屋の中に、ふと人の気配を感じたのである。ドアを開けてみると、やはりベッドに横たわるえりかのほかには人はいなかったが、病室の窓が開きっぱなしになっているのが怪しかった。いかにもたった今まで誰かがこの部屋の中にいて、人が近づいてきたので窓から逃げ出したといわんばかりの状況だった。だが、部屋の中をさらに調べてみてもなくなっているものなどは見当たらず、えりかのベッドの脇の床に小さな水たまりがあるのが見つかっただけだった。
看護師ははなはだ不審に思ったが、仕事に追われていて時間がなかったので深く追及はせず、窓を施錠して床をふくにとどまった。
その晩、くだんの高崎が何者かに襲われて大けがをするという事件が起こった。
高崎は塾からの帰り道で背後から突然なぐりつけられ、倒れたところをめったうちにされたのだった。いきなりのことで犯人の姿を見てはおらず、目撃者もいなかったために、捜査は行き詰まった。第一発見者となった近所の住民が、現場に氷のかけらがたくさん落ちていたことをおぼえていたが、警察が調べたときにはすでに溶けてなくなってしまっており、手がかりにならなかった。警察では、もしかして氷を凶器として用いたのではないかという見方も出たが、証拠がないので掘り下げて調べることはなかった。
えりかの入院は十日間におよんだ。
病院に入っているあいだ、担任の教師やクラスメートが何度か顔を出したが、いかにもついでに寄りましたといったふうであった。ついでとは、同じ病院に入院した高崎を見舞うついでである。高崎のほうは全身十箇処以上の骨折で全治二ヵ月だった。
クラスメートたちのなかには、えりかが高崎を襲ったか、少なくとも襲撃を手引きしたのだと考えるものが少なくなかった。実際には高崎が襲われた時刻にはえりか自身も病院で生死の境をさまよっており、あきらかに潔白だったのだが、疑う者にとってはそれすら手の込んだアリバイ工作に見えたようだった。あるクラスメートは、ベッドに横たわるえりかに向かってこう言いはなった。
「高崎にうらみのあるやつなんて、あんた以外にいないじゃない。あんたが手をまわしたんでしょ」
えりかはだまったまま何も答えなかった。
退院の日になった。えりかの父は、病院での手続きをすませてえりかを家に送ると、おとなしく休んでいるようにと言いつけて仕事に行ってしまった。えりかは軒下に向かった。
「つららら」
そこにはつららはない。大小を問わず、一本もない。入院しているあいだにあたりの雪もあらかた溶けて、すっかり春の風情であった。
「つららら、わたし、あんなことしてほしくなかったよ。それより、ずっといっしょにいてほしかった」
そのつぶやきに答えを返すものはいない。そして、日が暮れてあたりが暗くなるまでえりかはそこにいた。せまい軒下にえりかの細い歌声がいつまでもこだました。
つららら やさしいつららら
つららら きれいなつららら
ふたりでくらそう つらららと
つららら つららら