二 クォーター
神戸の元町にある小さな事務所。キーボードを叩く者、電話で何やら対応している者、それぞれがあくせくと働いている。ここは、外国向けの商品又は輸入ものの商品についている説明書などを自国向けに翻訳する会社で、事務所の机の上は、大中小の企業から依頼されてきた取説の束が乗っている。
入社2年目の朱音は、その英訳の業務を担当しており、日夜やってくる日本語の説明書きを自分の表現で翻訳し、上司にその決裁を貰う。それを元に修正推敲、レイアウト等をして冊子にするのである。
アイルランド系アメリカ人の祖母を持つ朱音であるが、日本生まれの日本人である。髪は濃い茶色であるが、同世代の若者の女性と違う程でなく、強いていえば少し色白に感じる程度で、見た目でも彼女がクォーターであることは分かりにくい。特に相手から聞かれない限り、自分から言い出さないことが日本の社会を円滑に生きる方法であることを自然に学んだ。
日系二世である父の仕事の関係で子供の時はアメリカに住み、現地の学校に通っていたこと、帰国後も家では英語で話す機会が多かったことなどから、英語で意思の疎通が問題なくできる。そんな経歴もあり、地元の短大を卒業後、この会社に就職する運びとなった。最初の一年は営業として得意先回りで新人修行、それも無事修了し今春、希望通りの翻訳係に配属となった。
朱音は電化製品や玩具などの取説を昨日の内に英訳し終え、上司に提出済みで、今日は得意先と電話でやり取りするのが主な仕事だ。
翻訳という業務は元の文章があって、適切な訳が求められる。朱音にとっても興味はあるが難しい業務であると心得ていて、会話と違ってなかなか思うような翻訳ができない。しかし、電話対応に関しては彼女のアメリカ訛りの英語の方が他のスタッフよりウケが良い。
デスクで書類を読んでいた上司が朱音を呼ぶ。朱音は返事をしてデスクの前に立ちどまる。
「はい、」
上司が朱音の書いた翻訳文を朱音に返す。
「あのね」少し呆れた表情で続ける。
「これは子供向けの書類じゃないんだよ。君の書き方だと女子高生の雑談みたいな言葉に取れる」
朱音なりの一生懸命をダメ出しされたのが悔しい。いつものことではあるが、取り敢えずは少しでも認めて欲しいので意見をする。
「この方が分かりやすいと思たんですけど――」
「うーん、普段の会話ならいいよ」
それなりに頑張っている朱音の姿を見ているので、少しはフォローがある。
「しかしこれは取説なんだよ、いつも言ってるけど口語過ぎる。もうちょっとマニュアルに沿った翻訳をしてほしいな……、残念やけどやり直し」
――がっくり。朱音は肩を落として自分のデスクに戻る。最近確かにスランプだ、マニュアルにある硬い表現が自分には受け入れられない。
「確かに現地の人らしい表現なんやろうけどなぁ、これって。さっきまでキミが電話対応してた時の表現やもんね。ただこれでは全ての人が読んで分からんし、上に上げたら俺が怒られちまう」
結局それだ――。立場上の言葉と自分はクォーターであることが前提の言い方か――。
朱音はまだ新人である分大目に見て貰ってるのはわかる。だけどいつまでもヒヨコ扱いでなく、早く正しい立場の評価で納得のいくOKが欲しい。
それから朱音は休憩室に入り、大きな溜め息をついて席に座る。その姿を遠くで見ていた同僚の智香が遅れた昼食を手に朱音の前に座ってきた。
「よっ、朱音。どうしたの、大きな溜め息なんかついたりして」
「はぁ、見られてた?」
智香は朱音と同期入社だ。今は出来上がった英訳文をパソコンでレイアウトして冊子を作る仕事をしている。最近朱音の書いた書類が回ってこないので、彼女が最近スランプなのがわかっているようだ。
「主任の決裁が厳しくてねぇ」
朱音は同僚を前にふと本音が漏れる。そして自分のしていることが間違っていないことを付け加えるのを忘れない。
「フォローはして貰ってるけど、アタシ的にはね、今までの見たことないようなモノをつくりたいのよ。取説って蔑ろにされやすいから、それを読んでもらえるような……」
今の仕事が嫌いではないが、本当は取説のような淡々とした文章ではなく、詩や物語といった行間のある文章の翻訳をしたい。抱く夢はそれなりに大きいが、今の仕事もこなせないようならそれも遠い夢だ。智香も朱音の言うことには納得して一緒に頷いている。
「でもさ、アタシって会社では身上で偏見持たれてるんかな?」
「偏見?」
「クォーターだから?外国に住んでたから?それだけで言葉がわかるなんて大間違いだよ」朱音の息が荒くなり始めた。
「ちょっと、朱音――」
「ごめん、でもねこれだけはわかって欲しいの」
朱音はこんこんと説明をする。言葉に詰まることなく次々と喋りまくる。彼女は今まで何度もこの説明をしているんだろうなと智香には見てとれた。
外国に住めば現地の言葉がわかるというのは偏見でありいずれも間違いということ。言葉を理解するのは教育を受けたからであり、さらに言葉を駆使するために自ら勉強を続けているということ。始めからできたのではない、同様に学校で勉強したから理解ができるのだ、と。
「基本的に人って偏見持たれたら変えらんないんだよ。同じ言葉でも言う人で意味合いが変わってしまう」
朱音の経験がそのような答えを導いた。
「アタシもそれなりに考えて翻訳しとうんやけどなぁ……」
朱音の言う考えと会社の言う考えとは歯車が噛み合っておらず、今のまま頑張っても空回りを続けることには本人は気付いていない。
「朱音ぇ、ちょっと落ち着こうよ。私は朱音がそうやって挑戦するところはスゴい好きよ」
智香は朱音を宥め、話題を変える。
「そんな時はストレス発散しなきゃ。ところで朱音は今日空いてる?段取りしたげよか?」下がり調子の朱音を見ると智香は朱音をよく誘ってくれる。何がとは聞かない、智香が言うそれは合コンのことだ。
「今日も行くの?あんたも好きねえ、てかそんな話がよくあるわねぇ」
「そういや朱音には浮いた話って全く無いわよね。」そう言いながら朱音の顔をじろじろ見る「興味ないの?もしや朱音――」
朱音は一歩後退り、両手を振って答える。「あのね、私は――」苦笑いをしながら答える。
「興味がなくはないけど、今は人と付き合う余裕がない。それに今日は家の事もあるし、クルマにも乗るし、それに、お酒飲んだら失敗するから……」
いつもの言い訳で誘いをかわす。
「そうだったわね。朱音も偉いよね、仕事のあとに家事までするんだから……」
「ううん、必要からすることやしね」
「でも、都合のいい時は言ってよ、段取りするからさ」
智香にとって朱音は重要なカードだ。見た目も持ってる話題なども合コンするには合格点を着けている。
「えへへ、ありがとね」朱音は段取りを取ってくれることにではなく、同僚の気遣いに感謝した。
程なく上司が朱音を呼ぶ声がした。いつもの電話ヘルプだ。
「はーい、今戻りまーす。」暫しの休憩を終えて朱音はデスクにかけ戻って行った。
「人って変わらない――」
朱音はそう考える。自分がクォーターで、外国育ちである事は変えようのない事実だ。人の性格も同じようなものだと言う。それでも現状を打破すべく効率悪くもがいていることは自分がよく知っている。
ただ、自分の考えが相手に壁を作らせていることには今の朱音には気付いていないようだ。