二 上京
出発の時間が刻一刻と迫ってきた。年末の神戸は天候は良いが気温は低く、外でじっとしていられない。篤信たちも見送りで前まで出てきた篤信の両親も寒そうに体を縮こませて、小刻みに動いている。こんな中で元気なのは柴犬のドンくらいだ。ドンは遅い時間でも、遅れて西守医院にやって来た名付け親である陽人が構ってくれることで喜んでいる。
篤信は下宿に持って帰る荷物を積み込んでトランクを閉めた。
「積み込み終わったよ」
「こっちも大丈夫、と」
今日の大役を務める朱音は車の点検を行っている。
「さあ、行こうか、あれ、悠里は?」
「まだ家の中とちゃうの?あ、来た来た」
慌てた様子で悠里が家から出てきた。
「さてはまた忘れ物だな?」
これで西守医院前に見送りの先生二人を含めて全員が揃った。
「朱音ちゃん、気をつけてよ。先生は心配しとうんやで」
西守先生は朱音とお別れの握手をした、横で見ている篤信が呆れ顔を父親に向けた。
「冗談やんか、冗談」先生は頭を掻きながら大笑いをする。
「思うようにやってみろ、後悔はするな。どっちゅ事ない」
そう言って右の手刀で息子の小手を打った。
「ありがとう、父さん、母さん。僕、もうちょっと頑張るよ」
篤信は助手席に乗り込んだ。朱音の合図でドンと遊んでいた陽人と悠里も後ろの席に乗り込んだ。
「それじゃ、行きまーす」
最後に乗り込んだ運転手は車をゆっくりと発進させた。篤信の再スタートは、彼を救った者みんなが彼の背中を押したのだった。
車は東へ進む。年末の帰省ラッシュは今のところ問題ない。神戸を経って三時間、単調な高速道路の風景と周囲の暗さで、朱音は少し眠くなってきたが、大きなあくびを一つして眠気を払う。
「しかし、いきなり戻るって言うの?年明けまでいればええやんか」
朱音は眠気紛らしにちょっと本音を漏らす。
「でも何かこれが篤兄って感じもするけど」
出発前に西守医院で悠里とママ先生が作った夜食を摘まみながら陽人が合いの手を入れる。
「ごめんね、みんな。感謝はしてるけど、こうすることが僕の最良の答えなんだ。――、ところで悠里ちゃんは?」
「寝たよ」
今年もあと数日。朱音の運転で篤信を横に乗せ、後ろに陽人と悠里を乗せている。時間は日付が変わった頃、まだ小学生の悠里は陽人にもたれかかり寝息をたてている。
東京の大学に通う西守篤信は、学業、人間関係が思うようにいかず、そして少しのホームシックで故郷の神戸に帰ってきたのはおよそ半月前のこと。大学の留年が決定的となるどころか卒業まで勉強を続ける気力さえも失い、今まで挫折知らずの神戸の神童にとっては失意の帰郷だった。
幼馴染みの朱音をはじめ、彼女の弟妹たちと接する事で、見失いかけた自分から吹っ切れる事が出来、東京に戻ることを決めた。一年で間に合うかは分からないが、まずは遅れたって構わない。今できる事をしよう、自分の夢を実現させよう。五年前に上京したときよりも確かに強い気持ちがある。
朱音は篤信の固い意思に反対はしなかった。正直もう少しいて欲しかった。しかし、篤信が本来の自分を取り戻そうと奮起しているのを止めることなんてできない。陽人がいう「篤兄らしい」と言えばその通りよね、と言いながら少し睡魔が朱音を誘うが、まずまず軽快に運転をしている。夜が長いので、朱音も眼鏡を掛けている。きょうだい三人とも近眼である。
「音々ちゃん、眠かったら言ってよ。運転変わるから」
篤信は朱音を気遣うも、朱音は視線を変えることなくクスッと笑う。
「――いいよ、気を遣わなくても。私、運転するの好きだから」
「お姉は運転上手だから」陽人は精一杯のフォローをするも、
「僕が運転苦手なのは定説になっちゃったかな」と篤信は苦笑いをした。
「篤信君が運転したら悠里が起きてしまうわ」
朱音はちょっと意地悪なことを言ってみる。起きている三人は声を出して笑うと、眠っている悠里も釣られて顔を少しほころばせたが、起きること無く眠りに落ちていった。
「まあ、とにかく。こうやって東京まで送ってくれるってのが僕は嬉しくてさ、ホントに感謝してるよ」
朱音は、少しだけでもいいから一緒にいたい。なかなか素直に言い出せない、一人で送るにも照れくさい。というか間が持たない、多分。そこで弟妹をダシにして、陽人と悠里も連れてきたのだが、二人も旅行気分で結構喜んでいる様子だ。まだ小学生の悠里は出発前に張り切りすぎてもう電池切れだ。
「陽人君もありがとうね、東京まで来てくれるなんて」
篤信は後部座席の陽人に目を遣った。少し眠そうな顔をしているが意識はまだしっかりしている。
「実はね、ついでの用事ができたから助かったんだ。自分的には」
「助かった?」
前の二人が声を揃えた。
「うん、ちょっと前から東京にいる先輩と連絡取ってたんやけど、ちょうどこの話があったから助かったんだ」
「あんた、そういうところしっかりしてるわね」
「この話がなかったら夜行バスでしょ?だったら行くかどうかも分からんかったし」
今度は陽人の方から二人に御礼を言った。
「篤兄の下宿もどんなんか見てみたいな」
「陽人君は独り暮らししてみたい?」
「いずれはね。いつまでも妹と相部屋ってわけにもいかないでしょ。悠里だって中学生になるんやしさ」
陽人も来年は高校三年生になる、具体的なものは見えていないが独立して家を出ようと考えている。篤信と同じ進学校に通う陽人であるが、学力とは別に、家庭での現状を考えると進学することに障害がないとは言えない現状にある。それでも現役の大学生はどんなものかという興味は多分にあり、近い将来の判断材料にしたいのもあった。
車は名古屋を過ぎて、名神から東名に変わる。夜も深くなり、貨物車の割合が格段に上がってきた。それでも朱音は調子を変えずに運転を続ける。
「本当はね、戻るって聞いて正直安心したの」朱音は篤信の顔をチラッと見て、視線を前に戻す。
「このまま戻らなかったら誰だって『どうしたの?』ってなるじゃない」
朱音は前を向いたまま笑顔になった。
「もしも、もしもだよ。僕が大学辞めて帰ってきたらどうしてた?」
「もぉ、そんな質問止めて欲しいな。お兄ちゃんはお兄ちゃんよ。何も変わらないわよ」
「そうだったね。ごめんね」
「でもこれからは困ったことあったら相談してよね。神戸に戻ってきてもいいけど――」
「はい。以後注意します。反省、反省」
朱音は篤信を掌で操れている。ドライブ出来るのは車だけではないようで、車内にいる男二人は朱音の姉御肌に従ってしっかりと注目していた。
「僕が戻ろうと思ったのは、悠里ちゃんが教えてくれたからなんだ」
篤信は後部座席で寝息をたてている悠里の顔を見た。眼鏡を掛けていない顔もかわいい。
「悠里ちゃんは、大切な人には強がったらいけないってさ。それで正直な気持ちになれた。」
篤信は昨日の夕方の事を朱音たちに話した。
「悠ちゃんもしっかり言うこと言うようになったんやねえ」
朱音はミラー越しに陽人の顔を見た。「軽い気持ちじゃ伝わらない」と弟に言われた事を思い出したからだ。陽人は姉と目が合ってちょっと恥ずかしがって、はにかんで見せた。
結局のところ、陽人も悠里も同じものを見ているのかなと朱音は思った。
「とっても純粋な子だ。それでいて小さいのにしっかりしてるよ」
篤信は助手席から腕を伸ばして、悠里の頬を突いてみた。悠里は笑顔を返すが目は閉じたままだ。
「うーん、それはどうかな?」
朱音はバックミラー越しに弟と目が合うとお互い笑いだした。
「悠里がしっかりしとうって?」
二人の話すタイミングがピッタリだ。
「篤兄は騙されとうって」
「『しっかり』はしてないよ、この子は――」朱音が冷たい笑みを見せる。
「倉泉悠里の忘れ物王伝説教えようか」
陽人は肩に持たれて寝ている悠里の頭を動かして、意地悪にも妹が寝ている事を確かめる。
「うわぁ、悠里ちゃんのイメージ変わってしまいそう……」
篤信も苦笑いをするが、ちょっと聞いてみたい素振りをする。
「メモはマメにするんやけど、そのメモをどっかやってしまったり……」
「こないだなんか忘れ物取りに帰って、違う物持ってきて、もとの忘れ物を忘れたり……」
笑い声が聞こえたのか、寝ている悠里はしかめっ面をしながらうめき声をあげる。そこで陽人はもう一度悠里が寝ているかを確認した。
「でもね、純粋なのは当たっとうね」
ここで姉のフォローが入る。
「それは否定しない。悠里は俺たちと違って、すれてない」
「あの環境ですれてないのは奇跡に近いよ」
二人は度合いは別として、希薄な家庭の中で少なからずもすれてしまった事を認めている。姉として、兄としてまだ純粋な妹を守ってやる義務みたいなものがあることを二人は無言の内に確認し、篤信も姉弟が目で話をしている内容が理解できた。
「悠里がいるから、ウチはうまく保っている」
「忘れ物が多いのも愛嬌の内……、今のところは」
姉弟は悠里が寝てる事をいいことに、本人を前にして言えない事を言っては笑っていた。篤信はその中に入っていいものか考えたが、結局同じように笑った。
「大切にされてるんだ……」
篤信は悠里の寝顔をもう一度見た。彼女の存在が年の離れた姉と兄の支えになっていることは本人は知らないだろうが、その寝顔は得意気に笑っているように見えた。




