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帰郷  作者: xxx
第一章 誰にだって上手くいかない時って、あるよね。
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一 神童

 六甲颪とも言われる、冬の六甲山から吹き下ろす風はとても寒く、道行く人の身体を縮こませ、一気に海へと突き進む。海も白い波を激しく立てて、人を寄せ付けようとしない。山は薄着になり、頭には白い帽子を被っているのもちらほら見られる。風は、気持ちの隙間を狙って吹き込む。今日はそんな天気だ。

 年の瀬も迫ってきた12月の昼下がり。六甲の駅に一台の電車が停車し、暫しの停車の間に数名の乗客を入れ替え、再び走り出す。降りた乗客はそそくさと改札口の方へ向かうのだが、篤信は一人、肩に掛けていた大きな鞄をホームに下ろし、大きく一回伸びをして深呼吸をした。

「はぁ」溜め息とも、深呼吸とも取れるような深い息を吐いた。「久しぶりだ、神戸もあんまり変わってないなあ」篤信はそう言いながら周囲を見回す。そして、天を仰ぐ。寒い冬空だ、空気が冷たい、気分が冴えない。

 篤信は地面に降ろした荷物を再び肩に掛け、前を向いてゆっくりと歩き始めた。強い風がまた山から吹いて来る。

 医学部の6回生である西守篤信は東京の大学に通う大学生。卒業まであと少しというところなのであるが、実家のある神戸に帰郷してきたのだ。思えば今から五年前の春、医師になることを目指し、ここから旅たった。「医者になるまでは戻らない」そう宣言して。今、彼がここにいることはその「宣言」が実現できないことを表す。帰ってきたのには当然理由があるのだが、それもなかなか言い出せず、改札口を出て迫りくるように聳えている六甲の山に向かって、その足取りを進めて行くのだった。


 篤信は山が迫り来るような坂道を登り、六甲山の西、摩耶山の麓当たりにある一軒の病院の前で足を止めた。『西守医院』と書かれた看板が掛かってある。篤信の実家だ。時間は午後の診療前なので、周りに人はいない。篤信は目の前の実家をなにも言わずにただ立ち尽くしていた。帰ってきた、帰ってきてしまった――、複雑な気持ちを交差させた。

「ここまで来といて引き返せないよな……」篤信は気持ちを切り替えて病院の裏に回り、玄関に向かおうとした。すると、玄関前に繋がれている柴犬のドンが久方ぶりの帰郷を出迎えた。篤信の強ばった表情が少し和らいだように感じた。

「ドン、帰ってきてしまったよぉ」自信のない声でドンをあやすと、大きく尻尾を降って主人の帰りを歓迎した。

「お前は俺を覚えてんだな……」

 ドンの鳴き声を聞いて、病院の方から出てきた受付の女性が犬をあやす篤信を見つけて、嬉しそうに声を掛けてきた。

「あらぁ、篤信君」

 篤信が小さな時から西守医院で受付をしている女性だ。勿論、篤信が神戸でどのように育ったのかをよく知っている。

「先生から今日帰ってくるって聞いてましたよ。ささ、仲へ」

篤信は力の無い笑みを見せた。

「しかしまぁ、立派になられて。どうですか?勉強の方は」

久し振りの再会を喜んでくれているのは分かるが、篤信はあまり元気がない。

「まあまあです、父は、中にいるんですよね?」

「診察室にいらっしゃいますよ」

篤信は力無くお礼を言って、診察室の中に入っていった。


「入るよ――」

 篤信はそう言って西守医院の診察室に入る。デスクでは父が午前中に診察した患者のカルテを診ていた。久し振りに見る父の背中は以前と変わった様子はない、少し白髪が増えたくらいか。

 父は息子の声を聞いて作業をしていた手を止め、ゆっくりと振り返った。目の前に立っている篤信を見て表情を変える訳でもなく、ただ大人になった篤信の全身を下から上と一度見流した。

「また背が伸びたか」父は患者に勧めるように椅子を差し出すが、篤信は立ったまま顔を向けている。

「帰って参りました」篤信は改めて挨拶をする。

「一度帰っておいでとは言ったけど……、今回は本当に帰って来たな」

「――そうだね、その気は無かったけど、父さんに言われるとね」

「おいおい、私は無理強いはしてないんやけどなぁ――」父は小さく笑いながら自分よりも大きくなった息子の顔を見た。篤信はハッと息を呑んだ。

「別に怒ったりも嘆いたりもせんよ――。人生そうトントン拍子には進まないさ」

篤信は父と視線を合わせた。言葉に裏はない。その目は優しく、いつもの父と変わらないそれだ、話さなくても心の声を読まれているかのような。

 篤信は今まで父に怒られたことがない。それは篤信ができた子供であったこともあるが、父の目には自省を促す眼力があるからだ。

「正直に言うよ。ショックに思わないでよ」篤信は観念した様子でぽつりぽつりと話し出した。

 大学でちゃんと勉強はしているものの、大学の授業に付いていけないこと、東京に相談相手になってくれるような人間関係が築けていない現状、おそらく留年するであろうこと。

 自らを律してきた自分に限界が感じられ、そんな中で父から帰省の誘いがあったのでここに帰って来た事――。

「以上か?」

父の素っ気ない返答。篤信はもう一度回答を考えたが、それ以上はまとまらなかった。

「大体そんなところです」

父はもう一度息子の顔を見た。ほんの数秒ほどだったが、篤信には長く感じた。

「留年しても気持ちは続くか?」

篤信は即答できないのを父は見逃さなかった。

「重症かな」父はそれでも暗い顔はしない、凹んで帰って来た息子を見て。

「付いて行けないなら辞めても構わんよ。医師だけが職業でもない。ただ自分がどう思うかだ」

父は息子を見上げると篤信の背筋が伸びた。

 授業に付いていけないのは内容が難しいからではない。すべてのリズムがずれている、それをアジャストする方法が分からない。それが出来ない限りたとえ留年しても卒業できる自信は今の篤信にはない。だからといって大学を辞めて新しいことを始めるという自信も希望も思いきりもなく、結局宙ぶらりんな状態でいる自分が嫌だった。

「私だって大学入るのに3年足踏みしてる。篤信の同期生も大体が年上だろ?それに6年で卒業できん人もザラにいるし、ケツ割ってしまう人もいるだろう?」父は立ち上がり、篤信の肩を叩き後ろに立つ。

「考え過ぎなんだよ」

診察室が一瞬静かになった。

「帰らないと言ったのも自分で言ったことやし、私はそうしろと言ってもないぞ。第一私は……」

篤信は後ろを振り向く。

「篤信に医者になれとも言ってないしな――」

「えっ、確かにそうだ」篤信は気付いた。今まで頑張ってきて、そして躓いた。それは親の期待でもない、自分が自分のためにしたことを。

「気持ちが途切れてないなら一年でも二年でも余分に勉強したらいい、そして帰って来たんなら休め、焦ったらドツボだ。それも勉強だ。」

父は篤信の気持ちを完全に手玉に取って自在に操る。篤信はなすがままだ。

「あともう一つ。折角帰ってきたんやから、人に会ってきなさい。神戸の人なら話せることもあるだろう」

父は息子の表情をもう一度確認して再び笑い声をあげた。

「何だ、心配するほどの事でもなかったな。焦らんでええ。まだ篤信に病院譲るほど耄碌してないぞ私は。時間掛けてもいいから、自分なりに納得するまで考えるといい。さぁ、お茶でも飲もうかな……」

 父は笑いながら診察室を出ていった。父にすれば篤信の悩みなど大した事ではないようだ。

「あ、それと。ドン連れて散歩にでも行っといで」

去り際に父がそう言った。すると病院の外でドンが呼ぶ声が聞こえた。


 散歩に出る前に篤信は一度自宅に入る。西守医院の二階がそれだ。ピアノを教える母が部屋を一つ教室にしているほかは、篤信に兄弟がいないので部屋数も同じ街区と較べて多くない。篤信の部屋は奥の洋室で、主はいないが母が綺麗に掃除しており、上京したときのままだ。

 今日は母も外出しているようで、家には篤信一人だ。篤信は荷物を下ろし、机に腰掛け、大きく深呼吸を一回した。本棚には大学受験でお世話になったボロボロの参考書、テレビ台の上にはお気に入りのカメラ、机の横には竹刀袋、そして壁に掛かってある額の写真。額の中に数枚の写真が重なりあって飾ってある。それもそのままだ。

 篤信は写真の前で固まった。額にある写真は、古いものでは篤信が五歳くらいのもの、一番最近の物では高校の頃に剣道の試合に出た時のものだ。どれもいい顔をしている、篤信だけでなく、一緒に写っている人も。

 地元の中学高校では成績は常にトップだったし、運動では剣道部の主力を張り、一番でなくとも鍛えた体力と精神は申し分ない。いってみればこの額は神戸にいた篤信の挫折のない歴史である。しかし、額の下枠に篤信が書いた、


「立派な医者になってやる!」


という意気込みが目に入り、篤信は少し恥ずかしく、そして空しく感じた。

 それから篤信は横にあった竹刀を袋から出しては構えたり、カメラを手に取りレンズを覗いたり、そして写真の方を見たり、自分の時計を逆戻しした。

「みんな、どうしてんだろ……」篤信は自分ではなく、一緒に写っている人に目を遣った。

「帰ってきたけど、その話し相手もいるのかどうか……」ネガティブな独り言を言って、時間が徒に過ぎそうになったところを、家の外で待っているドンが篤信を現実世界に引き戻した。

「あ、いっけね……」

篤信は急いで階段を降りて、外へと駆け出して行った――。




 

 

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