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帰る家

作者: asnt2026
掲載日:2026/09/13

 午後四時十七分。


 相沢雅人のスマートフォンが、机の上で短く震えた。


 画面に表示された名前を見て、雅人は一度だけ時計を確認した。


 ――美咲。


 この時間に妻から電話がかかってくることは珍しかった。


 五歳になる娘の莉央を幼稚園へ迎えに行き、そろそろ家に着く頃だ。買い忘れでもあったのだろうか。牛乳とか、トイレットペーパーとか。帰りに寄ってほしい、と言われることはたまにある。


「もしもし」


『……雅人?』


 それだけで、雅人は姿勢を正した。


 美咲の声がおかしい。


「どうした?」


『変なこと言っていい?』


「何?」


 電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。


『笑わないでね』


「笑わないよ。何があった?」


 少し間があった。


『何かが、ついてきてる気がする』


 雅人は眉を寄せた。


「何かって、人?」


『分からない』


「誰かに後をつけられてるってこと?」


『違うと思う』


「じゃあ車?」


『そういうんじゃなくて……』


 そこで声が途切れた。


 雅人は立ち上がり、窓際へ寄った。会社の外にはいつもと変わらない夕方の街が広がっている。まだ明るい。人も車も普通に動いている。


『見えないの』


「え?」


『何も見えない。でも、いるの。莉央を迎えに行った帰りから、ずっと後ろにいる感じがして』


 雅人は言葉を探した。


 疲れているんじゃないか、と言いかけてやめた。


 美咲は怖がりではない。


 夜中に物音がしても、自分より先に廊下を確認しに行くような女だった。


「今どこ?」


『家』


「鍵は?」


『閉めた』


「カーテンも閉めて。玄関から離れて」


『うん』


 そのとき、電話の向こうで莉央の声が聞こえた。


『ママ……』


 泣いている。


「莉央も一緒だよな?」


『いる。大丈夫。いるけど――』


 ブ……。


 低い音がした。


 雅人はスマートフォンを耳から少し離した。


「今の何?」


『分からない』


 ブ……ブ……。


 一定の間隔で、何かが震えているような音。


『雅人』


「うん」


『玄関の外まで来てる気がする』


 電話が切れた。


 雅人は数秒、画面を見つめた。


 通話終了。


 もう一度かけた。


 呼び出し音は鳴る。


 出ない。


「相沢さん?」


 後ろから声をかけられ、雅人は振り返った。


「すみません。妻と娘がちょっと……家でトラブルみたいで」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。


 上司が何か返事をした。


 たぶん、早く帰れ、という意味だった。


 雅人は机の引き出しを閉め、鞄だけを持って会社を出た。


 駐車場まで走った。


 四十七歳の身体には、ほんの百メートルでも思った以上に堪えた。


 エンジンをかける。


 ハンドルを握った手が汗ばんでいた。


 美咲にもう一度電話をかけたが出ない。


 メッセージを送る。


〈今から帰る。家から出るな〉


 既読はつかなかった。


 車を発進させる。


 信号が赤になる。


「くそ」


 声が出た。


 こんなときに限って、前を走る車は遅かった。


 ウインカーを出すのも、横断歩道を渡る学生を待つのも、全部が腹立たしかった。


 早く。


 早く帰らなければ。


 美咲と莉央のいる家に。


 やっと手に入れた家なのだ。


 ようやく。


 本当に、ようやく手に入れた。


 それを何か分からないものに壊されてたまるか。


 雅人は奥歯を噛みしめた。


 昔から結婚願望が強かったわけではない。


 三十代の頃は、むしろ独身の気楽さが自分に合っていると思っていた。


 土曜日は昼まで眠り、好きなものを食べ、欲しいものを買う。


 友人が結婚したと聞けば祝ったし、子供が生まれたと聞けば写真を見せてもらった。


 羨ましくない、といえば嘘になる。


 ただ、自分にもいつか来るだろうと思っていた。


 そういう人生が。


 三十八。


 三十九。


 四十。


 気がつくと、「そのうち」という言葉だけが取り残されていた。


 そこから婚活を始めた。


 最初は簡単に考えていた。


 真面目に働いている。借金もない。煙草も吸わない。酒は多少飲むが、暴れるほどではない。


 人並みだと思っていた。


 だが、人並みというのは、自分で決めるものではないらしかった。


 写真を撮り直した。


 服も買った。


 美容院で「若く見えるようにお願いします」と言ったときは、自分でも少し情けなかった。


 婚活アプリを開き、何人にも「いいね」を送り、返事が来なければ、また別の誰かを探した。


 一度、三回目の食事まで進んだ女性がいた。


 帰り際、その女性が笑って「今日は楽しかったです」と言った。


 雅人も楽しかった。


 久しぶりに、次の週末が待ち遠しいと思った。


 翌日の夜、メッセージが届いた。


〈とても良い方だと思うのですが、恋愛という感じにはなれませんでした〉


 画面を見ながら、しばらく動けなかった。


 怒る理由はどこにもなかった。


 相手は悪くない。


 自分も悪くない。


 誰も悪くないのに、うまくいかない。


 それが一番つらかった。


 何度目か分からない「ご縁がありませんでした」を受け取った夜、雅人は一人で酒を飲みながら思った。


 もういいか、と。


 自分は誰かに選ばれる側の人間ではなかったのかもしれない。


 そうやって人生は、静かに形を決めていくものなのだろう。


 諦めかけた、その少し後だった。


 美咲と出会った。


 美咲は、雅人よりずっと若かった。


 初めて見たとき、本当にこんな人が自分の前に座ることがあるのかと思った。


 大きな目。長い髪。笑うと少しだけ目尻が下がる。


 育ちがよく、実家にも余裕があった。


 雅人は何度か聞いた。


「本当に俺でいいの?」


 そのたび美咲は嫌そうな顔をした。


「またそれ?」


「いや、だってさ」


「そういうこと何回も聞かれる方が嫌なんだけど」


「ごめん」


「自信ない人は好きじゃないよ」


 そう言いながら、次の瞬間には笑っていた。


 完璧な女ではなかった。


 朝が弱かった。


 休日は昼近くまで布団から出ないことがある。


 料理も得意ではなく、一度、肉じゃがを焦がして鍋ごと捨てようとして雅人に止められた。


 車庫入れが下手だった。


 助手席の雅人が口を出すと、


「じゃあ自分でやれば?」


 と本気で怒った。


 洗濯物を畳むのも嫌いだった。


 少し口も悪い。


 それでも、美咲が隣にいるだけで、雅人は自分の人生が急に別のものになったような気がした。


 婚活中に始めては三日でやめた筋トレを、今度は続けた。


 酒も減らした。


 シャツにアイロンをかけるようになった。


 美咲に好かれるためというより、彼女の隣にいる自分を、自分自身が嫌いになりたくなかった。


 しばらくして結婚した。


 そして莉央が生まれた。


 信号が青になる。


 雅人はアクセルを踏んだ。


 ふと、美咲と初めて会った日のことが頭に浮かんだ。


 ――どこだったっけ。


 一瞬だけ、奇妙な空白ができた。


 カフェだったか。


 駅の近くだった気もする。


 知人の紹介だっただろうか。


 いや、偶然だったはずだ。


 雨が降っていた。


 そんな気もする。


 美咲が初めて笑った顔は覚えている。


 そのとき着ていた白い服も。


 なのに、その直前だけがない。


 雅人は頭を振った。


 今はそんなことを考えている場合ではない。


 動揺しているだけだ。


 家に着けば全部どうでもよくなる。


 莉央は、美咲によく似ていた。


 五歳にしては少し小柄だった。


 右の頬にだけ、えくぼができる。


 朝、雅人が出勤しようとすると、必ず玄関まで走ってきた。


「パパ、いってらっしゃいのギュー!」


 最初の頃は照れくさかった。


 美咲が後ろで笑っているから、余計に。


 それでも毎朝しゃがんで、莉央を抱きしめた。


 いつからか、それをしないと一日が始まらない気がするようになった。


 ある朝、莉央が寝坊して起きてこなかったとき、雅人は意味もなく玄関で数秒待った。


 その自分を美咲に見つかり、ずいぶん笑われた。


「そんなにギューしてほしいなら私がやろうか?」


「それはいい」


「なんでよ」


「朝から疲れる」


「最低」


 そんな会話まで、雅人は覚えている。


 家族でスーパーへ行ったこと。


 風呂上がりに莉央の髪を乾かしたこと。


 美咲に隠れて父娘でアイスを食べ、二人まとめて怒られたこと。


 美咲の実家から援助を受けて買った家。


 少し広すぎると思ったリビングも、莉央が走り回るようになるとちょうどよくなった。


 全部、覚えている。


 なのに。


 雅人はハンドルを握りながら、急に思った。


 莉央が一歳の頃は、どんな顔をしていた?


 胸の奥が、わずかに冷えた。


 写真なら山ほど撮ったはずだ。


 初めて歩いた日。


 初めて「パパ」と言った日。


 思い出そうとした。


 何も出てこない。


 今の莉央の顔なら、目を閉じても分かる。


 なのに赤ん坊の莉央だけが、白い霧の向こうにいる。


「疲れてるんだ」


 雅人は声に出した。


 自分に聞かせるためだった。


 スマートフォンが鳴った。


 助手席に置いていた画面を見る。


 美咲。


 雅人はすぐに通話ボタンを押した。


「美咲!」


『雅人』


「大丈夫か?」


『家の中にいる』


 声が小さい。


「何が?」


『分からない』


「どこに?」


『分からない。でもいる。さっきまで外だったのに』


 莉央の泣き声がした。


「あと十分。いや、もっと早く着く。二人で一緒にいろ」


『うん』


「絶対に外に出るな」


『雅人』


「何?」


『早く帰ってきて』


 ブ……。


 低い音。


 ブ……ブ……。


 美咲が息を呑んだ。


『来る』


「何が?」


『分からない、分からないけど――』


 莉央が叫んだ。


 電話が切れた。


 家の前に車を停めたとき、雅人はドアを閉めることすら忘れた。


 玄関まで走る。


 鍵は開いていた。


「美咲!」


 返事がない。


「莉央!」


 靴を脱ぐ余裕もなく上がった。


 リビングから、すすり泣く声。


 廊下を走る。


 ドアを開けた。


「美咲!」


 部屋の隅に二人はいた。


 美咲が床に座り込み、莉央を胸に抱いている。


 莉央は美咲の服を握りしめていた。


 二人とも、同じ場所を見ている。


「どうした」


 美咲は答えなかった。


 顔だけを動かし、雅人を見た。


 そしてまた視線を戻した。


 雅人も見る。


 最初、それが何なのか分からなかった。


 黒いもの。


 床の上にあるのか、少し浮いているのか、それすらはっきりしない。


 四角いようにも見える。


 厚みがあるようにも、紙のように薄いようにも見えた。


 端から細い何かが伸びている。


 壁に向かって。


 黒い表面が一瞬だけ光った。


 すぐ消えた。


 ブ……。


 震えた。


 雅人の腕に鳥肌が立った。


 理屈では説明できない。


 目の前にあるものを、脳がうまく物として認識していない。


「パパ……」


 莉央が言った。


 その声だけは、はっきり聞こえた。


 雅人は二人の前に立った。


「大丈夫」


 自分でも驚くほど普通の声が出た。


 足は震えていた。


 逃げたいと思った。


 本当に怖かった。


 だが、後ろには美咲と莉央がいる。


 ただそれだけで、逃げるという選択肢が消えた。


 黒いものが、また震える。


 ブ……ブ……。


 少しずつ音が大きくなる。


 雅人は両腕を広げた。


 何十回断られても。


 何年一人でいても。


 あの時間が全部必要だったのだと思えた。


 この二人に会うためだったのなら。


「来いよ」


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。


 黒いものが動いた。


 こちらへ来る。


 美咲が何か叫んだ。


 莉央も。


 雅人は前へ出た。


 全身でそれを受け止めた。


 激しい振動が身体を突き抜けた。


 光。


 音。


 耳元で何かが鳴り続ける。


 視界が白くなった。


 ブブブブブ――。


 雅人は目を開けた。


 暗い。


 天井が見えた。


 息が苦しい。


 何が起きたのか分からなかった。


 音はまだ鳴っている。


 手を伸ばした。


 指先に硬いものが触れた。


 掴む。


 黒いスマートフォンだった。


 細い充電ケーブルが伸びている。


 画面が光っていた。


 六時三十分。


 アラーム。


 月曜日。


 雅人は停止ボタンを押した。


 音が消えた。


 部屋が静かになった。


 しばらく、スマートフォンを握ったまま座っていた。


 心臓だけが速い。


「……美咲?」


 名前が口から出た。


 隣を見る。


 誰もいない。


 布団があるだけだった。


「美咲」


 もう一度呼んだ。


 返事はない。


 雅人は立ち上がった。


 部屋を見回す。


 何かがおかしい。


 いや。


 全部がおかしい。


 壁。


 カーテン。


 古い棚。


 一人用のテーブル。


 ここは、あの家の寝室ではない。


 そもそも、あの家ではない。


 ずっと暮らしている自分の部屋だった。


 雅人はドアを開けた。


「莉央?」


 廊下へ出る。


 子供部屋。


 そう思った。


 けれど、その先にあるのは小さな物置だった。


 扉を開ける。


 掃除機。


 段ボール。


 季節外れの扇風機。


 それだけ。


「莉央」


 声が少し大きくなった。


 玄関へ向かった。


 靴を見る。


 自分の革靴。


 スニーカー。


 サンダル。


 小さな黄色い靴がない。


 雅人は玄関の前に立った。


 いつもの朝なら、ここへ莉央が走ってくる。


『パパ、いってらっしゃいのギュー!』


 そのはずだった。


 雅人は無意識にしゃがんだ。


 両腕を少し開いた。


 誰も来ない。


 当たり前だった。


 静かな玄関で、一人だけが両手を広げている。


 自分が何をしているのか分かった途端、雅人はゆっくり腕を下ろした。


 スマートフォンを開いた。


 連絡先。


 美咲。


 検索する。


 該当なし。


 もう一度。


 漢字を変える。


 ひらがなでも入れる。


 ない。


 写真を開いた。


 仕事関係。


 旅行先。


 食べ物。


 一人で行った桜。


 一人で食べたラーメン。


 どこにも美咲はいなかった。


 莉央もいない。


 三人で撮ったはずの写真が、一枚もなかった。


 左手を見る。


 指輪もない。


 跡すらない。


「嘘だろ」


 声が震えた。


 テーブルにノートパソコンがあった。


 昨夜のまま開いている。


 横には空になった缶。


 二本。


 三本。


 画面には婚活サイトが表示されていた。


 メッセージ欄が開いている。


〈昨日はありがとうございました。とてもお話ししやすい方でしたが、今回はご縁がなかったということで――〉


 最後まで読めなかった。


 覚えていた。


 昨夜。


 帰宅して。


 酒を飲んだ。


 この文章を何度も読んだ。


 もう無理かもしれない、と思った。


 それから。


 それからどうした?


 何もない。


 寝たのだ。


 ただ寝た。


 美咲はいない。


 莉央もいない。


 家もない。


 結婚したことすらない。


 雅人は椅子に座った。


 悲しいという言葉では、うまく説明できなかった。


 実際には、何も失っていない。


 昨日までと同じだ。


 妻はいなかった。


 娘もいなかった。


 だから本来なら、失ったものは一つもない。


 なのに。


 胸の中には、確かな空洞があった。


 美咲の顔を思い浮かべる。


 浮かんだ。


 長い髪。


 笑うと少し細くなる目。


 怒ったときの口元。


 車庫入れに失敗して、助手席の雅人へ八つ当たりした顔。


 莉央もいる。


 右頬のえくぼ。


 少し高い声。


 玄関へ走ってくる姿。


『いってらっしゃいのギュー!』


 雅人は両手で顔を覆った。


 涙が出た。


 夢だった。


 それだけだ。


 そんなことは分かっている。


 夢の中で妻がいて、娘がいただけだ。


 それなのに、二人が死んだような気がした。


 いや。


 死んだのなら、まだよかったのかもしれない。


 一緒に過ごした時間だけは残る。


 写真も。


 誰かの記憶も。


 墓さえある。


 美咲と莉央には、それすらない。


 どれくらいそうしていたのか。


 ふと、雅人は顔を上げた。


 何かが気になった。


 莉央。


 昨日――夢の中の昨日、莉央は何を着ていただろう。


 幼稚園から帰ってきたとき。


 思い出せない。


「黄色……?」


 違う気がする。


 水色だったか。


 スカート?


 ズボン?


 雅人は立ち上がった。


「待て」


 スマートフォンを開く。


 メモ。


 指が震えた。


 美咲。


 長い髪。


 笑うと目が細くなる。


 朝が弱い。


 料理は苦手。


 車庫入れが下手。


 文字を打つ。


 次。


 莉央。


 五歳。


 右頬にえくぼ。


 アイスが好き。


 寝る前――


 雅人の指が止まった。


 寝る前、何をしていた?


 絵本。


 そうだ。


 絵本を読んだ。


 何の本?


 出てこない。


「大丈夫」


 誰に言っているのか分からなかった。


 莉央の声を思い出す。


『パパ』


 聞こえた気がする。


 でも、本当にこんな声だっただろうか。


 もう少し高かったか。


 もっと舌足らずだったか。


「いってらっしゃいのギュー」


 雅人は声に出した。


 違う。


 これは自分の声だ。


 莉央の声ではない。


 美咲を思い出す。


 顔は分かる。


 まだ分かる。


 けれど、さっきまで鮮明だった目元が少しぼやけていた。


「待ってくれ」


 雅人は呟いた。


 夢は、消える。


 知っている。


 誰だって知っている。


 朝起きたときには鮮明だった夢が、歯を磨いている間に薄くなり、昼には筋書きすら思い出せなくなる。


 夢とはそういうものだ。


 だから怖かった。


 初めて。


 雅人は夢を忘れることを、心の底から恐れた。


 会社へ行く時間が近づいていた。


 スマートフォンには未読のメールが何件か来ている。


 着替えなければならない。


 顔を洗って。


 髭を剃って。


 電車に乗って。


 会社へ行く。


 いつもの席に座り、いつもの人間と話す。


「昨日何してた?」


 そんなことを聞かれるかもしれない。


 昼になれば腹が減る。


 夕方になれば仕事が終わる。


 そうして今日が過ぎれば、美咲はもっと消える。


 莉央も。


 明日になれば。


 一週間後なら。


 一年後なら。


 もしかすると、自分がこんな夢を見たことさえ忘れてしまう。


 雅人は会社へのメールを開いた。


〈体調不良のため、本日は休ませてください〉


 それだけ書いて送った。


 罪悪感はなかった。


 今は仕事どころではなかった。


 自分しか覚えていない二人が、今、消えようとしている。


 カーテンを閉めた。


 部屋を暗くした。


 布団に入る。


 もう一度眠ればいい。


 それしか思いつかなかった。


 夢の続きを見る方法など知らない。


 それでも。


 目を閉じれば、もしかしたら。


 あの家に戻れるかもしれない。


 玄関を開ければ、美咲がいる。


「遅かったじゃん」


 少し不機嫌そうに言う。


 莉央が走ってくる。


「パパ!」


 抱き上げる。


 右頬にえくぼができる。


 三人で朝食を食べる。


 美咲の卵焼きは少し焦げていて。


 莉央が牛乳をこぼして。


 自分がティッシュを取りに立つ。


 そんな朝へ。


 雅人は目を閉じたまま、美咲の顔を思い浮かべた。


 輪郭はある。


 髪も。


 目も。


 でも。


 笑ったときの口元が、もううまく出てこなかった。


「違う」


 雅人は目を開けた。


 もう一度閉じる。


「違う……」


 莉央。


 莉央の声。


『パパ、いってらっしゃいの――』


 続きは知っている。


 言葉は覚えている。


 なのに、その声だけが出てこない。


 雅人は布団を強く握った。


「待ってくれ」


 小さな声だった。


 美咲に言ったのか。


 莉央に言ったのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ、眠らなければならないと思った。


 早く。


 全部なくなってしまう前に。


 もう一度だけ。


 あの家へ帰らなければならなかった。

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