帰る家
午後四時十七分。
相沢雅人のスマートフォンが、机の上で短く震えた。
画面に表示された名前を見て、雅人は一度だけ時計を確認した。
――美咲。
この時間に妻から電話がかかってくることは珍しかった。
五歳になる娘の莉央を幼稚園へ迎えに行き、そろそろ家に着く頃だ。買い忘れでもあったのだろうか。牛乳とか、トイレットペーパーとか。帰りに寄ってほしい、と言われることはたまにある。
「もしもし」
『……雅人?』
それだけで、雅人は姿勢を正した。
美咲の声がおかしい。
「どうした?」
『変なこと言っていい?』
「何?」
電話の向こうで、小さく息を吸う音がした。
『笑わないでね』
「笑わないよ。何があった?」
少し間があった。
『何かが、ついてきてる気がする』
雅人は眉を寄せた。
「何かって、人?」
『分からない』
「誰かに後をつけられてるってこと?」
『違うと思う』
「じゃあ車?」
『そういうんじゃなくて……』
そこで声が途切れた。
雅人は立ち上がり、窓際へ寄った。会社の外にはいつもと変わらない夕方の街が広がっている。まだ明るい。人も車も普通に動いている。
『見えないの』
「え?」
『何も見えない。でも、いるの。莉央を迎えに行った帰りから、ずっと後ろにいる感じがして』
雅人は言葉を探した。
疲れているんじゃないか、と言いかけてやめた。
美咲は怖がりではない。
夜中に物音がしても、自分より先に廊下を確認しに行くような女だった。
「今どこ?」
『家』
「鍵は?」
『閉めた』
「カーテンも閉めて。玄関から離れて」
『うん』
そのとき、電話の向こうで莉央の声が聞こえた。
『ママ……』
泣いている。
「莉央も一緒だよな?」
『いる。大丈夫。いるけど――』
ブ……。
低い音がした。
雅人はスマートフォンを耳から少し離した。
「今の何?」
『分からない』
ブ……ブ……。
一定の間隔で、何かが震えているような音。
『雅人』
「うん」
『玄関の外まで来てる気がする』
電話が切れた。
雅人は数秒、画面を見つめた。
通話終了。
もう一度かけた。
呼び出し音は鳴る。
出ない。
「相沢さん?」
後ろから声をかけられ、雅人は振り返った。
「すみません。妻と娘がちょっと……家でトラブルみたいで」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
上司が何か返事をした。
たぶん、早く帰れ、という意味だった。
雅人は机の引き出しを閉め、鞄だけを持って会社を出た。
駐車場まで走った。
四十七歳の身体には、ほんの百メートルでも思った以上に堪えた。
エンジンをかける。
ハンドルを握った手が汗ばんでいた。
美咲にもう一度電話をかけたが出ない。
メッセージを送る。
〈今から帰る。家から出るな〉
既読はつかなかった。
車を発進させる。
信号が赤になる。
「くそ」
声が出た。
こんなときに限って、前を走る車は遅かった。
ウインカーを出すのも、横断歩道を渡る学生を待つのも、全部が腹立たしかった。
早く。
早く帰らなければ。
美咲と莉央のいる家に。
やっと手に入れた家なのだ。
ようやく。
本当に、ようやく手に入れた。
それを何か分からないものに壊されてたまるか。
雅人は奥歯を噛みしめた。
昔から結婚願望が強かったわけではない。
三十代の頃は、むしろ独身の気楽さが自分に合っていると思っていた。
土曜日は昼まで眠り、好きなものを食べ、欲しいものを買う。
友人が結婚したと聞けば祝ったし、子供が生まれたと聞けば写真を見せてもらった。
羨ましくない、といえば嘘になる。
ただ、自分にもいつか来るだろうと思っていた。
そういう人生が。
三十八。
三十九。
四十。
気がつくと、「そのうち」という言葉だけが取り残されていた。
そこから婚活を始めた。
最初は簡単に考えていた。
真面目に働いている。借金もない。煙草も吸わない。酒は多少飲むが、暴れるほどではない。
人並みだと思っていた。
だが、人並みというのは、自分で決めるものではないらしかった。
写真を撮り直した。
服も買った。
美容院で「若く見えるようにお願いします」と言ったときは、自分でも少し情けなかった。
婚活アプリを開き、何人にも「いいね」を送り、返事が来なければ、また別の誰かを探した。
一度、三回目の食事まで進んだ女性がいた。
帰り際、その女性が笑って「今日は楽しかったです」と言った。
雅人も楽しかった。
久しぶりに、次の週末が待ち遠しいと思った。
翌日の夜、メッセージが届いた。
〈とても良い方だと思うのですが、恋愛という感じにはなれませんでした〉
画面を見ながら、しばらく動けなかった。
怒る理由はどこにもなかった。
相手は悪くない。
自分も悪くない。
誰も悪くないのに、うまくいかない。
それが一番つらかった。
何度目か分からない「ご縁がありませんでした」を受け取った夜、雅人は一人で酒を飲みながら思った。
もういいか、と。
自分は誰かに選ばれる側の人間ではなかったのかもしれない。
そうやって人生は、静かに形を決めていくものなのだろう。
諦めかけた、その少し後だった。
美咲と出会った。
美咲は、雅人よりずっと若かった。
初めて見たとき、本当にこんな人が自分の前に座ることがあるのかと思った。
大きな目。長い髪。笑うと少しだけ目尻が下がる。
育ちがよく、実家にも余裕があった。
雅人は何度か聞いた。
「本当に俺でいいの?」
そのたび美咲は嫌そうな顔をした。
「またそれ?」
「いや、だってさ」
「そういうこと何回も聞かれる方が嫌なんだけど」
「ごめん」
「自信ない人は好きじゃないよ」
そう言いながら、次の瞬間には笑っていた。
完璧な女ではなかった。
朝が弱かった。
休日は昼近くまで布団から出ないことがある。
料理も得意ではなく、一度、肉じゃがを焦がして鍋ごと捨てようとして雅人に止められた。
車庫入れが下手だった。
助手席の雅人が口を出すと、
「じゃあ自分でやれば?」
と本気で怒った。
洗濯物を畳むのも嫌いだった。
少し口も悪い。
それでも、美咲が隣にいるだけで、雅人は自分の人生が急に別のものになったような気がした。
婚活中に始めては三日でやめた筋トレを、今度は続けた。
酒も減らした。
シャツにアイロンをかけるようになった。
美咲に好かれるためというより、彼女の隣にいる自分を、自分自身が嫌いになりたくなかった。
しばらくして結婚した。
そして莉央が生まれた。
信号が青になる。
雅人はアクセルを踏んだ。
ふと、美咲と初めて会った日のことが頭に浮かんだ。
――どこだったっけ。
一瞬だけ、奇妙な空白ができた。
カフェだったか。
駅の近くだった気もする。
知人の紹介だっただろうか。
いや、偶然だったはずだ。
雨が降っていた。
そんな気もする。
美咲が初めて笑った顔は覚えている。
そのとき着ていた白い服も。
なのに、その直前だけがない。
雅人は頭を振った。
今はそんなことを考えている場合ではない。
動揺しているだけだ。
家に着けば全部どうでもよくなる。
莉央は、美咲によく似ていた。
五歳にしては少し小柄だった。
右の頬にだけ、えくぼができる。
朝、雅人が出勤しようとすると、必ず玄関まで走ってきた。
「パパ、いってらっしゃいのギュー!」
最初の頃は照れくさかった。
美咲が後ろで笑っているから、余計に。
それでも毎朝しゃがんで、莉央を抱きしめた。
いつからか、それをしないと一日が始まらない気がするようになった。
ある朝、莉央が寝坊して起きてこなかったとき、雅人は意味もなく玄関で数秒待った。
その自分を美咲に見つかり、ずいぶん笑われた。
「そんなにギューしてほしいなら私がやろうか?」
「それはいい」
「なんでよ」
「朝から疲れる」
「最低」
そんな会話まで、雅人は覚えている。
家族でスーパーへ行ったこと。
風呂上がりに莉央の髪を乾かしたこと。
美咲に隠れて父娘でアイスを食べ、二人まとめて怒られたこと。
美咲の実家から援助を受けて買った家。
少し広すぎると思ったリビングも、莉央が走り回るようになるとちょうどよくなった。
全部、覚えている。
なのに。
雅人はハンドルを握りながら、急に思った。
莉央が一歳の頃は、どんな顔をしていた?
胸の奥が、わずかに冷えた。
写真なら山ほど撮ったはずだ。
初めて歩いた日。
初めて「パパ」と言った日。
思い出そうとした。
何も出てこない。
今の莉央の顔なら、目を閉じても分かる。
なのに赤ん坊の莉央だけが、白い霧の向こうにいる。
「疲れてるんだ」
雅人は声に出した。
自分に聞かせるためだった。
スマートフォンが鳴った。
助手席に置いていた画面を見る。
美咲。
雅人はすぐに通話ボタンを押した。
「美咲!」
『雅人』
「大丈夫か?」
『家の中にいる』
声が小さい。
「何が?」
『分からない』
「どこに?」
『分からない。でもいる。さっきまで外だったのに』
莉央の泣き声がした。
「あと十分。いや、もっと早く着く。二人で一緒にいろ」
『うん』
「絶対に外に出るな」
『雅人』
「何?」
『早く帰ってきて』
ブ……。
低い音。
ブ……ブ……。
美咲が息を呑んだ。
『来る』
「何が?」
『分からない、分からないけど――』
莉央が叫んだ。
電話が切れた。
家の前に車を停めたとき、雅人はドアを閉めることすら忘れた。
玄関まで走る。
鍵は開いていた。
「美咲!」
返事がない。
「莉央!」
靴を脱ぐ余裕もなく上がった。
リビングから、すすり泣く声。
廊下を走る。
ドアを開けた。
「美咲!」
部屋の隅に二人はいた。
美咲が床に座り込み、莉央を胸に抱いている。
莉央は美咲の服を握りしめていた。
二人とも、同じ場所を見ている。
「どうした」
美咲は答えなかった。
顔だけを動かし、雅人を見た。
そしてまた視線を戻した。
雅人も見る。
最初、それが何なのか分からなかった。
黒いもの。
床の上にあるのか、少し浮いているのか、それすらはっきりしない。
四角いようにも見える。
厚みがあるようにも、紙のように薄いようにも見えた。
端から細い何かが伸びている。
壁に向かって。
黒い表面が一瞬だけ光った。
すぐ消えた。
ブ……。
震えた。
雅人の腕に鳥肌が立った。
理屈では説明できない。
目の前にあるものを、脳がうまく物として認識していない。
「パパ……」
莉央が言った。
その声だけは、はっきり聞こえた。
雅人は二人の前に立った。
「大丈夫」
自分でも驚くほど普通の声が出た。
足は震えていた。
逃げたいと思った。
本当に怖かった。
だが、後ろには美咲と莉央がいる。
ただそれだけで、逃げるという選択肢が消えた。
黒いものが、また震える。
ブ……ブ……。
少しずつ音が大きくなる。
雅人は両腕を広げた。
何十回断られても。
何年一人でいても。
あの時間が全部必要だったのだと思えた。
この二人に会うためだったのなら。
「来いよ」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。
黒いものが動いた。
こちらへ来る。
美咲が何か叫んだ。
莉央も。
雅人は前へ出た。
全身でそれを受け止めた。
激しい振動が身体を突き抜けた。
光。
音。
耳元で何かが鳴り続ける。
視界が白くなった。
ブブブブブ――。
雅人は目を開けた。
暗い。
天井が見えた。
息が苦しい。
何が起きたのか分からなかった。
音はまだ鳴っている。
手を伸ばした。
指先に硬いものが触れた。
掴む。
黒いスマートフォンだった。
細い充電ケーブルが伸びている。
画面が光っていた。
六時三十分。
アラーム。
月曜日。
雅人は停止ボタンを押した。
音が消えた。
部屋が静かになった。
しばらく、スマートフォンを握ったまま座っていた。
心臓だけが速い。
「……美咲?」
名前が口から出た。
隣を見る。
誰もいない。
布団があるだけだった。
「美咲」
もう一度呼んだ。
返事はない。
雅人は立ち上がった。
部屋を見回す。
何かがおかしい。
いや。
全部がおかしい。
壁。
カーテン。
古い棚。
一人用のテーブル。
ここは、あの家の寝室ではない。
そもそも、あの家ではない。
ずっと暮らしている自分の部屋だった。
雅人はドアを開けた。
「莉央?」
廊下へ出る。
子供部屋。
そう思った。
けれど、その先にあるのは小さな物置だった。
扉を開ける。
掃除機。
段ボール。
季節外れの扇風機。
それだけ。
「莉央」
声が少し大きくなった。
玄関へ向かった。
靴を見る。
自分の革靴。
スニーカー。
サンダル。
小さな黄色い靴がない。
雅人は玄関の前に立った。
いつもの朝なら、ここへ莉央が走ってくる。
『パパ、いってらっしゃいのギュー!』
そのはずだった。
雅人は無意識にしゃがんだ。
両腕を少し開いた。
誰も来ない。
当たり前だった。
静かな玄関で、一人だけが両手を広げている。
自分が何をしているのか分かった途端、雅人はゆっくり腕を下ろした。
スマートフォンを開いた。
連絡先。
美咲。
検索する。
該当なし。
もう一度。
漢字を変える。
ひらがなでも入れる。
ない。
写真を開いた。
仕事関係。
旅行先。
食べ物。
一人で行った桜。
一人で食べたラーメン。
どこにも美咲はいなかった。
莉央もいない。
三人で撮ったはずの写真が、一枚もなかった。
左手を見る。
指輪もない。
跡すらない。
「嘘だろ」
声が震えた。
テーブルにノートパソコンがあった。
昨夜のまま開いている。
横には空になった缶。
二本。
三本。
画面には婚活サイトが表示されていた。
メッセージ欄が開いている。
〈昨日はありがとうございました。とてもお話ししやすい方でしたが、今回はご縁がなかったということで――〉
最後まで読めなかった。
覚えていた。
昨夜。
帰宅して。
酒を飲んだ。
この文章を何度も読んだ。
もう無理かもしれない、と思った。
それから。
それからどうした?
何もない。
寝たのだ。
ただ寝た。
美咲はいない。
莉央もいない。
家もない。
結婚したことすらない。
雅人は椅子に座った。
悲しいという言葉では、うまく説明できなかった。
実際には、何も失っていない。
昨日までと同じだ。
妻はいなかった。
娘もいなかった。
だから本来なら、失ったものは一つもない。
なのに。
胸の中には、確かな空洞があった。
美咲の顔を思い浮かべる。
浮かんだ。
長い髪。
笑うと少し細くなる目。
怒ったときの口元。
車庫入れに失敗して、助手席の雅人へ八つ当たりした顔。
莉央もいる。
右頬のえくぼ。
少し高い声。
玄関へ走ってくる姿。
『いってらっしゃいのギュー!』
雅人は両手で顔を覆った。
涙が出た。
夢だった。
それだけだ。
そんなことは分かっている。
夢の中で妻がいて、娘がいただけだ。
それなのに、二人が死んだような気がした。
いや。
死んだのなら、まだよかったのかもしれない。
一緒に過ごした時間だけは残る。
写真も。
誰かの記憶も。
墓さえある。
美咲と莉央には、それすらない。
どれくらいそうしていたのか。
ふと、雅人は顔を上げた。
何かが気になった。
莉央。
昨日――夢の中の昨日、莉央は何を着ていただろう。
幼稚園から帰ってきたとき。
思い出せない。
「黄色……?」
違う気がする。
水色だったか。
スカート?
ズボン?
雅人は立ち上がった。
「待て」
スマートフォンを開く。
メモ。
指が震えた。
美咲。
長い髪。
笑うと目が細くなる。
朝が弱い。
料理は苦手。
車庫入れが下手。
文字を打つ。
次。
莉央。
五歳。
右頬にえくぼ。
アイスが好き。
寝る前――
雅人の指が止まった。
寝る前、何をしていた?
絵本。
そうだ。
絵本を読んだ。
何の本?
出てこない。
「大丈夫」
誰に言っているのか分からなかった。
莉央の声を思い出す。
『パパ』
聞こえた気がする。
でも、本当にこんな声だっただろうか。
もう少し高かったか。
もっと舌足らずだったか。
「いってらっしゃいのギュー」
雅人は声に出した。
違う。
これは自分の声だ。
莉央の声ではない。
美咲を思い出す。
顔は分かる。
まだ分かる。
けれど、さっきまで鮮明だった目元が少しぼやけていた。
「待ってくれ」
雅人は呟いた。
夢は、消える。
知っている。
誰だって知っている。
朝起きたときには鮮明だった夢が、歯を磨いている間に薄くなり、昼には筋書きすら思い出せなくなる。
夢とはそういうものだ。
だから怖かった。
初めて。
雅人は夢を忘れることを、心の底から恐れた。
会社へ行く時間が近づいていた。
スマートフォンには未読のメールが何件か来ている。
着替えなければならない。
顔を洗って。
髭を剃って。
電車に乗って。
会社へ行く。
いつもの席に座り、いつもの人間と話す。
「昨日何してた?」
そんなことを聞かれるかもしれない。
昼になれば腹が減る。
夕方になれば仕事が終わる。
そうして今日が過ぎれば、美咲はもっと消える。
莉央も。
明日になれば。
一週間後なら。
一年後なら。
もしかすると、自分がこんな夢を見たことさえ忘れてしまう。
雅人は会社へのメールを開いた。
〈体調不良のため、本日は休ませてください〉
それだけ書いて送った。
罪悪感はなかった。
今は仕事どころではなかった。
自分しか覚えていない二人が、今、消えようとしている。
カーテンを閉めた。
部屋を暗くした。
布団に入る。
もう一度眠ればいい。
それしか思いつかなかった。
夢の続きを見る方法など知らない。
それでも。
目を閉じれば、もしかしたら。
あの家に戻れるかもしれない。
玄関を開ければ、美咲がいる。
「遅かったじゃん」
少し不機嫌そうに言う。
莉央が走ってくる。
「パパ!」
抱き上げる。
右頬にえくぼができる。
三人で朝食を食べる。
美咲の卵焼きは少し焦げていて。
莉央が牛乳をこぼして。
自分がティッシュを取りに立つ。
そんな朝へ。
雅人は目を閉じたまま、美咲の顔を思い浮かべた。
輪郭はある。
髪も。
目も。
でも。
笑ったときの口元が、もううまく出てこなかった。
「違う」
雅人は目を開けた。
もう一度閉じる。
「違う……」
莉央。
莉央の声。
『パパ、いってらっしゃいの――』
続きは知っている。
言葉は覚えている。
なのに、その声だけが出てこない。
雅人は布団を強く握った。
「待ってくれ」
小さな声だった。
美咲に言ったのか。
莉央に言ったのか。
自分でも分からなかった。
ただ、眠らなければならないと思った。
早く。
全部なくなってしまう前に。
もう一度だけ。
あの家へ帰らなければならなかった。




