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鬼神の番〜払いの力を失った贄嫁は、唯一の番として溺愛される〜  作者: 高八木レイナ


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1/5

一話 花嫁は穢れたと告げられた

 白無垢の裾が、廊下の上を滑る音がした。

 それが、澪の人生で最後の“祝福の場”に向かう瞬間だった。

 鬼の一族・夜刀谷やとかや家の屋敷。

 山の中腹に広がるその邸は、鬼の結界に守られ、今日という日を迎えるためだけに整えられていた。

 澪は、鏡の前で深く息を吐く。

 

(今日から……)

 

 胸の奥にあったのは、不安だった。

 澪は《払いの一族》の人間として生まれ、幼い頃から鬼の花嫁になることを期待されてきた。

 今日から、夜刀谷やとかや 恒一こういちの妻になることで、澪の本当の役目が始まる。

 

「澪様、あのかたは――」

 

 澪の後ろで付き添い人が、ハッとしたように声を上げた。

 遅れて澪が視線を向けると、廊下の先から圧倒的な存在感を放つ男性が近づいてきていた。凛とした眉、通った鼻筋、琥珀色の瞳。

 神が作り上げた完璧な造作の中で、その黒髪からわずかに見える二つの角が彼が鬼であることを告げていた。 

 そして黒地に夜刀神やとがみ家の金の刺繍の入った羽織を身に着けている。

 ――夜刀神やとがみ 暁刃あきは。その人に間違いなかった。

 鬼の頂点に立つ、夜刀神の当主である。澪が結婚する夜刀谷やとがや家は夜刀神家の分家筋だ。

 澪は深々と頭を垂れる。

 

「暁刃様、このたびは私の結婚のために足を運んでくださり感謝いたします」

 

 澪と彼は初対面だ。まさか広間ではなくここで本家当主の彼に会うとは思わなかったが、分家に嫁入りする身として礼を尽くして挨拶したつもりだった。

 だが――彼から返ってきたのは思いも寄らない一言。

 

「なぜ鬼に嫁入りする?」

 

 低く、しかし確かな非難の響きの声に澪は息を詰める。

 声の主は、ただの人間ではない。何か――人ならざる生き物の匂いが、髪や服、呼吸の一つひとつに漂っている。澪は知らず、背筋を伸ばして目を逸らさずに見つめた。

 なぜ詰問されているのか分からない。

 暁刃は一歩、また一歩と澪に近づく。人ではない証である角の先端が遠くから見た時よりも、はっきりと髪の間から覗く。

 ――けれど、澪の婚約者の恒一には角はない。暁刃はより鬼に近しい存在なのだ。

 

「鬼の花嫁になることがおかしいですか?」

 

 澪は無礼を承知で、そう尋ね返す。

 

「鬼の一族のかたがたは、あやかしや異形からこの国を護ってくださっています。鬼に嫁ぐことは名誉なことでしょう」

 

「名誉か……確かに。だが、鬼の花嫁は贄嫁にえよめとも呼ばれていることは知っているだろう」

 

 暁刃の言葉に、澪も神妙にうなすぐ。

 鬼は本来は番がいなければ暴走してしまう生き物だ。長い年月、鬼と人の血が混ざりあってきた夜刀神家や夜刀谷家でも同じこと。

 しかし一生のうちに運命の番に出会える鬼は多くはない。

 そのため、荒ぶる鬼を《払いの力》でもって鎮め、その怒りと悲しみを慰めるために《払いの力》を持つ贄嫁がいる。

 国を守護する鬼に仕え、鬼を鎮め、鬼のために身を捧げる――それが己の当然の生き方だと澪は信じていた。

 暁刃は忌々しげに歯をギリリと鳴らす。

 

「贄嫁は皆、短命だ。それは暴走して鬼神化した鬼が瘴気を放つためだ。瘴気は人の身には――特に払いの力を持つ者ほど毒だ。……普段は理性で瘴気を抑え込めても、どんな鬼でも暴走すれば己を制御できなくなる」

 

 澪は驚いて暁刃をじっと見つめる。

 美しく富も権力も持つ鬼の花嫁になることは女性ならば誰もが憧れるが、実のところ鬼の花嫁が短命なことはあまり知られていない。

 暴走した鬼の危険性は、恒一との婚姻が決まった時に白峰家当主から教わったことでもある。

 澪は視線を落とし、白無垢の衣を強く握りしめる。

 

「存じ上げております。覚悟の上です」

 

「だからそれが理解できないと言っているんだ」

 

 彼は贄嫁制度に反対なのだろう。放っておけば暴走する鬼を身の内に飼っておきながら、他人を憐れむ優しい鬼だ。

 美しいが畏怖される見た目とは裏腹に、澪は彼にそんな印象を持った。

 

(だから暁刃様は本家のご当主にも関わらずご結婚をなさらないのね……)

 

 彼の母親のような可哀想な花嫁を出さないために。

 だが、その選択は多くの人々を危険にさらすことになる。

 番を得られず、贄嫁も娶らないとなれば、いずれ鬼神として暴走してしまうかもしれない。人である彼の頭から角が生えているのも、内なる鬼が顕在化しそうになっているのを理性で抑えているためとも言えるだろう。

 鬼神の暴走とは、周りを巻き込む災厄のようなものだ。

 暁刃はそれ以上言っても埒が明かないと思ったのか、嘆息して目を閉じた。

 

「それにしても……本当に、匂うな」

 

「えっ? 匂い……ですか?」

 

 澪は驚き、周囲を見回す。しかし何も感じない。近くにあるのは庭園に咲いている椿の花くらいだろうか。しかしさほど匂いの強い花でもない。

 

(暁刃様は鬼だから嗅覚が鋭いのかしら……?)

 

「椿でしょうか」

 

 澪の言葉に、はっきりと暁刃は首を振る。

 

「いや、お前から香っている」

 

「えっ……?」

 

 澪の顔が羞恥心で赤く染まる。

 

「香水はつけていませんが……白粉でしょうか……」

 

 慣れない化粧で白粉をたくさん叩いていることを指摘されたのかと思い、澪は落ち込んだ。顔を手で隠してうつむく。

 

(わざわざ、そんなことを言わなくても良いのに……)

 

 暁刃が身を屈めて顔を近づけてくる。

 

「……あまりにそそる匂いだから、つられてここまで来てしまった。なぜ、こんな匂いをしている?」

 

「そっ、そんなことを言われましても……」

 

 頬が触れそうなほどの至近距離に端正な顔立ちがあった。

 琥珀色の瞳の中にある瞳孔が猫のように形が変わる。わずかに開いた薄い唇から覗くのは鋭い犬歯だ。

 

(――噛みつかれそう……)

 

 なぜそう感じたのか分からないが、澪は瞼をきつく閉じた。

 暁刃の息遣いが耳元で聞こえた。

 その時だった。

 ――ぎ、と空気が軋み、屋敷を包む結界が揺れる。

 場に集まった誰よりも先に、澪の肌がそれを感じ取った。

 

(……鬼の力が、暴れている?)

 

 弾かれたように顔を上げれば、暁刃も同じ異変に気づいたように眉根を寄せている。

 

「庭の奥のほうだ。行くぞ」

 

 暁刃の声に頷き、澪は戸惑いながらも彼の後を追った。


 


 庭園の中央で、黒い影がうねるように渦巻いていた。

 その中心で苦悶の声を漏らしながら蹲るのは、白い紋付袴姿の男――澪の婚約者である夜刀谷 恒一だ。

 彼のこめかみからは禍々しい角が二本、突き出している。それは紛れもなく、鬼の血が暴走している証だった。恒一の身体からは陽炎のように黒い靄が立ち昇り、それが触れた庭木や石灯籠を枯らし、腐食させていく。

 ――瘴気。鬼が暴走すると発せられる毒気だ。

 

「恒一様!?」

 

 澪が叫ぶのと同時に、近くに控えていた人々が悲鳴を上げて逃げ惑った。侍女たちは半狂乱になって四方へ散り、中には腰を抜かして動けなくなる者までいる。

 

「やはり分家筋の半端者は駄目だ。これほどの短期間で暴走とはな。すぐに楽にしてやろう」

 

 暁刃が舌打ちし、低い声で呟く。その手にはいつの間にか一振りの太刀が握られており、切っ先は真っ直ぐに恒一へと向けられていた。鬼神としての本能か、それとも本家当主としての責務か。彼の目は冷たく光っていた。

 

「やめてください、暁刃様!」

 

 澪は咄嗟に二人の間に割って入り、両手を広げて恒一を庇う。

 

「何をする! 退け!」

 

「いいえ! 恒一様は私の夫となるお方! 私が鎮めます!」

 

「馬鹿か貴様は! 見ただろう、あれがどれほど強力な鬼の力か! お前の払いの力では到底太刀打ちできん! 下手をすれば死ぬぞ!」

 

 暁刃の言う通りだった。恒一から溢れ出る力は凄まじく、普通の払いの術では抑えきれないだろう。

 しかし澪には一つだけ方法があった。成功すれば彼を救えるが、失敗すれば澪自身がどうなるか分からない、秘中の秘。

 

「私に考えがあります」

 

 澪の決死の表情を見て、暁刃は何かを察したらしい。

 

「話に聞いたことがある。まさか白峰の禁術か……!? だがそれは――」

 

 暁刃が言い終える前に、澪は走り出した。

 

「待て……ッ!」

 

 背後からそう制止の声が聞こえてきた。

 ――白峰の禁術の代償は死だ。払いの力の大きい者でも、その身の全ての《払いの力》を喪失すると言われている。

 

(非力な私では、きっと死ぬことになる……けれど夫となる恒一様のためならば――)

 

 胸の中に穏やかな笑みを浮かべた人の姿をした恒一の姿が浮かぶ。

 まだ愛とは呼べない。けれど国に身を捧げる彼への確かな尊敬があった。

 澪は覚悟を決めて恒一のもとへ駆け寄った。

 

「――大丈夫ですよ、恒一様。私が命に替えてもお助けします!」

 

 その言葉に反応したのか、激しい恒一の動きが一瞬、止まった。

 その隙を見逃さず、澪は鬼神となりかけている婚約者の腕に素手で触れた。

 

「澪、やめろ!!」

 

 誰かの怒号が飛ぶ。

 払いの一族にとって、それは決して犯してはならない禁忌だ。

 暴走寸前の鬼神に、直接触れてはならない。

 澪の指先が瘴気に包まれ、焼けるように痛んだ。けれど、払いの言葉を口にのせて祈り続けた。普通の払いの術式は空中に紋が浮かぶが、この禁術は手のひらから鬼の体内に術式を送る。静かな払いの術だ。 

 ただ、ただ、婚約者の荒れ狂う鬼をなだめる。

 

(――どうか、鎮まって……)

 

 次の瞬間、嘘のように全てが静まり返った。

 恒一の身体から、鬼の気配が引いていく。

 同時に、澪の視界が白く染まった。

 澪は己の《払いの力》が完全に失われたことを悟った。これが恒一を鎮める代償だったのだ。

 

(――でも、これでいい。これで恒一様は助かる。私はそれで充分だ)

 

 死なずに済んだだけでも幸運だった。

 恒一から発せられていた黒い瘴気は綺麗に霧散しており、彼はぐったりと気を失っていたものの、命に別状はなさそうだ。澪は安堵の息を吐き、そのまま力尽きて膝をつきかけた。

 

「恒一様!!」

 

 その時だった。甘ったるい声とともに、桃色の着物を纏った少女が駆け寄ってくる。澪の従姉妹、香織だった。

 

「私の《払いの力》で!」

 

 香織は芝居がかった仕草で両手を掲げると、パンッと柏手を打った。その瞬間、何もなかった空中に金色の術式陣が浮かび上がり、派手な光を放ち始める。

 恒一の瘴気から逃げ惑っていた人々が、いったい何が起こっているのか確認しようと集まってきていた。

 

「香織、いったい何を……?」

 

 既に恒一は静まっているというのに。

 

「ほら! 私の《払いの術》よ!」

 

 術式陣からキラキラした光の粒が降り注ぎ、風が吹いて香織の放った護符が恒一の周囲をくるくると回る。

 それんとも言えない場違いな賑やかさだった。けれど、澪にはそれが見た目が派手なだけのほとんど効果のない払いの術だと分かった。

 だが、周囲の反応は違った。

  

「すごい……」

 

「さっきまでの禍々しさが嘘みたいだ……」

 

 最初は呆気に取られていた周囲の侍女や家人たちが、次第に香織の「派手で分かりやすい」術式に魅入られ始める。

 そして術式陣が霧散し、護符がはらりと地面に落ちきった時に、歓声が上がった。

 

「香織様が恒一様の鬼を鎮めてくださったぞ!!」

 

「さすがは黒峰家のご令嬢、払いの一族の本家の娘だ!!」

 

(皆、何を言っているの……?)

 

 澪はあっけに取られて言葉を発することができなかった。皆、恒一の鬼を払ったのが香織だと誤解している。

 禁術は外部からは見えないとはいえ、まさかこんなことになるなんて……。

 香織自身も胸を張って「とっさのことでしたが、うまくいって良かったですわ」などと返していた。

 そして香織は嘲りを込めた瞳で澪を見つめると――突如、叫んだ。

 

「キャアァァ! 皆、見てぇ!!」

 

 香織が澪を指差して恐怖に顔を歪めた。

 

「澪、あなた……払いの力がなくなっているじゃない! まさか、さっき瘴気に触れたから……?」

 

 その言葉が引き金となった。

 

「あ……」

 

「本当だ……あの娘、鬼に直接……」

 

「穢されたのか……」

 

 恐怖が過ぎ去った後の反動で、人々の意識は澪に向けられた。

 恒一を助けるために自ら進んで瘴気を浴びた澪の姿は彼らにとっては常識外れであり、理屈より先に《穢れ》への恐怖が走る。

 誰かが叫んだ。

 

「早くあの穢れた娘を捕らえろ!! 座敷牢へ入れるんだ!!」

 

 その一声で人々は恐慌状態に陥り、指を差したり石を投げたりする者が出てきた。

 

「やめろ! 澪は夜刀谷家の者を救ったのだぞ!」

 

 暁刃が必死に制止しようとするが、群衆の狂騒は止められない。逆に邪魔だてする鬼の当主を非難する声すら上がった。

 

「暁刃様、今は症状が軽くても、穢れは突然牙を剥きます!」

 

「万が一、屋敷全体が汚染されたら……!」

 

 などと言って、暁刃の言葉もほとんど耳に入っていないようだった。

 人間側――〈払いの一族〉にとって“穢れ”は本能的な恐怖だ。幼い頃から「瘴気に触れれば一族ごと滅ぶ」「寿命を削る」と言われて忌み嫌われてきた。だからその反応は無理はないと澪も思うけれど――。

 

(命をかけて婚約者を救ったのに……)

 

「暁刃様のお言葉でも止まらぬとは……皆、正気を失っている」

 

 鬼の一族の列席者が呆れたように群衆を眺めながらつぶやく声が聞こえた。

 澪は土の上で拳を握りしめた。

 

「私が恒一様がお救いしたのです……!」

 

 澪が必死にそう訴えたが――払いの一族たちは信じようとしない。いや、聞こえてすらいなかった。

 喧騒の中で、香織の冷たい言葉が耳を打つ。

 

「アンタには払いの力もろくにないんだから、そんなこといくら言って無駄よ。暴走した鬼を鎮めただなんて誰も思えないわ。お馬鹿さん」

 

 香織が不快そうに眉根を寄せて、扇を広げて嗤う。

 

「あなたのせいで白峰家は落ちぶれるのよ」

 

 その言葉に、澪の肩が跳ねる。

 

「――この穢された娘を連れて行ってちょうだい!」

 

 そう使用人たちに命じたのは、澪の母親だった。白峰家の者として穢れた娘の始末は自分たちで決めるということなのだろう。白峰家当主の父親も澪とは顔を合わせようとしない。

 代わりに、こうつぶやく声が聞こえた。

 

「親不孝者め……」

 

 昔から、鬼の花嫁になれと両親から言われて育った。そうすれば愛されるのだろうと思って、払いの練習を一心不乱にしてきた。

 本家の香織よりも先に有名な鬼の一族である夜刀谷家への輿入れが決まった時、両親も喜んでくれていた。

 だが最初から澪は愛されていなかったんだろう。だから澪の言葉を両親も信じてくれない。庇ってもくれない。澪がもう《払いの力》を持たない役立たずだから。

 両親は彼女を道具としか見ていなかったのだ。

 澪は震える拳を握りしめた。

 人々が距離を取りながらも、農具や斧、包丁を持って澪を囲い込む。

 

「座敷牢へ連れて行け! 追って沙汰を言い渡す!!」

 

 そう澪の父親が叫んだ。

 

「おい、彼女を座敷牢に連れて行くなんて……」

 

 暁刃が抗議しようとしたが、澪の父親が決然とした表情で言う。

 

「これは《払いの一族》の問題です。暁刃様は口出しなされませんよう」

 

 いくらもっとも強い鬼の当主といえど、一族ではない人間の家への口出しはできない。人間には人間の、鬼には鬼の世界の決まりがあるのだ。

 庇おうとしてくれた暁刃に感謝し、澪は連れられて行く最中に薄っすらと微笑みを浮かべた。

 

(やっぱり、優しい人……)

 

 視界の隅では、香織が恒一を抱き起こしている。

 

「恒一様、大丈夫ですか?」

 

「……私は暴走しかけていたはずなのに、なぜ生きている……?」


「私があなたをお救いしたのです」

 

 香織が興奮に顔を赤らめて、潤んだ瞳で言う。美しい女性にそう言われて、心ときめかない男性はいないだろう。恒一もまた目を見開いた後、さっと顔を紅潮させた。熱をはらんだ瞳でふたりは見つめ合っている。

 

「ありがとう……君の名前は何という?」

 

「香織と申します」

 

「香織……良い名前だ」

 

 完全に二人の世界だった。連れて行かれる澪に気づき、恒一はハッとしたように叫んだ。

 

「なぜ皆、澪を取り囲んでいる……?」

 

 香織は目元に手を当てて泣くような仕草をした。

 

「澪は瘴気に当てられてしまったのです。それに私が恒一様をお救いしたのに、それを自分の功績だと偽ろうとしたのですわ」

 

「なんだって……澪がそんなことをするなんて信じられない……」

 

 そう戸惑い混じりに恒一は澪を見つめる。その瞳が、しばらくして疑心へと変わり――やがては侮蔑混じりになった。

 

(結局は、彼も他の人と同じだったのね……)

 

 生涯支えあおうと誓うはずだったのに、そんなに簡単に周りの人の言葉を信じてしまうなんて……。

 

「香織が命がけで救ってくれたというのに……君がそんな女性だとは思わなかったよ……」

 

 澪の心に寒々しい風が吹いた。

 感謝されたいとまでは思っていなかったが、まさか澪の行動がなかったことにされて婚約者を奪われるとは思っていなかった。その上、助けた相手にこんな蔑みの目で見られるとは……。

 

(さようなら、恒一様……)

 

 澪の恒一への淡い尊敬の念が音を立てて崩れていった。

 そして澪は人々に連れられて、その場から静かに離れて座敷牢へと向かった。

 暁刃が何か言いたげにじっと澪を見つめていたが、その視線に気づかない振りをして。



  

 その日から、白峰 澪は『夜刀谷家の花嫁』ではなく、『暴走する鬼に触れた穢れた女』として、日の当たらない座敷牢での生活を余儀なくされることとなった。

 外の光の一切届かない石壁の座敷牢の中、虫の声すら聞こえない絶対的な孤独が澪を包んでいた。

 床に置かれた粗末な膳には、少量の麦飯と汁物が載っている。誰かが投げ込んだらしいそれは、味も素っ気もないものだった。

 

(どれくらい時間が経ったのかしら……)

 

 座敷牢の中なのに、白無垢という異質な己の姿が滑稽で笑えてしまう。

 ふいに重い扉が開き、暗がりに夕陽が差し込んできた。その眩しさに澪は目を細める。

 

(いまは夕刻……ということは六時間以上経ったのね)

 

 恒一と式を挙げるのは午前中の予定のはずだったから。

 土牢の闇に馴染みつつあった視界に飛び込んできたのは、鮮烈な色彩だった。白地に蝶を散らした鮮やかな打掛をまとい、その女は夕陽を浴びてキラキラと光る唇が歪んだ弧を描いている。

 扉を開けたまま入ってきたのは、香織だった。

 

「香織……」

 

 澪は顔をしかめた。

 

「ふふふ……こんな埃臭い穴蔵が似合うなんてねえ、澪ちゃん。美しい白無垢が汚れちゃったわよぉ?」

 

 嘲笑混じりの声が狭い空間に響く。澪は俯き加減で小さく息を吸った。香織の目元には紅が塗られ、勝ち誇ったような弧を描いている。

 

「……何の用なの?」

 

 澪の声は震えを抑えて乾いていた。

 

「あらまあ、従姉妹に対して冷たいわぁ。わざわざアンタに最後の挨拶をしに来てあげたのに」

 

 香織は檻の鉄格子を磨かれた爪で叩き、目を細める。

 

「だってぇ、夜刀谷家の花嫁になるのは私に決まったもの。澪ちゃんの居場所はもうどこにもないんだからさあ」

 

 喉の奥が苦しくなる。

 澪が婚約破棄されることは予想できた。けれど、こんなに早く香織が新しい婚約者に内定するだなんて……。

 

「……恒一様は?」

 

「もちろん元気よ〜! さっき熱烈に求婚されちゃってね! それを教えてあげにきたの。アンタの功績を全部私が横取りしたのに、彼は私が救ったって信じ込んでるのよねえ」

 

 香織がペロリと舌を出して嗤う。

 

「ホント馬鹿みたい……」

 

 声を落とし、格子に顔を近づける。

 

「あれって白峰の禁術よね? まさか成功するとは思わなかったわ。アンタみたいな無能の分家筋が、《払いの力》を使い果たしてまで救ってあげたのに……。だぁれもアンタがやったって信じてくれなかったわね。でも、安心して。座敷牢にいるアンタの代わりに、恒一様は私がそばで支えてあげるから。夜刀谷家の花嫁は私よ」

 

 澪は奥歯を噛み締めた。確かに禁術を使った代償は大きかった。《払いの力》は失ったが、命を取られずに済んだのは幸運だったが――。

 だが目の前の香織が自分の成果を盗んだ事実は消えない。

 

「……どうしてこんな事を?」

 

 香織は突然鼻で笑い飛ばした。

 

「決まってるじゃん。澪の分際で私より先に地位の高い鬼と結ばれるなんて生意気なのよぉ! むかつくったらありゃしない!」

 

 扇をパタリと閉じ、冷たい眼差しで睨みつける。

 

「私こそが黒峰家の跡取り娘。白峰家は分家でしょう。誰よりも美しい私が、一番強い鬼と番うべきなの。澪ちゃんみたいな醜女よりね!」

 

「そんなことのために……」

 

「黙りなさい」

 

 香織の声が鋭く響く。

 

「アンタは今日から"暴走した鬼神の瘴気に触れた穢れ者"。どんなに泣いても喚いても、もう誰も信じないわよ」

 

 格子越しに身を乗り出し、澪の頬に息がかかる距離で囁いた。

 

「安心して? 殺しやしないわ。生涯ずっとこの牢獄で暮らせるように手配したから。外に出たら……ふふっ。皆が指差して"穢れ者"って罵るだけ。もうアンタの居場所なんてどこにもないわ」

 

 澪の肩が揺れた。香織は満足げに飛び退く。

 

「じゃあね〜。、ここで永遠に、ひとりでお幸せに」

 

 手をひらひらさせながら扉へ向かう。

 振り向きざまに目尻を吊り上げ、悪意に満ちた笑みを浮かべた。

 金属製の門が轟音と共に閉まる。暗闇に沈む牢の中で澪は拳を握り締めた。香織の残した嘲笑だけが、冷たい石壁に反響して消えていった。


 


 澪は硬い石畳に正座し、鉄格子の向こう側へ届かない自分の掌を見つめていた。真っ暗な土牢では時間の感覚が分からなくなる。

 いまは朝なのか夜なのも判別つかなくて不安だ。粗末な食事がもう一度運ばれてきて、もう外は夜なのだと分かっただけだ。

 この粥だけの食事だって、いまはもらえていても、いつなくなってしまうかも分からない。

 けれど肉体的な飢えよりも、心を蝕む無力感のほうが辛かった。

 

「……恒一様……」

 

 ぽつりと零れた名前は、鉄格子に跳ね返って虚空に溶けた。呼んだって来てくれるはずがない。いくら耳の良い鬼でも咎人の澪の声は無視するだろう。

 彼の蔑みの眼差しを思い出して自嘲する。

 

(もう期待したって仕方ないのに……)

 

 香織の言葉が耳の奥で甦る。

『夜刀谷家の花嫁は私よ』

 従姉妹の勝ち誇った笑顔を思い出すだけで、胃の底がひっくり返るような悔しさが込み上げる。

 澪は力なく崩れるように座り込み、冷たい床に額を付けた。

 

(ああ……私は本当に一人になってしまった)

 

 払いの力もない。両親からの愛もない。婚約者は奪われた。明日からの暮らしも保障されていない。虚しさと共に涙が溢れた。だが嗚咽を堪えようとしても喉が震えるばかりで声にならない。

 ただひとつ、あの鬼の当主―暁刃の焦燥に満ちた顔が脳裏をよぎった。

 あの鬼は澪を「花嫁」ではなく「人間」として見てくれた数少ない存在かもしれない。しかし今となっては遠い記憶の残像だ。

 ――その時だった。

 格子戸の錠前が微かに軋む音が響いた。扉から一筋の月光が差し込んでいる。夜の世界が土牢の中にも広がる。

 

「誰……?」

 

 闇に溶けた己の声は、意外なほど低く落ち着いていた。


 ◆


 客室にて、暁刃あきはは眠れない夜を過ごしていた。

 昼間に起きた事件――夜刀谷やとかや 恒一こういちが暴走しかけたために、夜刀谷家での祝言は中断せざるを得なかった。

 

(いずれ恒一が鬼神化することは予想できていた……)

 

 だから彼は切に《払いの花嫁》を求めたのだ。

 暴走して辺りを壊し大事なものを全て傷つける鬼神になど、誰もなりたくないに決まっている。贄嫁の犠牲を知っていても、それに見て見ぬふりをして鬼たちは妻を娶ってきたのだ。

 けれど、暁刃は違った。嫌悪する贄嫁制度を拒否して、自身の鬼を制御しようとしていた。

 番を持たぬ鬼は、いずれ理性を失う。

 それは血に刻まれた宿命であり、誰にも抗えぬ法則だと分かっていながら――。

 ――それでも、今夜。

 中庭の場で起きたことが、脳裏から離れなかった。

 今朝はなぜか早くから落ち着かない気持ちだった。心が浮き足立っていたというのはこういうことを言うのだろう。

 分家の恒一の婚礼の日だからではない。

 ――何かがいつもと違う、と本能で感じていた。

 夜刀谷家の屋敷に到着してからは、ますますその感覚が強くなった。妙に惹かれる香りが漂ってきて、それを追って歩いた。これまで嗅いだことのない匂いだ。

 いつもならば必死に抑えている内なる鬼が奇妙なほど静かなのも不思議だった。

 

(あり得ない)

 

 毎夜、荒れ狂っていた暁刃の鬼が、いまも穏やか凪いでいる。

 

(……それはいったい何故なのだろう)

 

 白無垢の花嫁の澪の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、ざわりと全身の毛が逆立った。

 座敷牢にいるだろう哀れな生贄の少女のことを考えると、気持ちが落ち着かない。

 犠牲も厭わず、一途に婚約者を救おうとした澪の健気さに胸を打たれた。

 暁刃にとって鬼も人間も同じく欲深い生き物だった。《払いの一族》は内心では鬼や穢れを恐れながらも、権力欲のために一族の娘を鬼の花嫁にする。国を護る鬼たちを支えるという名目で。

 ――本当に我が子が可愛いならば、暴走したら瘴気を放つ鬼に娘を嫁入りさせるはずがない。

 瘴気に触れたら短命になるということを知っていながら鬼と婚姻を結ぶのは、人間の崇高な奉仕の精神からではないと暁刃は知っていた。

 ――けれど、澪は違った。 

 自身の《払いの力》を全て犠牲にしてでも、婚約者を救おうとした。

 それなのに誰にも感謝されず座敷牢に入れられた。

 暁刃は彼女に降りかかった誤解を解こうとしたが、暴走した鬼神に触れることこそが禁忌で《払いの一族》にとって許されないことだと言われてしまえば、鬼である暁刃も口をつぐまざるを得なかった。

 

(澪は全ての力を失った……俺以外の男のために)

 

 そう思うと、なぜか腸が煮えくり返るような怒りを覚えてしまい、暁刃は自身の感情に戸惑うばかりだった。

 

「まさか……番?」

 

 その言葉が脳裏をよぎった瞬間、暁刃は即座に否定した。

 番など、幻想だ。そう簡単に見つかるものではない。だからこそ一族は贄嫁を作ったのだから。

 けれど妻となる女性を犠牲にするその鬼の一族の非情なやり方に賛同することもできず、番を欲する本能を理性で抑えて、暁刃は毎日必死にやり過ごしてきた。

 だが、澪が座敷牢に連れて行かれているのを見た時も、彼女の功績を従姉妹の香織が横取りした時も、誰にも気にかけてもらえない澪を見た時も――胸の奥が、嫌な音を立てた。

 

「――俺は、あの娘を見捨てたくない」

 

 番として、それ以上に人間の心の部分がそうしたいと願っていた。

 気づいた時には、暁刃は座敷牢の前に来ていた。

 結界を幾重にも重ね、“穢れたもの”を閉じ込めるための場所。

 皮肉なことに暁刃はこの場所に近づくにつれて、気持ちが凪いでいくのを感じた。それはもはや彼自身も番の存在を否定できないほどに強まっている。

 扉を開けた瞬間、こもった空気の匂いがした。真っ暗な室内は、静けさに包まれている。

 

「誰……?」

 

 鈴が鳴るような愛らしい声がした。

 花嫁衣装のまま、澪は座っている。背筋を伸ばし、膝に手を置き、俯いていた。頬に泣いた痕跡がある。

 彼女の無事を確認した瞬間、暁刃の内なる鬼が、深く安堵するのを感じた。

 

「白峰澪」

 

 暁刃の声に、澪はゆっくりと視線を上げた。

 その瞳に、恐怖はない。諦めと、覚悟。それでも折れていない光。

 

「……暁刃様」

 

 一瞬、澪が戸惑う。

 

「なぜ、あんなことをした?」

 

 責めるような口調になってしまったのは、ほとんど恒一への嫉妬心からだった。

 澪は迷わず答えた。

 

「……婚約者を救いたかったからです」

 

「穢れを受けると分かっていて?」

 

「はい」

 

 鬼の本能が、ざわめいた。

 澪の、他の男への命を惜しまぬ選択。

 それを“当然”として受け入れた崇高な精神に苛立つ。

 それと同時に、暁刃の人の心の部分が、彼女の健気さにどうしようもなく惹かれるのを感じた。

 

「……穢れてなどいない」

 

「えっ……」

 

「お前は穢れてなどいないと言ったんだ。瘴気に触れたら確かに命を削る。だが体が穢れるなんてことはない。それは《払いの一族》だけが信じる迷信だろう」

 

 事実、澪のまとう気配は最初に会った時と変わらず清涼だ。 

 暁刃は澪に近づいていくが、澪は身じろぎもせず見返していた。

 心臓が早鐘を打つ。

 暁刃は、鉄格子ごしに彼女の前に立つ。

 その瞬間、長年、押さえつけ続けてきた怒りの衝動が、嘘のように眠りについて。

 ――もはや疑いようもなかった。

 鬼の本能が彼女を求めてしまうことに。

 

(……俺の)

 

「……番だ」

 

 澪が、目を見開いた。

 

「え……?」

 

「お前は、贄嫁ではない」

 

 声が、わずかに震えた。

 鬼神である暁刃が初めて“番”を見つけた瞬間だった。

 

「お前がそばにいると、俺の鬼は完全に鎮まる。《払いの力》など使わなくても……」

 

「……それって」

 

 かすれた声を出す澪の指先に、そっと暁刃は触れる。

 

「それは、番にしかできない」

 

 澪の肩が、小さく震えた。

 

「……では、私は……」

 

「ああ……」

 

 俺は、はっきりと告げた。

 

「――俺の番だ」

 

 震える指先が、ゆっくりと暁刃の手に重なった。

 その瞬間、暁刃のまとう鬼の気配が静かに変質する。番に触れる喜びを感じているのだ。

 澪は涙を拭い、頷いた。

 捨てられた贄嫁はもういない。

 これから始まるのは、鬼神の番の物語だ。


 

  


 

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