第5話 俺だけ命が軽すぎないか?
俺が茂みに隠れて、息を殺し、全身の神経を張り詰めさせて――
まさに「油断したら死ぬ」状況を見守っていた、その時だった。
俺の――後方。
地の底から響いてくるような、
胃の奥を直接かき回される低いうなり声が聞こえてきた。
「グルルルル……」
……は?
この音、聞き覚えがある。
いや、聞き覚えがありすぎる。
嫌な予感しかしない俺は、
首の関節がギシギシ鳴るほど、ゆっくりと後ろを振り向いた。
すると――
「……うそだろ」
俺のわずか数メートル後方。
巨大な“何か”が、そこにいた。
「うわああああ!!」
反射的に叫んでいた。
もう隠れるとか、様子を見るとか、そんな余裕はない。
俺は草むらから転がるように飛び出した。
いや、正確には――腰が抜けたまま逃げた。
走ったというより、
地面に命を預けて転がった感じだ。
それほどまでに、
本能が全力で叫んでいた。
――死ぬ!!
当然、俺が悲鳴を上げながら飛び出したのを、
あの群衆が見逃すはずもなく――
……が。
「うわああ!獣だ!」
「いや、あれは魔獣だあ!」
「ありゃバグボアじゃねえか!」
「バグボア!? なんでこの場所に!?」
――え?
村人たちは、
俺ではなく、俺の後ろを見て悲鳴を上げていた。
「……バグボア?」
俺は恐る恐る振り返る。
そこにいたのは――
牛ほどの大きさの、黒い毛に覆われた猪型の獣。
全身は筋肉の塊。
口は裂けるほど大きく、
中には無数の細かい牙。
よだれがだらだら垂れ、
口の両脇には――
「……でかっ」
一メートル級の、半月状に湾曲した牙。
しかも。
「……2体」
同じ化け物が、
ゆっくり、確実に距離を詰めてきている。
「グルルルル……」
完全に、獲物を見る目だ。
――だが。
俺はこの獣を、知っていた。
いや、正確には――
俺が作った。
「……間違いない」
喉がカラカラに乾く。
「バグボアだ……」
KOGの低レベル帯用モンスター。
初心者に“強そうに見えるけど倒せる”代表格。
……のはずだった。
「なんでいるんだよ……」
「いや、それ以前に……」
存在していい場所じゃない。
俺の心拍数は限界を超えていた。
2体のバグボアは、
俺一人というより――
この場にいる全員を視界に入れているようだった。
さっきまで威勢よく責め立てていた村人たちは、
血の気の引いた顔で後ずさる。
フォークを捨てる者。
震えながら構える者。
――正常な反応だ。
ところが。
その時。
責められていた、あの男女二人が――
草取り用のフォークを持って、前に出た。
「……は?」
俺は目を疑った。
「なにやってんだ、あいつら……」
牛サイズの化け物猪だぞ?
フォークだぞ?
勝てるわけ――
「なあ、美咲」
「なに?」
「これって、雑魚キャラのバグボアだよな?」
「うん、たぶんそうだね」
……え?
「槍判定、ありそうじゃね?」
「ありそう! お兄ちゃん、槍スキル持ってたよね?」
「ああ、使ったことあんまないけどな」
……ちょっと待て。
「……何の話をしてる?」
俺の脳が追いつかない。
「いけるっしょ?」
「うん、狩っちゃおうか」
「だな、狩るか」
軽い。
命が、軽すぎる。
「ちょ、待て待て待て!!」
「それ現実だから!!」
「スキルとか出ないから!!」
心の中で必死に叫ぶが、
声は出ない。
そして――
二人は走り出した。
「俺が前行く!」
「援護するね!」
男はフォークを槍のように構え、
バグボアの頭部へ――
「――速っ!!」
見えなかった。
一瞬、男の身体が
オレンジ色の光に包まれた。
「……スキルエフェクト?」
あり得ない。
次の瞬間。
バギッ!!
鈍い音。
フォークの四本爪が、
バグボアの額に突き刺さっていた。
巨体が――崩れる。
「……倒した?」
土埃が舞い、
バグボアはピクリとも動かない。
「エイ!」
今度は女性が、
もう一体の首元にフォークを突き刺す。
「ギャアアア!!」
悲鳴。
そして――
男の追撃。
再び、オレンジの光。
次の瞬間、
二体目も地面に沈黙した。
――終了。
一瞬だった。
村人たち。
俺。
全員、口を開けたまま動けない。
「やったね、お兄ちゃん!」
「ああ、やっぱ雑魚キャラだったな」
「リアルすぎてビビったけど」
「これ夢だよな?」
「体もなんか違うし」
「お兄ちゃん老けすぎ!」
「お前も別人だろ!」
……なに、この温度差。
俺は、埃まみれのまま立ち上がり、
ふらふらと二人に近づいた。
後方では、
村人たちが石像のように固まっている。
「あのさ……」
声をかけた瞬間。
二人が同時に、俺を見た。
「あ!」
「日本人じゃん!」
「……え?」
「ねえ、あんたもプレイヤー?」
――プレイヤー?
その一言で、
俺の中で何かがカチッと音を立てた。
「……ああ」
どうやら。
この世界、
俺が思ってた以上に“混線”しているらしい。




